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その日から、ティノはふたたび森に通うようになった。
歌が気に入っていると言われて、行かずにいることなんてできない。それに、どうしてもムジカに習っておきたいこともあった。羊さんの歌で使う、裏声とかいうものの出し方だ。
植物になるという彼女の言葉を聞いて以来、ティノの心はずいぶん落ち着いていた。そんなことあるわけがないと思う反面、魔物だから案外ありえるかもしれないとも思っていた。
ムジカ自身がそれを疑わず、そうなることを全然嫌がっていないところも大事だった。
聞けば彼女は、ティノと会うとき以外はずっと眠って過ごしているらしい。もともと休眠状態であり、それがある日、子どもの音痴な歌のおかげで起こされてしまったのだそうだ。
子どもがいなくなるとまた眠るから、訪問間隔がどれだけあいても彼女にはさっぱりわからない。昨日会ったばかりみたいな声だとティノが思ったのは、その通りだったわけだ。
きまりが悪いと思う必要はないことがわかったが、ティノはもう間をあけたりはしなかった。
ムジカからいろいろなことを習う時間は、やっぱり楽しい。特に、いままで出したこともなかった声が自分ののどから出てくる体験は、新鮮だった。
魔物は口が悪かったので、裏声を出す練習でもしょっちゅう文句を投げてよこした。
【素っ頓狂な声だねえ】
【高けりゃいいってもんじゃない】
【もっと力を抜くんだよ】
そう言われても、なかなかうまくいくものではない。だが鼻歌を歌ってごらんと言われ、やってみると少しこつがわかってきた。
鼻歌をどんどん高い音にしていくと、頭のてっぺんから抜けるような感じになってくる。きっとこの感覚が大切なのだ。
地道な練習だけではなく、ムジカも時折お手本の歌を歌ってくれた。リュートの伴奏を思い起こさせる繊細さで、若い美声がやさしく響く。
さやけき月の 光のもとで
きみを思いて ひとり歌わん──
これ知ってる。ティノが喜ぶと彼女が説明を加えた。これは、吟遊詩人が場の雰囲気をさらいたいとき好んで歌う歌なのだそうだ。
【ずいぶん昔の歌だろうに、まだ歌われてるんだねえ】
彼女にしては感慨深い調子で、そんなふうに呟いた。
秋は深まり、森はどんどん明るく軽く色づいた。
このあたりの木々は黄色く彩られるものがほとんどだったが、ところどころでカエデなどが紅の色を添えている。
その紅色を包むように、やがて黄金の秋と呼ばれる短い季節が訪れる。
金色に燃え立つ梢と、輝きながら舞い散る落ち葉。鈴のようにたわわに実るどんぐりも、次々に枝から離れ、落ち葉より先に地面に降りようと一生懸命になっているようだ。
ティノの歌も、季節に合わせるようにどんどん上達していった。北風に変わってきた森の中で、ときどき子どもの明るい声が響いた。
「ムジカ、いまのはすごくきれいな声だった。上手に歌えたよね」
ムジカのほうはすいぶん長さが縮んでいた。短くなっているのか、それとも地面にもぐり込んでいるのか、よくわからない。ただ葉の部分は相変わらず黄色くならず、枯れもせずに青いままだ。
これ以上寒くなると来るのが大変だとティノは思ったが、それより前に、にわかに森が騒々しくなった。豚の放牧がはじまったのだった。
豚飼いたちは冬の間、森の一部で豚の群れを離して、落ちているたくさんのどんぐりを食べさせる。餌をやらなくても勝手に食べ、勝手に太ってくれるので、どこの村でもそうやって飼うのが通例だ。
そうなると歌など歌っている雰囲気ではなくなるので、さすがのティノも通うことを中断するようになった。仕方ない、おうちで練習しよう。
森から遠ざかるうちに落葉樹はどれもすっかり裸になり、さらにしばらくすると、落ち葉ではなくあらたなものが地面を覆うようになった。
白銀の雪だった。
黄金から白銀へ──人の力ではけして成しえることのない、あざやかな変換だ。こちらの季節は金色よりもかなり長い。普段活発な村人たちも、この時期だけは家にこもり、忍耐強く春を待つことになる。
枯れ木を燃やし暖をとり、蓄えた食料を少しづつ食べながら、恵みの春を待ち望む。
その年はいつもより寒くて雪の量も多かった。だがそんな季節も、というよりそんな季節だからなおさら、おじさんとおばさんの食堂は繁盛していた。
大勢で集まり飲食すると、ひとりでいるより心身がはるかにあたたまるものだ。店で歌う子どもの歌が、吟遊詩人ばりに上手になってきたとなれば、なおさらのことだった。
あるとき客のひとりが、以前店に来た本物の詩人の話を教えてくれた。
吟遊詩人の青年は領主お抱えの楽師になり、忙しい毎日を送っているという。村に立ち寄りたがっているのだが、なかなか時間が取れずにいるということだ。
そんな話を聞くうちにも季節はめぐり、やがて待望の春へ。そして夏へ、秋へ、ふたたび冬へ。また春へ──。
大人にとっては同じ季節の繰り返しでも、子どもにとっての繰り返しは、毎回あらたな世界をみつけることと同じくらい大きい。
とんがり耳と金色の瞳の男の子は、世界の変化を味わいながら十歳の誕生日を迎えていた。
緑の野辺にたたずんで、ティノはいつものように歌をくちずさんでいた。くちずさむと、楽しそうにくすくす笑った。
息をするように自然に歌を思いつき、おしゃべりするように自然にそれを歌い、友達と遊ぶように音楽とたわむれては遊ぶ。
十歳になったいまでも、彼はそんな男の子だ。
しゃべりかたは相変わらず舌足らずだし、同い年の子にくらべれば身体つきもかなり小柄ではある。だがもちろん背丈は前よりずっと伸びたし、体力も上がってきた。
以前は登れなかった小高い丘にもひとりで登り、薬草を摘んでくることもできる。不慣れな人が森に迷い込んできたら、道案内することだって、きっとうまくできるだろう。
タッソーの街にも何度か出かけて、街角の詩人たちの歌を聴いては新しい歌を覚えた。都で流行っている歌もいくつか暗譜している。
だからといって、都に行くのが簡単ではないことを、ティノはすでに知っていた。
どうやら都には、とんがった耳や金色の目の人間はまったく住んでいないらしい。まあ、村にだってそれほどいるわけではない。ティノの父親はとんがり耳だったが姉であるイリおばさんはそうではないし、やっぱりこの外見はちょっと特殊なのだ。
だが、ティノはまだあきらめているわけではない。種族の違いというものが多少はあるかもしれないが、くねくねと木に巻きついていた魔物との違いにくらべれば、本当にささいなことではないだろうか。
マンドラゴラがいたナラの大木の根元には、いま青々とした葉っぱだけが残っている。
幹のようなものは見えなくなってしまったが、ある秋の終わりに森をたずねたティノは、葉と葉の間に小さな花が咲いているのを発見した。
紫色の、ささやかだが可愛らしい花だった。
きっと今年も静かに咲いてくれるだろう。答える声がなくなっても、ティノは森で歌うのが大好きだ。
見渡す広い野辺の先では、刈られた毛が戻りつつある羊の群れが、いつものようにのんびりと移動している。それを見守る羊飼いのおじさんのそばで、茶色い牧羊犬が楽しそうにはずんでいる。
牧草地は夏の光をいっぱいに残しているが、高い空はもうすっかり秋の気配だ。
調べは天から降りてくる。言葉は地から湧いてくる。
調べと言葉がかさなって、胸の奥でひとつになると、それは小さな歌になり、唇からこぼれ出る。
こぼれた歌は、いったいどこに行くのだろう。こぼれたはしから空気にとけていくのだろうか。
それも素敵だとティノは思った。きっと大気には、たくさんの人たちが歌った歌がとけているにちがいない。世界がこんなに歌に満ちている気がするのは、だからなのだ。
でも、と、ティノはちょっと首をかしげて考えた。
とけていくのもいいけれど、風にのって遠くに運ばれていくのだとしたら、それも素敵だ。
そして誰かの耳に届いたら。誰かが歌声に気づいてくれたら。そうしたら、きっととてもうれしい。
かつて森で出会った不思議な魔物が、子どもの拙い歌声を聴きとってくれたように。
ティノは風景から目をそらして、大きく息を吸い込んだ。いっぱい練習しようと思った。
心を込めて歌った歌が、いつか誰かの心に届くまで。
次回、あとがきとFA集です。