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『ピティーラック』

 六時間前のこと。

 彼女と普通に食事を始めて、最近の任務の多さや天候についての愚痴を聞いていたところで、


 ――『なんかこのスープ、おかしくないか?』

 ――『甘苦い、みたいな……傷んでたりしないかな、君も飲んでみた?』


 急激に風向きが変わった。

 自分もスープを飲んでいたけれど、特に変わったところはなかった。けれど彼女はおかしな味がすると言った。甘苦い。カイルはその瞬間、公爵家で習った毒の味について思い出した。

 それ以上は食べるな。言ったけれど、遅かった。


 ――『……あれ』

 ――『喉が、……あぇ……?』



 彼女が喉元を抑え、そしてこの事態だ。

 彼女の血、誰かの悲鳴、支えた体、か細い喘鳴、鬱陶しい衆人環視、

 テーブルに素知らぬ顔で鎮座している、毒スープ入りマグカップ。



 その場にいた等級付きの学生が二人、素早い判断で「校医呼んできます!」「自分は教官に知らせてきます!」と走って学食を出た。

 奇しくもここにいる大人は学食のおばちゃんたちだけで、さすがに彼女らも戸惑っているばかりだった。食材の痛みに起因する食中毒であれば、研修を受けている彼女たちも動けたけれど、アズティスは明らかに異なった症状を呈している。こうなると医者か魔術師の領分になるわけだ。


 誰もが固唾を飲んで二人の様子を見守る。

 カイルは彼女の手を取った。


「意識があるなら、少しでいいから握れ」

「っ……」


 手は握られた。弱弱しさに、カイルは眉根を寄せる。それに微かに自分の意志ではないような動きがある。びびび、と感電しているような軽い震えが、彼女の指の腹からカイルの手に伝わってくる。


「……わかった、楽にしろ」


 そして二度目の吐血があった。

 く、と首が一瞬だけ仰け反ったかと思ったら、自分の意思で横を向いて血液を床に垂れ流す。カイルとアズティスのただでさえ黒い制服が、色濃くシミになっていく。

 床に乱れた銀髪が血に染まる。細い脚がびくびく震えて、神経にも何らかの害が及んでいることを周囲に伝えている。スカートの裾が床を擦り、そのおそろしい衣擦れが生徒たちの耳に届いていた。

 カイルは、彼女の頬に血で張り付いた横髪をそっと退けてやった。


「すぐに教官がくる。呼吸だけを意識しろ」


 ひゅうひゅうと木枯らしのような、呼吸音の異常。発熱もある。指先の特徴的な痙攣と、吐血。

 それらの症状から、カイルはすぐに状況を特定した。


「ピティーラックだな」


 毒だ。その名を知っている生徒たちが固唾を飲んだ。


「っオレンジジュースがございます、飲みさしですがお使いください」


 間髪入れずに、おそらく貴族の二級生女生徒が、自分のテーブルからオレンジジュースを取って駆け寄った。「アズさまに……」と震えた呟きが聞こえた。彼女はアズティス派だ。


「ありがとう、そこに俺の水がある。そのグラスぎりぎりまで割ってくれるか」

「はい」


 ピティーラックは即効性のある毒物で、今から吐き出させても間に合わない。オレンジの成分で毒を薄め、症状の進行を食い止められるから、気休め程度でも応急処置としては有効な手段だ。ただ酸味の強いオレンジジュースは傷ついた粘膜を傷ませるため、水で薄めるのが良いとされている。

 カイルは手渡されたオレンジジュースの水割りを一口飲み、毒見をしてから、少し身を起こさせたアズティスの口元にグラスを寄せた。

 一口飲ませると、


「っ……!」


 ぐ、と吐き戻す気配がした。喉が痛むのだろう。けれど彼女は体面のためか、吐き出さずに飲み込んだ。プライドの高さが、今日だけは功を奏してくれたらしい。


「くれぐれも出すな。口移ししてでも飲ませるぞ」

「……ぅ」


 変なこと言うなこの野郎、と言いたそうな睨みを受け取ったカイルは、口とは裏腹に丁寧な救護活動を続ける。一口ずつ、こく、と彼女の喉が上下するたびに、息継ぎの間を与えた。

 そこに二位が駆け寄ってくる。

 床に膝を着いて、アズティスの肌に滲む汗を、濡らしたハンカチで拭い始めた。


「ピティーラックって、よく推理ものの話に出てくる……?」

「ああ、ポピュラーな毒だ。一昔前なら跡目争いや暗殺に使われていた。貴族は必ずこの毒に慣らされて育つから、ほぼ完全な耐性ができている。だが……」


 カイルがみなまで言わずとも、二位は理解しただろう。

 アズティスは貴族としての教育を受けていない。まっさらな体に毒性が直撃したのだ。即効性のある猛毒には、ひとたまりもなかっただろう。

 誰も彼も提供される学食に警戒などしていなかったし、対応マニュアルもない。

 学園内で毒殺未遂が起きるなど、誰も思わなかった。学園数百年の歴史を振り返ったって、これが初めてかもしれない。

 カイルは口を開き、


「全員、奥に集まれ。体に異常がある者、なにか心当たりのある者はこちらに来てくれ」


 一級生として、ひとまずの指示を飛ばす。

 二位は「傍にいたいです」と固辞したため、カイルは了承するしかなかった。アズティスと親しいことには変わりない。たとえカイルにとって、二位が信用ならない人物だったとしても。


「先輩……っ、すぐですから、教官も呼んでくれますから」


 自分が毒を飲んだように顔を歪める二位。

 胸を弱弱しく上下させているアズティスに、その声が聞こえているかも知れない。

 正直なところカイルは、今の彼女に誰も近づかないでほしかった。誰が敵かもわからなかった。無差別かもしれないけれど、もしもアズティスが狙われて毒を盛られたらと考えると、いっそこの場に二人きりにしてほしい。

 誰が彼女に毒を盛った、自分はどうして気付けなかった、目の前にいながら、どうして――。自分がピティーラックを飲んだわけでもないのに、体が熱い。心臓が脈を速める。

 番を傷つけられた獣が周囲を威嚇するのと同じ、過剰な防衛本能。

 けれど立場ある人間だから、むやみやたらに怒鳴り散らせない。奥歯を固く噛み締める。こうしている間にも、彼女の呼吸が止まってしまったらと思うと――魔力を暴走させてしまいそうだ。

 彼女の体温は高いのに、顔色が白を通り越して青くなっていく。


 彼女はふと、顔を食堂の奥に向けた。生徒と学食のおばさんが集まりつつあるそこに何を見たのか――ふ、と小さな吐息を漏らした。

 カイルが彼女の視線の先を確かめる前に、


「かいる」


 呼ばれた。

 綺麗な青が、今はこちらを見ている。カイルが努めて優しく「どうした」と返すと、


「に……、む、いって」


 任務に行って? ――明日のことだろうか。

 この期に及んで、そんなことを。

 ふつふつと熱された、赤黒い泥が心に溜まる。

 カイルはアズティスのお願いに頷けなかった。二位からの気遣うような視線すら煩わしかった。


 そこでようやく、教官が到着した。

 アズティスは速やかに医務室に送られた。


 薬学を専攻とする教官が処方した解毒剤が素晴らしく、アズティスは一命を取り留めた。六時間後には熱も下がっていた。とはいえ肉体のダメージはすさまじく、昏々と眠り続けている。

 自然に目が覚めるまで医務室で眠らせておいた方がいいわね~~とは、担当教官ララの言葉である。


「――めん、……ぁい」


 ごめんなさい。彼女はずっと、誰かに謝っている。ただならぬ様子だとわかっていても、だからってカイルにはどうすることもできなかった。なにせ彼女は毒物にやられた身なのだから、悪夢の如何より養生を優先しなければいけなかった。


 一夜が明けて、カイルはベッド横のパイプ椅子から立ち上がった。間仕切りカーテンの綴じ目から出て、医務室のカーテンを開けた。今日も曇天が絶好調だった。

 医務室に備え付けのグラスで水を一杯飲み、彼女の傍に戻った。

 看病しながら読み終えた一冊を再び手に取り、けれど読み直す気にもならず、アズティスの手に触れた。苦しそうな寝顔が、十年前の夏の惨事に重なった。あの日の夜だって、カイルは屋敷に帰ってきた彼女を夜通し看病したのだ。こんな徹夜どうってことはない。眠ってなどいられない。


「アズティス様……」


 我ながら情けなかった。

 

 と、医務室のドアが開いた。

 誰かが来たからといってその場から動く気にもならず、そのまま彼女の寝顔を見つめていると、


「失礼するわね~~?」


 間仕切りカーテンの向こうから声がして、担当教官ララが入ってきた。


「カイルくんねえ、ずっとここに居たの? ちゃんと食べた? 少しは寝た~~?」


「まったくこの子は」という、微笑ましさと同情をにじませた大人の声色。

 カイルは「はい」と、何に対しての返答かもわからない答え方をした。

 昨日、ろくに手をつけていない昼食を食堂に残したまま、何も食べていなかった。眠れてもいなかった。目の下には隈がある。誰がみても健康的とは言えない有様だ。

 そんなことより、教官にお願いがあった。


「教官」

「な~~に?」


 一晩中かんがえていた、


「欲を言わせていただくなら、予定していた任務を放棄したく思います。この先、彼女の食事も世話も、俺に任せていただきたい」


 言いながら思う、自分はどうやら自覚している以上に追い詰められているらしい。

 彼女の傍にいなくてはならない。それが叶わないならせめて、彼女の口に入るものすべてを毒見したい。

 

「こちらとしても、本当なら貴方の意思を尊重したいわ。一生徒に負担をかけたくない……けど、ごめんなさい。今回の任務だけは代わりがいなくてね」


 優秀だからこそ、カイル以外に適任のいない任務らしい。魔術師は常に人手不足だ。カイルだって、それはわかっている。学生で最も『使いどころ』のあるアズティスが真に動けない今は、その埋め合わせも必要だろう。それなのに「この一回が終われば、それ以降はこちらで調整するわ」と約束してくれるのが、生徒に対しての精一杯の真心なのだろう。


 例年にない大雪崩により、流通が分断されてしまった村がある。

 塞がれてしまった道路の開通と、支援物資の配達作業。空路も陸路も扱えるカイルにうってつけの力仕事だ。

 自分たちが室内で静かにやりとりしている今だって、現地の人間は寒さに凍えて、空腹に腹を鳴らしているのだろう。幼い日のカイルと同じように。


 それにアズティスの言葉(めいれい)がある。――任務に行って、と。

 だったらもう、カイルに抗う選択肢はない。


「……わかりました」

「ごめんね」

「いえ」


 教官が去ってからも、カイルは彼女の傍にいた。

 予定出発時刻まで、あと一時間ほどだ。もう準備にかからなければ。


 カイルは懐から一枚の紙を取り出した。昨夜のうちに描いた魔法陣だ。普段から使っている召喚用で、我ながら完璧だった。その紙をくしゃりと丸め、未だ目を覚まさない彼女の手にそっと握らせた。


 そうしてカイルは任務地に向かった。


       *


「聞いてないッ!」


 それはそうだ、言っていないのだから。

 R――リトは眺めていた手帳を閉じて、横からの煩い声に眉根を寄せる。動揺を隠そうともせず喚き散らすのは、女生徒ミリィだった。

 学食の手伝いとして立候補させれば、薬物の混入も容易だった。そして目的は無事に果たせた。

 実行犯がここまで取り乱すとは思っていなかったけれど。


「なによピティーラックって、もしこれであの女が、し、死んじゃったら、」

「だったらそれまででしょう」


 ――あなたが毒を飲んだわけでもあるまいに。

 空き教室中に響き渡る高い声に、リトは辟易としていた。

 憎悪する対象が同じというだけの、仲間とも呼べない協力者の一人。ただでさえ綱渡り状態なのだから、下手に騒ぎ立てるのは止めてほしい。見つかったらどうしてくれる。


「おれは最初に言いましたよね。あの女を殺したいほど憎いのであれば協力しろと。いざそうなったら急に怖くなったって、ただの覚悟不足を喚かれても困るんですけど。そちらの問題でしょう」

「そういう問題じゃない! だったら最初に言ってよ、ただの下剤ってきいたから私……っ」

「最初から毒って聞いていたら、どうしていたんですか?」

「っ……」

「あなたの恨みってその程度だったんですねぇ」


 ミリィの肩に手を置いて、


「けど、やってしまったからにはおいそれと言いふらせないでしょう。ただでさえ危ういマリアベル様の地位にも影響するかもしれませんし?」


 喚いていたミリィの声が、これだけでぐっと封じられる。


「なんにせよ、もう少し声量を落としてください」


 とはいえリトの計画はほぼ完了していた。

 ここまですれば、さすがのアズティスも黙ってはいないだろう。

 カイルの目の前でやってやったのだ。きっと彼女に、もう恐れるものはない。意識を取り戻してしまえば、なんの憂いもなくやってくるに決まっている。

 最悪の魔物でも見たようなものすごい形相でこちらを睨み、走り去っていくミリィを、リトは追わなかった。どうせ逃げも隠れもできないだろう。


 アズティスが目を覚ます前に、学園側が実行者であるミリィを特定、捕縛するかもしれない。

 そうすれば調査はリトにまで及ぶかもしれない。


 どうでもいい。

 野となれ山となれだ。


 空気中にきらきらと埃が舞う教室で、リトはあくまで穏やかだった。

 昨日の毒殺未遂で浮足立つ学園の中、この空き教室だけが静かだ。己の手帳の表紙を指一本で撫でながら、憎き『彼女』を想う。


 学食で彼女が倒れた時、確実に目が合った。

 彼女はRがリトだと知っていて泳がせていたのだ。カイルに知られないように注意して。まったく健気で、涙が出るほどおかしい。


「いまどんな気持ちですか、怪物サマ。……おれは後悔しませんから」


 医務室の方向へ呟いた。

 昨日、食堂からアズティスを抱き上げて医務室に向かったカイルは部屋に帰ってこなかった。今朝に任務へ行ったようだけれど、それまで彼女の傍にいたのだろう。

 カイルは情が深い。身内とみなした相手には甘く、感情の揺れを見せるのだ。

 親友のリトは、それを誰より知っていた。

 彼への友愛は常に感じている。――忌々しい雪の記憶と共に。

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