アウルベア
旧礼拝堂のドアが開いた。常よりも急いて飛び込んできたカイルに便乗して、雨粒を含んだ強風が侵入してくる。
真横に煽られた豪雨がステンドグラスを叩いている。
カイルはふっと息を落とすと、濡れた上着を脱いだ。いつものように右列最前列の信徒席へ向かい、彼女の傍に立った。
アズティスは深く眠っている。
カイルの黒髪から水滴が滴って、彼女の制服を濡らした。
気温が上がり、降水量も極端に跳ね上がる季節。アズティスが最も苦手とする夏季に入ったのは、暦で言えばひと月前になる。
暑くて息苦しいから身軽になりたいという彼女の意思とは裏腹に、今も彼女は真っ黒なワンピースに着られている。上着を脱げば白いシャツで済ませられる男子生徒と違い、女子生徒は肩まで覆う真っ黒ワンピースから逃れられない。薄い生地の夏服に替えても、変わらずの黒色は大変に不評だ。
カイルはアズティスに手を伸ばす。
「アズ、」
そこで、少し考えた。
彼女の前髪を避けて、晒された額に手の甲を当てる。伝わる温度はいつもと同じ。呼吸も荒くはない。今日も異常は見当たらない。
――至って健康体だ。
許可なき接触を見咎めた数匹の妖精が、カイルの髪を引っ張る。彼らを無視して、彼女の肩に手をかけた。
「アズティス」
軽く揺すった。信徒席で眠りこける非常識を起こすにしても、暴力的手段をとれないのが彼である。
「起きろ。遠方任務のお達しだ」
「……やー」
「駄々をこねるな」
「むりー……」
非常識が何か言っている。カイルがそのまま根気強く声をかけ続ければ、彼女は呻きながら体を起こしてくれた。
「……君、ほんと……白いの似合わないな……」
「常日頃から似合わない黒を着ているお前に言われたくない」
カイルは失礼な売り言葉にささやかな買い言葉を返し、遠方任務の詳細が書かれた紙を取り出した。蝋塗の封筒に入れていたので、紙は幸いにも無事である。
彼女は渡されたそれを寝ぼけ眼で眺めて、「んん?」と納得していない声を出す。
「二位の名前があるけど、気のせいかな」
「概要より先に人名を見る癖はどうにかならないのか」
ここだと指で示された文章に、アズティスは不満を漏らした。黒インクの文章中で、わざわざ赤インクに替えて強調されている一文があった。
「嘘だ……もうそんな時期だっけ」
「俺達も去年はこの時期だった」
「さすがにこれは予想外だ。……あれ、一年って何年だっけ?」
「一年だな」
「そか」
「俺は明日の早朝に出立するが、お前は二日後の後発だ。寝ていても起こしてやれない。くれぐれも、くれぐれも、他に迷惑をかけるな」
「んー」
気乗りのしない返事である。
アズティスはふとカイルを見て、彼の髪を見て、服を見て、自分の鞄からタオルを取り出した。
「ここ、座って」
「……席が濡れる」
「じゃ、そこに立ってて」
アズティスはブーツを履くと、カイルの前に立った。えい、と謎の気合を入れて腕を伸ばし、彼の頭にタオルを被せた。その上から両手を置いて、水気を優しく拭っていく。
「お前にこういうことをされると、おかしな気分だな」
「公爵家に行って長いだろ。自分がお世話されるのまだ慣れないのか?」
「それは流石に、慣れはしたが……」
アズティスは言葉に詰まった彼と目を合わせた。大きめのタオルの下から覗く赤い瞳が感情を伝えてくれる。おそらくアズティスにしか伝わらないそれは、困惑だった。
タオルを取り去ってしまえば、もうやることがない。ここを出るにしても外には豪雨が降り注いでいて、一切の人間を家屋から出すまいとしている。
アズティスは仕方なく、暇つぶしに、お祈りをすることにした。
横殴りの雨の直撃を受けているステンドグラス。その真正面に膝をついて、胸の前に両手を組む。そしてぼそりと呟いた。
「――――。」
どうせろくでもないお願いごとなのだろう。
カイルはその背を見守るばかり。雨が上がったのは、それから一時間後のことだった。
伝えられた任務の様子が変わったのは、二日後早朝のことである。
アズティスたちは校門前で引率の教官を待っていた。しかし彼らのもとにやってきたのは教官ではなく、手紙を咥えた一羽の烏だった。手紙を受け取ったアズティスは、内容をまじまじと見つめた。そして「嘘だ」と焦りを露わにする彼女――本任務の二班班長の様子に、班員二名は少なからず驚いた。
「アズ様、何か」
「今日の任務……教官来ないって……」
眼鏡で大人しい印象の女生徒は事態を把握して黙り込んだ。この場でたった一人の下級生、二位も不安げな表情である。
「やっぱり、教官がいないとまずいですか?」
「まずい。……んー、まあいっか。行こう。任務は続行だし、鉄道は待ってくれない」
学園から隣町の駅までは馬車移動だが、その先は文明の利器を使用する。
アズティスが生まれる前に開発されたという鉄道列車は、魔術研究所最大の発明品と言われている。動力源の核に複数の魔力が使われていて、その魔力の接触で生じる拒絶反応がどうという複雑な構造であるらしい。
研究所の発明品は、その子飼いである学園生にも融通がきく。
駅員に証明書を見せるだけで通された上等の客室で、「上等客室って入ったことないです……」と肩身狭そうにしているのは二位だけだ。眼鏡の女生徒は窓の外をぼうっと眺め、アズティスは昨日カイルに渡された任務詳細を眺めていた。
「ほんと、宿くらいとっといてほしいな。まったく」
鉄道の使用は無料でも、その先はそうではない。任務地ははっきりしているのだから、伝書烏でも飛ばして宿の予約くらいできないものだろうか。
「犠牲者欄は各々読んだと思う。おさらいすると、調査依頼は村長さんからだ。村唯一の宿屋も経営してる」
「じゃあお話ついでに、そこでお泊りをお願いするんですね」
二位の質問に「んー……、できたらな」と歯切れが悪いアズティスである。
「できれば、村に着いたら私を先輩と呼ばないでほしいんだよ。他の人と同じように呼んでほしい」
「え、じゃあなんて呼びましょうか?」
「えっと……、君、私のことなんて呼んでたっけ」
急に訊ねられた眼鏡の女生徒は、小さな声で「アズ様」と囁いた。
「だそうだ」
「……班長とかじゃダメですか?」
「いいよ。それと、その子のことも先輩って呼ばないよーに」
「はい」
「ん。……で、今回の任務。はっきり言って私達は脇役だ。ここにも書いてあるけど、私たちの任務の目的は二位だと言ってもいいね」
アズティスは赤文字の文章に目を留めた。
――『翌年の進級が見込まれる下級生の実地見学』。
「二級生上位者を見学させるのは、毎年やってる。私、カイル、マリアベルは去年のこの時期に、先輩の一級生に同行した。そう難しくない任務だから、気軽にやればいい」
最後だけは二位に向けた言葉だ。
「この任務の主力班は先に行った一班だね。あっちはあっちで、より遠方の討伐任務に就いた後で下ってくる。ここは下級生の受け入れがない。元々教官もついていないみたいだけど、つまりその程度の任務だったんだろ」
アズティスは「連続任務お疲れさまだね」と他人事を語った。
「私たちは彼らの援護だ。宿を人数分とってやったり、戦闘は後方支援だったり、まあそういう雑用係かな。……ん?」
ふと眩しい光が目にちらついて、アズティスが窓を見た。
「ノートリア・カシャッサ塩湖?」
鏡のようになだらかで広大な、円形の湖だ。小高いところを走る鉄道の窓からは、あの有名な湖と、それを取り囲む白い建物の様子が小さく見えた。
夏には乾いて水がなくなるはずだが、昨日の大雨で水が溜まったらしい。
「わー……っ!」
二位は今までにないほど目を輝かせて、湖を眺める。
そういえばあの塩湖にも宗教的な所以があったなと、アズティスは思い出した。
五人の英雄によって地に封印された創造神が泣き続け、流された涙が地上に溢れ、塩湖となったという神話。水が溜まった状態でも水深は五センチ程度で、生き物が棲める環境ではなく、かつては創造神の恨みが溶け出した『死海』と呼ばれていたという。
窓を見つめたまま、二位が尋ねる。
「世界が一度終わってるって、本当だと思いますか?」
あの塩湖の由来を考えれば、唐突な問いではなかった。
「聖堂育ちの君にそれを聞かれると、なかなか威圧的だね」
「……知ってたんですか? 隠してないから、いつかは知られるとは思ってましたけど」
世界的に有名な神話がある。
人類が発展し、様々な生態に害を及ぼすのを厭った創造神がお怒りになり、人の天敵となる魔物を生んだ。各地で大噴火と大洪水に見舞われ、天災は頻発し、世界は一度滅びかけた。
その世界の破滅を、五人の大賢者が抑えた。
五人はさらに人柱となって、今も世界を動かす動力源となっている。
彼らは自らの魔力が尽きる前に、生贄を定める。
己の出身国から数百年に一度。
その生贄の魔力を糧として、今も世界を見守り動かし続けているのだ。
アズティスはおもしろそうに目を細め、
「古代神話はよくわかんないけど、おもしろいとは思うよ。今よりずっと進んだ魔術があるかもしれないって考えるし。少なくとも精霊たちはいると思う」
「え、意外ですね」
「だって存在してくれないと、自分の人生について文句を言う相手もいないし。どーにもならない怒りの矛先って、あった方が気楽だよ」
「……案外、宗教ってそういう風にできたのかもしれませんね」
根源的には救いを求めているところは同じだと、宗教人は頷いた。
罰当たりな意見を微妙に肯定してくれる二位。そんな後輩を、アズティスは気に入りかけている。