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ランチセットのコンソメスープ

 かつて己の想いに戸惑いながら、愛娘のマリアベルが聞いてきた。


 ――お父様。わたくしは、カイル様と一緒にはなれないのでしょうか。


 十一歳の思春期だった。頬を染めながら、恥を忍んで聞いてきた愛娘。こんなに小さな体に宿る恋はまだ淡く、形も重さももたないだろう。

 恋の相談なんて、本当なら同姓である母親にしたかったのではないだろうか。けれどそれもできない哀れな娘になんと言っていいのかわからず、子爵はこう言った。


 ――大丈夫だマリアベル。家は子爵家といえども、聖女とはそれだけで価値がある。お前自身がありのまま優しく、健やかに、嫋やかにいれば、きっと彼は迎えに来てくれるだろう。


 間違いなかった。

 そのはずだった。


 ワイングラスを投げ割った。カーペットに砕けた透明な破片が四方八方に飛び散って、それを使用人が無言で掃除する。


「ッ……あの、……小娘が……!」


 どこまで我々を苦しめるのか。どうしたらあそこまで人の心がわからない人間ができあがるのか。生きているだけで不幸を振りまく。八年ぶりに見た小娘は、母親に似て邪魔な存在だ。あれが自分の実の娘などと、考えたくもない。


 ノアイユ公爵も、なにを考えているのだ!


 小娘とマリアベルなら、十人中の九人がマリアベルを選ぶに違いない。

 小娘を好む一人はよほどのもの好きで、珍しい魔術に惹かれた大馬鹿者だ。けれどまさかノアイユ公爵が、その物好きな一人に該当するなんて。

 マリアベルと繋がりさえすれば、聖女の威光と名声までついてくるというのに。

 それにカイル――かつてカースエリス家で面倒をみてやっていた子供も、どうしてわざわざ小娘を選んだのか。

 カイルはアズティスに拾われたとはいえ、その後にマリアベルの従者となった。マリアベルの愛らしさは、小娘とは比べ物にならない。あの子に好かれて靡かない男などいないとすら思っていた。


 届いたのは、カイルの婚姻相手にアズティスを差し出せという縁談の手紙。もとい、命令状だ。

 学園で二人は仲が良いとか、カイルはアズティスを気にかけているとか、子爵の知らない――どうでもいい情報が綴ってある。それを読み下すのも馬鹿馬鹿しい。


 子爵はアズティスなどどうでもよかった。調べようともしなかった。

 時折帰ってきてくれるマリアベルが、食事やティータイムでアズティスのことを話すから、情報源といえばそれだけだった。

 カイルと仲が良いなんて、それを知っていれば、引き離すこともできたかもしれないのに。


「……あ、ぁ、マリアベル、……あの子は……」


 いま学園にいる娘は、どんなに惨めな気持ちでいるのだろう。


 マリアベルはカイルに惚れている。

 パーティー会場でカイルを見つけた途端に、瞳が一等星のように輝きだして、カイル様! と無邪気に声をかけにいく背中を何度見送ったことか。見る者すべてが祝福の真心をもって見守っていられる、微笑ましい二人だった。

 あれこそ真の愛情だ。

 子爵自身も過去に覚えがある。子爵の愛の結晶が形をなして、マリアベルが生まれたのだ。

 マリアベルこそ、カイルを手に入れるべきだった。心から慈しめる相手を愛し、愛され、幸せになるべき存在なのに。


「すまない……ッ! ああ、……あァ、私はまた……っ!」


 大事な者を、誰一人幸せにすることができない。そう嘆く子爵の記憶の中で、かつての恋人が微笑む。目の前に存在するかのように鮮明な姿で、


『愛しているわ。貴方は、正しい人と幸せになって』


 清廉な人だった。風になびく亜麻色の髪に触れたくて、学生時代の子爵は何度も手を伸ばした。

 けれど今は。

 思い浮かべた彼女に触れようとしたところで、その姿は掻き消えた。代わりにあの女が――いや、あの女の娘がいた。銀髪で青い瞳。あの女と似た容貌でこちらを見下し、心底どうでもいいと言いたそうな表情で、そして。


 ――『これくらいで別れるよーな「運命の相手」なら、所詮それまでの関係ってことでは?』


 心臓が凍る。

 悪意の言葉が、大切な彼女の声を圧し潰す。

 ままならさも、彼女の気高さも、貴族のしがらみも、つきまとう障害への苛立ちも、何も知らない子供のくせに。母親の邪悪な気質が、小娘に乗り移りでもしたのだろうか。


 ――でも、いい、どうせあの娘は。


 子爵の顔が醜い笑顔を作る。怒りに震え、蒼褪めていながら、口角だけがつり上がる。


「……そう、死ぬんだ、あれは」


 たとえ小娘の中に母親の気質があったとしても、また殺してやれる。せいぜい今は偽物の勝利に浸っているといい、最後に勝つのは真の愛情で、心で、正義だ。

 たとえカイルと小娘の婚姻がなされても、小娘は生贄に捧げられる。その後釜にマリアベルを推してやれば、それでいい。カイルも男だ。すぐに絆されて、一時の気の迷いなどすぐに忘れるだろう。

 子爵は恋人を妻に迎えることは終ぞできなかったけれど、だからこそマリアベルには、偽りのない幸福を味わってほしいのだ。

 筆舌に尽くしがたい期待に身を震わせる子爵の横から、涼やかな声がした。


「あんたは落ち着くべきだよ、カースエリス子爵さん」


 数少ない、頼れる友人の一人だった。学園に在籍していた時からの親友で、今は時の聖霊を信仰する教会の枢機卿なんて役職についている。

 青みがかった黒髪のオールバックと、理知的な片眼鏡。一見すると厳しい教師のようでありながら、にこりと微笑めば好青年風の男性だった。寄る年波につき少々の皺が目立ってきてはいるけれど、子爵よりは若く見える。

 今日は白い聖服を着ていない。スラックスとシャツ、それにローゲージのセーター。町を歩けば、似た服装の人間がいくらでも見つかりそうな出で立ちだった。


「……ああすまないなミラ、取り乱してしまって」

「まったく、すぐ熱くなる性格は変わらないな。あまり焦ると気取られるんじゃないかね。話に聞く限り、ご息女は学園でずいぶんな地位にいるらしい。ってことは、少なくとも馬鹿ではないのだろうからね」

「だが、賢くもないだろう。あれは母親の血筋の影響だか知らんが、珍しい魔術を扱えるというだけだ」


 学力と頭の良さは、似て非なるものだ。

 子爵は、貴族社会のほとんどに好かれているマリアベルの立ち回りやそつのない対応こそを、賢いと評したい。


「それにあれの魔術は、魔力あってこそだ。我々のおかげでな。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いもなかろう」


 子爵は演技がかった仕草で肩を竦める。

「自分の娘を殺しかけといて感謝しろとは、酷い父親もいるもんだ」と一般論でうそぶくミラだって、アズティスを憐れんでなどいない。


 過去の件を引き合いにだしたのは、子爵なりのジョークだった。

 小娘が、自分たちの計画を知っているわけがない。

 母親を殺した暗殺者を子爵が雇ったことも、魔力が底上げされていることも、いま現在の生贄候補が自分だということも、知っているわけがないのだ。あれは愚かな娘だから。知ればすぐにでも怒鳴り込んでくるだろうけれど、今はその気配もない。

 ミラは子爵のぎらついた笑顔を見て、溜息を吐く。


「恨まれても知らんよ僕は」


 ミラの前には、空のカップが一つ。

 子爵は壁際に立っているメイドを睨みつけ、紅茶のおかわりを顎で指示した。メイドは真っ青になりながら、急いで紅茶を注ぎ入れる。


「恨まれようが関係ない。マリアベル以外に要らないのでね」

「はっはっはっはっは、この最低親父」

「その最低親父に手を貸してくれたのはお前だろう」


 子爵はミラを信用している。魔力の底上げができると子爵に教えたのもミラだ。

 十年前からの共犯関係は、やすやすと崩れやしない。

 二人、書斎で赤ワイン片手に高笑いしたあの日のことを、今も覚えている。


『あの娘は、今や国一番の魔力の持ち主だ。信頼できる魔術師に確かめさせたら、やはり魔力が多くなっていると』

『なるほど、うまくやったものだな』

『ああ、まさかここまでうまくいくとは』

『これでお前の哀れな娘も』

『そう、マリアベルも、守られる』


 悪女を討伐し、その娘も適切に処理する目途が整った夏の、勝利の余韻が蘇る。

 あともうひと頑張りだ。


「ところで、十二月二十四日だったか。……本当に大丈夫なんだろうな」


 子爵の問いに、聖職者の中の聖職者は答える。


「大丈夫さ。あの頃と違って、僕には立場がある。それに聖霊様もお許しくださる。こちらが警戒することといえば、捧げられる時までアズティス嬢がうっかり死なないように見張っていることくらいさ」


 なにせ、


「死んでしまっては生贄にもならないから」


       *


二位は食堂のドアを潜った。

 

 すぐに目についたのは、中央から少し奥側のテーブルだ。麗しい先輩二人組が食事を始めたところだった。相変わらずどこにいても目立つ人たちである。


(へえ、今日は二人とも揃ってるんだ)


 食堂は喧騒に満ちているのに、ずっと静かな声色のアズティスの発言だけは、なぜか二位の耳に届いていた。


「私は連休もらったから、君よりはまだマシだと思う。……明日の朝にまた出るんだろ? ほんとお疲れ様だね」


 任務について話しているのだろう。カイルがなんと返しているのかまでは聞こえなかった。

 二人は、揃って本日のランチセットを選んだらしい。

 サフランライスに、きのことチキンたっぷりのホワイトソースをかけたもの。レタスとパプリカを色合い良く盛り付けたサラダ。スプーンと共にスープマグに入っているのは、コンソメのスープだろう。


(私もあれ食べよ)


 アズティスを横目に、二位は列に並んだ。声をかけたかったけれど、二人の邪魔をするのは忍びない。まあ婚約者同士、仲良くやってくださいよと。

 あの二人の他に、珍しい人物もいた。二級生の一位、リトだ。一人だった。昼食は購買派だと勝手に思っていたけれど、そうでもないのだろうか。二位の視線に気づいたリトが、にこ、と人好きのする笑みを向けてくる。――遺跡で同じ班になった時もそうだったけれど、何を考えているのかわからないやつだ。無視をするのも感じが悪いので、軽く会釈をして済ませた。


 予想より早く順番がきた。カウンターの奥では配膳のバイトをしている学生が数人と、いつもの学食のおばちゃんが忙しなく動き回っている。

 おばちゃんがいつもの仏頂面で「お待たせ、何にするん?」

 二位が今日のランチセットをお願いしますと言って、即座に出てきたセットのトレーを受け取って、空いている席を探して歩いた。手には温かそうなランチセット。ホワイトソースのまろやかな香ばしさが、いかにも美味しそうだ。

 食堂の端っこに空席を見つけた。そこに向かいながら、先日のことを考える。


(そういえば先輩、あれから何もないのかしらね)


 今日は元気そうだ。もう一度アズティスの方を見ると、スープを掬って口を付けていた。


(いじめってのがあの掲示板の文章に沿うなら、次に何かあるならあの中から選ばれるかもしれないってことよね? ……なんだっけ。身分を蔑む発言、盗みと破壊、階段から突き落とした。水をかけた。服を破いた。食事に異物を混入させた、……って、虫とか?)


 一瞬だけ、嫌な予感がした。

 アズティスがたったいま飲んだスープ。もちろん遠目からは、彼女の食事にコバエだのが浮いていたところで見えやしない。二位はまさかねと苦笑して、前へ向き直る。

 食堂は和やかだ。特に異常もなく、誰かが笑って、誰かが愚痴を吐いて、誰かが無言で食事を楽しんで、


 ()()()


 誰かが急に立ち上がる音と、誰かが倒れた音が重なった。

 二位は音の方を見る。皆がしんとしている。


「ッ……!」


 カイルがこの世の終わりかというほど焦りながら、倒れたアズティスを抱き上げたところだった。

 彼女はうまく呼吸していなさそうで、胸を抑えながら苦しそうにしていた。ろくに声も出ていないようだった。

 誰もが唖然と黙り込む中、アズティスだけが苦しそうだった。そして「けほ」と血を吐いた。それがカイルの制服にかかったけれど、彼は気にも留めなかった。彼女が吐いた血液で喉を塞がないように横向きにさせて、状態を確かめながら声をかけ続ける。「アズティス」「なにが」「意識を保て」「……アズ?」なんだかそれが、飼い主に寄り添う仔犬みたいだった。視覚も聴覚もたしかな情報を与えてくれるのに、頭は状況を整理できない。


 銀髪が床に擦れている。あんなに大切に扱われていた、綺麗な髪が。

 二位はその場に突っ立ったまま一言、


「………、……は?」

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