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年端もいかない子どもが森に立ち入るなんて、けしてほめられたことではない。
たとえ魔物が出なくても野生動物はいるのだし、迷子になったら大ごとだからだ。
ティノもそのことを知らないわけではなかった。だが元来のんきな性格だったので、危機というものがよくわからず、軽い気持ちで足を踏み入れてみたのだった。
秋にはかごいっぱいにどんぐりを集め、冬も焚き木拾いに来た場所だ。そのときは家族がいっしょだったが、道順はすっかり頭に入っている。
それに、森の先に続いている小高い丘に登りたいという、ちょっと大それた希望もあった。
丘の斜面には、湿布の材料になる薬草がたくさん自生していた。トーベおじさんが腰を痛めて困っていたので、それを摘んで持って帰れないだろうかと考えたのだ。
小さい子が登るのは難しいと言われている山道だが、少し試してみるくらいいいだろう。案外近くで薬草がみつかるかもしれないし、だめならすぐに戻ればいい。
そんなふうに考えながら、進んでいったのだが──。
森に入っていくらもたたないうちに、ティノは自分の間違いに気づくことになった。
鬱蒼と覆いかぶさってくる樹木の圧力。重なり合う影。あたりは想像以上に暗く、風が通らないせいか日陰のわりにむし暑い。
勢いよく生い茂る草のせいで、足元の道は記憶よりはるかに細く、頼りない。
変だな、秋や冬の森とは全然ちがって、なんだか知らない場所みたいだ。
ティノは身震いしたあと、深呼吸しておなかに力を入れた。心細い気分になったときに彼がとる行動は、いつだってひとつしかない。不安に負けないように、声をあげて歌うことだ。
それにぴったりの歌もちゃんと知っていたので、元気をかき集め、思い切って声を張り上げた。
おいらは狩人 弓矢が自慢
獲物を追いかけ 今日も駆け足
右手には勇気 左手に希望
お天道さまが おいらの味方
よかった、なんとか元気に歌えてる。この調子で二番も……。ほっとしながら大口をあけた、そのときだ。
ふいにどこからか、老婆のようにしわがれた声が聞こえてきた。
【音がちがう】
「えっ?」
ティノはびっくりして棒立ちになった。きょろきょろとあたりを見まわすが、当然ながら誰もいない。遠くで鳴きかわす鳥たちの声が聞こえてくるだけだ。
気のせいかな。こわがってるから、鳥の声が人の声に聞こえたのかもしれない──。
だが二番を歌い出す前に、不機嫌そうな声がふたたび響いて、子どもの歌唱の邪魔をした。
【音痴な歌を歌うんじゃないよ。おかげで目が覚めてしまった】
「お……音痴?」
その歌は、胸の中で出来上がった歌ではなく、村で昔から歌い継がれている童謡だった。
日常的に馴染み深い旋律で、ティノも食堂で何度か歌ったことがある。でも、これに関して調子っぱずれと言われた覚えは絶対にない。音痴だなんて心外だ。
「そんなことないよ。音はちゃんと合ってるはず……わああん」
いきなり半泣きになってしまったのは、足元から想像もしていない攻撃が来たせいだった。
もじゃもじゃの葉をつけた太い何かが、草の間を飛ぶような勢いで這ってきて、右足首にいきなり巻きついたのである。
次の瞬間、それはばねが縮むかのように、もと来た方向に戻りはじめ、ティノは盛大に転びながらずるずると引きずられていった。
手足をばたつかせて振りほどこうとするが、得体の知れない何かはがっちりと足首を捕らえてびくともしない。それどころか、さらに締めつける力を強くしてくる。
ひとつの魔物の名前が浮かび上がり、彼の脳内で大きくはじけた。
マンドラ……ええと、ええと、マンドラゴラ……!
絵本の中で見た恐ろしい魔物。頭のてっぺんと靴だけをかろうじて突き出した人間が、全身ぐるぐる巻きにされている恐怖の場面がよみがえる。
「やだやだ、離して」
【うるさいねえ】
「ティノおいしくないよ、食べないで」
【誰が食べるかね、こんなガリガリの子どもなんか】
あきれたような口調とともに魔物の動きが止まった。それと同時に足の戒めがほどけて、ティノは突き放された。
【よくお聞き。正しい音はこうだ】
ティノは地面から身体を起こしながら、ぼんやりと相手を見返した。何を言っているか理解できなかったのだ。
どう見ても目の前に人間はいない。太くて気持ち悪くてうねうねする何かが、草の間でとぐろを巻いているだけだ。
それが自分に話しかけてくるだけでも、信じられない出来事なのに、さらに加えて──。
その瞬間の驚きは、夏が終わったいまも薄れることなく、ティノの胸に残り続けている。
響いてきた歌声は若かった。若い女性の澄みわたる声が、狩人の歌を軽やかに、そしてあざやかに歌い上げた。