カオス的乖離理論
数学的な物が絶対であるように、また、不規則な物も、それとなる。いわば、熱的死であり、エントロピーが示すものともいえる。結論として、それだけのカオスを示したとして、時間が示すものは平坦となる事であり、違い無い物は、無いともとらえる。
人は博物館の前の、放物線の描く学問が、幾何学的に無機質であろうとする所をとらえた。まさに記録をしようとした所を崩されたらしい。これがカオス、混沌というのであれば、ちんけな物でしかない。このまま、先へ進むべきかどうか、迷いが一時、生じたとしても、それは障害となり得ないだろう。
何故なら、とっくに人は学徒として、罪さえも飲み込むのだ。あぁ、罪人に石を投げるとするならば、それを計算し、完璧な放物線を描くべきだと、反論するしかないだろう。無論、そんなことは不可能である訳で、それは人の罪を拭う事の出来ない証明でもある。
行きつく先が同じであるならば、それは進むか進まないかの違いでしかない。熱力学とはすばらしいものなのだ。多くの人が無意味だと言ったようだが、確かにそれは無意味であった。人は手を出し、渦を巻く。エントロピーは増大し、カオスは転移する。平坦な世界には行きつかないと知っている。
人は博物館を後にする。定められた物にはもう興味が無く、聖書は既に手持ちに無い。既にアッシャーに取り込まれている事さえも自覚しているが、それでも尚、至る事になるだろう。肉体を身にまとう世界で、肉体など必要ないのだ。
思考、揺らぐ、揺れる。二元論とは精神の乖離。思い、揺らぐ、揺れる、まさに混沌不調和の世界。例え世界が熱力学に滅ぼされようとも、相対する世界が揺らぐまま、揺れるままに波紋は続く
人は、道なき道を進んでいた。今や事象の境界線の中には居ない、必要なのはたった一つだけであり、それ以外は必要なかったことに気づいたのだ。そうなれば、肉体的な死さえも必要な物ではなく、形而上学など捨て去っても良いだろう。一度波立つ揺らぎも、一旦収まってしまえば、それは何も無かったことになる。
思想、揺らぎ、割れる。さぁ、思考を分断せよ、今や細胞に固執する事は無い。思い、ゆらぐ、ゆれる、まさに形を保つには必要な事だろう。テセウスの船のように、スワンプマンのように、もうそれは自分自身とは別たれた存在であるのだ。
そうとも、ここが精神の世界。エントロピーは増大せず、熱的死は訪れない。とても安定した、カオスな世界線だと言っておこう。結論として、それだけのカオスを示したとして、人が行きつく先は同等となる事であり、違い無い物は、無いともとらえる。