契約と友人
チーク材のダークブラウンと壁の白で纏められた高級そうな一室に、その二人はいた。男子生徒一人は己のベッドに、カイルは己のデスクで黙々と魔術に浸っている。
ベッドに俯せている男子生徒が、もごもごと口を動かした。
「あー……ニホンに行きたい」
くぐもって届いた声に、カイルは「架空の世界に憧れるのも良いが、現実を見たらどうだ」と冷たく対応した。そうして、びっ、と手にある紙を破り始めた。新しく描いた魔法陣が気に入らなかった。三十分ほど前から試行錯誤を繰り返している。
と、ベッドの生徒にまた話しかけられた。
「俺、もう嫌ですこんな世界……」
世の無常を嘆いている彼は、カイルのルームメイトだ。
灰色髪で活発な印象の二級生リト・ウォード。
「魔物なんているし」「精霊なんてわけのわからないものに管理されてる生活なんて」「ああ素晴らしき民主主義」――ぐすぐす、めそめそ。
「王制だの貴族だのなんてもう古いと思うんです……」
「俺の前でよく言えたな」
「カイルは気にしないでしょう、そういうの。いいじゃないですか妄想くらいしたって。いっそ暴走する馬車の前に飛び込んでみようかなー! ボサツに会って生まれ変わるんだ!」
「ノアイユ家の馬車にだけはやめてほしい」
そんな調子だから一級生への昇級試験に落ちたのだと言ってやりたいカイルである。リトはカイルの同期だった。無断欠席を繰り返していたために、同級生ではなくなってしまったが。
「……本当に、身分とか……なくなってくれませんかねー……」
けれどリトは、たしかに勉学に励みにくい立場ではある。
親世代に起きた身分違いの悲恋劇から、反貴族――改革派の声が高くなっている。彼の家は改革派のトップと言える。貴族が少なくないこの学園に居辛い気持ちも、わからなくはない。
「ところでさっきから手が止まりませんねぇ。それそんなに面白いですか?」
「それなりに」
「へー」
ルームメイトはのっそり立ち上がって、カイルのデスクに寄っていく。手元を覗き込んで、
「……あれー……?」
首を傾げた。カイルの契約魔術は、一級生の一位曰く「ちょっと頭がおかしいくらいに緻密すぎて、天才の私でもよくわかんないから気にすることない」らしい。
十センチメルトル四方の真っ白な紙が灰色に見えるほど濃い、直線と曲線の重なり。上手い魔法陣は線の一つ一つに引力がある。見ているだけで自分がそこに溶け込んでいってしまいそうな、左右非対称で計算し尽くされた、優美の紋。それが何枚もの紙に、それぞれ違う柄で試し描きされている。
「これ全部、契約魔術の紋ですよね。召喚ではないような」
「そうだな」
「こんなに頑張って魔法陣を考えて、あなたはいったい何を使役したいんですか?」
「何、とは」
「『誰を』と言った方が正しいですねぇ。ずいぶん前から熱心に研究しているじゃないですか」
リトは、カイルが狙っているものを知っているらしい。
入学以来のルームメイトだ、どこかで勘付いていてもおかしくはなかった。
だからカイルも動揺はせず、言われるがまま。
「人間と人間の契約なんて、ろくなものじゃないですよねぇ?」
確実に『標的』を察している。
けれどカイルの表情は変わらず、やはり言われるがまま。
「禁忌ですよねぇ? 忌むべき行いですよねぇ? 悪魔の所業とも言えるものですのに」
契約魔術で人間を縛るのはほぼ不可能だ。けれど万が一にと、魔術研究会から罰を定められている。そんな倫理に悖る契約魔術を行使すれば、どんなに優れた魔術師であろうと、その資格を永久に剥奪するとまで言われていた。
「契約魔術に精通するあなたが、そのタブーを知らないはずないでしょう。あなたを見ていれば対象は誰だか簡単に予想できますが、相手が女性なら、通常の方法ではいけませんか?」
「通常の方法……」
人間の魔力が多く含まれるのは性と命にまつわる部位と体液――女性の場合は髪、子宮、涙、血――であるというのは常識だ。最古の契約方法と言われる契約は、すなわち性行為である。
「ほらあの人、傍から見てもあなたを贔屓してますよ。頼み込んでみれば一発では?」
「その手では不都合なものでな」
「贔屓されていること自体は否定しないんですね」
「かつては結婚の約束までした仲だ」
一瞬の沈黙、
「ま、まあ、それ以上は聞きませんよ。というか聞かなかったことにしてあげますね。万が一にも億が一にも京が一にも巻き込まないでくれればそれでいいんで、はい」
俺にはマリアベル様のお世話という大役がありますし。リトがそう言うと、カイルは「またそれか」と呆れた。改革派の家柄であるリトは、マリアベル信者である。悲劇の庶民の女から産み落とされた平和の象徴がマリアベルだ、というのが理由だ。
マリアベル信者で二級生でカイルのルームメイトで数少ない友人であるリトは、
「ねえカイル」
「なんだ」
「せめて犯罪者にだけは、ならないでくださいね」
穏やかに微笑んで、ベッドに戻っていった。
この学園には派閥がある。改革派か保守派かという問題もあるけれど、それより身近なのは一級生二大美女だ。マリアベル派か、アズティス派か。
誰が見てもマリアベル派の生徒――二級生の一位でカイルのルームメイトであるリトは、噴水広場のベンチにいた。手帳を見ながら難しい顔をする。
(学園の四割がマリアベル派、一割がアズティス派、五割は中立と。アズティス派はひっそりと彼女を見守るだけ、ですか)
こんな手間のかかる調査結果を出したのは、彼自身であった。
長閑な昼休憩時、複数の生徒が二、三人で楽しそうに、あるいは気怠そうに連れ合い、そこらで昼食をとっている。リトも空腹を思い出して、学園の購買部で購入したパニーニの袋を開けてかぶりつく。するとほどなく、学舎の方から穏やかではない集団がやってきた。生徒会役員や有力貴族が目立つが、その中に囲まれるようにしてマリアベルもいる。皆が険しい顔をしていた。
(……聖女様?)
リトは食事の手を止めて、その集団を眺めた。
彼等は噴水に寄っていき、その水面を覗き込む。そう間も空けずに噴水の中に何かを見つけたマリアベルは、それを掬い上げた。
「――、」
そしてその場に膝を着いた。俯いて、両手で拾い上げたそれを、放心したように眺めている。
「……――?」
「噴――、――。見た には、 」
彼女の周囲の者たちが、心配そうに声をかけている。リトの場所からではよく聞こえないが、残念だがとか申し訳ないとか、そういう種類の言葉を使っているように見えた。
リトも行こうかと思った。パニーニは食べかけだけれど、崩さないように紙袋に戻して、手帳も鞄にしまい込む。そして一歩踏み出し、
「 いやぁあああああッ! 」
女の高い悲鳴と共に、視界がぐるりと回った。
数秒かけて、リトは自分が倒れていることに気が付いた。右耳が地面に着いている。起き上がろうとした。けれどだめだった。
(……重い?)
そう、これは重さだ。上に何か途方もないものが乗っている。だから自分の身体はこんなにも動けないのだ。
噴水広場の人間は、座り込むマリアベルとリト以外が失神しているようだ。こんな惨事が繰り広げられているというのに、周囲の木々の葉はそよそよ微風に揺れているだけだった。
やがて学舎から、教官たちがよろめきながら出てくる。
「――!?」
何事ですか、と言っているのだろうか。リトの耳は麻痺し始めているのか、音がほとんどわからなかった。それでも教官たちがこの圧力を止めてくれるならと期待して、必死に意識を保っていたけれど、でも大丈夫だろうか。教官はマリアベルに近づこうとして、何人も膝を着いている。
だってマリアベルは聖女様だ。
世界で一番、魔力があるにんげんなのだから――……。
リトの意識が途切れる前に、
「教官」
誰かの冷たい声がクリアに聞こえた。