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牧草地を横目に見ながらしばらく走り、途中で左に曲がると、道は急に見晴らしが悪くなった。木立の中に入ったのだ。
ところどころ黄色く色づきはじめた木々の葉が、七歳児のはるか頭上で、さわさわと風に揺れている。葉の間にはたくさんのどんぐりが実っているはずだが、ティノの目には全然見えない。まだ熟し切っていないので、葉っぱの影にかくれてしまっているのだ。
幅が狭くなった道は、少しづつ上りの傾斜をつけながら、木々の間を縫って続いている。ここは丘のふもとに広がる森、どんどん険しくなる道を辛抱強くたどっていけば、高い丘の頂きまで登ることができる。
もちろん、ティノが山登りをする予定はない。ほどなく脇にそれて、めざす大木がある方向に、あどけない声を張り上げた。
「ムジカ!」
返事はないが、気にしなかった。擦れたブーツで林床の草を踏み分けながら、ふたたび呼んだ。
「ムジカ、新しい歌、できたよ。羊さんの歌。聞いて」
しゃべるときのティノの口調は、歌声の確かさにくらべると、ずいぶんつたなくて子どもっぽい。それをからかうかのように、しわがれた笑い声が低く響いて彼を迎えた。
【歌うのかい、舌ったらずなチビすけ。どうせ下手っぴいなんだろう?】
「うん。下手っぴいなの」
にこにこしながらティノは答えた。
太いナラの木の根元に恐れげもなく近寄ると、その正面にぺたんと腰をおろす。そして、根元あたりをみつめながら息を大きく吸い込み、待ちきれないように歌いはじめた。
もしも、村人たちの誰かが近くを通りかかったら、足を止めて怪訝な顔をするだろう。子どもがたったひとり、樹木を相手に、しゃべったり歌ったりしているようにしか見えないからだ。
ティノがみつめる樹木の根元には、大人の太もも程度はあろうかと思われる蔓性の古木──遠目にはそうとしか見えない──が、ぐるぐると巻きついていた。
腰をおろした彼の肩と、ちょうど同じくらいの位置に葉が茂り、そこが先端になっているようだ。下部は大木の真横の地面にもぐっている。
葉のかたちはちがうが、支柱に絡む葡萄の古木か何かのようで、まわりの木とは様子がちがうもののそれほど奇異な感じはしない。
だが、目をこらしてよくよく見れば……。
風が強いわけでもないのに時おり大きく揺れる葉と、ぶるぶると震える幹。呼吸するように膨らんだりしぼんだりする、荒れた樹皮。
長さも一定ではなく、どこからか響くしわがれた声に合わせて伸び縮みしているような──。
樹木でも植物でもない。それらはすべて、森にひそむ魔物であるマンドラゴラの特徴なのだった。
マンドラゴラというのは、草木に擬態して人間を襲う恐ろしい魔物だ。
森などの地中に棲みつき、普段はおもてに現れないが、人間が通りかかるとそれを敏感に察知する。そして大蛇のようにうねりながら飛び出し、全身に巻きついて獲物を捕らえるのだ。
捕えられた者は地中に引きずり込まれ、骨すら残さず喰い殺されてしまう。
本や彫刻などで伝えられている魔物は、完全な大蛇のかたちをとっていて、なかには蛇そのもののように頭部が描かれていることもある。
だがそれは、恐ろしさを示すための芸術家たちの脚色で、実際に頭部を見た者はいないらしい。肉厚な葉が先端にかたまっているだけだというのが定説だ。
だから、喰い殺されたという言い方は当たらないのかもしれないが、あとになって地面を掘り返しても、遺骸が出てきたためしがない。喰われたか溶かされたか、何にせよ養分にされたのは間違いないため、喰われたという言い方が通例になっている。
擬態という言い方も、あまりに草木にそっくりだから擬態だろうと人が思っているだけで、もとからよく似た外見であるだけかもしれない。魔物が生まれたところを見た人はいないので、確かめようがないのだ。
実態が人智の及ばぬところであるというのは、要するに、インキュバスだのサキュバスだのといったその他の魔物たちと同じである。
だが、いずれにしても人間の仇敵という点だけは明らかだった。したがって、マンドラゴラのそばに子どもが寄っていくことは、とんでもなく危険としか言いようのない行動なのだった。
そんな危険な行動を、どうしてティノがしているのか──。
きっかけとなったのは、夏の盛りの出来事だ。その日、ティノははじめてひとりでこの場所を訪れ、そして魔物に遭遇した。