獣
少々性的な犯罪要素があります。注意。
校医は医務室にいられない時もある。
教員会議で報告の義務もあるし、危険な実験や試合の立ち会いもするし、昼食を食べに出ることもある。
いま医務室に校医はいなかった。アズティスが一人、ベッドに眠っていた。
倒れて五日。
熱は下がりつつあって、命の危機は万が一にもなくなっていた。教官ララの手で、白い検診衣に着替えさせられていた。
放課後、夕日の光さす医務室。
から、とドアが開いた。
男子生徒が緊張しながら、「失礼します」とほとんど聞こえない声で呟いて入った。室内をぐるりと見回した。彼の顔は変に蒼褪めていたが、校医の机に『第四研究室にいます』の書置きを見つけて、再び周囲に誰もいないことを確認するやいなや、頬がみるみる赤らんでいく。
視線がベッドの並びへ向く。現在、唯一閉まっている仕切りカーテン。そこにアズティス・レオタールが眠っていると、彼は知っていた。
ロストン伯爵家の長男。
例の『いじめ』で水を被ったアズティスにハンカチを差し出したのも、恋煩いを精一杯に綴った手紙――二位いわく『ストーカーじゃん』な内容だった――を書いたのも彼である。
そう、恋をしている。ずっとアズティスを見ていた。
それなのに、カイル・ノアイユなんて何を考えているんだかわからない男と婚約してしまった彼女が許せなかった。彼女を幸せにできるのは自分だ。カイル先輩にはマリアベル先輩がいるんだから、結局アズティスさんは自分がもらってもいいことになるのだ。
そうに決まっている。
だから今。
アズティスが動けない、カイルがいない、邪魔のいない時を狙ってきた。
逸る足を抑えて、忘れずにドアのカギをかけた。
窓の方へ目線を走らせる、こちらの鍵はきちんとかかっている。
堪え性のない心臓が音を立てている。
本当にやるのか。やるさ、もう戻れない。
本当は、戻ろうと思えば戻れる。何事もなかったようにできる。けれどそんな簡単なことを思いつかないのは、もうやるしかないのだと思い込んでいるのは、精神的な視野狭窄だ。
想いが煮詰まって、どうしようもなく。
一番奥のベッド。
カーテンを開ける。
プライバシーを守るための囲い。その内側に入ると、途端に聖域に足踏み入れてしまったかのような背徳感を覚えた。
ごく、と喉が鳴る。
もうすでに、普段なら絶対に入れない距離にいる。
たんっ!
窓を叩く音がした。
慌てて息を潜める。壁を除いて三方を囲うカーテンだから、窓からもこちらは見えていないはずだ。けれどたんたんとしつこい音が鳴っている。カーテンの隙間から確かめてみれば、妖精がいた。見える範囲では二匹。外から必死に窓を叩いている。
見なかったことにして寝具を捲った。途端に甘い香りが鼻をくすぐった。女性の匂い。
白い検診衣は薄く、彼女の体温と汗で少しへたって、体のラインがわかりやすくなっている。
本当にやるのか、本当にやるのか、
迷って、恐れ多くて、震える手をベッドについて、乗り上げた。全体重が両膝の下のベッドにかかり、ぎし、と生々しく軋んだ。唾を飲む。喉が鳴る。彼女は昏々と眠っている。カイル・ノアイユとはどこまで近づいたのだろう。――どこまでいっていても彼女は騙されているだけなんだから、本当に幸せにできるのはこの僕だけなんだから、最初こそショックかもしれないけれどわかってくれる、仕方のないことだ、既成事実さえあればいい、
ぐるぐる考えながら。
ヴェルラード・ロストンは、彼女の衣に手をかけた。
息が荒くなるのは緊張か、興奮なのか。
白い衣の下に黒の下着が見えた。
目前に鋭い爪が迫った。
「え」
咄嗟に仰け反る。元々悪かったバランスを崩して、ベッドから転げ落ちた。巻き込まれたカーテンがレールから引き外れてしまって、彼の上に落ちる。尻もちをついたまま、視界が遮られてしまう。
「っんだよ!」
クソクソと意味のない罵倒を垂れ流しながら、急いでカーテンを退ける。
ベッドの上には白猫がいた。アズティスを守るような位置で、んにゃあああお、と低く鳴いている。あの爪に邪魔をされたのだ。
頬に三本のひっかき傷ができた。
「……カイル・ノアイユの……ッ」
奴は任務で学園にはいないはずなのに、離れてすら邪魔をするのか。
膨らんでいた期待が思うように叶えられない現実に、ヴェルラードは激しい憤りを覚えた。
あのクソ猫、ぶち殺してやる。
お楽しみはそれからだ。
大事な契約獣の死体の傍で、大事な婚約者が他の男に奪われたと知ったら、あのすかした顔も少しは歪むだろう。
へ、と妙な笑みを浮かべながら立ち上がろうとしたヴェルラードの、視界の端に、黒い影がかかった。
窓の方だった。何者かの気配。
そういえば、先ほどからたんたんだんだんと騒がしかった妖精たちが、やけに静かになっている。
おそるおそる窓を見た。
水色の瞳がこちらを見ていた。
ぱち、ぱち、と弾けるピンク色の魔力。ピンク色の髪。
二級生の二位。――レナだった。
ヴェルラードの知識によると、『アズティスさんの林檎磨き』。
レナは不気味なほど静かだった。しまったと顔を強張らせるヴェルラードを眺めていたレナの眼球が、――ぎょろり、動く。ベッドの上を見た。寝具が剥がされ、衣が開けられた、昏睡状態のアズティスがいる。またぎょろり。カイルの猫はヴェルラードへ威嚇している。ぎょろり。カーテンが外れている。
時が止まってしまったような静寂。ヴェルラードの心臓もこの時、もしかしたら止まっていたかもしれない。
一通りの検分を終えたのか、その不気味な瞳が再びヴェルラードを見た。
はっとした。
目撃されてしまったからには仕方ない、逃げようと思った。窓が開けられないなら迂回してドアから来るだろう、だったら自分はその隙をいくらでもついて逃げられる。――後のことは考えられなかった。
ここでとんでもないものが見えた。妖精たち数匹がうんしょうんしょと、人間のこぶし大の石を運んで飛んできたのだ。それはレナの手に渡る。ひゅ、と振り上げたかと思うと、迷うことなく窓を叩き割りやがった。
どがしゃあん。
ガラスが散る。ヴェルラードは煌めくガラス片を唖然と眺めていた。
レナは割れ空いた穴に手を突っ込み、鍵を開け、窓を開けて軽やかに入室した。危なげない体勢で降り立った彼女は一言、
「膝をついて」
続けて、
「頭の後ろに両手を回して」
機械的な声だった。思考が止まっていて言われたことを理解できなかったヴェルラードは、何かに縋るようにベッドの方を見ようとする。
「先輩を見たら殺す」
脳天を掴まれて、床に叩きつけられた。飛び散ったガラス片が額と鼻先に食い込む。
これでは自由に動くこともできないのに、レナは理不尽だった。
「膝をついて頭の後ろに両手を回しなさい」
膝ならもう着かされた。尻だけが上がったあわれな恰好で、これ以上いいなりになるのは貴族のプライドが許さない。歯茎から血が押し出されるんじゃないかというくらい噛み締めながら右手に魔力を込めたけれど、その手の甲にレナの膝が乗っかった。
全体重をかけやがった。
その上ぐりぐりと抉るように動かしてくるものだから、ガラス片は容赦なく皮膚の内側に潜り込む。痛みで魔力が霧散していく。
陰湿だ。この女は、『暴漢を捕まえているだけ』と言い訳できる範囲でどこまで甚振っていいのか、考えてやっている。
ほどなく校医が慌てた様子で戻ってきた。窓ガラスが割られた音が、存外に大きく聞こえてしまっていたようだった。
校医はかけていないはずの鍵がかかっていることに不思議がりながら鍵を開け、室内の惨状を目にして、事態を察したようだった。
*
カイルは任務先の村で土産物を眺めていた。
最低限のライフラインを復旧した後は、休憩時間をもらえるようになっていたのだ。
村は羊毛の産地で、それを利用した工芸品なんかが売っている。
『極太毛糸のアンナおばさん手編みティーコジ―』に興味があった。
ティーコジー――ティーポットに被せて保温するカバー――といえば、キルト布のシンプルな作りを想像する。けれどこれはアイボリーの毛糸を編んで作ったもので、一見すると帽子か畳んだセーターのよう。保温効果も期待できそうだ。
(置くスペースもあるし、買っておくか)
時たまのお茶会でアズティスも紅茶を淹れることがあるけれど、お茶にこだわりがあるのはカイルである。旧礼拝堂の給湯室には、彼が任務先で購入した茶葉やティーグッズがお行儀よく陳列されている。
高齢の店員にお礼を言われながら、包みを手にして店を出た。
ふと、魔力が吸われていく感覚があった。
自分の契約魔術がどこかで発動したのだ。眠っているアズティスの手に、御守代わりに握らせた魔法陣。
視界情報を同期させる。猫はベッドの上で、なぜか床に転げ落ちている男子生徒を見下ろしていた。伝わる感情の揺れからすると、男に激怒しているらしい。
あれよあれよと言う間に二位がやってきて、男子生徒は制圧された。ことの成り行きがわかった時点でカイルは同期を止め、その脚で教会に向かった。非常時ゆえ、教会は村の青年団の駐屯地になっている。
急用により一時的に学園へ帰らせてほしいと青年団のリーダーに頼み、黒竜に乗ってかっ飛ばし、学園には深夜に到着した。
状況説明を受けたカイルは、それでも表情に変わりはなかった。
頭を抱えている教官ララの方が、精神的に参っていそうだ。ララがカイルに頭を下げて、
「重ね重ね申し訳ありません。学園側の警備が甘かった。まさか生徒がこんな……。本当、なにが起きているのかわからないわ……っ」
「…………。」
「今後、遠方任務は強要しません。カイルくんの成績なら卒業は確定だもの。村のライフラインが最低限整っているなら、あとが学園側がなんとかします」
「…………。」
「目撃者のレナ・チェルティさんによれば、身体的な接触は最小限で済まされたものと思います。アズティスさん本人は目を覚ましていないから、被害の全容までは、その、男子生徒の証言を信じるしかないけど」
「レナ。あの女子生徒ですか」
カイルは二位の本名を知っていた。
アズティスが二位と出会ってすぐに調査は済んでいたので、レナと聞いてすぐに顔が思い浮かんだ。
「こういうのは繊細な問題だからねぇ……。この件に関しては箝口令を敷いてあるわ。毒の方と関わりがないかも聞き取り中よ」
「わかりました。その男子生徒と二人で話したいのですが」
「二人で?」
「彼女と近しい人間として、少し嫌味を言いたいだけです。許されないことでしょうか」
ララは少し考えて、
「わたしが見張りとして監視していいなら大丈夫」
「会話内容は聞かないでもらいたいのですが」
「少し言いすぎちゃってもいいわ~、婚約者だもの、あなたなら許されるでしょ」
「…………。」
「聞かなかったことにするからぁ」
「…………。」
「…………防音結界を張るわぁ。アズティスさんの代わりに思う存分罵ってやって頂戴」
「よろしいのですか?」
「どうせ加害者の退学は決まっているし、問題なんてないわぁ」
ララは顔色が悪い。連続して起こった事件の対応に追われているのだろう。しかも事件のどちらも、己が担当する生徒が被害に遭っている。
この教官も怒っているのか、とカイルは思った。
教育者として正しくはないだろうが。
「今からでも可能ですか」
「ええ、すぐに呼ぶわ。第三会議室に行っててちょ~だい?」
第三会議室の席に着いて、十分ほどだろうか。
ララが、加害者ヴェルラードを連れて入ってきた。手枷などはついていない。
ヴェルラードは俯いていたが、カイルの姿を見て敵意しかない眼差しを向けてくる。こっちこそ文句言ってやるぞと気迫で伝わってくる。
向かい合わせに座った。
ララはドア横に立って、
「じゃあ、今から防音結界を張るわ~。ちょっとでも暴力っぽいことがあったら止めるからねえ」
そして二人の周囲に透明な膜が張られる。
先手はカイル、
「ララ・イルエラは若い女性の生き血を啜っている」
「は?」
「ララ・イルエラは不老不死の魔術師で、建国時にはすでに存在していた」
「……は?」
怪訝そうにするヴェルラードに答えないまま、カイルは数瞬黙った。
しばらくして、
「防音結界は効いているようだ」
結界の防音性能の確認だった。
教官のララはドア横に立ったまま、きりっと真面目に二人を見つめている。
ここからが本題だった。
「ヴェルラード・ロストン」カイルは相手を呼び、
「体を奪えば、お前のような男を見てくれると本気で思ったのか」
デリカシーのない物言い。そこに彼の嘲笑が透けて見える。
――アズティスはお前ごときを相手にしない、と。
婚約者を奪われかけた屈辱に、苛立つ様子もない。鉄面皮カイルに、ヴェルラードはますます険を増していく。
「……怒らないのか」
「怒ってはいる」
「だったらどうして僕を殴らない」
「殴る必要性を感じない。それに、君の気持ちはよくわかる」
その瞬間、ヴェルラードの顔色が変わった。
土気色から憤怒の赤へ、一気に沸騰してしまったように。
「わかるわけがないだろうッ!!」
ドア横のララがぴくりと動いた。
「僕の気持ちなんて絶対に! 手が届かないものに、届くかもしれない、期待を、あんたなんかには絶対にわからない!」
カイルの瞳が、赤くぎらつく。
そして愛を囁くように、
「『あの高みから引きずり落としたい』」
ヴェルラードの咆哮が喉に詰まる。
「幾度となく考えたことだ。あれは埃か雪のようにふらふら出歩くから、足首でも掴んで引き倒してやりたくなるな。君もそうだろう?」
「……いや、……え?」
「他はなんだ、『自分だけを見てほしい』、『自分だけを傍に置いてほしい』、『自分だけを褒めてほしい』。よくわかる。あれを見ていると、そういう気分にさせられる」
ヴェルラードは勝手に人の気持ちを知った気になってんじゃねえよと声を荒げようとした。できなかった。だってそれはすべて本当のことだからだ。美しいあの人を自分の手が届くところまで貶めたいと心の底で願って、だからあんな凶行をしでかしたのだから。
冷淡な声で語られる、激しい負の感情。その差異に戸惑って、頭の処理が追い付かない。
「他にもあるな」。カイルが考え始める。
「肌に血が滲むほど歯を立ててやりたい。首か手首の内側がいいな。肌が白く薄いからすぐに傷がつくし、目立つだろう。そうしたら丁寧に薬を塗ってやりたい。睨んでほしい」
「…………。」
「すべて俺に覚えのある感情だ。アズティス一人に向けた。君もそうだろう。そうであってほしいな、こういった感情はなかなか、人と共有できるものではないのだから」
――君もそうだろう?
ヴェルラードは答えない。
口汚く罵られる覚悟はしていた。さしものカイルも冷静ではなくなるだろうからと、さらにおちょくってやる準備もしていた。面と向かって会話できるこの機会に、ここぞとばかりに。
けれどこの男はなにを言っているんだろう、と戸惑いが勝って、意味のある言葉をなかなか紡げない。
カイルはどこまでも平坦だ。
「気持ちはわかる、とはいえ俺には忠誠心がある。……君も俺のように従順な犬に徹していれば、彼女に気に入られたかもしれないな」
くつ、と低く喉を鳴らして嗤う。
そして最後の一言、
「残念なことだ」
ちっとも残念そうじゃなかった。心の一かけらも入っていなかった。
言うなればそれは、己の群れに不要な個体を追い落とす、獣の長のような冷淡さ。
カイルは最初から、ヴェルラードを罵る気はなかった。
相手にとって最も嫌な仕打ちはなにかと考えて、答えを出したのだ。
圧倒的な敗北。
雌の奪い合いに敗れた、卑怯で弱い雄だと、心の底からわからせてやること。
――彼女に従順になっていれば、とは言ったものの。
彼女に媚びへつらうこともなく、一目で気に入られた人間を知っている。カイルはそいつが嫌いだ。
アズティスさんを解放しろお前なんか相応しくないただのストーカー野郎と意味のわからないことをほざくヴェルラードを無視して、カイルは席を立った。
医務室に行くと、二位がいた。ベッドで健やかに眠るアズティスの手を、固く握っていた。
今日くらいは、まともに話そう。




