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あのとき感銘を受けた若く美しい声が、くるくるとひるがえるように音色を変えながら、森の中に響いている。
ファルディリ、ラリラ。フォルディリ、ルララ。
ティノが心に描きながらも全然うまく歌えなかった、難しい音程。高音と低音の連なりが、豊かな声音で楽々と再現されていく。
──やっぱり、すごく上手だなあ。
膝を抱えて聴き入りながら、ティノはいつものように感嘆のため息をもらした。
ティノと魔物のひそやかな交流は、あの日以来、途切れることなく続いていた。求めるままに魔物が歌ってくれるばかりか、ティノにも好きなように歌わせてくれるところが、得難い魅力だった。
奇妙な魔物は、自分が歌うだけでなく相手の歌を聴くのも好きだったのだ。
加えていえば、魔物は出来栄えを遠慮なく批評することも欠かさなかった。
どうやら、明らかにちがった音やリズム、発音などを聞いていると許せなくなるらしい。最初にティノの足を引っ張ったのも、そうした気持ちが高じたからのようだ。
魔物らしい毒舌だったが、大人たちからの誉め言葉に慣れていたティノには、それが逆に新鮮だった。
おじさんやおばさんたちは彼の歌を喜んでくれるが、それほどじっくりと聴いているわけではない。食堂のお客たちだって、小さい子が一生懸命歌っているのを面白がっているだけだ。
現に、狩人の歌を勘違いして覚えていても、誰も正したりしなかった。
でもムジカはちがう。彼女のおかげで自分が上達しているのがわかる。だから、いろいろなことを教えてもらいたくなってしまうのだ。
「どうやったら、ムジカみたいにきれいな高い声が出せるのかなあ」
魔物が歌い終わるのを待って、ティノはさっそく質問してみた。
【チビすけには無理だね】
老婆の声が──歌い終わると老婆に戻ってしまうのは、かなり残念だった──相変わらずの返事をかえす。
「じゃあ、もっと大きくなったら歌えるようになる?」
【無理だね】
「わかった、女の人なら歌えるんだ」
【あたしゃ魔物だよ】
「女の人だったんでしょ?」
昔々の話だよ、と魔物が答えた。もう何も憶えちゃいない、と、いつもと同じ言葉を付け足した。
彼女が昔のことをさっぱり憶えていないのは確かなようだった。実のところ、自分の名前さえわからなかったくらいなのだ。
ムジカという名は、ティノにたずねられたとき、その場でいい加減に思いついた名前であるらしい。いかにも適当に言っていたのが印象に残っている。
──ムジカとでもお呼び、とんがり耳のチビすけ。
ティノは内心、彼女は絶対本物の歌い手だっただろうと思っている──そう、売れっ子の吟遊詩人だったにちがいない。
魔物と同化してしまっていても、たくさんの歌だけはいまだにちゃんと憶えているのだから。
「あのね、男の子でも歌えるんだったら、教えてほしいの。ティノ、いっぱい練習するよ」
魔物は面倒そうに唸った。それから渋々ながらも応じてくれた。
【高い声はね、裏声っていうのさ】
「裏……」
【チビすけのは地声。裏声だと、うんと高い音だってそりゃあきれいに出せる】
「それ、それ、ティノもやりたい」
【めんどくさい子だねえ……もっと低い歌をつくればいいじゃないか。自分の作曲なんだから】
つくれない、とティノは真顔で答えた。胸の中で生まれた音楽は変えられない。羊さんの歌には絶対あの音なんだ。
ムジカに許せないものがあるように、ティノにもゆずれないものがあるのだ。
子どもの頑固さに魔物はあきれたようだったが、完全に断ることはしなかった。だが講習がはじまる前に、残念ながらカラスたちの鳴き声が、時間切れであることを告げた。
はっとして顔を上げると、重なりあった枝々の間の空を、何羽もの黒い影が次々に横切っていくのが見えた。
太陽が西にかたむき、昼間より少し涼しくなった風が、あたりを吹き抜けていくのを感じる。夢中になっていると、時が過ぎるのはあっというまだ。
ティノはあわてて腰を上げ、続きは明日ねと言い置いて、大木の根元から離れた。またおいで、と魔物の声が見送った。
以前迷ってしまった森の道は、もうすっかりわかっている。ティノは途中でふと振り向き、自分がいた場所をたしかめてみた。
女の人の立ち姿を空想したが、見えたのはありふれた老木と、根元あたりにごつごつと巻きついている木みたいなものだけだった。周囲の自然に溶け込んだ光景で、奇妙なところは別にない。
でも、いまのいままで、あそこで自分は会話をしていたのだ。
物知りの大人たちに教えてもらったので、彼は森の魔物について、ある程度の知識を得ていた。
それによると、マンドラゴラという魔物は、自分が捕食した最後の人間の意識を、残り香のように内部にとどめておく性質を持っているらしいのだった。
もちろん当人の身体は死んでしまっているので、それは残り香に過ぎず、本当の人間というわけではない。しかも歳月を経るうちに魔物と同化してしまうため、人としての自覚もほとんどない。
ただ、マンドラゴラが非常に高齢になったとき──魔物も年をとるのだ──その残り香がふいにおもてに浮かび出てきて、人の言葉をしゃべり出すことがある。
立ち会った人はごく少数だが、会話したという言い伝えがいくつも存在しているそうだ。
つまり──とティノは納得した。ムジカは、はるか昔に魔物に食べられてしまった女性の、意識のかけらみたいなものなのだ。
でも、もうすっかり魔物に同化しているし、本人もその状況を嫌とは思わず、あたりまえのように受け入れている。
しゃべる声が老婆なのは、魔物といっしょに年をとっていったから。それでも歌うときだけは昔の自分がよみがえり、あんなに若くきれいな声になるのだろう。
ティノは、なんとなく複雑な気分で立ち尽くし、静まり返った木立の向こうを眺めていた。それから、夕暮れの影が心ににじんでくるように、ぼんやりと思った。
──ちょっと仲良くしすぎちゃったかな。
いくら歌が上手でも、いくら人間みたいにおしゃべりしても、あそこにいるのは魔性の生き物。ティノとは別の場所に根差し、別の場所に還るもの。本当はこんなに親しくするべきではないのだ。
それに──。
身じろぎしてもの思いを中断すると、ティノは足早に歩きはじめた。
まあいいや。またおいでって言われたし、いますぐ決めなきゃいけないわけじゃない。
ムジカのことはおうちに帰ってからゆっくり考えよう。
けれど、その日帰宅してから寝るまでの間、彼はそれについてこれっぽっちも考えなかった。
思いがけない人物が食堂に来ていたために、考える暇がなくなったのだ。
その人は、ティノがあこがれながらも実際には見たことがなかった、吟遊詩人だった。