木守り
「木守り」
晩秋の深夜。どこまでも深く澄み渡った満天の夜空には、無数の煌びやかな星々が明滅していた。そして一際明るく光る大きな満月と共に、下界を隈無く照らしていた。
その光に照らされた地表にはもはや動く影も無く、世界は一刻、心地よい安息の眠りに包まれて、深く寝静まっているかのようだった。
しかし・・その平穏が脆くも崩れ去ろうとしていることを、誰が知り得ようか・・。その遥か上空には突然の突風が何処からともなく湧き起こり、轟くような風音を響かせて、やがては静かだった地表にも、ある変化をもたらし始めていることを・・。
初めは細い草の先を揺らしていただけの弱い風は徐々にその強さを増し、やがては大木をも揺らす風となってその夜の世界を揺れ動かし始め、ついにはその声高に鳴り響く風はやがて吹き荒ぶ凩となり荒れ狂い出した。
その龍の如き凩は天空高く舞い上がったかと思うとまた地表へと叩き付けるような速さで舞い降りて、その永劫に癒やされぬ悲嘆を訴えるかのように縦横無尽にのたうち回り、暗い路地を枯れ葉を巻き上げ吹き抜けて行った。
その響きは、方途を見失った霊達の怨嗟の叫びか・・。
それとも怨念の情に取り憑かれた悪霊が何処からか発する、因縁を呪う呪詛だろうか・・。
荒れ狂う暗い空から舞い堕ちてくるその思いはやがて地表へと降り注ぎ、迷える人の心の隙間に、ひっそりとその芽を出すのだ・・。
翌日の昼まで吹き続けた凩だったけれども、その風も午後には穏やかに止んだ。そして澄んだ秋空に燦々と輝く太陽が、寒々しかった敷地にも小春日和の暖かな日差をもたらしていた。凩が吹いている間ずっと寒さに縮こまっていた諸々の木々達も、その暖かい陽光を受けて、ほっと一息静かにまどろんでいる様にも見えた。
けれどもその凩は小さな町工場の敷地を、様々な木々の枯れ葉で殆ど隙間無く埋め尽くしてしまっていた。そして所々の吹き溜まりには、その旋風に巻き上げられて降り積もった枯れ葉の山が幾つも出来ていた。そしてその枯れ葉達は時折吹く弱い風によって、カサカサと枯れた音を立てて、一斉にゆらゆらと揺れていた。
英子は竹箒とゴミ袋を手にしながら、その光景を眺めて独り呟いた。
「これは・・お掃除が大変だわ・・。」
そんな英子の思いも知らず、その枯れ葉を高く放り投げて「キャッ、キャッ」と笑う五歳の娘と、それをもっと煽って辺りに枯れ葉を撒き散らす十歳の息子の姿があった。
「あなた達そんなところで遊んでないで、ちゃんとお掃除手伝ってねー!
じゃないと母さんがおやつの柿を、ぜーんぶ一人で食べちゃうからねーっ!」英子がそう大きく声を掛けると、
「えー!そんなのずるーい!」と、大きな声で叫びながら子供達は駆け寄って来た。
「それじゃあちゃんとお手伝いしてね。守はこれ、この竹箒で葉っぱを集める係ね。加奈ちゃんはそれをこのゴミ袋に入れる係。分かった?」
「はーい。」と手を挙げて二人は枯れ葉の山へと走っていき、せっせと作業を始めた。
英子はその姿を見つめて微笑んだ。そして穏やかな秋空を仰いで思い切り深呼吸した後、自分も熊手を手に子供達の所へと走って行った。
日曜日だというのに敷地内の小さな工場からは、機械の音が絶え間なく鳴り響いていた。
亡くなった父親から受け継いだ小さな部品工場だったけれども、息子である匠はその意志を継いで真面目にコツコツと信用を築き、従業員も二人雇ってそれなりに経営は軌道に乗っていた。そして敷地内に家を建てた匠は一家四人で円満な家庭生活を送っていた。その敷地は多種多様な木々で囲まれ、さながら静かな森の中の様な体を成していた。
先代から受け継いだ気性なのか庭造りが趣味となった匠は、自分の気に入った木をその敷地に少しずつ植えては増やしていたのだった。
けれどもその中に一本、先代が生まれるずっと前からある古い木があった。それは他の木を見下げるほど大きな柿の木で、匠は先代からその柿の木について家訓として言われていたことがあった。
『この柿の木はどんなことがあっても絶対に絶やしてはならない。何故ならこの木は我が結木家を守る、尊いご神木なのだからな。』と。
しかしその大きな柿の木の幹は節くれ立ち、枝は縦横無尽に曲がりくねっていて、ともすれば不気味で異様な印象を人に与えた。特にその所々の葉にはその中央に丸い真紅の斑点があり、その葉だけは空から光を受けること無く地表に葉の表を見せていて、まるで燃える眼で周りを凝視しているようだった。
(他には無い、異形の柿の木か。でもだからこそこの木には、途轍もない生命力を感じる。そしてその力で、我らを守って下さるんだ。)匠はそう信じてその柿の木を慈しみ、心を込めて世話をした。
またそうする根拠は他にもあった。何故ならその木に実る柿はとても甘く芳醇で、他の柿からは嗅いだことが無い、得も言われぬ良い香りがしたからだった。秋にはその実が熟すのを待ち、みんなでそれを頬張った。小学生の守と幼稚園児の加奈子もそれが大好きで、秋になると毎日おやつで食べていた。近所の人達もお裾分けを楽しみにしていて、匠も自慢の柿の木だった。
その年の秋も深まった頃の夕暮れ。その柿の木を加奈子は、独りで恨めしそうに眺めていた。
「どうしたんだい?加奈ちゃん。」その光景をふと目に留めた匠は、加奈子の傍にしゃがんで微笑んだ。
「だって・・。ママがもうおやつの柿は無いよって言うんだもん。でもあそこに一つ、残ってんだもん・・。」加奈子が指さす柿の木には、一番上の方に一個だけ、柿の実が残っていた。
「ああ、あれはね、加奈ちゃん。木守りと言って、また来年美味しい実が成りますようにって言うおまじないなんだよ。だからあれを食べちゃうと、もうあの美味しい柿は食べられなくなるんだ。だからママが言ったように、今年の柿はもうおしまいだ。また来年美味しい柿が食べられるさ。だからそれまで待っていよう。な?
さぁ、もう寒い。風邪を引いちゃうから、おうちの中に入ろう。」匠は加奈子の小さな背中に手を当てて、微笑みながら優しく家の中に連れて行った。
冬近い北風が、柿の木の枯れ葉とその木守りを小さく揺らしていた。
その二日後の午後四時。いつものように匠が仕事に没頭していると、血相を変えて息子の守が工場に駆け込んできた。
「父さんっ!父さんっ!加奈子が、加奈子がっ!」外を指さして訴える守を見て、匠は何かが起こった事を直感した。二人が走って外に出ると、柿の木の下に加奈子が倒れていた。
「加奈子、加奈子っ!」匠は娘を手に抱いて呼びかけたが、その目は閉じられたままで返事は無かった。
「きゅ、救急車だ!早くっ!」そう急ぎ病院に運んだが、加奈子の目が開くことは無かった。聞けば首の骨が折れて、ほぼ即死だったらしい。
小さな遺体を家に戻した夫婦は、底知れぬ悲しみに打ちひしがれた。妻の英子は泣きじゃくり、夫の手を握りしめながら許しを請うた。
「わ・・私が目を離さなければ・・こ・・こんな事には・・。」
事故が起きた日の午後三時。英子は幼稚園バスから降りた加奈子を家に連れ帰ると、加奈子に優しく問い掛けた。
「お隣に回覧板を届けてこなきゃなんだけど、加奈ちゃんも一緒に行く?」そう聞くと加奈子は、
「ううん。ママはいっつもお話が終わらないんだもん。だからあたしはおうちで遊んでる。」と答えた。
「そう。分かった。じゃあおとなしくお留守番しててね。すぐ帰って来るから。おやつは帰ってからあげるからね。」そう加奈子に言って英子は家を出た。
その場面を思い出して、英子は両手で顔を押さえた。
「あの時・・あの子を独りにしてさえいなければ・・。」涙する英子の言葉に、匠も肩を震わせた。
「お前のせいじゃ無い・・。俺だって・・あの梯子さえ降ろして置けば・・。」そう言って匠は英子の手を強く握った。
その日、英子が出て行って独りになった加奈子は、母親が言ったおやつという言葉から、直ぐに柿の実を連想した。そして柿の木を見ると、其処には実を採る為の木の梯子が掛けられたままだった。
加奈子はどうしてもあの実が欲しいと思い、食べたいという欲求から、独りで梯子を登った。そして梯子から枝へと移り、更に木を昇った。そしてようよう、その実の枝へと辿り着いた。木守りの実は目の前だった。加奈子はゆっくりと手を伸ばした。そしてようやくその実を掴んだその時、体を乗せていた枝が、いきなりポキッと折れた。そして驚く間もなく、加奈子は真っ逆さまに頭から落ちて、柿の根元に叩き付けられた。
匠と守が駆けつけた時、動かなくなったその小さな手には木守りの実がしっかりと握られ、その果汁が指の間から赤く流れていた。
思い出しそして悔いることは、後から後から次々に思い起こされた。
(しかしあの子はもう、二度と帰っては来ない・・。)悲しいけれどもそのことは、匠には理性と常識で自分では分かっているつもりだった。しかしその心の内側ではその悔しさと虚しさを持って行く所が、何処にも無いのに打ちひしがれていた。
悲しく娘の葬儀を終えると、匠は家で座り込み、幾日も呆然と外の景色を見ている日が続いた。
(あの日、あの時・・。)その隅々に愛娘の思い出が深く滲んでいる。
匠の目の隅に、娘が落ちた柿の木が映った。匠はそれから目を逸らして、唇を噛み締めた。心の空っぽになった部分が、溺愛していた娘を捜し求めて、強く痛んでいた。けれども家長として、外様に対する威厳を保ち、そして家計を支えるためにも、悲しみを振り切って仕事を始めなければならない。更に同じ痛みを抱いて塞ぎ込んでいる妻へのいたわりも、やはり夫である自分はしてあげるべきだろう・・。
(いつまでもメソメソと泣き崩れて、こんな悲しみに押し潰されていないで・・。)そんな心の声も聞こえてもいた。しかし、誰にも言えないそんな背伸びをしたような感情と、忘れられない深い悲しみが渦を巻いて、次第に匠を重苦しい孤独の淵へと追いやっていった。
それから幾日か後の深夜、夢にうなされた匠は、突然汗だくで目を覚まして体を起こした。そして暫くは何かを思い出すように、虚ろにじっと虚空を見上げたまま座っていた。けれどもいきなり眼を見開くと、足に掛かっていた布団を思い切り撥ね除けて起き上がり、裸足で工場へと足早に向かった。そして血走った眼でチェーンソーを持ち出すと、柿の木の根元まで走った。
それから息荒く柿の木を見上げて、暫くはその木をじっと睨んでいた。
しんと静まり返った冬の月明かりの中、匠の吐く息だけが、白く照らされていた。そして柿の木を見上げていた匠の目から、ふと涙がこぼれ落ちた。その涙はこれまで頑なに堪えていた思いの鎖が断ち切られたように、止めどなく溢れた。あの日加奈子が堕ちた枝が、まだ生々しくその痕跡を残している。匠は加奈子が堕ちていた場所に目を留めた。加奈子は幻影となり、未だその場所に横たわっていた。
「加奈ちゃん・・。なんで・・。」流れる涙に、その幻影は霞んでいた。
しかし次の瞬間、唇を噛み締め袖で涙を拭うと、木を見上げてキッと睨み付けた。そして意を決したように甲高い音を響かせてチェーンソーを起動させ、その刃を木の根元に思い切り強く押し入れた。
その甲高い音で、ふと英子は目覚めた。耳を澄ますと、その音はずっと外で鳴り響いているようだった。不安に布団から身を起こした英子は、夫を起こそうと隣の布団を見た。しかし、その夫はいなかった。
咄嗟にある事態を直感した英子は、玄関から裸足で飛び出した。そして柿の木を切っている夫を見つけると、涙ながらに夫に駆け寄り後ろからしがみついた。
「やめてっ!やめて!お父さん!そんな事をしたって、あの子はもう、帰って来ない・・。」英子のそんな必死の呼びかけにも、匠はその動きを止めなかった。
「うるさいっ!これが、この木が無ければ、加奈子が死ぬ事も無かったんだ。今夢で、加奈子が死ぬ様をこの眼で確かに見た!この木は、あの子が木守りを採ったというたったそれだけの事で、あの子を殺したんだ!今まで精一杯世話をしてきた恩も忘れてだ!
だから俺はこの木が憎い・・。こいつを見るのももう嫌だ・・。だってそうだろうがっ!愛娘を殺した、そんな情け知らずのこいつなんか、もう要らないっ!」そう叫ぶと英子を振り払って、また無我夢中で木を切り刻んだ。
(たったそれだけの事でこいつはっ!)匠は心の中でそう叫び続けていた。
チェーンソーの音は止むこと無く、ついにその柿の木は大きな音を立てて崩れ落ちた。同時に汗だくで眼を充血させた匠も、膝を付いた。そして空を仰いで、息苦しそうにその名を叫んだ。
「加奈子・・加奈子ぅっ!・・」その叫びの直後、匠はがたっと肩の力が萎えて、そして崩れるように突っ伏した。持っていたチェーンソーはその手から放れて、空しく静かに回り続けていた。そしてそんな泣き崩れたままの匠の背に英子はしがみついて、夫とともに涙を流していた。
その騒動に目を覚まして駆けつけた守はただ呆然と突っ立ち、月明かりに照らされた異様な光景と両親の涙声を、深く心に刻んだ。
それから後、匠の顔は徐々に陰険になっていった。
何でも無い事でも突っ慳貪に人に当たり散らし、酒に溺れ、ついには妻の英子にまで暴力を振るった。当然経営にもその影が差し、取引先の信用も段々と失っていった。
そして三年後の秋、匠は工場で首を吊り自殺した。
英子はもう、涙も出なかった。なんとかしようとしたけれども出来なかった失意と、そして何かが終わったような安堵感に、その肩は力無く落ちた。
負債で財産を奪われて行き場を失った英子と守に、親戚の叔父がある住居を薦めた。その家は八棟が建ち並ぶ狭い貸家だが家賃も安いし、それなら自分も少しは援助出来るからと言ってくれた。
そして二人は、何も持たないまま其処に引っ越した。
引っ越した冬の或る日。英子が隣近所に挨拶に行っている間、守は忙しく家の中を水拭きしていた。これからの環境に早く慣れるようにとの思いから、英子が守に言い付けてやらせていたのだった。
その貸家は簡素な平屋造りで、狭い玄関の開き戸を開けるとやはり狭い台所と小さな風呂が左右にあり、台所の隣には汲み取り式のトイレがあった。そして曇りガラスの開き戸で仕切られた奥には、六畳の部屋が二間あるだけだった。そんな激変した環境に最初守は戸惑っていた。けれどもこうして部屋を綺麗にする作業をする内、段々と現実を受け入れる気持ちが宿っていくのを、朧気ながらも感じていた。
英子が挨拶を終えて家に帰って来た。彼女は玄関口に座り、「ふぅ・・。」と溜息を吐いた。そして守に顔を向けると、力無く微笑んだ。
「守・・。この貸家の人達はね。何か訳があって、此処に住んでる人達みたい・・。みんな独り暮らしで、ろくに口も聴いてくれなかった・・。暗い感じでね・・。だから此処は、そんな不幸な人達の吹き溜まりなの・・。私たちのような・・ね。
だから守、二人で頑張って、早く此処を出よう。もっと暖かい、陽が当たる場所にね。」泣いているのか微笑んでいるのか・・。母のそんな表情は、見つめる守の心にまた深く刻まれた。
寒い中拭き掃除を終えて一息入れた守は、冷えて痛くなった手に息を吹きかけて、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。すると、指の先が何かに触れた。指で摘んでよく見てみると、それは小さな柿の種だった。暫くは首を傾げて、(なんでこんな物が・・。)と、不思議に思いはした。でもきっと何処かから紛れ込んだんだろうと思い、無雑作に入り口から離れた奥に投げ捨てた。
それは記憶にも残らない事だったけれども、暖かい春を迎えた頃、ふと其処に目が留まりはたと首を傾げた。其処には雑草には見えない一本の幼い木が、こちらを覗いているようにヒョロッと立っていた。
守は何故かしらその木に心惹かれた。その幼い木が自分が捨てた柿の種から芽が出たなどとは、まったく思わなかった。けれども守にはヒョロッとしたその幼い木が、何故だか自分を頼っているようなそんな気がした。そしてそう感じた守は、その周りの草を引き抜き綺麗にして、その木に水を与えた。
それは自分と同じような頼りない境遇やその姿を見て、なにか親近感を覚えたのかも知れない。また今はひっそりと暮らしているけれどいつか大きくなって幸せになりたい、そんな願いが籠もっていたのかも知れない。それは守には分からなかったけれども、何故か放ってはおけない・・。そんな気になる思いから、守は毎日中学校から帰ると欠かさずその幼い木に水をやりに行った。
夏休みに入った頃には、その木は腰の高さほどにも成長していた。そんな日々成長する木に対して、いつしか守は深い愛着を覚えていた。
しかし守はそんなに一生懸命になって自分が木を育てているのが何故か不似合いに思えて照れ臭く、今まで母親には内緒にしていた。けれどもそんな自分がやっている事とその成果を母にどうしても自慢したくなって、英子が休みの日におずおずと話し掛けた。
「母さん・・僕今、実は木を育ててるんだ。何の木か知らないけど、どんどん大きくなっていくのが楽しくてさ。どう言ったら良いのかなぁ・・。
そうだ、そんな逞しい木を見てるとさ、僕もやるぞって思えるんだよね。」はにかみながらも嬉しそうに、守は母に告白した。そしてそれを聞いた英子はやはり驚いて、眉を上げて守を見て微笑んだ。
「へーえ。守がねぇ。何処でそんな事やってるのかな?母さんには想像出来ないけど。」
「何処って。直ぐ其処だよ。入り口の奥にあるんだけど、気が付かないのかなぁ。」
「ええ?そんな木があったかしら・・。全然気が付かなかったけど。」
「じゃあ一緒に行って見てみれば良い。きっと驚くから。」守は英子を促して、ニコニコと其処に連れて行った。
「ほら、これだよ。」守が得意げに指し示す木を見て、英子は直ぐに眉をしかめた。何故なら其処に立つその木、それは正しくあの柿の木だったからだ。その証拠に、まだ幼い若葉にもあの真紅の斑点がはっきりと付いている。そして燃えるようなその眼で、英子をじっと凝視しているようにも見えた。
「守・・この木は・・。」
「あれ?母さん。この木が何の木だか、知ってるのかい?」
「知ってるも何も・・この木は・・。」その木を見るなり、悲しい思い出が英子の脳裏をよぎった。今まで忘れていた忌まわしい眼が、すぐ其処で自分を見つめている。そして匠があの樹を切り倒した時の、不吉なガソリンの臭気に包まれた空気が英子を包んだ。
(なんでこの木が・・。)すでに萎えてしまったと思っていた木が、目の前にある。英子はあの時の情景や感情を思い出した。
そしてその過去の感情に追い詰められたように、英子はフラフラとその木に近づいて行った。
その木を見つめていると、そもそもの悲しい出来事の発端であるその木に対して、一気に燃え盛る憎悪が湧き起こった。そして血走った眼でそれを見据え、引っこ抜こうとして震える手でその木に手を伸ばした。
しかしその途端、英子は胸を押さえてその場に崩れ落ちた。そして苦しそうに悶えて、歯を噛み締めていた。
「母さんっ!母さんっ!」突然の事態に守は驚き、英子の肩を掴んで揺さぶった。けれども母は背を丸めて苦しむばかりで、守にはどうして良いのか分からなかった。そして自分の力ではどうにもならない事を覚った守は、近くの公衆電話に走り電話をもぎ取って救急車を呼んだ。
しかし守の必死の呼びかけにも応じず、英子はそのまま亡くなった。医者からは急性の心臓発作だったと告げられた。
暗い病院のベンチで目を押さえて悲しみに打ちひしがれて泣いている守に、急報に駆けつけた叔父は優しく声を掛けた。
「守君・・。何なら私の家で一緒に・・。」その問いかけに守は、叔父を見つめて首を横に振った。
「いえ・・僕はあの家に住み続けたいです。母さんの匂いが染み込んだあの家を、僕は出たくありません・・。」
簡素な葬儀を終えた守は独り家に帰ると、虚しくあの木に水をやりに行った。其処には昨日よりもずっと高く成長した木が立っていた。
それから守の独り暮らしが、否応なく始まった。
独り暮らしの最初の頃は、少しずつ虚ろになっていく過去の記憶と今動いている現実が複雑に混ざり合って、自分を取り巻く環境が今どういうものかということさえ暫し分からない時もあった。自分の心が壊れて行きそうな不安とそれを取り囲むような寂しさと孤独感が、守を否応なく支配していた。そして日々の暮らしの中で、いつも自分を守ってくれていた母を、頼りない心の中で思い出さない日は無かった。
(けどそんな母はもう居ない・・。)悲しくて、途方に暮れた。
しかし四十九日が過ぎた頃から、守は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。悲しいのは変わらないが、以前よりも嘆く気持ちも薄らいできたようだった。いつも居た母はもう死んだ。それは分かっている。けれどもそれが何だか嘘のような、遠い昔の幻だったような感じがして、寂しさもあまり気にならなくなった。それには理由があった。不安な孤独の中で暮らしていた或る日、ぼんやりと膝を抱えて虚空を見ていると、唐突に頭の中に声が聞こえた。驚いて見回したけれども、誰もいない。空耳かと思い溜息を吐くと、また頭の中ではっきりと同じ声がした。
『私はいつも・・傍に居る・・。』と。守はそれを、亡くなった母の声だと思った。いつまでも塞ぎ込んでいる自分に、母さんが声を掛けてくれたんだと。その声はどんよりとした暗い空から射す一条の陽光のように守を照らし目覚めさせ、新たな血潮を与えた。そして貧しさや寂しい孤独を忘れさせて、現実に生きている自分を思い起こさせてもくれた。そしてまたその声は、寂しさを乗り越えようとして藻掻いている自分の背中を、母が押してくれたのかも知れないと守は思った。こんなことに負けるものかという切ない思いが、守の心の何処かで燻っていたのは確かだった。
守は一息ついて、今自分を取り巻いている現実を見回した。
(今はこうだけど、それは仕方無い・・。でもいつか自分はもっと大きくなって、本当の幸せを手に入れるんだ。)守は過去を振り切り現実を直視して、新たな生活を始めようと心に決めた。
漠然とだけれども目標を持った守は、それまで塞ぎ込んでいた守とは別人のように勉学に勤しみ、塾にも行かずにクラスでもトップクラスの成績を収めた。しかしそんな序列に満足すること無く、守は更に己を高めようとして、勉学の傍ら体の鍛練にも汗を流した。そして元々容姿に恵まれていた守は、当然のようにクラスの人気者となり周りからちやほやされて、自分でも浮かれているのが分かるほどだった。教師からも将来を嘱望され、守は世界の光を一身に浴びたような心持ちで日々を過ごしていた。
中学三年の終わり頃には推薦入学の話しも何校かあると教師から聞かされ、貧しい守にとっては夢を観ているような心持ちだった。貸家で学校のパンフレットをめくりながら、どの学校にしようかと嬉しく迷っていた。けれどもどの高校も地元からは遠く、当然この貸家から出て行かざるを得ないことになるのは確実だった。しかし守には此処を離れる寂しさよりも、嬉しさの方が遥かに大きかった。
(思い出のこの家から出て行くのも、なんだか寂しい気もするけど、きっと母さんも許してくれる。そうだ、いつか母さんも言ってたっけ。此処を出て、もっと暖かい、陽の当たる場所へ行こうって。)そんな熱い思いに包まれた守にとって、もうこの貸家には未練も無く、ましてや育てていた柿の木のことなどは全く忘れ去っていた。
そしていよいよ、自分が行く高校を決めねばならない期限が近づいていた。
しかしその頃から守には、人には相談できないある密かな悩みが取り憑き、独り不安な毎日を過ごしていた。その悩みというのは、毎晩眠ろうとすると耳元で誰かがか細く囁いているような声が聴こえてきて、怖さと不安からなかなか寝付けないという悩みだった。そのか細い声は自分の意思とは関わりなく、静かに密やかに自分に話し掛けてくる。いくら聞くまい思うまいとしても、絶えず耳の奥に語りかけてくるのだ。いっそ勇気を出してその内容をはっきり聞いてみようと耳を澄ませても、あまりにも小さな声で、何を言っているのかも分からない。それは以前自分を励ましてくれた母の声ではと、最初は思った。
(けどもしそうなら、あの時聞こえた母さんの声みたいにもっとはっきりと、優しく言ってくれるはずじゃないだろうか・・。)そう思い、じっと考え込んだりもした。
ある夜守は、眠るために電灯を消してから布団の上にあぐらをかいて、じっと暗い虚空を見回していた。そしてその虚空に向かって話し掛けた。
「僕に話し掛けてくるのはいったい誰なんだ?もしかしたら母さんなのかも知れないけど、僕に言いたい事があるんだったら、もっとはっきりと伝えて欲しい。そうじゃ無いと昼間でも気が散って、勉強にも集中出来ないんだ。だからお願いだから、今夜ははっきりと言って欲しい。こんな眠れない夜は、もうこれで終わりにしたいんだよ。それじゃ僕はこれから寝るからね。お休み。」そう暗闇に向かって語りかけた守は怖々と横になり、布団を被った。
けれどもその夜は何も聞こえず、気を張って耳を澄ませていた守も、いつしか深い眠りへと入って行った。
しかしその夜観た夢はいつもの囁き以上に、守の心にしっかりと刻まれた。
その夢の中。月明かりに照らされた柿の木の根元に、一人の髪の長い少女が佇んでいた。その少女はすっきりとした眼を持ち、綺麗な顔立ちをしていた。けれども痩せた体に粗末な茶色の着物を纏っていて、何か妖しい雰囲気も守は感じた。
「誰・・?」守はその少女に訝しげに問い掛けた。けれどもその返事は無く、しばらくの間、守は月明かりに照らされたその少女とじっと見つめ合っていた。
すると突然少女は近づいて来て守のすぐ前に立ち、守の両手を自分の両手で優しく握った。そこで初めて少女は微笑み、そして守をじっと見つめながら、澄んだ声音で語りかけた。
「私はあなたの命の糧・・。あなたは私の木守り・・。だから・・ずっと一緒・・。」少女はたどたどしくそう囁くと、更に守に近づき、そしていきなり抱きついた。
その刹那、守を甘い芳しい香りが包み込み、まるで彼女と溶け合って行くような恍惚とした感覚が体を突き抜けた。そしていつしか守の手も、その少女を抱き締めていた。それから守は少女の耳に口を近づけ、囁いた。
「忘れていて、ごめん・・。でもこれからはもう・・ずっと一緒だよ・・。」そして更に強く彼女を抱き締めた。
その瞬間、守はいきなり布団の中で目を覚ました。そして起き上がると、薄暗い室内を見回した。
「ふぅ・・夢か・・。」目を瞬き、ほっと胸を撫で下ろした。そして乾いた喉を潤そうと台所へと向かった。コップへ水を注いでからふと小さな窓から外を見ると、うっすらとだが景色が見えていた。その暗いけれども透き通ったような景色を何気なく見ていると、なんだか見覚えがあるような遠い記憶が、少しずつぼんやりと頭に蘇ってきた。そしてさっき観た夢のことも・・。
(そうだ・・。あの香りはあの時の・・。そして夢の中のあの柿の木にも・・。)そう思い付くと、直ぐに外に出て其処に向かった。そしていつかの時と同じような月明かりの中、あの時見たのと同じ柿の木が、間違いなく其処に立っているように見えた。
その翌日の夜からは、いつもの囁きは聞こえなくなった。けれどもその代わりに毎夜あの少女が夢の中に現れ、守の手を取って静かに語りかけ、そしてじっと見つめるのだった。
最初の頃はその夢は何となく不気味でもあり、少なからず妖しげな恐怖も感じた。けれども夢に現れる少女との会話を重ねるに連れ、やがてそれは深い眠りへと誘う誘惑となり、心の中へと深く浸透していった。そしていつしか守は夢の中でのその少女との逢瀬を、密かな楽しみとするようになった。
守はそれから少しずつ変わって行った。
段々と独り言を言う事が多くなり、用事以外で家を出ることが少なくなった。当然友達とも疎遠になり、いつしか孤独な影がその身を包んだ。けれども彼にとってその環境は、それが最も好ましい、自由で普通な生活だと感じるようになっていた。
中学を卒業間近になった頃、あれほど熱望していた高校に進学する意志が無いことを担任教師に告げた。担任教師はその突然の変貌に驚き、何度も彼を呼び出しては考えを改めるよう指導したが、守の頑なな態度は変わらなかった。そしてついに教師は深い溜息とともに、守への進学指導を諦めた。
進学しなかった守はその春、叔父の紹介で小さな部品工場に勤めた。単純労働で安い賃金だったけれども、彼はただ黙々と真面目に仕事をこなした。
しかし無口で笑顔の無いその態度は、段々と先輩達の陰険ないじめの対象とはなっていった。毎日訳も無く怒られて、時にはわざと仕出し弁当の注文を取り消されたり、ロッカーに油をべったりと塗られた事もあった。更に数人の先輩達からは、はっきりと嫌悪感を持って口汚く罵られた。
「お前がこの会社に居るだけで気分が悪いんだよ。空気が重くて臭くなるようでさ。だからお前みたいな暗い奴は、さっさとどっかに行っちまえば良いんだ。」と。
しかし守はそんな事にはなんら関心も見せず、ただそんな彼等を冷たい眼で見つめ、彼等との関わりを一切持たなかった。彼等の方もまた何故かしら、それ以上守に近づこうとはしなかった。
そして守は夏の暑い日々にも、誰とも接しない孤独な毎日や彼等の嫌がらせにも気を乱すこと無く、与えられた仕事をただ淡々とこなしていた。
けれどそんな守にも、一つの楽しみがあった。それは日頃世話をしている柿の木が、水をやりに行く度に成長している事だった。
(この秋には、必ず実を付ける・・。)その願いと慈しみの心を込めて、丹念に世話をしていた。
そしてある九月の日曜日。
まだそれほど高くもない細い柿の木には、小さな青い柿の実が、ちらほらと成っていた。それを見た守は言いようもないほどの喜びに包まれ、普段は一切見せたことの無い笑顔で、柿の木と自分のこれまでの努力を祝福した。
数えると小さな柿の実は十一個あった。守は微笑み、まるで恋人のように柿の木を抱き締めて、その幹を優しく摩った。そして念のために柿の木を柵で囲った。けれども守は安心していた。この柿の実を採る事など、自分以外には誰にも出来ないだろうと。そして実際何故か、その柿の木に近づく者は誰もいなかった。
十月の中旬には、その青かった実は見事に熟した赤い柿の実となっていた。一番高い所にある実は木守りとして残し、他の実は丁寧に収穫した。
日暮れ時。守はその柿を持って、同じ敷地の中にある七棟の貸家を一軒一軒回った。英子と守が此処に引っ越して以来、ろくに口も聴いてくれない彼等だった。ただ時々陰険な眼でこの家をじっと見つめ、何かを探っている様子は守にも分かっていた。だから貴重品などは鞄に入れ、常に肌身離さず持ち運んでいた。
用心深く戸を開いた彼等に、守は柿の実を差し出した。
「あの・・これ、初めて採れた柿なんです。良かったら食べてみて下さい・・。」守がそう柿の実を差し出すと、最初はあの怪しげな柿の木の実かと怪訝な面持ちの彼等だったが、守がその手に持っている柿の実の見事さに目と心を奪われた。そして差し出された柿を断った者は、誰もいなかった。
その夜、守は食卓に肘を付いてその柿の実を囓りながら、何も無い虚空をじっと見つめて、楽しそうに独り言を呟いていた。
「そう・・。先ずは環境を整えないとだね・・。自由に、そしてお前と安心して暮らせる、穏やかな環境が欲しい・・。」
翌日、すでに暗い時分に守が勤め先から帰って来ると、パトカーと救急車が敷地内に停まっていた。二台とも赤色灯を回し、その赤い光が辺りに反射して、ただならぬ事態であることを示していた。守は自転車を置いて、隣の棟に屯している近所の人達と警察官を見つめた。
やがてその棟からは、白い布に包まれた担架が運び出された。そして人々が小さく交わす声で、その家の住人が首を吊って自殺したという事を知った。そんな中、守は集まった人々から静かに離れると、自分の家へと入った。
更にその三日後の夜には、道路に面した棟が火事になった。
凩に煽られた炎は赤く夜空を染めて、瞬く間にその家を焼き尽くした。その棟の中からは、丸焦げになった老人の死体が運び出された。
そしてその後も、立て続けに貸家に住んでいる者の不幸が続いた。病死する者、ふいに何処かに居なくなる者、事故で亡くなる者などが相次いで出て、気が付くと二ヶ月の間に、守以外其処に住む者は居なくなっていた。けれども守はそんな事には一切動じた気配を見せず、日々の暮らしを淡々と続けていた。
しかしそんな事が続いた事もあって、大家からある日、この貸家から立ち退いてほしいとの相談があった。その大家の相談とは、至極もっともな話しだった。
「こんな事が続いては、この先誰もこの貸家を借りる人はいないだろう。こんな不吉な貸家なんかと、誰だってそう思う。君だってそう思うだろ?そしてこんな不吉な貸家に残っているのは君だけなんだ。私はそんな迷信なんか考えたくは無いが、先例を見れば、君だっていつ何時そんな不幸に見舞われるかも分からない。君だってそう感じているんじゃないのかい?
そこでだ、自分の身の安全を考えて、ここは考えてもらいたいんだ。こんな不幸はもうこりごりだからね。だから申し訳無いが、此処を立ち退いてもらえないだろうか。私としてもこのままでは資金が立ち行かないから、この貸家全てを潰して、駐車場にしようと考えているんだよ。」大家はそう言って守を説得した。そして新たな住居先については、どんな相談にも乗るからと言い添えた。けれどもどのように説明しても、守は首を盾には振らなかった。
守を最初容易い子供扱いにしていた大家は、その意外な対応に困り果て、守の叔父に連絡を取りその旨を伝えた。しかしその叔父は遠くに居て、電話での説得にも力は無かった。不愉快な手詰まりを感じた大家は、その後何度も守に対して強く説得して立ち退きを迫った。しかし守はその度に頑なに断り続けた。当然大家は苛立った。
(こうなれば強制でも撤去させる。この住居は貸家であり、それをどうしようが権利は自分にある。これだけ親身に説得しても駄目なら、自分の親切にも限界がある。)
そうして大家は七棟の貸家の解体とその後の整備を、強引に進めていった。そして守の貸家だけが残された夜、大家はその家を訪ねた。
「申し訳無いが、これが最終通告だ。一週間後には、この家を解体する。だから悪いことは言わないから、自分からもう諦めてはくれないだろうか。そうしてもらえれば私も君の新しい住居先は、もう当たりは付けてあるし、力にもなれる。私もまだ未成年の君に対して、そう惨い事はしたくないんだ。」大家はそう言って、最後の説得に力を込めた。
守は静かにその説得を聞いていたが、やがて静かに頷いた。
「分かりました・・。仕方が無いですね。これまでいろいろとご迷惑をおかけして、すみませんでした。大家さんが仰るとおり、一週間後の朝に、僕はこの家を出て行きます。」その言葉を聞いた大家は、暫し呆然とした後、喜びを満面に満たした。
「おお!分かってもらえたか。ありがとう。いや私も本当はこんな事はしたくは無いんだが、なにせこの事態だ。人の口に戸は立てられんもんだし、だからこのままでは私も立ち行かないんだよ。君の引っ越し先は私の方で世話をするから。いや、分かってもらえて本当に良かった。私もほっとしたよ。いやぁ、本当に良かった。ではそう言う事で、よろしくお願いするよ。引っ越し日には手伝うから。」そう言って大家は機嫌良く笑顔で立ち上がった。守も立ち上がり、玄関まで見送った。そして大家に、一つの包みを差し出した。
「あの・・これつまらない物ですが、これまでお世話になったお礼です。
五個しかありませんが、食べてみて下さい。この柿の木から採れた、最後の実なんです・・。」守は柿の実の入った包みを、両手で持って大家に差し出した。大家はその包みを開けて、目を丸くして驚いた。
「ほう、これはまた見事な柿だねぇ。そうかぁ・・この柿の木のねぇ・・。いや・・こんなに見事な実を付ける柿の木を私も伐採したくは無いんだが、これもまた時勢というやつだよ。うん、君の気持ちは良く分かった。ありがとう。遠慮無く頂くよ。そしてこの木を伐る時も、ちゃんと祀ってから伐採するから、君も安心してくれ。ではまた。」そう言って機嫌良く出て行く大家を、守は冷たく見つめていた。
その五日後、守は突然大家が心筋梗塞で亡くなった事を知った。そしてそればかりか、葬儀を終えたばかりの長男が父の後を追うようにまた突然の交通事故で亡くなってしまった事や、そのため立ち退きの話しは一時中止になった事を、解体のため準備していた現場の工事主任から聞いた。
そして土地の権利は悲しみの最中、大家の妻が引き継いだ。けれども、その妻は一度としてその地に来ることは無かった。と言うのも、長男が亡くなった二週間後に、その妻も脳梗塞で亡くなったからだ。
こうした俄には信じられない一連の不幸に、ついにその話は立ち消えになった。何故なら順に土地の権利を継いだ次男が、その土地の話に触れることさえ疎んじたからだった。その次男は、絶え間なく起きる不幸の中に、何かの存在を直感していた。
(世間の噂が本当かどうかわからないが、この信じがたい不幸の連鎖は現実だ・・。だからこのままあの呪われたような土地に欲を出して関われば、自分も死んでしまうかも知れない。だから・・あの土地はあのまま放って置く方が良い・・。そうしよう・・。少なくともあの者があそこを去るまでは・・。そう、触らぬ神に祟りなしと言うじゃないか。君子危うきに近寄らずとも・・。)元々臆病だった次男はそう思い、それからも決して、その地に来ることは無かった。そしてその土地は野晒しとなった。
元々大家が駐車場にしようとした貸家だった土地には、辺り一面砂利だけが敷き詰められて、ただ殺風景な風景が広がっていた。そしてその一番奥には、守が住む棟と柿の木だけが、草に囲まれて残された。
以来その敷地には誰も、小さな子供達さえ入り込むことが無くなった。
近所では其処を指さし、ヒソヒソと内緒声が聞こえた。
(あそこには、決して入ってはいけない・・。何故ならあの家には魔物が宿っているから・・。その主はあの柿の木だ・・。そして、其処に棲んでいる者だ・・。)と・・。
二十年後の秋。その古い貸家に守は今も住んでいた。そしてその貸家の傍には、大きく育ったあの柿の樹があった。
その樹は長く伸びた二本の枝で、まるでその一軒残った貸家を守るように屋根に覆い被さり、その枝から落ちた熟した実と枯れ葉を、古い瓦屋根にこびり付かせていた。そして嘗ては貸家が建ち並んでいた広い敷地には草もまばらで、冷たい凩が枯れた土地に砂塵を巻き上げていた。
守は家に帰ると、油染みの付いたグレーの作業服を部屋着に着替えた。そして冷蔵庫から缶ビールとグラスを取り出し、痩せた身体を座椅子に沈めた。煙草に火を点けてゆっくりと寛いだ後、冷えたビールを喉に流し込んだ。
外では吹き荒ぶ凩が時折ゴウッと音を立てて荒れ狂い、そのすきま風が閉めてあるはずのカーテンを微かに揺らしていた。
守は食卓に置いてある柿の実を手に取り、暫く見つめた後、大きく口を開けて囓りついた。薄赤い果汁が、白い部屋着に滴り落ちていた。
翌朝、守は今勤めている町工場へ車で向かった。その勤め先は、住まいから車で三十分程走った処に在る隣町の小さなプラスチック成形工場で、その会社に働き出してから一ヶ月近く経とうとしていた。
其処での守の仕事は、成形機に取り付けられている金型に小さな金属部品をインサートして、樹脂を流し込んだあと部品を手で取り出す、そんな単純な仕事だった。始業ベルと共に始まる単調な機械音の中、守は黙々と仕事をこなした。暫く没頭すると、世界から音が消えていった。身体と、特に指だけが一生懸命仕事をしている。それを無意識に追いながら、いつしかその機械に同化していった。
昼休みのベルが鳴り響いた。
守は機械のスイッチを切り、成形機の脇に置いてある袋を手に取った。コンビニで買ったおにぎりが二個と、家で入れてきた保温ボトルのお茶。それがいつもの弁当だった。
照明が消された薄暗い工場でおにぎりを独り頬張っていると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「まだ皆と一緒に休憩所で食べんのか?」その声に仰ぎ見ると、社長の小笠原が見下ろして立っていた。
「はい・・僕は此処で。」守は小声で答えた。
「そうか。まぁ、ゆっくりと慣れれば良い。」
「はい・・。」頷いて返事をすると、小笠原は去って行った。
仕事が終わり、入り口にあるタイムカードを押しに行くと、また小笠原から声を掛けられた。
「結木君、ちょっと二階へ。」そう小笠原に促され、工場の二階にある事務所に上がった。
「其処のソファーに。」指されたソファーに座ると、対面に小笠原も座った。
二階にある事務所には社長の妻もいた。二人を見た妻の房子は、「お茶を入れてきます。」と言って給仕場へと入った。
白髪頭ででっぷり太った小笠原は足を組みゆったりソファーに凭れると、細い目で守に優しく微笑んだ。
「結木君。もうすぐ試用期間の一ヶ月になろうとしているが、私は正直、君の勤務態度にはとても満足している。真面目で集中が途切れない。うちに居る熟練者でも、なかなかそうは出来るもんじゃ無いと感じた。だが、ただちょっと気になる点があってね。それを聴こうと、わざわざ来てもらったんだよ。」
「はい・・。」そう頷く守には、その意図が直ぐに分かった。
房子が置いたお茶を啜ると、小笠原は穏やかに優しく問いかけた。
「仕事は大変熱心で結構だが・・。君は何か・・自分の殻に閉じこもっているようだと周りから声があってね。その辺はどうなんだろうか。何か不満があるとか?」そんな小笠原の視線に、守は小笠原に頭を上げて答えた。
「いえ・・そんなことは無いです。ただ自分は対人恐怖症というかその・・人との対応が難しいんです。だからその・・口下手で・・。
だから・・この職場を紹介してもらいました。独りでコツコツと、黙って出来る仕事のようでしたから。」守はそう言って、じっと小笠原を見つめた。
小笠原も腕を組んで、そんな守を見つめていた。
「そうか。対人恐怖症か・・。うん、何となくだが、僕も面接の時そんな印象を受けたよ。けれども、確かに君が言うように、うちは部品工場だ。黙って部品を作る、それが仕事だからな。会話は特に必要としない。
いや、そう言う事情ならそれも仕方ない。いろんな人間が居るし、徐々に慣れればそれで済む事だからな。そうか。それじゃあみんなには私から言っておこう。慣れるのに時間が掛かる質だってな。みんなも分かってくれるだろう。だから何も、君を責めるつもりは無いんだ。これまで通り、仕事に打ち込んでくれればそれで良い。人はそれぞれ多種多様だ。いろんな悩みがあるもんだ。だからそんな時は恥ずかしがらないで私に相談してくれ。何でも相談には乗るから。今日は私も君のことが良く分かって良かった。」そう言うと時計にチラと目をやった。
「ああ、こんなに時間を取らせて済まなかったね。話しはそれだけだ。」
「はい・・。」守は立ち上がり、軽く頭を下げて出て行った。
そのやり取りを見ていた房子は、ドアが閉まるのを見届け、暫くしてから口を開いた。
「ねぇ、あの結木さん?履歴書を見たけど、この二十年でもう十件も職場を変わっているじゃない。大丈夫なの?何かとんでも無い癖があるとか・・。でも男前で、随分歳より若く見えるわよねぇ・・。あんなに若さを保つやり方があるんなら、私も聞いてみたいくらい。もう三十五歳だっていうのに、十歳は若く見えるもの。でもあの陰気な性格じゃあ、きっと彼女もいないんでしょうねぇ・・。」房子は守が出て行ったドアを見て、気の毒そうに呟いた。それを聞いた小笠原も、ソファーにもたれ掛かりながら笑った。
「ああ。それはそうかも知れない。外見がいくら良くて若く見えても、性格があれじゃあな。でもな、履歴書は俺も見たが、ここ一ヶ月の働きぶりを見たかぎりだと問題無いと俺は踏んだんだ。それに奴の職歴はあまり褒められた物じゃ無いが、仕方の無い事だろうと俺は思ったんだよ。何せその内の六件が倒産だからな。後の四件は分からないが、あの暗い性分だ。きっと居づらくなったんだろうと思うよ。見た目は良いんだが、まぁあの歳でつくづく運の無い男だと思うよ。身寄りももう居ないって言うしな。真面目なんだが運が無い。まったく可哀想な男だとは思うが・・。
でもな、うちの工場ではまだまだ使える。」小笠原は妻を見上げながらそう言うと、口元を歪めてニヤッと笑った。
会社からの帰り道。守は車を走らせながら、未だ吹き荒ぶ凩に枯れ葉が舞うのを、フロントガラス越しに静かに眺めていた。まるで襲い掛かる様に飛来する、幾多の木の葉達・・。
(こんな光景を、これまで何度見てきたことだろう・・。)ふとそう思った。
それから一週間が経った頃の昼休み。
いつものように守が独りおにぎりを食べていると、後ろからいきなり目の前にアルミホイルを突きつけられた。守は驚き、咄嗟に仰け反った。そして後ろを仰ぎ見ると、薄暗い中に古株事務員の小川が太った体でニコニコと微笑んで立っていた。しかし濃い化粧の中の眼は座っていて、笑ってはいなかった。
「ビックリさせちゃった?ごめんなさいね。これ・・私が作ったの。良ければ食べてみて。それじゃ。」小川はそのまま立ち去ろうとして背を向けたが、立ち止まるとクルッと向き直り、そして息が掛かるほど顔を近づけた。
「みんなには内緒よ?分かった?」守が何も言わずに頷くと、小川はニヤッと笑い去って行った。手にしたホイルをほどくと、出汁巻き卵が入っていた。
守はそれを暫く見つめていたが、ホイルごと捻ってゴミの入ったコンビニの袋に放り込み、堅く袋を結わえてゴミ箱に捨てた。
帰り際、守は自転車置き場で小川を見つけると、おずおずと声を掛けた。
「あの・・。」その守の声に、小川は驚いたように振り返った。
「あの・・今日はご馳走様でした。とても美味しかったです。でも・・僕に関わるのは良くないです。ただ、それを言いたくて・・。」守は頭を下げて、直ぐにその場を離れた。
小川は首を傾げて、怪訝な目つきで守の背中を見つめていた。
家に帰った守は考え事をしているようにぼんやりとして、ビールを口に運んで独り言を呟いていた。
「そうだね・・。でも、何も悪気があってのことじゃないと思うんだ。そう・・。だからあんまり心配しなくてもいいよ。」そう呟くとCDのスイッチを入れ、ビールを口にした。緩やかに流れるクラシック音楽と、ザワザワと鳴る葉擦れの音が、家ごと守を包んでいた。
翌日、昨日よりもまた特異な眼で見られている事を守は察した。
仕事中や休憩時間に何処かからかひそひそと囁く声が聞こえて、その視線が自分に向けられているのを覚った。とは言え、そんなことには守は慣れていた。何故なら今まで就いた職場全てでそうだったからだ。遠巻きに囁かれている限り、そんな声や視線は特に気にはならなかった。けれどもその囁きが徐々に大きくなり、やがては渦と成って近づいて来ることも、守は知っていた。
その日、やはり事は始まった。
守が作業に没頭している最中、積み重ねてあった部品箱が突然ひっくり返された。その箱に入っていた小さな金属部品は雪崩を起こしたように飛び散り、収拾がつかない状態で散らばった。そしてその傍で一人の女性が足を抱えたままうずくまっていた。その女性は、あの事務員の小川だった。倒れている小川を見た守は直ぐさま作業台に置いてある椅子から降りて、小川に近づいた。すると突然小川は守をキッと睨みつけ、けたたましく声を上げた。
「あたしに触らないでっ!」そう叫んで横に手を振り払った。
「なによっ!こんな所に箱を積んで!危ないのが分からないのっ!此処は通路なのっ!いい加減それも分からないのっ!まったくぅ!」眉間に皺を寄せて毒づくと、小川はヨロヨロと立ち上がった。そしてさも痛そうに足を摩ると、「気をつけてよねっ!」と言い放ってその場を去って行った。そしてそのすぐ後に、工場長である息子の孝一が走り寄ってきた。
「一体何やってんだっ!」開口一番、眉間に皺を寄せて守を怒鳴りつけた。
「うちは時間勝負なんだよ!こんな事が親父に知れたら俺まで怒鳴られちまう。ほら!さっさと片づけろ!」
「はい・・。済みませんでした。」守は頭を下げ、懸命に散乱した部品を掻き集めていた。それを傍でじっと見ていた孝一は、小川と同じように守を怒鳴りつけた。
「まったくドジなんだな!こんな事にすら気が付かないなんて!これからは気をつけろよ!二度とこんなヘマをするんじゃ無い!まったくお前みたいな馬鹿は、本当にどうしようも無ぇな!」そう言い放つと、踵を返して自分の持ち場へと戻って行った。そんな孝一の背中を、守は静かに見つめていた。
その日の昼休み。守がおにぎりの入った袋を取ろうとすると、何故かそれが無かった。辺りを見回すと、少し離れた所に投げ捨てられたように転がっていた。踏み潰された跡が残っている。守はそれを拾い上げると中を覗いた。すでに形を留めていないおにぎりは、袋の中で包装からはみ出てぺしゃんこになっていた。
その二日後。また同じようにコンビニの袋は投げ出されて踏み潰されていた。今度は中に、包まれたアルミホイルが入っていた。それを開くと、無惨に潰されたゴキブリが三匹入っていた。守がそれを黙って見ていると、何処かでクックと笑う声が小さく聞こえた。遠く見やると、それはあの小川だった。そしてその傍には孝一の姿も見えた。袋に眼を戻した守はそれを潰すと、ゴミ箱に捨てた。そして冷たい眼で、去って行く小川と孝一をじっと見つめていた。
金曜日。仕事を終えた守は自転車置き場に居る小川に声を掛けた。
「あの・・。」守の声に振り返った小川はその姿を目にすると、キッと睨み付けた。
「何なの!あんたがあたしになんの用があるってのさっ!ふん!人の好意を踏みにじりやがって!あんたがやった事を、誰も見ていないとでも思ってるの!この恩知らずが!さぁ、さっさと離れてよっ!あたしは帰るんだから!」小川が力ずくで押しだそうとする自転車を守は押さえた。
「待って下さい。あの・・あなたの好意には感謝してます。ですがその・・僕は卵アレルギーで・・それで・・。」弁解しようとする守を、小川は眉を寄せて睨んでいた。
「謝りたかったんです。でもなかなか言えなくて・・。済みませんでした・・。これからは気をつけます。そのお詫びと言ってはなんですが・・これ、良かったら食べて下さい・・。」守は持っていたビニール袋を差し出した。その中には大きな柿が一つ入っていた。
「家で採れた柿なんです・・。」
小川は訝しげにそれを受け取ると、守を睨みながら小さく頷いた。
「ふーん、そうだったの・・。それならそうと、あの時言ってくれれば良かったのよ。そしたらこんな誤解はしなくて済んだのに・・。うん、でも分かった。じゃあ有り難く頂くわ。あなたにもあたし達に溶け込む、良い機会だしね。それじゃ。」小川は作り笑いを守に向けると、自転車を漕いでいった。その後ろ姿を、守はまたじっと見つめていた。
(やれやれ。躾けるのにも時間が掛かることで、あたしの役目にも骨が折れるわ・・。でも陰気だけど、良い男・・。)そう小川は思い、心の中でほくそ笑んだ。
休日を挟んだ月曜日の朝。持ち場で守がぼんやりしていると、後ろから肩を軽く叩かれた。
「お早う。あれはとっても甘くって美味しかったわ。ありがとね。」小川は気さくに声を掛けた。守が黙って頷くと小川はニヤッと笑い、そして離れていった。
始業ベルと共に作業が慌ただしく始まり、新しい一週間が始まった。工場は雑多な機械音と樹脂の臭いで満たされ、従業員達はせかせかと正確に動く歯車と化した。
そんな中、小川は書類を手にして工場長である孝一の持ち場に向かっていた。孝一は大型成形機の前で、新人にあれこれと指導している最中だった。
「工場長、工場長!」一際音がうるさい場所で、小川は甲高い声で孝一に叫んだ。気が付いた孝一は耳に手を添えた。
「え?何だって?」小川の声が聞き取れない孝一は、新人に待っていろと指示をして作業台から下りてきた。
「何です?」
「それが、今親会社から電話がありまして、直ぐにこの部品の納期が遅れている理由を教えろって、すごい剣幕なんですよ。あたしじゃ分からないって言うと、工場長を出せって。」小川の言葉に、孝一は困った顔で眉をしかめた。
「ああ、あれかぁ・・。仕方ないなぁ・・。おい島野!俺はちょっと事務所に行って来るから、この機械を止めといてくれ!直ぐ戻るから!」孝一はそう叫ぶと、急いで事務所に走って行った。
孝一を見送った小川は島野に目をやると、ニコニコと作業台に上った。そして島野に近づき、手を添えて島野の耳元に囁いた。
「すごいわねぇ。いきなりこんな大きな機械を任されるなんて。島野君、出世頭ね。」
「あーいや・・。そんな事無いっすよ・・。」逆らってはいけない人の前で、島野はしどろもどろだった。
「謙遜しなくても良いの。あたしには分かるんだから。頭の良さも、何もかもね。でも大きな金型ねぇ。一体何の金型なの?」作業台を下りた小川は、成形機に取り付ける為に吊されている金型を下から覗き込んだ。
「あ、小川さん、危ないっすよ。金型の下には絶対入っちゃ駄目だって、工場長が・・。」島野が思わず注意した。
「何言ってんの、平気よ。これまでそんな事故なんて一度も起こった事なんて無いんだから。あら?ほら島野君、温調用のホースから水が漏れてるわよ?ほら、ここんとこ。」小川はその箇所を指さし、島野を斜に見上げて得意げに微笑んだ。
その時、金型を吊す為に連結されていたアイボルトのねじが、音も無くスポッと抜けた。その途端、二トンある金型は垂直に落ちた。そして大音響と振動を響かせ床に激突したその下には、肩から上を潰された、小川の姿があった。
「キャアアアアッ!」隣で作業していた女性のつんざくような悲鳴が工場中に響いた。驚いた他の作業員は何事が起こったかと、急いで駆け寄った。
そして其処には、島野とその女性工員が尻餅を付いてわなわなと震えながら指差す先に、飛び散った血潮の中、巨大な金型に頭と胸を潰されて変わり果てた小川の身体が横たわっていた。そしてその手足は、まだピクピクと痙攣していた。工場中に悲鳴が轟き、みんなはその目を覆い顔を歪めた。そしてそこかしこで、激しく嘔吐する嗚咽が聞こえた。
少しすると小笠原夫妻と孝一もその場に駆けつけた。そしてそれを目にした三人は、他の社員同様その場に立ち竦み、小刻みに身を震わせていた。
異様なその場面の中で、独り守は遠くから、小川だった身体を静かに見つめていた。
数日後。小笠原は朝礼で集まった従業員を前にして、重く口を開いた。
「皆ももう分かっている事だが・・。我が社で大変不幸な事故が起きた。突然の事で私も驚き、そして・・何と言ったらいいのか・・。」小笠原はポケットからハンカチを取り出して目元を押さえた。
「みんなにもそのショックは大きく、とても悲しく辛いだろうが、どうかいつも通り作業を続けて欲しい。そして何かあれば、どんなことでも私に相談してくれ。それを心からお願いしたい。こんな悲しい事はもう起こしたくは無いし、起きてはならない事だ。そう思う。それだけだ・・。」悲痛な面持ちで語る社長の話を、守は冷めた眼をして、最後尾で聞いていた。
それから一週間ほど経った或る日。小笠原は営業から帰り事務所のドアを閉めると、パソコンを打ち込む房子の机に両手を置いて、呻くように房子に言った。
「房子・・俺はとんでも無い奴を雇ってしまったのかも知れない・・。」いきなりの小笠原のそんな言葉に、房子はパソコンの手を止めて夫を仰ぎ見た。
「なんの話し?そしてどうしたの?あなた。そんなに思い詰めた顔して。」
「ああ・・。」小笠原は呆然と机から手を離すと、ソファーに身体を沈め頭を抱えた。
「はぁ・・参ったなぁ・・。あんな疫病神を背負い込むなんて・・。」
「疫病神?それっていったい、どういう意味なの?」房子は夫の様子が変だと思い、怪訝な面持ちで夫を見つめて、そしてソファーの対面に腰を降ろした。
「ねぇ、どうかしたの?どこか体の具合でも悪いの?青い顔して、そんな訳の分からない事をいきなり言い出すなんて・・。」その状態が心配になって夫に尋ねた。けれども返ってきた言葉は、やはり訳の分からない言葉だった。
「新しく入った、奴だよ。あの陰気な、結木守のことだ・・。参ったな・・。もう正社員登録は済んだことだし・・。」
「ねぇ、どう言う事なの?あの人が疫病神だなんて。そんな訳の分からない話し、ちゃんと説明してくれなきゃ分からないわよ。それにやっぱり、どこか具合が悪いんじゃ無いの?」
「ああ・・そうだな。こんな話しをいきなりしたって、到底分かる話しじゃ無いだろうしな・・。ふぅ・・とにかく落ち着こう。熱いお茶を持ってきてくれ。俺も少し動転してるかも知れない。そんな事があるわけ無いとは思うんだが・・。でも、少し話しを聞いてくれないか・・。」
房子は茶を入れて来るとソファーに腰を降ろし、夫を見つめた。熱い茶を啜りながらも青い顔をした夫は、何かに怯えているようにも見えた。
「あなた、やっぱり顔色が悪いわね。どうしたの?」
「ああ?ああ、そうか・・。そりゃ青くもなるさ。うちの工場に、ひっそりと死に神が居着いたのかも知れないんだからな。」
「ええ?今度は死に神?一体どうしたのよ。熱でもあるの?」夫の気の弱さはよく知っていたけれども、いつになく真剣なのが気になり房子は眉をしかめた。
「ああ・・その訳は、これから順を追って話すよ・・。」小笠原は茶を飲むと、ふうっと息を吐いた。
「俺は今日、親会社に営業に行ったんだ。ほら、あの購買部長の木村さんに、あの事故のことをあれこれと取り繕って話すためにな。けど俺が話していると、木村さんがふと思い出した様に変な話しを始めたんだよ。そう言えばここ五年で、うちの下請け会社である孫請けさんが二社潰れたって、そんな話しだった。俺が何処だろうと思って名前を聞くと、北田製作所と森松精機だって言うんだ。俺はうん?と思った。何処かで聞いた社名だと思った。
そして思い出したんだよ。そうだ、結木の履歴書に書かれていたなと。その時は偶然かなと思ったんだが、何か気になって何故潰れたのかを聞いてみた。そしたら木村さんは、その会社の社長が死んだからだって言うんだ。それから木村さんは、怪訝な顔つきで話しを続けた。
「いや、社長だけじゃ無い。二社とも親族経営の小さな会社だったんだが、其処の専務も、やはり死んでる。自殺だったり事故だったりだが、とても偶然とは思えない。誰かに殺されたとしか、俺には思えない。
だってそんな事が重なる訳無いじゃないか。でもな、事件にはなってない。それって、不思議な事だよな。」ってな、真剣な顔で首を捻っていた。
それを聞いた俺は、その話を思い出しながら親会社を出た。正に不思議な話だなと思いつつな。だから何か腑に落ちないものを感じて、それでお前に電話を掛けた。」
「ああ、あの電話?何だか変なことを聞くなって思ったんだけど。」
「そうだろうな。俺もあの時はまだ、半信半疑だったからな。
それで、結木が就職したその会社を調べてみようと思ったんだ。何か気持ち悪い、そんな思いでな。お前に調べてもらったら、どの会社もそんなに遠い所じゃ無かった。ちょっと車を飛ばせば行き着ける場所だったからな。
でもな、その会社を調べてみて驚いた。と言うよりも、背筋が凍り付いた。何故かと言えば、全部の会社で人が死んでいたからだ。それも主立った者が多い。中には従業員の者も居るが、それでもとても偶然とは思えなかった。
倒産の理由にはいろいろあるが、そんな、重役が死んだから倒産だなんて、そんなに聞いた事が無い。
だが詳しいことは分からなかった。その会社の住所に行ってみても廃墟のようになっているか、新しく家が建っていたりしたからな。近所の人の話で分かった事だ。
でも倒産を免れた後の四社では、社長は死んじゃいなかった。けどな、その内の一社で、俺は恐ろしい話しを聞いたんだよ・・。」小笠原は乾いた喉に茶を流し込むと、房子をじっと見つめた。
「何・・その恐ろしい話しって・・。」房子は気の弱い夫を疑いながらも、その事実は確かに変だとも思い、息を呑んだ。
「その話しというのは、其処の若い現場主任から、社外で聞いた話だ。今ではもう悲しい思い出でしかない事だからと最初は言い渋っていたが、小川さんの事を話すと、俺を外に連れ出してから話してくれた。」
小笠原が聞いた話とは、こんな内容だった。
それは晩秋の或る晩に、その会社の若い者達五人が、結木の住居にその暮らしぶりを密かに伺いに行った事が、その悲しい事の起こりなんだと主任は言った。
小笠原がなんでそんな事をと聞くと、その主任は、彼等から居酒屋で結木の事について散々愚痴っぽく聞かされていて、それが彼等の動機なんだと言った。
酔った彼等が主任に言うには、
「こんな事は言いたか無いけど、奴の腕前は、ちょっとやればあっという間に俺達を追い越して行く。それは悔しくても認めるけどさ、それでいて誰にも打ち解けないで、ただ黙々と俺たちを見下げたように仕事をしているのには、どうしても我慢が出来ないんだよな。
こっちがたまに気を利かして優しく話し掛けても奴は上の空でさ、ただ俺達を冷たく見つめるだけなんだ。だからきっと奴は俺たちを見ながら、なんでこんな事も出来ないんだろうって、馬鹿にしてるに違いないよ。そんな奴の態度を見ていると、腹が煮えくり返って仕方が無いんだよな。俺達が奴に辛く当たってるのはそのせいだよ。
けどどんなに俺達がチクチクいじめたり嫌みを言っても、奴には到底通用しないね。柳に風と躱されて、上から目線でふんってなもんだ。だから逆にこっちが馬鹿みたいに見える。それがむかついてしょうが無い。だから主任、何とかしてくれよ。このままじゃ腹の虫が治まらないよ。」彼等のそんな愚痴を聞いたその主任は、こう彼等に答えた。
「そうだな。そのお前達の心情は自分にも良く分かる。突っ慳貪な彼の態度を見れば、誰でもそんな感情を抱くかも知れない。俺だってそう思う事がある。だから組織にいる心得として、ぼちぼちお灸を据えないとだな。」と笑って答えた。そして酒の席でその話しは盛り上がり、その悪巧みは計画された。
そこまでたどたどしく説明した小笠原は、間を置いて茶を啜った。長々とずっとその話しに付き合っていた房子は、半ば呆れ顔で小さく溜息を吐いた。
「だからその話しが何だと言うの?何処にでもある、ただの愚痴話じゃない。その為にあなたはあんなに怯えて帰って来て、わざわざ私に報告するの?いったい何が言いたいの?時間の無駄だから、もう止しましょうよ。」
そう言って立ち上がりかけた房子を、小笠原は手で制した。
「まぁ待て。ここからが本題なんだ。」真剣な目で小笠原はじっと房子を見つめた。そして房子もその真剣な眼差しに、ソファーに座り直した。
「ここからが大事なんだ。その話しを聞けば、きっとお前も俺の気持ちが分かるだろうよ。」そう前置きして、小笠原は話しを続けた。
「その計画と言うのは、なんでも結木のプライベートな写真を撮って、それをネタに奴をからかうつもりだったとかでな。まぁあんまり褒められたもんじゃないが、面白半分に企てたそうだ。そしてそのグループの一人は、主任に実況中継してやるよと約束した。主任もまた好奇心から、ああお願いするよと言ってその場は別れた。
そしてその計画の実行日の夜、その主任は飲み屋で、それを楽しく酒の摘みに観ていたそうだ。
彼は悲しそうに俺に其の映像と音声をスマホから見せてくれた。消したくても消せない思いがあるからと言ってな。それを俺は彼にお願いして、コピーして貰った。」小笠原はそう言うと、自分のスマホを房子の前に置き、手を繰って再生ボタンを押した。房子は怪訝に感じながらも、屈んでその画面を見つめた。
小さなスマホの画面に、動画が映し出された。
それはある深夜に、その五人が結木の家の近所に車を停めたところから始まっていた。最初は遠くからの眺めだったが、ヒソヒソと声が聞こえて、各自暗黙の内に申し合わせて手にスマホを持つと、少しずつその家にそっと忍び寄って行く映像が見えた。
守の部屋に灯りは付いているけれども、カーテンが閉まっていて中が見えない。彼等はサッシの間近まで近づくと、みんなで口に指を立てて静かに聞き耳を立てた。その家からはクラシック音楽と、誰かと会話しているような守の声が聞こえていた。
(ほら、やっぱり女を囲ってる。)誰かがスマホに文字を入れてみんなに見せた。そして彼等は、何とかその現場を写せないかと隙間を探した。そして暫くして誰かが見つけた僅かに光が漏れているカーテンの合わせ目に、みんなが集中した。皆で押し合って、微かに見える室内をレンズ越しに覗こうとした。
しかしその次の瞬間、ふっとその部屋の灯りが消えたかと思うと、いきなりシャッとカーテンが開かれた。其処から間近に見下ろす形で、結木がサッシの向こうから大きく眼を開けて睨んでいた。
「うわっ・・うわわわわっ!」誰かの怯えた声が聞こえた。
「はっ・・早く!この・・この家から逃げるんだっ!」誰かの叫び声に、慌てて空き地を走っている揺れる映像があった。
「車に飛び乗れっ!」また誰かの叫び声が聞こえて、皆が飛び乗る振動で車が揺れた。そのドアが閉まった音と共に車は急発進して、タイヤが鳴り、カメラは後ろにつんのめった。
走り出した車の中では、誰もが後ろを気にしていた。すぐ其処まで何かが追いかけて来ているように、車内は騒然としていた。そして広い国道に出ても車はスピードを緩めた様子は無く、後ろへと飛んで行く町の明かりが移っていた。
そんな時、誰かが大声で叫んだ。
「おい!おいっ!スピードを落とせっ!あそこに、あそこにっ!」揺れるカメラに、前方の赤信号がチラチラと映っていた。そしてその手前に、黒い重そうなトレーラーが、巨大な壁となって行く手を塞いでいるのがはっきりと映し出された。
「うわっ!うわっ!」数人の途切れる悲鳴が聞こえた。
「おいっ!なにやってんだっ!ブレーキだっ!ブレーキをっ!」誰かが大声で喚いた。
その声を最後に、彼等が乗った乗用車はそのままの猛スピードで、トレーラーの下に轟音を響かせて滑り込んで行った。一秒後、トレーラーの下で車は炎上し、やがて大音響を響かせて爆発を起こした。そして主任の携帯の通信が途絶えた。それと同時に、小笠原が置いたスマホの画面も消えた。
小笠原はふっと息を吐いて、房子をじっと見つめた。
「この一部始終を見聞きしていたその主任は、直ぐさま現場へと向かったそうだが・・。」小笠原は暗く目を伏せた。
「それで?この人達は?」険しい顔で房子は尋ねた。
「ああ・・。全員即死だったそうだ。それも、全員の首が車の屋根と一緒にもぎ取られて、そして真っ黒に焼け焦げていたとか・・。実に悲惨な状況だったと、その主任は重い口を閉じた・・。」
それを聞いた房子は急に立ち上がり、口に手を当ててトイレへと駆け込んだ。
暫くして呆然と出てきた房子は、またソファーに座った。
「大丈夫か?」小笠原は心配そうに尋ねた。青白い顔の房子はハンカチで口を押さえたまま、小さく頷いた。そして真っ直ぐに夫を見据えた。
「だがな房子、何も根拠は無いんだ・・。彼等が死んだその悲惨な死に様も、やはり事故として処理された。うちの工場で死んだ小川さんにしてもだ。
それはそうだろうが、俺にはどうしても、それだけだとは思えないんだよ。お前もそう思うだろ?癖のある灰汁の強い人ではあったが、あんなに俺たちと冗談を言い合って笑っていたのに・・。
それには何か不吉な力と言うのか、忌まわしい何者かがそうさせた。俺にはそうとしか思えないんだ・・。」小笠原はテーブルに肘を付いて頭を抱えた。
房子はそんな小笠原を暫く見つめていたが、やがて唇を震わせて、溜まっていた感情を吐きだした。
「あなたは・・。そんなまったくなんの根拠も無い事に、なんでそうやってだらしなく落ち込んでるの!こんなに気持ちの悪い映像を私にまで見せて!私たちにはなんの関係も無い事でしょうがっ!」そんな自分を罵るように言う意外な妻の反応に、小笠原は驚いて妻の顔を見上げた。
「だってそうでしょうに!小川さんの事故も彼等の事故も、それはそれだけの事っ!あなたが言ったように、なんの根拠もありゃしない。ただ、悲惨なだけよ!それに・・それに!それだけじゃ無い!はっきり言えば、小川さんにはとんでも無い迷惑を掛けられて、ほんとに腹が立ってるの!よりによって此処であんな事故を起こすなんて。お陰であの後の大変な事といったら。あれやこれやでもう・・。
私があの後どれだけ大変だったか、あなたには分からないでしょうね。塞ぎ込んでる暇なんて、私にはちっとも無かったわ。今だってそう!」
「房子・・。」苛立っている房子を前にして、小笠原は何も言えなかった。
「それにねっ!」房子は肩の力が抜けたような夫に、追い打ちを掛けて言った。
「今はこの騒動から立ち直る事が大切でしょうが!結木が疫病神だか何だか知らないけど、ちゃんと仕事をしてくれてるわよ。あれほど安い賃金に、文句一つ言わずにね。ご立派な疫病神様なこと!それに比べて、あなたの方がよっぽどどうかしてて頼りない!それに孝一だって・・あれから食事もままならないで、会社を休んでるって言うのに・・。」そう言った房子の目からは涙が溢れていた。そしてパソコンの電源を切ると立ち上がり、そのまま事務所を足早に出て行った。
独り事務所に残った小笠原は呆然としてソファーから立ち上がると、房子が出て行ったドアを見つめた。それから溜息を吐くと窓辺に向かい、ポケットから止めていた煙草を取り出すと、馴染みのオイルライターで火を点けた。
守は仕事から帰って来ると、暫くは柿の木の根元に佇んでいた。夕日に照らされた柿の木にはすでに枯れ葉が目立ち、その枝から熟した柿の実が六個、秋の終わりを告げているように寂しく垂れ下がっていた。守はその一つをもぎ取り家に入ると、その柿を座椅子に腰掛けて黙々と囓った。そして手を止め、虚空に向かって話し掛けた。
「そうだね、もうすぐ今年の秋も終わる・・。ハハッ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。充分、今年の柿の実は味わったから。けどまだ、僕達の秋は終わってはいない・・。そんな気がするね・・。僕が充分でも、周りはそうじゃ無いみたいだからね・・。
でも大丈夫だよ。ちゃんと分かってる。お前を残して、僕は死んだりはしないから。そしてこの命の宿った柿の実をお前が僕に与えてくれてる限り、僕が死んでしまう事は無いし、逆に若返って行くんだ。だからそんなに心配しなくても、ずっと永遠に、愛するお前を可愛がってあげられるさ。
でも・・人間はみんな、どうして僕に構うんだろう・・。放っといてくれれば良いだけなのに・・。それになんだか彼らは僕を恐れているようにも見えるんだ。けどその反面、あんな人間達は、エゴや欲望や煩悩やらに振り回されて、自分が一番偉いとでも思っているようにも見える・・。この世の頂点に君臨するのは自分たちだけで、その他の者はみんな憐れな食料なんだとか思っているようにもね・・。
うん?いや、そんなに悩んでなんかいないよ。僕には可愛いお前がいるだけで充分だから・・。だから、さぁそんな顔をしてないで、今夜はもう床に入ろう。明日は少し、朝が早いから・・。」
翌朝早くに守は事務所に上がると、やはり早くからデスクに座っている房子に目をやり、紙袋をすっと差し出した。
「あの・・これを・・。」
「何?」いきなり中が見えない茶色の紙袋を目の前に差し出された房子は驚き、怪訝な目で守を見つめた。そして首を傾げながらも、その茶色い紙袋を受け取りそれを開けた。その中には、大きくて瑞々しい柿が三個入っていた。
「まあ、大きな柿!」房子は思わず叫んで守を見た。守は静かに房子に言った。
「家で採れた柿なんです。良かったら食べて頂こうと思って。今年の柿も、もう終わりですから・・。」
「まぁ、それでわざわざ?」房子は意外な訪問者に驚いた胸を、ゆっくりと手で撫で下ろした。頭の中に昨日小笠原が見せた映像がチラと浮かんだけれども、溜息をついて微笑んだ。
「ありがとう。まぁ、本当に見事で美味しそうな柿ねぇ。結木君って、無口だけど本当は心根が優しいのね。うん、有り難く頂くわ。結木君も寒いだろうけど、身体に気をつけてお仕事頑張ってね。」胸の不安が溶けた上に柿の実にも見惚れた房子は、守にニッコリと微笑んだ。
「はい・・それじゃ・・。」軽く頭を下げ、守は事務所を出て行った。
暫くすると、今度は入れ違いに孝一が入って来た。
「お早う。」
「まぁ・・、孝一・・。」房子は驚き、しかしほっとした表情で孝一を見つめた。そしてソファーに腰を降ろした孝一の前に茶を置きながら、心配そうに尋ねた。
「ねぇ、もう大丈夫なの?無理する事も無いわよ?仕事だって、みんながやってくれてるし・・。」
「母さん。はいそうですかって、これ以上会社を休む訳にも行かないでしょうが。工場長がへこたれてちゃ、誰が奴等を取り締まるってんだよ。俺が睨みを利かせて無きゃ、奴等は怠け放題好き勝手だよ。そんな事を許す訳には行かないだろ?だから俺はもう大丈夫だって。あんな事はもう忘れた。そう言うことだよ。」孝一は無愛想にそう答えて茶を啜った。
「それなら良いけど・・。あっ、ご飯は?まだ食べて無いんじゃないの?そんなに痩せちゃって・・。」ソファーの端に座って、房子は心配顔で聞いた。孝一はそんな母の言葉に溜息を吐いた。
「うるさいなぁ。もう子供じゃ無いんだから。でもまぁ母さんの言い付け通り、作ってくれた味噌汁は毎日食べてるよ。だからそれで何とか持ってるのも事実なんだけどさ。けど、そんなに心配しなくたって大丈夫だって。そんなに柔な男じゃないから。さぁてと、気分を入れ替えてそろそろ行くか。散々弛んでる現場を、ビシッと引き締めないとだからな。」そう言うと孝一は背筋を伸ばして立ち上がった。そして足早にドアに向かう途中でふと気付いたように振り返り、卓上の端に無造作に置いてあった紙袋に目をやった。
「母さん、あの紙袋は何なんだ?」
「え?ああそれ?それはね、朝早くに結木君が持ってきてくれたの。今年最後の柿だって言ってね。」房子は紙袋からその柿を取り出して、孝一に見せた。
「ほら、とっても見事な柿でしょ?」
「へぇ、結木がねぇ。でも、なんか旨そうだなぁ。」
「食べてみる?すぐに用意するから。」
「そうだな。少しは腹の足しになりそうだ。」そう言って孝一はソファーに座り直した。
皮を剥いた柿は蜜で溢れていた。孝一はその柿を一口口にすると、目を輝かせて房子を見た。
「旨いっ!まるで柿じゃ無いみたいだ。甘くって瑞々しくて・・。こんなの、食べたこと無いよ!」その味に興奮した面持ちで、孝一は房子に微笑んだ。
「そんなに?どれどれ。」そんな孝一の表情と言葉に釣られて、房子も一口食べてみた。すると直ぐに大きく目を開けて、孝一に賛同した。
「ほんとねぇ!孝一の言う通りだわ。ほんとに美味しい!」
それから二人は、取り憑かれた様に柿を貪った。だが二個目を食べ終わって、房子ははたと気づいた。
「ねぇ、後の一個はお父さんに残して置いてあげましょうよ。今日は帰りが遅くなるって言ってたし、疲れた身体に持ってこいだわ。デザートで出せばきっと驚くから。ね?」
「そうだな。こんな幸せは家族で分け合わないとだからな。それにしても、あー旨い物を食った。こんなに美味しく物を食べたのは、本当に久しぶりだよ。」
「そう、良かったわ。でも、ただの果物だけどね。」
「うん、でも満足した。それじゃ行ってくる。」そう言って孝一が出て行くと、房子は微笑んでほっとしたように息を吐いた。これでやっといつもの生活に戻れる。そう思った。
そして現場も、いつものように始まった。
朝礼を終えた後、孝一は自分の机に久々に座り、休んでいる間に積み上げられた実績表に目を通した。それを繰りながら、各自の成績を折れ線グラフの表に点を付けていった。そして「うん?」と思わずその点を書き記して驚いた後、首を傾げた。
(こんな事が出来るのかな?)色分けされた折れ線グラフのその黒い点は、結木のものだった。
(本当にこの数をこなしてるのか?)異常なグラフの上がり方に疑問を覚えた孝一は、守の持ち場に歩いて行った。
「結木。」孝一は夢中に成形機を操作している守に声を掛けた。守は手を止め、夢から覚めた顔で孝一を仰ぎ見た。
「あ、はい。何でしょうか・・?」
「お前の最近の成績には目を見張るものがあるが、どうやってこんなに数を上げてるんだ?」
「それは・・。」孝一は説明しない守から目を離し、その機械のパネルにある、一つ一つの設定値に目を走らせた。
「ああ、これか。やっぱりな。」孝一は機械の速度を設定する部分を指さし、守に厳しい眼を向けた。その速度数値は最高値に変えられていた。
「結木、なんで誰の断りも無くこんな事をするんだ。もっと多く作って見返してやりたいっていう、お前のちんけな気持ちからか?まったくどんだけ自分が偉いと思ってんだか知らないがな、勝手にこんな事をするんじゃ無いよ!こんな事は俺の許しを得てからやれ!少し手が早いからって、のぼせ上がるのもいい加減にしろ!お前なんかただ俺に言われたことを、地道にコツコツこなしてりゃ良いだけなんだよ。余計な事をするんじゃ無い!それにこんな事を誰かに見られれば、工場の安全が問われかねないだろうが。そんな事も分からないのか?まぁ、お前に分かれって言うのは無理だろうからな。だから今回だけは、その馬鹿に免じて許してやる。だがな、今度やったら、承知しないからな!ちょっと女の子の噂になってるからって、図に乗ってんじゃねぇよ!馬鹿は馬鹿なりに、真面目におとなしくしてりゃ良いんだよ!まったく、余計な手間取らせやがって。分かったな!」そう言って孝一は守を叱りながら、見下げたように口を歪めて嗤った。
「それから、いくらあんな柿を持ってきて胡麻すろうったってな、俺の眼は節穴じゃ無ぇんだよ!よく覚えとけ!」激高する孝一を前に、守は静かにそして冷たく、そんな孝一の眼を見据えていた。
「まったく!俺がいくら言ったって、お前の態度はいつもそうだ!分かってんだか分かって無いんだか!俺の事を馬鹿にしてんのか?ああ?どうなんだよ!」孝一は守に詰め寄り、険しく睨んだ。けれども守は動ずること無く、ただじっと、孝一を見つめるだけだった。
「ふんっ!馬鹿に何言ったところで、なんにも変わらないのは、充分分かってっけどな!」孝一は怒鳴るようにそう捨て台詞を吐くと、其処から足早に去って行った。
その夜、十時を回った頃に小笠原は帰宅した。そして疲れた身体をソファーに投げ出した。
「あー、疲れたぁ。取引先が遠くだと、まぁ大変な事だ。行って帰って来るだけで、こんなに時間が掛かるんだからなぁ。」
「お疲れ様。あなた夕食は?」
「ああ、帰り掛けに食ってきた。しかし地元のラーメン屋に入ったんだが、不味くってな、参ったよ。油がギトギトしててな。俺の口には合わなかった。まぁそれでも、なんとか我慢して食ったけどさ。」
「まぁ、それはお気の毒なこと。じゃあお風呂から上がったら、お口直しに特上のデザートを食べさせてあげる。」
「特上のデザート?何なんだ?それって?」
「良いからサッパリしてきて。その間に用意して置くから。」
小笠原が風呂から出てソファに座ると、房子は冷えたビールと白い皿を盆に乗せて持ってきて、テーブルに置いた。その白い皿の上には、冷やした柿が綺麗に並べられていた。
「おお、旨そうな柿だな。どうしたんだ?いったい?それに、やけに今日は優しいじゃないか。」ビールを飲んで、上目遣いに房子を見て微笑んだ。
「とっても良いことがあったから。ほらそんなこと言ってないで早く食べてみて。きっと驚くから。」対面に座った房子はニッコリと微笑んで、小笠原に勧めた。
「そんなにか?じゃあ味見してみるか。」その柿の実を一口食べると、小笠原はニンマリとした笑顔で房子を見た。
「こりゃあ旨いな。こんなに旨い柿、食った事が無いよ。」
「そうでしょ?でもやっぱり親子ね。孝一と同じ事言ってる。」
「ほう、孝一も食べたのか?そりゃ良かったなぁ。何にも食えないで心配してたからな。回復の兆しだ。うん、うん。」小笠原はそれも喜んで、あっという間にそれを平らげた。
「あー旨かった。一日の最後にこんな旨い物を食べると、今日一日が充実した一日に思えるよ。不味いラーメンの事も忘れて、今日の嫌なことも全部許せる気分だな。」
「そう?良かった。あなたにも一個くらいは残して置いてあげようって、孝一が言ったもんだから。」
「一個くらいねぇ。まぁそれでも嬉しいよ。でもまた買ってくれば良いじゃないか。こんなに旨いんなら、どっさりとな。」
「私もそうしたいけど・・、これは売っている物じゃ無いのよね。」
「売ってない?じゃあこの柿は、一体何処から仕入れたんだ?」
「それがね、今朝あの結木君が持ってきてくれたのよね。今年の柿も、もう終わりですからって。」
「結木が?ほう、それはまた意外だな。そんな事をする奴だとは思わなかった。」
「そうよねぇ。私もそう思った。後から思ったんだけど、きっと私たちに気に入られたくって、こんな事をしたんじゃないかしらね。そんな気がする。
こう言っちゃ可哀想だけど、あんなに無愛想で頭も働かない子じゃ、此処を追い出されたんじゃもう他に雇ってくれる所も無いんじゃないかと思うのよね。だから彼なりに、精一杯の胡麻を擂っておこうと思っての事なのかなって。
孝一も彼のことを言ってたわよ。馬鹿は馬鹿なりにいろいろと気に入られようとやってくれるけど、理屈に合わない事ばっかりで俺は大変だよってね。
だからね、あなたも考えすぎなのよ。あの子なんかを魔物呼ばわりして、あんなに慌てたなんて。」
「まぁ・・な。考えてみれば、俺もあの時はどうかしてたのかなとも思う。あれは全部偶然が重なっただけだったとも今じゃ思うし、それにあんな奴が疫病神だとか死に神だとかであるわけ無いよな。少なくとも神様なんだから、それにしちゃあ役不足だ。あれがあんまり悲惨な出来事だったから、気が動転していたんだろうと思うよ。
よし、俺も明日から気を入れ直すよ。もう全てが終わった。そして仕切り直しだ。」小笠原は自分でもほっとして、ビールを心地よく飲み干した。
しかしその二日後、小笠原には暗い出来事が待ち構えていた。
その日、小笠原は営業で得意先を順番に車で回っていた。そして次の得意先へと車を走らせている最中に、震えるキャッチをイヤホンで受けた。
「はい、小笠原です。」
「あ、小笠原さんですか?竹内製作所の西田です。お忙しいところすみません。ちょっとお話ししたい事があって、お電話しました。」
「竹内製作所の西田さん?・・ああ・・あの時の。その節はお世話になりました。貴重なお時間を使わせてしまって、申し訳ありませんでした。」
「いえ、そんなことは・・。ただ、今日お電話したのは、気になる事があったものですから。」
「気になる事・・。それってどう言う・・?」
「ええ、でも電話では伝えきれない事なんです。出来ればこちらに立ち寄ることは出来ませんか?今日じゃ無くても良いんですが。」それを聞いた小笠原は、何か胸騒ぎを覚えた。
「あの、夕方でも大丈夫でしょうか?六時頃だったら行けると思いますが。」
「ああ、僕もその時間の方が都合が良いです。では六時に、会社の前でお待ちしてます。」
「はい、分かりました。では。」電話を切った小笠原の脳裏に、あの映像が蘇ってきた。何故ならあの映像を見せてくれたのは、あの時その話を聞かせてくれた主任の西田であったからだった。そしてその事以外に、彼からの電話は有り得なかった。不安な気持ちに、小笠原は眉を曇らせた。
約束の六時に竹内製作所の門前に着くと、西田は自転車を手にして待っていた。
「すみません。お待たせしましたか?」小笠原が聞くと、西田は気さくに答えた。
「いえいえ、そんなことありません。それで、僕の住まいは直ぐ其処のアパートなんです。付いてきて下さい。会社ではちょっと話しにくいので。」
西田が住むアパートに着いた。
「すみません、急に呼び出したりして。」西田はお茶をテーブルに運びながら言った。そして小笠原の向かいに腰を降ろした。
「いえ、とんでもない。それよりもその、お話しと言うのは?」
「ええ。それはこの前小笠原さんにお渡しした、あの映像のことなんです。
僕はあの後、久々に観たあの映像が何故だかどうしても気になって、ずっと考えていたんです。そして分かったんですよ。あの映像には、腑に落ちない部分があると言う事が。」
「腑に落ちない部分?」眉をしかめた小笠原の心に、チラと渦が巻き始めた。
「それって、どの部分なんでしょうか?」小笠原が不安げに聞くと、西田は快活に、しかも微笑んで答えた。
「それは彼等が結木を見て逃げ出したところです。いきなり目の前のカーテンが開いて結木に睨まれたとは言え、あの驚き様は尋常じゃありませんからねぇ。そうは思いませんか?」西田の問い掛けに、小笠原もその映像を思い出しながら頷いた。
「確かにそう言われれば、そんな気も・・。」小笠原はその場面をずっと思い出していた。
「話しでは説明しにくいので、あっちの部屋で映像をお見せします。」西田は立ち上がり、パソコンの置いてあるデスクへと小笠原を誘った。
「僕はあの映像を、このパソコンに移したんです。こっちの方がモニターが広くて、良く見えますからね。あ、この椅子をお使い下さい。」西田は立ったままでパソコンを立ち上げ、説明を始めた。小笠原はパソコンの前にある西田がいつも座っている椅子に座り、じっとモニターを見つめていた。
「正直これを見つけたときは、背筋が凍り付きましたよ。」マウスを操作しながら、西田は明るく言葉を続けた。
「こんなことがあるのかなってね。これを発見したときは僕も驚いて、鳥肌が立つほど縮み上がりました。そして滅多に体験する事も無いこの真実を早速オカルトサイトに投稿しようかとも思ったんですが、さすがにそれは止めました。そんな事をしたら、何だか本当に祟られそうで・・。実は僕はオカルトマニアでしてね。いろんな怖い話しを集めては、そのサイトに投稿してるんですよ。」西田は話しながらパソコンを操作し、そしてその場面で指を止めた。
「これですよ。」そのワンカットとは、彼等が守の部屋に近づいた時に照明が消えて、守がカーテンをいきなり開けた時のカットだった。
「この一瞬のワンカットにしか、それは映っていません。動画だと気づかないんですが、これをどう思います?見づらいから、少し拡大してみますか。」
小笠原は西田が操作するモニターを食い入るように見つめ、やがてその拡大された画面を見て細かく震えだした。
「こ、これは・・。」そのモニターには、守が大きく眼を見開き、彼等を睨んでいる姿が映っていた。だがそれよりも小笠原を凍り付かせたのは、守の背後だった。ぼやけてはいるがどす黒い煙のようなものが渦巻き、その中から赤く光る眼と白い口が今にも襲い掛からんとして、こちらを睨んでいるようにも見える。
「これって一体、何なんです!」小笠原は後ろにいる西田に振り向き様、思わず叫んだ。
「さぁ・・。僕にはこれの正体は分かりませんが・・。ただ彼等をあれほど驚かせたのは、これでしょうね。そして多分、それは彼等を追いかけた。彼等の行動のパニック状態を見ると、そう考えるのが妥当だと思いますね。」小笠原の驚きように気をよくした西田は、得意げに説明した。
「じゃあ・・じゃあ結木は、この魔物と一緒に暮らしていると?」
「さぁ、どうでしょうか。でもこのワンカットは、間違いなく事実ですからね。でもこれをどう捕らえるかは、ご自分で判断して下さい。偶然何かがこんな風に映っているだけかも知れませんしね。」
そう言われた小笠原は西田を仰ぎ見て、「うーん・・。」と唸った。そして小さく溜息を吐いた。
「これが・・西田さんのお話と言う事ですね?この恐ろしい魔物が、彼等を殺したと・・。」
小笠原は心底怯えている様だった。それを感じた西田は、また嬉しげに答えた。
「ええ、そうです。僕はそう思いました。そしてあの時の小笠原さんの困惑に、少しでもお役に立てるかなと思って。」西田はうきうきした表情で小笠原に微笑んだ。
「そうですか・・成る程・・。でも・・西田さんのご厚意には感謝しますが、これをどう判断するかなんてそんな・・。今やっと私の家族は、その事を忘れようとしている時なんですから・・。」小笠原はデスクに肘を付いて頭を抱えた。
「小笠原さん、大丈夫ですか?」西田は小笠原の肩に手を乗せて、心配そうに覗き込んだ。
「ええ、大丈夫です・・。あれから変な事は起こって無いし、彼も一生懸命仕事してます。そんな彼が、とてもそんな、恐ろしい魔物には見えませんからね。ですから西田さんが仰ったように、ただ偶然に、何かがそう映っただけのものだとも思います。」小笠原はそう答えると椅子から立ち上がり、西田に弱く微笑んだ。
「そうですか。それなら良かった。いや、僕もつまらない絵を見せて、すみませんでした。要らぬおせっかいだったかも知れませんね。」
「いやいや、そんな事はありません。こんなに思って下さる方は、そう滅多に居ませんから。これからもどうぞよろしくお願いいたします。有難う御座いました。」小笠原は西田に、丁寧にお辞儀をした。
「では、失礼します。」
帰る小笠原を、西田は玄関口で見送った。しかし暫くしてふと思い立ち、外に出た小笠原を追った。
「小笠原さんっ、小笠原さんっ!」サンダル履きで急いで駆け寄ってくる西田を見て、小笠原は開いた車のドアを手にしたまま眉をひそめた。
「小笠原さん、もう一つ言い残した事がありました!」息を切らして叫びつつ自分の近くに来た西田を見て、小笠原は首を傾げた。
「どうしたんです?そんなに慌てて。」
「ええ、ふぅ・・。また要らぬお節介かも知れませんが、彼の持ってきた柿を、絶対食べてはいけませんよっ!最近僕が調べた事ですが、死んだ彼等は、その前の晩に彼が持ってきた柿を食べていたそうです。それから以前彼が勤めていた会社でも聞いたんですが、その人が死ぬ前に、必ず彼が持って来た柿を食べてるんです。そして彼等が死んだ季節は全て、秋なんです。」それを聞いた小笠原は、血の気が引いた。
「ええ、そんな・・。」驚きと共に小さく呟くと、がっくりと肩を落とし、呆然と西田を見つめた。
「西田さん・・。それはもう・・手遅れです・・。」小笠原は放心したように西田に告げた。
「え?・・手遅れとは、どういう・・。」西田はハッとした面持ちで小笠原を見つめた。小笠原は肩を落としたまま西田に答えた。
「我々家族三人はもう・・結木の持って来た柿を、食べてしまったということです・・。 ああ・・。どうすれば良いんだろう・・。
西田さん、我々はもうお終いなんですか?これまであの柿を食べて、そして死んでいった彼等のように・・。」弱々しくそう言ったかと思うと、小笠原は膝に手を置き、がっくりと項垂れた。
「小笠原さん・・。いやそんな・・もうお終いだなんて事は無いですよ。これまでもそんな切羽詰まった窮地を逃れた人は、たくさんいますからね。
その為にはそう・・。こうなればある最後の手段に頼るより他無いとは思われますが・・。しかしそれがもし功を奏すれば、まだまだ望みはかなりあります。だから決して諦めないで下さい。今夜こうしてお会いしたのも、何かの縁かも知れません。微力ながら私も精一杯協力しますから、そんなに落ち込まないで下さい。そして、お気を強く持って下さい。」そう懸命に慰める西田に、小笠原はようやく顔を上げた。
「有難う御座います・・。こうなったら、頼りに出来るのはあなただけです・・。その、最後の手段というのを教えて下さい。私もやれるだけの事は、やってみますから。」
それから二人は西田のアパートに戻り、小笠原は西田から詳細にアドバイスを聞いた。そして小笠原は気もそぞろに、急いで家へと向かった。
頭の中で、疑惑はすでに確信へと変わっていた。
そして家に帰った小笠原は、玄関で房子と孝一を大声で呼んだ。その声に驚いた房子と孝一は、何事かと玄関へと向かった。其処にはただ呆然と突っ立っている、小笠原の姿があった。小笠原は房子と孝一の顔を交互に見やると、大きく息を吐いて項垂れた。
「どうしたのあなた!何かあったの?」項垂れた夫に、房子は眉をひそめ傍に寄った。孝一も心配そうに歩み寄り父を見つめた。
「ああ・・大丈夫だ。まだ元気な二人の顔を見て、安心した・・。」小笠原は靴を脱いで、フラフラと居間に上がった。
「とても大丈夫そうには見えないわよ。あなた、お酒でも飲んでるの?」そんな房子の問いかけには応じず、小笠原は自分のスマホからSDカードを抜き取り、孝一に差し出した。
「ノートパソコンを持って来て、これを再生してくれ。それを、みんなで観るんだ。孝一!何をボウッと突っ立っているんだ。さぁ、早くかかれ!」そのSDカードを何となく受け取った孝一は暫し訳が分からず首を傾げていたが、小笠原の真剣な眼差しと強い口調に押されて、その言葉に従った。三人は居間のソファーに腰を降ろした。そしてソファーのテーブルにノートパソコンを置いた孝一は、そのSDカードをパソコンに挿入し、再生ボタンを押した。小笠原と房子は孝一の両脇で、じっとモニターを見つめた。
「そこだ!そこからコマ送りにしろ!」突然の、何故か興奮している父が叫ぶ訳の分からない指示に半ば呆れながらも、孝一は言い付けに従った。
「そこだっ!そこで止めろっ!」再生が停まった。房子はモニターから眼を離して、夫を睨んだ。
「あなた、また私にこの気持ちの悪い物を見せようとするの?それに孝一まで。こんな事に、一体何の意味が・・。」
「うるさい!静かにしてろ!孝一、この部分をズームアップしてみろ。」いつに無い夫の剣幕に、房子と孝一は目を合わせた。
孝一はモニターに釘付けになっている父をチラと見て、溜息を吐きながらもパソコンを操作した。しかし、ズームアップされた画面を観た途端、房子と孝一は思わず身を引いた。
「なに・・?これ・・?」房子は震える唇で呟いた。孝一は言葉を失って、じっと画面を見据えていた。
「どうだ・・。これが何に見える?何かの偶然でこう見えたと思うか?それがお前達に聞きたいんだよ・・。そして・・そしてもしこの映像が偶然で無ければ、奴の後ろには、この化け物がいる事になるんだ・・。」
小笠原はモニターから眼を離し立ち上がると、二人の対面に腰を降ろした。そして二人を交互にじっと見つめた。
「それから・・こんな気味の悪い映像を見せた上に、尚更こんな恐ろしい話しは、したくは無いんだがな・・。」小笠原は生唾を飲み込み、ゆっくりと後を続けた。
「この映像を見せてくれた西田さんから聞いた話なんだが・・。
この事故で死んだ彼等も、結木が就職した先で次々と死んだ者達もみんなが、その死の前に、結木から柿を貰って食べたそうだ・・。我々と、同じようにな・・。」その言葉を聞いた房子は咄嗟に口を押さえて目を見開き、孝一は険しく眉を寄せた。
重い沈黙が続き、場は凍り付いていた。
「それってまるで・・死刑宣告のようじゃないか・・。」孝一が低く吠えた。そしていきなり立ち上がると、ドアへと歩いた。その勢いに小笠原は驚いて孝一の後を慌てて追い、その肩を掴んだ。
「孝一!何をするつもりだ!」
「真相を確かめるんだよ!こんな所で怯えてたって、どうにもならないだろうに!だからこれから結木の家に行って、それが本当だかどうだか、奴に聞いて確かめてくる!俺があんなうすのろに、殺されて堪るかってんだ!」そんな真っ赤な顔付きで眼を座らせ激昂した孝一を、小笠原は力ずくで振り向かせ、そしてその眼を睨んで孝一の肩を揺さぶった。
「やめろっ!孝一、それだけはやめてくれ。お前がもし行ったら、彼等の二の舞になる。そんな気がする・・。だからお願いだから、それだけはやめてくれ。そして落ち着いて、俺の話しを聞いてくれ。まだ俺の話は、終わっちゃいないんだから。」小笠原は孝一の背中を強引に押して、ソファーに座らせた。
「話しが終わってないって、それはどう言う事なんだよ。」興奮冷めやらぬ孝一は、きつく父を睨んだ。
「まぁ落ち着け孝一。なにも俺だって無手無策で、こんな事をお前達に話したんじゃ無い。」そう小笠原は言い切り息を吐くと、ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。そして諭すように言葉を続けた。
「孝一、よく聞け。前に房子にも言ったが、これにはなんの根拠も無いんだ。しかしどう考えてみても、この一連の不幸な出来事の連鎖は余りにも不自然で、とても偶然とは考えられない。そしてその連鎖は今や、自分たちの近くにまで来ている。俺にはそう思える。それはあの小川さんの残酷な死に様からみても、そう感じるんだ。そしてその予兆を見過ごしこのまま何もしないで放って置けば、やがてその災いの渦は俺達を巻き込んでしまうかも知れない。俺はそう思ったんだ・・。
そこでだ。俺はその方面の事情に詳しい西田さんからのアドバイスを受けて、それを確かめることにした。そしてそのアドバイスと言うのは、一度霊媒師を呼んでその状況を詳しく見て貰えばと言う事だった。」
「霊媒師?」孝一は眉をしかめた。
「そうだ。何でも西洋ではエクソシストと呼ばれている、除霊をする人達のことだ。そんなこと馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、俺は今藁にも縋る思いなんだ。何故なら何と言っても相手は、これまで何人もの人を殺してきた魔物かも知れないじゃないか。そこが正直、俺は怖い。それに家族を、そんな目に遭わせたくも無い。そう思うのが人情だし、またそうさせないのが俺の責任でもある。
そこで俺は、西田さんが押してくれた高名な霊媒師に連絡を取って、明日この家に来て貰うようお願いしてある。多少の金は掛かるが、今そんな事は言ってはいられない。背に腹は代えられないからな。だから明日は、誰もこの家から出てはならない。会社には俺から連絡を入れておく。
どうなるか分からないが、今はそれで様子を見よう。何でも無ければそれで良い。思い過ごしだったと、またいつもの生活に戻れるんだからな。」小笠原の話を、二人は黙って聞いていた。そして孝一は張り詰めていた肩の力を抜き、ふっと息を吐いた。
「それならまぁ、父さんの言うように、それで試すのが良いのかも知れない。訳が分からないまま不安な時を過ごすより、そんな事を良く知った人に任せた方が安全かもな。母さんもそう思うだろ?」一時の妖しげな空気から醒めた孝一には、これまでの事が馬鹿馬鹿しく思えてきた。そしてそんなオカルトめいた話しよりも、それに怯えている父の状態の方が心配になっていた。
半ば父に呆れながらも、今はそんな父を落ち着かせる事、それが最優先だと判断した。だから母にも賛同を促した。
「え?ええ・・孝一がそう言うなら・・。」
「そうか。そう言ってくれると信じていたよ。うん、良かった。明日のお祓いが功を奏せば、もうこんな心配は無くなるんだから。」小笠原はほっと胸を撫で下ろした。
それから三人は除霊の事やらいろいろと話し合った後、それぞれの寝床に潜った。けれども小笠原夫妻は、なかなか寝付けはしなかった。一様に寝床で腹を摩って、この前食べた柿の実が今自分の中で何をしているのか、そればかりが気になった。
翌日の昼過ぎに、その霊媒師は小笠原家を訪れた。
痩せて小さな身体に濃紺の厚手の作務衣を着て、髪を長く伸ばし、もじゃもじゃとした口髭を蓄えていた。そしてその首には、大きな太い数珠が掛けられていた。
「神下光現と申します。では、御免。」と一言言って家に入った霊媒師は、その小さな体にそぐわない大きな目を更に大きく見開きながら、家の中を睨め回した。
「成る程・・。お話は伺っておりますから、私の所見を述べさせて頂きますが、お気を悪くなさらないで聞いて頂きたい。」
神下は三人にソファーに座るよう促すと、その対面に腰を据え、そして重々しく口を開いた。
「やはり・・あなた方は今、滅多に見ないような、大変な厄介を抱えておられると申し上げざるを得ない・・。このまま何もなさらずに放って置けば、やがてその悪霊は、あなた方を確実に死に至らしめるでしょう・・。」三人を強く睨め回しながら、きっぱりと神下は言い切った。
その雰囲気と死という重い言葉は、それまで半ばその存在を小馬鹿にしていた孝一をさえ、一瞬にしてその心を凍り付かせた。
「え・・?」その言葉を聞いた三人の目は神下に釘付けになった。
「はい・・。しかし、ご心配はもう無用です。これから私が強力な霊力を駆使して、あなた方に憑いた悪霊をその身体から退散させますので・・。
その為、隣の部屋にこれから祭壇を設けさせて頂きます。その準備が整いましたら部屋に結界を張り、除霊を行います。ですからどうかご安心ください。これまで幾多の人々から様々な悪霊を取り除いてきた経験と実績が、自分にはありますから。」神下の自信に満ちたその言葉に、三人は神下を見つめて、ただ頷くしか無かった。
三時間後、その除霊は終わった。部屋から出てきた三人は虚ろな目をして疲れ切っていた。そして居間のソファーに身体を沈めて、ふぅ・・と溜息を吐いた。
神下は道具を片付けると、また三人の前に座った。
「お疲れ様でした。しかしこれで除霊は無事終了しました。取り憑いた悪霊はあなた達の身体から離れ、もう戻ることはありません。ご安心下さい。良かったですね。」神下がそう言って笑顔を見せると、小笠原は心底安心したように息を吐き、神下の手を取って謝意を表した。
「いや、何とお礼を言ったものやら・・。お陰で家族の者もほっとしております。本当に有難う御座いました。」小笠原は座り直し、深々と頭を下げ、胸ポケットから布佐を取り出した。
「除霊して下さったお礼です。」神下はそれを恭しく受け取り、バッグの中に仕舞った。
「有難う御座います。しかしその他に私には、もう一つお願いがあります。と言うのは、この元凶である者の住まいを教えて頂きたいのです。私はこれから其処に向かい、禍の根を断ち切ろうと思います。」
「ええっ?」小笠原は驚いた。
「何もそこまで・・。」
「ご心配は有り難いのですが、これは私の流儀でして。この世から禍の根を絶つ、それが私の信念ですから。」真剣な眼差しで、きっぱりと神下は言い切った。
「はぁ・・。そこまで言われるのでしたらお教えしますが・・。」小笠原は神下の言葉に、改めてその真実と敬意を覚えた。
守の住所を聞いた神下は立ち上がり一礼すると、小笠原家を去って行った。
残った三人は神下を見送った後、ふぅ・・と息を吐き、それぞれが安堵の思いで茶を啜った。
日が沈む前に神下は其処に到着した。そしてビデオカメラ二台と三脚、それと小型マイクを手に車を降りた。そして、
(成る程、こりゃ確かに何か出そうな屋敷だな。)と、守の住まいを見つめて独りほくそ笑んだ。そして家の近くに一台のビデオカメラをセットした。
自分に焦点を合わせるセットをしてから、神下は深刻な表情でカメラの前に立った。
「私はこれから・・或る人の依頼を受けて、禍の元凶である家に向かいます・・。私が見るところその大元は、あの柿の木にあると感じます。では、行ってきます・・。」そう言って柿の木の下まで歩いて行くと、其処で数分念仏を唱えた。そしてわざとらしく呟いた。
「あそこに・・木守りの実がある・・。あれを取り除けば・・禍は封印される・・。」
神下はそれを見上げると、木に登り始めた。
ハァハァという息遣いと木のしなる音がする中、神下は身軽によじ登っていった。そして直ぐに、木守りの実の近くまで到達した。神下はポケットからビデオカメラを取り出し、上の枝にある柿の実を映した。
「これです・・。」その柿の実に手を伸ばす映像を撮ろうと、自分の手に焦点を合わせた。そしてもうすぐそれに触ろうとした瞬間、神下を支えていた枝がいきなり折れた。そしてそのビデオカメラは、あらぬ方向を激しく写しながら録画した。
枝ごと落ちた神下の小さな身体は、そのまま曲がりくねった枝の間をあちこちとぶつかりながら抜けて、地面目掛けて真っ逆さまに落下した。
けれども落ちていく途中、首に掛けていた数珠が大きな瘤となっている木の節に引っ掛かった。そしてその途端、「グエッ!」と吐き出す声と共に、その落下は急激に止まった。そして神下の身体は大きく揺れたかと思うと、そのまま柿の木に首から吊された。もうすぐ沈もうとする真っ赤な夕日が、項垂れたまま静かに揺れる神下だった身体を、赤く染めていた。
守が帰宅すると、その場は騒然としていた。いつか見た様にパトカーの赤い光が周りに踊り、其処に人々が集まっていた。遠くに車を停めた守は怪訝な眼でそれを見やると、小さく息を吐いて自宅へと向かった。
「この家の方でしょうか?」ふいに警察から呼び止められた。
「はい。」と守は頷いた。それから事の次第を告げられた。しかし守は特に驚きもせず、ただ聞いていた。
そして最後にこの人と面識は?と尋ねられたが、守は「いいえ。」と答え、静かに家の中に入っていった。
翌日の午後になって、小笠原の所にも警察はやって来た。藤木と安田と名乗る二人の刑事だった。事務所に居た小笠原と房子は何事かと驚き、その詳細を聞いて更に驚いた。
「何ですって!あの神下さんが首を吊ったですって?」小笠原はソファーの前のテーブルに手を着いて、刑事二人を交互に見た。
藤木は小笠原の動揺に驚く事無く、小笠原を見据えたまま静かに言葉を続けた。
「ええ。でも自殺では無く、単純な事故のようですがね。ただそのポケットに、あなたの名刺が入っていたものですから、参考までにお話を聞かせて頂こうと思いましてね。と言うのもですね。我々は何故彼があそこに行ったのか、それが疑問でしてね。もしや何か知っておられるのかと思い、こうして伺った次第です。」
小笠原はソファーに力無くもたれ掛かり、虚ろな目で房子を見た。房子も神妙な表情で刑事達を見ていた。そして小笠原は、事の顛末を彼等に話した。
「ああ、成る程。それなら合点が行きます。ご協力、有難う御座いました。では、我々はこれで。」
藤木は安田を促して席を立ち、一礼すると静かに玄関に向かった。だがその途中で、安田が小声で藤木に話し掛けた。
「でも先輩、あんなものって、本当に居るんですかね?」
「馬鹿っ!こんなとこで話すんじゃ無い!」その低い声で交わされた会話を、小笠原はその直ぐ真後ろで耳にした。
「あの・・。その、あんなものって、一体何なんです?」小笠原は出て行こうとする刑事を呼び止め、刑事達の前に回り込んだ。
「あんなものって仰いましたよね?それってどういう・・?」小笠原は狼狽えながらも、その眼は真剣だった。
「ああ、何でもありません。ただ彼はご丁寧にも亡くなるまで、自分の姿をビデオに写してましてね。その中にちょっとした、黒い煙のようなものが映っていただけなんですよ。」藤木は何でも無いと言うように手を振り、穏やかに答えた。しかし小笠原の眼は、大きく見開かれていた。
「黒い煙・・?その映像・・私にも見せて頂けませんか?」小笠原の言葉に、藤木は凛として答えた。
「それは無理です。警察で一旦保管し検証してから、ご遺族の元に届けますから。では、これで。」
刑事達が出て行った後、小笠原は玄関からフラフラと居間に戻りソファーに座ると、頭を抱えて突っ伏した。
「何で・・。」苦悶する小笠原に、房子は駆け寄った。
「あなた・・。」
「まだ終わっちゃいない・・。まだ、終わって無いと言う事なんだ・・。」
そんな事が起こっているとも知らず、孝一は現場で、いつものように仕事をしていた。警察が来ているのは事務員から聞いて孝一も知っていた。
けれども年の瀬が近づいたこの時期、毎年警察が空き巣の用心のために、この辺りの会社を訪問することも慣例のことだった。孝一はその訪問だと思い、特に気にもしなかったし、また関心も無かった。もっと本音を言えば、本来なら現場長である自分が出て行くべきだと分かってはいたけれども、そんな退屈な応対は社長に任せておけば良いと思い、その場はすっぽかして現場の業務に忙しいからと身を隠していたのだった。
(この時期に毎年毎年ご苦労なことだ。でもあんな風に注意喚起したところで、それで空き巣が無くなったなんて聞いた事が無いんだよな。注意して備えろって奴等は言うけど、いったいどう注意して、どう備えろってんだか。要は現実的に空き巣の身になって、どうしたらこの会社に忍び込めるか、それを想像して考えれば良いだけなんだよ。だからやたらにただそんな奴等を恐れて震えて待ってるだけじゃどうにもならないし、備えにもなりゃしない。俺がもし警察官だったら、怪しげな奴等は片っ端から職務質問でもして、無理矢理にでもその本性を暴いてやるのにな。)デスクに座ってそんな妄想をしている孝一に、ふと今同じ工場の中に居る守の姿が脳裏に浮かんだ。
孝一は席を立つと、遠くから守を見やった。
真面目に作業をしている守の姿は、とてもそんな恐ろしい魔物とは到底思われなかった。孝一は溜息を吐いて、一昨日パソコンの画面に驚いた事や昨日の除霊の事を思いだした。
(そうだな・・。あんな画像や昨日の除霊の事も、今から考えると本当に馬鹿馬鹿しい・・。親父が勝手に恐れている妄想に、こともあろうに俺ともあろう者が踊らされていたなんてな・・。ふぅ、情け無いことこの上無しだ・・。もう二度と俺は、あんな話しには乗らない・・。それにしても・・親父ももう歳で耄碌したのかなぁ・・。あんな奴に大騒ぎするなんて・・。だってあいつは今見たって、単純に仕事をこなしているだけの、やせっぽちの従業員に過ぎないじゃないか。そんなあいつが魔物だなんて、ちゃんちゃら可笑しい。これまでの親父の話や小川さんの事だって、それはただ単純に、偶然が重なっただけなのにな。)孝一は守を見ながらそう思った。そして大袈裟に騒いでいる父親が、何か悲しくも滑稽なピエロにも思えた。
けれどもそう思う孝一にしても自分から進んで、守をその事で問い質そうとは思わなかった。それは普通に考えてもやはりそうだが、しかし孝一の心の何処かにその父親と似た臆病な気持ちが、心の隙間にずっと燻っていたのもやはり事実だった。
三時休みになり孝一が女性工員達と下ネタの冗談話しで盛り上がっている所へ、新しい事務員が声を掛けた。
「あの、工場長。社長がお呼びです。」
「うん?ああ、分かった。直ぐに行くからと言っといてくれ。」孝一は女性工員達に向き直ると、肩を竦めて微笑んだ。呼び出しに応じて行けば、どうせ結木の様子はどうだとか聞かれるんだと思うと本当に嫌になった。けれども会社の職務上、言う事は聞かざるを得ない。傍に居た女性工員に下ネタの冗談を一つ飛ばして、孝一は事務所に向かった。
「工場長!顔が死んでるよ!」その女性工員が、笑いながら冗談声で孝一に呼びかけた。
孝一は咄嗟にその声に振り向くと、シャッターの直ぐ手前で両手を拡げて膝を折り、まるでピエロが観客のアンコールに応えるようににこやかに戯けて見せた。すると自動開閉式の遮熱幕がその動きを感知し、ザァッと一気に上へと開いた。暖かな日差しを浴びている明るい背景の中央に、逆光のために影となった黒い孝一の姿が、まるで写真のように映し出された。
一瞬の偶然が醸し出す、一枚の静止画のように・・。そしてそれを見ている女子工員達も皆同様に動かぬ影として、その静止画の中に映し出されていた。
時の本流から迷い出てしまった泡沫の澱みの中で、彼女たちの思考もまた速さを失って緩く停滞し、緩慢な渦に支配されていた。
時が、止まった・・。
しかしその静止画の中で一つだけ、小さく動いていた物があった。それは誰一人として気付く者があるはずの無い、微かな動きだった。その微かな動きとは、工場の高い天井から吊されていた一つの水銀灯だった。それはある瞬間からカリッと音を発した後、静かにゆっくりと回り始め、やがてその光をふっと消した。
しかし明るい光が射し込んでいる中、それには誰も気付かない。
水銀灯はそのままゆっくりとした円運動を続けた。そしてやがてついにねじの拘束から放たれた重い水銀灯は音も無く真っ直ぐに、線を引くように落下していった。
止まっていた静止画が動いた・・。
そう見えた次の瞬間、一滴の水滴のように見えた水銀灯は、ニッコリと微笑んでいる孝一の頭頂部に突き刺さる様に激突し、大きな音を立てて破裂した。そしてその刹那、破裂した水銀灯が撒き散らす無数の破片と飛び散る赤い血が煌めく光を伴って孝一を包み込み、喝采を浴びて派手な衣装ごと身を震わせ悦ぶ道化師の如く、その影を艶めかしい光で輝かせた。
しかしその恍惚として光輝く場面も束の間、孝一はまるで糸が切れた操り人形のようにガクッと力無く膝を付き、その場に崩れ落ちた。
「きゃああああっ!」
その光景を間近で見ていた女性工員達は皆夢から醒めたように、一様に悲鳴を発した。
工場は騒然となった。その知らせを受けて急いで駆けつけた小笠原夫妻はその光景に一瞬立ち止まり、大きく眼を見開いた。
「こっ、孝一・・孝一ぃっ!」小笠原は走り寄って、その身体を抱いた。
「誰かっ!きゅ、救急車だ!救急車を呼んでくれっ!」小笠原は辺りを見回して絶叫した。その傍らで房子は力無く座り込み、孝一を見つめたまま唇を震わせていた。
しかし両親の必死の願いもついに及ばず、孝一はそのまま死んだ。
その報を手術を執刀した医師から静かに聞かされた小笠原夫妻は、薄暗い病院のベンチで頭を垂れ、ただ失望と疲れの中、呆然と時を過ごしていた。
「房子・・。」小笠原は力無く妻に呼びかけた。
「俺達はもう・・終わりだ・・。何も、何もかももう・・残らないだろうな・・。」小笠原が空を仰ぐようにそう呟く隣で、房子は黙ったまま、険しく虚空を見つめていた。
翌日。孝一の葬儀を行う時間帯には、会社は親会社のトラックで溢れ返り、金型を引き上げる作業で混雑していた。
(もう、この会社は終わりだ・・。)そんな風評が親会社にも、そして働く従業員達にも囁かれていた。そして二件立て続きに起きた重大な労働災害に、警察と共に労働基準監督官も立ち入り調査に来ていた。
葬儀を終えた小笠原夫妻は、虚しくその帳簿や関係書類を言われるがまま書き込んでいた。虚脱感と現実。何が起こっているのかさえ、夢の中の様だった。そして全て手続きを終えた二人は喪服姿のまま、誰も居ない工場の前に佇んでいた。
夕暮れの冷たい初冬の風がシャッターを開け放されたままの工場を吹き抜け、其処はもう廃墟のようだった。それを呆然と見つめる小笠原の顔は蒼白で、生気が失われていた。そしてそんな風景を並んで見ている房子も、やはり蒼白なまま其処に立っていた。
「もう終わりだ・・。何もかもが・・。今はただこの命さえ、虚しく思えるよ・・。」そう呟き、小笠原は煙草を取り出し火を点け、虚ろな目でその煙の行方を追っていた。
「なぁ房子・・いっそのこと・・。」
小笠原はそう力無く呟き房子を見たが、その房子は険しい眼で、ぽっかりと開いた工場のシャッターをキッと睨んでいた。そして低い声で、誰にともなく呟いた。
「私は・・このままじゃ死ねない。死にきれない・・。」
そう言った後、房子の眼は益々険しくなった。そして突然、吠えるように叫んだ。
「だって孝一や私たちをこんな目に遭わせたあの化け物を、決して許すわけにはいかないから!」房子の眼はギラギラした憎悪に燃えていた。
「どうせ私たちも殺されるんでしょう?それだったら・・それだったら!あいつも、あの化け物も!道連れにしてやる!」房子は小笠原を睨んでそう言い放つと、一目散に車に駆けて行った。小笠原はその言葉で我に返ると遠ざかる房子に目をやり、思わず自分も走り出した。
小笠原の心の中に房子と同じ憎悪の火が燃え移り、そして激しい憎しみの炎が渦を巻き、胸を焼いた。そして房子がエンジンを掛けた車の助手席を勢いよく開けて、小笠原は叫んだ。
「房子!それなら俺も!俺も一緒に行く!」
これまでに体験した事が無いほど、二人の心はある目的に向かって同調していた。そして二人は途中ガソリンスタンドに立ち寄り、給油と見せ掛けて用意したポリタンクにガソリンを入れた。そして憎い仇の所へと向かった。二人の心の目的はただ一つ、憎い結木守を殺す事だけだった。
けれどもその途中で、助手席で静かに考えていた小笠原は復讐に眼の座ったまま運転する房子を見つめて、静かに声を掛けた。
「なぁ・・房子・・。やはりこういう事は慎重に、そして冷静に、確実に行うべきだと俺は思う・・。さもないと、しくじってしまう怖れがあるからだ・・。相手は魔物だ。だからもう一度家に帰って、じっくりと計画を練った方が良いと思う。
現実に考えれば、今行けば人目にも付くだろうし、奴だって気が付くかも知れない。そうなれば全てがお終いだ。だから俺が考えるに、奴やこの世が眠るまで、ここは待つべきだと俺は思う。時を待ち、そして逃げられないようにしてから、確実に奴を焼き殺すんだ・・。」その提案を聞いた房子は眼を座らせたまま、暫くは何の返答もせずに運転していた。しかしやがて前を見ながら、静かに頷いた。
「そうよね・・。確実に殺さないと、意味が無いものね・・。」房子はそう呟くと車を止めて、小笠原をじっと見つめた。そして二人は自宅に戻り、守を殺すための計画を真剣に練った。
「奴が完全に寝入った時間を見計らって、奴の家の周りにたっぷりとガソリンを撒くんだ。そして一気に火柱を上げる。古い木造のあの貸家だ。あっという間に炎上するだろうよ。そして奴はその炎の中で、あの柿の木と共に逃げ場を失い、苦しみ悶えて、そして確実に焼け死ぬんだ・・。」血走った眼で、小笠原は房子に計画を提案した。それを聞いた房子も、眼を座らせて小さく頷いた。
その深夜。二人は敷地の外に車を停め、その車内から守が住んでいる貸家を見つめた。
その家の明かりが消えているのを確認した二人は、車のドアを静かに閉めると、まるで忍者の様に背を屈めて、忍び足でゆっくりとその家に向かって歩いて行った。そして守の家まで二十メートル程の所まで近寄ると、小笠原は立ち止まり、ポリタンクの蓋を静かに開けた。
(待ってろよ・・。今直ぐ、その息の根を止めてやるから・・。)そう決意して小笠原はポリタンクを持ち上げた。そして家を見据えて近づこうとしたその時、ふいに後ろから声を掛けられた。
「何か・・僕にご用でしょうか?」その聞き慣れた声に二人はビクッとして肩を竦め、後ろを怖々と振りむいた。
遠くの街灯の光にうっすらと見えたのは、コンビニの袋を手に持ち、じっと二人を見つめている守だった。
愕然として動きを止めた小笠原は、驚いた拍子に、持っていたポリタンクを力無く落としてしまった。すると横倒しになったポリタンクからドボドボと溢れ出たガソリンは、小笠原の靴を濡らし、辺りに鼻を突くガソリン臭を充満させた。
「あ・・あ・・。」二人は立ち竦んだ。今正に殺そうとしていた魔物が、目の前に居る・・。暫し余りの驚きに呆然とした小笠原だったが、冷めた守の顔を見ているうちに、徐々にその憎しみが心に蘇ってきた。そして憎悪に燃えた眼で、目の前に居る守をきつく睨んだ。
「お、俺は・・俺はお前の事を・・。」意を決したように、小笠原はよろよろと守に近づいた。
「けっ・・決して許さない!絶対にだっ!こ・・こんな仕打ちを受けて、黙ってい・・いられるかっ!」小笠原は頬と唇を震わせて息を詰まらせながらも、守に怒鳴った。
「何の事だか、僕には分かりませんが・・。」そんな異常なほど昂ぶった小笠原の剣幕にも、守は冷めた眼で動じること無く、小笠原を見据えていた。
小笠原はそんな冷静な守の態度に、ますます激昂した。
「わ、分からないだと!ふ、ふざけるな!こ、孝一をあんなに無惨に殺したくせに!それと小川さんと神下さんもだ!一体何の怨みで、そんな事をするんだっ!」小笠原は牙を剥いた獣のように、殺気を漲らせて守を睨んだ。
守はそんな小笠原の叫びをじっと静かに聞いていたが、ふっと肩の力を抜いて小さく溜息を吐いた。そして小笠原に向き直ると、淡々とした口調で話し始めた。
「あなた方の身に起こった突然の不幸に対して、あなた方がやり場の無い悲しみや怒りを感じている気持ちは僕にも分かります。けれども、やはり少しは落ち着かれたほうが良いと思います。
そんな、僕が人を殺しただなんて、そんな訳の分からない、あなたが勝手に作り上げた妄想のような怒りを僕に向けられても、僕には迷惑だし、そしてとても不愉快です。何を根拠にそんなことを言われるのか、僕にはさっぱり分かりません。それに会社が無くなってしまった今、もう僕はあなた方とは何の縁も無い関係なんですから。」そう理路整然と冷静に話した守の言葉にも、小笠原は耳を貸さなかった。
「妄想だと?ふん、しらばっくれても、とっくに調べは付いてるんだ・・。
それに、お前は俺に口下手で対人恐怖症だとか言っていたが、随分と流暢に話せるじゃないか。それが先ず俺達を騙す手段だったんだな。
俺達は随分とお前には気を使ってやった。孝一や小川さんにしてもだ。それなのにお前は周りに心を開かないで、俺達を騙していたんだろうに!お前はわざとそんな風に自分を隠して、人を不幸にする機会を窺っていたんだろうがっ!そしてそんなお前はその柿の実で、一体何人殺して来たんだ?しかも何の罪も無い人達をだ!お前のような魔物には、そんな情も無いのか!何のためにそんな事をするんだっ!それが楽しいのかっ!」守を睨む小笠原の眼は座り、その拳はぶるぶると震えていた。
守は静かにそんな小笠原を見つめていたが、徐々にその眼は険しさを増した。
「僕はただ、面倒で退屈な世間との関わりを持ちたく無かっただけです。以前にも話したように、僕は自分の生活のために、ただ黙って真面目に仕事がしたかった。それだけの事です。
でも妄想に狂った今のあなた方には、いくら話してみても分かってはもらえないでしょうね。そしてあなた方はその妄想の狂気に取り憑かれて、やり場の無い怒りの拳を堕とすために僕を選んで、そして殺しに来たんですね。持ってきたそのガソリンで、この家もろとも僕を焼き殺そうと・・。」守は小笠原と房子を交互に睨み据えた。
「でも・・それはもう無理なことです。此処で僕自身がそれを目撃していますからね。だからあなた方は、もう帰った方が良い。冷静になって頭を冷やして、よく考え直して頂きたく思います。
今夜はこれまでのご恩に報いて黙って目をつむりますが、あなた方が僕の言う事を聞かずに帰らなかったり、また再びこんな事をした時には直ぐに警察に通報します。そうなればあなた方二人は、放火と殺人未遂の罪に問われることとなります。それでも良いんですか?」毅然とした守の言葉に小笠原は言葉を失い、房子と目を合わせた。そしてその後、力無く項垂れた。渦を巻いて混乱した頭の中、小笠原は張り詰めた気持ちを抑えつつ考えていた。
(確かに・・それもそうか・・それは正にこいつが言うとおりだ。そしてこいつが言うようにこんな事は、俺が勝手に作り上げた妄想だったのか?)小笠原はこれまでの場面場面を思い出していた。
(そう・・そうかも知れない・・。そして今こいつが言った事は、至極もっともなことにも聞こえる・・。そう・・確かによく考えてみれば、こいつが殺したという根拠は、どこにも無いんだからな・・。)そう思った小笠原はふっと息を吐いて、守を冷静に見つめた。そんな小笠原の表情を感じ取ってか、守もまた表情を緩めた。
けれどもそんな守が次に言った言葉には、小笠原と房子は怪訝な表情で眉をしかめた。
「それに今、あなた方が火を放とうとしたあの柿の木ですが、あれは実は、僕の掛け替えの無い可愛い妻なんです。ですから僕は彼女を絶対に守らなければならないし、またそんな妻の頼み事であれば、僕はどんな事でもやるでしょう。」そんな唐突で途方も無い守の言葉に小笠原は驚き、そして柿の木という言葉に、さっきまでの憎悪が蒸し返された。
「なんだって?あの柿の木が妻だと?あんな節くれ立った不気味な柿の木が、お前の可愛い妻だと言うのか?
ふん・・やはりお前はどうかしている。そんな馬鹿な話しが、何処の世界にあるって言うんだ。たった今ごもっともな話をしたお前だが、そんな話が世間に通用するとでも思っているのか?もし本気でそう思っているとしたら、お前はやっぱり狂っているとしか言いようが無い。そんなお前の言葉を、一瞬でも信じた俺が馬鹿だった。それにこの一連の不幸は、到底偶然とは思われないからな。」小笠原の眼に激しい憎悪が蘇った。
「そうか、これで分かった・・。
お前はそんな自分勝手な思い込みで、あの柿の木の邪悪な力を使って、自分に邪魔だと思う人間を無情で残酷な手段を使ってこれまで殺してきたんだな。
そして今度は、その禍の眼を俺達に向けた。今度の獲物は俺達だというわけだ。そしてその血に飢えた眼で、たまたま俺達を見据えたってことだ。用心深く、静かに俺達に近付きながらな・・。
そうなんだろ?そうだろうがっ!でなけりゃ、こんなに不幸が続く訳が無い。そう分かったからには、お前にそう簡単に殺されてたまるか!死なばもろともだ!俺と一緒に、お前も道連れだ!」そう叫ぶと同時に小笠原は地を蹴り、手を伸ばして守に掴み掛かろうとした。だが咄嗟に体を捻った守に、容易く避けられてしまった。そしてその拍子に足が縺れた小笠原はつんのめって、ガソリンの溜まっていた所に顔から倒れ込んだ。その途端、むせ返る臭気と味が、口から入って鼻に抜けた。その息苦しさに跳ね上がった小笠原は、膝を付いたまま息さえままならない程咳き込み、苦しそうに顔をしかめた。
房子はそんな小笠原の背を懸命に撫でていた。そして守を怨めしそうに睨んだ。だが守の表情は冷たいまま動かなかった。
「あなた方がどう思おうと、これは思い込みでは無く、彼女は歴とした僕の妻です。」二人を冷たく見下しながら守はそう言うと、踵を返して家へと向かって歩き出した。そして守が家に入って行くのを、二人は呆然と見つめていた。
残された静寂の中、小笠原は我に返ると、力無く房子の肩に手を掛けた。
「房子・・。今夜の俺達の計画は失敗してしまった・・。まさかこんな事になるなんて、俺は想像出来なかった・・。また計画を練って出直すしかない・・。だから今夜はもう帰ろう・・。疲れた・・。」泥だらけになりすっかり心が萎えてしまった小笠原は、力無く房子に訴えた。しかし房子は、その家をじっと睨んだまま動かなかった。
「おい房子、聞いてるのか?」
その小笠原の言葉に、房子は家を睨んでいた眼を、ゆっくりと小笠原に向けた。
「あなたは・・いつだってそう・・。少し躓くと、すぐに心が折れて、何もかも後回しにしてしまうのね・・。でも私たちには、後回しに出来る余裕なんか、もう無いのよ。そう・・明日なんて、もう無いの・・。今この暗闇が、私たちに残された最期の機会だと、そんな気がする・・。」そう呟く房子の眼に、憎悪の炎が更に燃え上がった。
「そう・・あいつは今、こんなにも無力な私たちのことを、きっと嘲笑っているのよ。お前達がどうやったって、俺に勝てるもんかとね・・。
だから、今が大事なの。あいつが驕り高ぶって気が緩んでいる今、それが私たちに残された、最期の機会なのよ。今頃あいつは、きっと私たちを馬鹿にしてほくそ笑んでる。そしてどうやって私たちを殺してやろうかと、その計画を練っているのよ。これまで殺して来た人達を思い浮かべて、悦に入りながらね。そう・・あの不気味な柿の木と相談しながら、孝一を殺したときと同じように・・。」
房子は憎しみに燃えた眼でまた家を睨んだ。小笠原もそんな房子の話を聞いて、眼に力が蘇った。
「孝一を・・。そうだ!あの・・あの化け物が殺したんだ!お・・おのれ!」小笠原は目を据えてきつく柿の木を睨んだ。そして倒れているポリタンクを立て、それを杖代わりにヨロヨロと立ち上がった。
(あいつと、あの柿の木を焼き殺す!)小笠原の心にまた、憎悪の声がこだました。そしてポケットに入れてあるオイルライターを取り出して、それを握りしめた。
「房子、み・・見てろよ!」
すでに半分ほどに減ったポリタンクを片手に、小笠原はその足を一歩前に進めた。けれども歩き出そうとした小笠原の身体が突然ビクッと震え、
「お・・あ・・。」と、小さな叫びを発した。その異変に気付いた房子は、小笠原の顔を見上げた。
「あなた!どうしたのっ!」
「あ・・足が・・。」極度の緊張と冷気からか、突然右足の太股と脹ら脛が同時に激しくつった。
「いっ痛い!」思わず足に手をやり尻餅を付いたその弾みで、右手に持っていたオイルライターは高く宙に放り投だされた。
そしてクルクルと舞う銀色のオイルライターはやがて落下して、石にカチンッと金属音を響かせた。
その音を合図に、二人の刻が止まった・・。そして音が鳴った所に、二人は同時に眼をやった。その瞬間から、二人に見えるその映像はスローモーションとなり、より鮮明に映し出された。
まず最初に、石に跳ね上がったライターの蓋が開いているのが見えた。そしてそのままゆっくりと回転しながら、空中で静止していた。
二人の眼は、それに釘付けになった。どうしてだか分からない。全てが静止している世界の中で、微かに光るそれだけが、キラキラと躍動していた。
再び落下を始めたライターは、ゆっくりと回り続けながら、地面に近づいて行った。そして小さな石にぶつかったかと思うと、微かな音を鳴らして、細かな火花を発した。
その瞬間、ボンッと響く衝撃波が辺りの空気を引き裂いた。そしてその直後、二人を激しい炎が包んだ。
瞬く間の出来事だった。
その炎は火達磨になった二人の身体を包み込んで、夜空を焦がして炎上した。そして横になったポリタンクに引火爆発し、更に大きな火柱を立てた。その激しく燃え盛る炎の中で、房子はただじっと、その家を見据えていた。しかし、やがてその影も崩れ落ちた。
そして彼等を焼いてメラメラと激しく立ち上る紅蓮の炎は、暗闇に立つ柿の木の影を、まるで生き物のように、辺りに踊らせていた。
近所の通報で、直ぐにパトカーと消防車と救急車が到着し、その炎は消された。けれども小笠原夫妻の体は焼け焦げていて、すでにその命は無かった。
その深夜から翌朝まで細かく実況見分していた警察であったが、最終的には、これは焼身自殺に依る心中だと判断した。けれども、何故此処なのかと言う疑問は釈然としなかった。同じ敷地内での立て続けの死に、警察は眉をひそめた。
しかし事件そのものには何の疑問も無かった。そしてその現場には、藤木と安田の両刑事も居た。安田は藤木に向かって訴えた。
「先輩、いくら目撃者がいたからって、やっぱりこれはおかしいですよ。同じ場所で、立て続けに人が三人も死ぬなんて・・。何かあると思うのが普通でしょう?それにこの二人は、あいつを恐れていたように俺は思うんです。そして奴の受け答えが、妙に冷静だったのも気になるし・・。だからもう一度奴に会って、厳しく詰問してみた方が良いんじゃないですか?きっと奴は何か隠してますよ。」そう熱く主張する安田に対して、藤木はその眼を冷たく、じっと見据えて言った。
「なぁ安田。捜査の基本とは、一体何から始まると思っている?」
「え?操作の基本ですか?それは・・先ず状況判断をして、物的証拠や目撃者を探し、事件に関連する人物の動機を潰していく事かと・・。」
「そう、その通りだ。じゃあ奴に、そのどれが当てはまる?何も無いだろうが。逆に奴は今その就労先を失って、途方に暮れているところだ。それにその状況を目撃していた近所の人の話によれば、なにか口論をしてはいたが、その途中で奴はプイと家に入り、それから暫くしてから二人は自ら焼身自殺したとはっきりと証言している。これほど明確な目撃証言なんて、そうそうお目に掛かれるもんじゃ無い。もし双方になにかトラブルがあって口喧嘩していたとしても、そんな事は日常茶飯事で、何処にでも転がってる話しだ。そしてお前はどうしてもこれを殺人事件にしたいらしいが、それは到底無理な話だ。なにせ目撃証言と物的証拠が、はっきりとそれを物語っているからな。
そしてな、安田。こうした不可思議な事件てのは結構頻繁に、至る所で起きているものなんだよ。やがてそれは世間の噂となって、更に尾ひれが付いて語り続けられるだろうが、我々には関係の無い事だ。そんな変な事に下手に関わり合うと、お前にもそのとばっちりが来るかも知れない。よく聴くだろうが、触らぬ神に祟りなしだってな。
この状況がお前にはまだよく分かっていないようだから繰り返して言うが、この世にはこんな、とても人智では計り得ない事件がごまんとあるもんなんだ。だから悪いことは言わないから、この事件に無駄に関わり合うのは止めとけ。此処の空気に染まる前にな。今俺が言えるのはそれだけだ。さぁ行くぞ。」藤木に促されてその場を離れようとした安田だったが、ふいにその家を振り返った。
安田にはその家が、自分をじっと見つめているように感じた。深く静かに、まるで自分を射貫くように・・。
その夜、その情報をネットのオカルトサイトで見た西田は、目を見開いて怖気立った。小笠原家の三人と、そして自分が紹介した神下が相次いで死んでいる。しかもその死に方が尋常では無かった。
それを知った西田は、自分が途轍も無く恐ろしい何者かと関わりを持った事を、恐怖と共に直感した。西田は慌ててそのサイトを閉じ、あの映像を仕舞ってあるファイルを消去した。そしてスマホを取り出してその映像も消去し、ほっと息を吐き肩を落とした。
(大丈夫だ・・。俺は遠くに居て、まだ気付かれちゃいない。あの恐ろしい柿の実も、まだ食っちゃいないんだしな・・。)落ち着こうと煙草を吹かし、一息ついてからパソコンをシャットダウンした。そしてその画面が消えるまでモニターを見ていた。
しかしその画面が真っ黒になった時、ふとその端に目をやった西田は、それを見つけた瞬間怖気が血を凍らせて、全身に鳥肌が立った。
何故なら黒いモニターの背後、自分の顔が映ったその右側の隅に、異様なものが映っていたからだ。そこには渦巻く黒い煙に包まれた赤い眼が光り、じっと自分を睨んでいた。
モニターから目が離せなかった。と言うより、後ろを振り向くのが怖かった。すぐにでも逃げ出したかったけれども、足が竦んで動けない。そして何故だか目が離せないそれは、ゆっくりと近づいてきて、やがて自分の肩に顔を乗せるように映った。
身体が小刻みに震えた。険しい赤い眼が、大きく渦を巻く黒い煙を纏って、モニターの中でじっと自分を睨んでいる。
「お、俺は・・誰にも言わない・・。そして・・全部消去したんだ・・。だ、だから・・。」
頬になにかが触れた。
その瞬間、ビクッと震えた首筋から背中へと、冷や汗が一筋伝った。
西田は震えながらも、ゆっくりと後ろを振り向いた。そして間近に赤い眼と目が合った。瞬間、西田は何かを叫ぼうとして大きく口を開いた。しかしその途端、その口の中に何かが放り込まれ、強く下顎を叩かれた。
「ゴクン・・。」と何かを飲み込んだ音の後、口の中に異様な味を感じた。腐りきった物の臭いが鼻を抜け、その味が口中に広がった。吐き気を催して口を開こうとしたが、どうしても開けられない。
悶え苦しみ涙で潤んだ世界に、赤い目が滲んで光っていた。そしてそれも、徐々に暗くなっていった。
西田は椅子から転がり落ち倒れ込んで、そしてそのまま、目を見開いた状態で死んだ。そしてぽっかりと開いたその口からは、赤い汁が滴り落ちていた。
初冬の北風が、厨房の換気扇をカタカタと鳴らしていた。そして何処から飛来したのか、部屋の隅に枯れた柿の葉が一枚、微かに揺れていた。
了