父親
「入学してずっと放置していたくせに、己に都合の悪いことがあればすぐに反応するなんて。自分の行いを見つめ直しては? とにかく私は忙しいので、子爵にかまっていられる時間は――」
「拗ねているんだろう」
「は?」
「今まで一人にしてしまっていたから。こちらも気が回らなくてすまなかった、ああそうだ、卒業したら家に帰ってくるといい。そうすればもう寂しくもないだろうし、そうだ、そうしよう」
今度はアズティスが二の句を失った。
「ひとまず婚約は解消しなさい。カイル様には運命のお相手がいるのだから」
「だから公爵に言ってください。表立って反対してるのは子爵だけです。そんなんじゃマリアベル本人が苦しいだけだし、こっちだって鬱陶しいです」
「パーティーでの二人を知らないからそんなことが言えるんだ。あの子はあんなにも嬉しそうだったのに、先の短いあの子から幸せを奪うのは……はっきり言ってしまうと、非道でしかない。私は父親としてあの子を幸せにしたいだけだ。ろくでなしでも構わないが、人でなしにはなるな、カースエリス家の血を引く者なら」
父親の態度には、アズティスを懐柔しようとする打算が透けて見える。目には、深い悲しみと憤りがあった。そこに含まれた真意を嫌でも理解できてしまう。
(自分と重ねているんだ。子爵家と公爵家の身分差に、貴族と平民だった恋人たちを見ているんだ)
凍り付いた心が、青い炎に融け落ちる。
静かに燃える怒りの気配が、ひたりひたりと音を立て、心臓から手足へ満ちていく。
「すでに人でなしの貴方が、よく言えたものですね?」
「……なんだと」
「愛とかなんとか語るのは勝手ですけど、その性根が腐ってるあなたに言われたところで、どうとも思えないし」
アズティスの口から、は、と嘲笑が漏れた。
「ていうかさ? これくらいで別れるよーな『運命の相手』なら、所詮それまでの関係ってことでは?」
カイルとマリアベルのことだけではない。子爵と愛人も結ばれなかった。それを、よりによってアズティスが嗤った。
侮辱に顔を赤らめた子爵が、アズティスの胸倉をつかみ上げる。「お前!」「このっ、お前がッ!」と何度か言葉にならない怒りを漏らしつつ、
「やはりお前は、あの女の子どもだ……ッ!」
なんて、当たり前の事実を言う。
だからアズティスも子爵を笑み混じりに見下し、
「母上の子だよ。そんな私を選んだのはカイル本人だ、残念だったね?」
こちらだって、怒りの箍を外してしまっても構わない、とすら思う。
赦す予定もなかったのだし。
甚振ってしまおう。
動かなくなるまで。
腹と腕と太腿にずっぷり刃を突き立てて。
母上を殺し、私を殺す、こいつを殺してしまおうか。
(それとも、もうおかしなことを言いださないように、私や母上のこと自体を忘れてもらおうか?)
妖精魔術であれば、それができる。
自分の罪をこんこんと思い知らせながら罰を与えるのもいいけれど、何もわからないまま恨まれ、痛めつけられるのだって怖いに違いない。過去のアズティスが、この男にそうされたように。
自分の何が悪かったのか、どうしてこんな目に遭うのか、わからないまま助けを乞うて、それを踏みつけにされて、そうしてようやく罪と罰の釣り合いが取れるのかもしれない。
けれどそれでは、懲罰の意味がなくなってしまわないだろうか? 自分の罪深さを思い知らせてもやりたい。
(まあいいか。記憶うんぬんは後で考えるとして、先に拘束を――)
アズティスが手元に魔力をこめ始めたところで、いきなり胸倉を開放された。
ある男が子爵の手首を掴み、離させて、アズティスと子爵の間に割り込んだのだった。ノアイユ公爵だ。
「次男の婚約者に挨拶でもと思ったのだが、これはどういう騒ぎかな」
彼女はぴたりと魔力を鎮める。
公爵の問いは子爵に向いていた。
「不躾な娘を叱りつけていたところです。お恥ずかしながら、次女のマリアベルと違ってマナーも知らない無作法者でして……」
「たしかに、貴族としての教育を受けられなかったと本人から聞いたな」
「そうでしょう! ですので、」
「それが事実であれば、父親たる貴様の怠慢では?」
子爵は一瞬、何を言われたのかわからないという顔をして、徐々に理解して、悔しそうに押し黙った。
公爵がアズティスの側についていることを明確にされて、取り付く島もないのだろう。
「カイルの妻にマナーは……あった方がいいが、なくてもいい。なにより本人がアズティス嬢を選んだ。婚約者のすげ替えは認めないと、そう申したはずだ」
そう申していたのかと、アズティスは初めて知った。
どうやら知らないところで、子爵と公爵の攻防があったらしい。
さすがに分が悪いと察した子爵は、周囲を気にしつつ、アズティスを暗い視線で一瞥し、去っていった。
アズティスは公爵に「お久しぶりです。助けていただいてありがとうございます」と最低限の謝辞を述べた。
「助けたつもりはない。私が文句を言いたかっただけだよ。……しかし、あのままであれば君の愉快痛快な魔術を拝見できたのかな?」
本気だろうか。「先の氷はたしかに美しかったが、攻撃性のある妖精魔術も拝見したいな」とのたまう公爵は、カイルとは違った意味で感情が読めない。
アズティスは公爵の言葉を否定しない。公爵がいなければ、子爵を害していた。あれはもはや父親ではない。憎むべき母親の仇なのだ。
スカートを握り「はい」と肯定して、
「もうおわかりでしょう。私は近いうちに暴走しても不思議ではありません。あの男に一矢報いてやらなければ気が済まない。私と繋がりがあれば、少なからず巻き込まれます。婚約は続けるべきではないと思うのです。公爵様の意に反することは重々承知ですし、子爵の意見に賛同するようで不本意ですが……」
「以前にも言ったが、当家はカイルの意志を優先する」
素気ないけれど、子爵に向けるよりも柔らかい却下だった。
「カイルが卒業すれば、爵位のない分家になる。ノアイユの血が流れる以上、爵位継承権は保持されるが、長男と孫が健やかであれば関係のない話だ」
そうだこの男、これで祖父の立場なのだ。
とてもそうは見えないほど若々しく、せいぜい三十代前半のような見た目をしているけれど。
「アズティス嬢がカイルと結婚しても、当家に入ることはない。君が何をしようがまったくの無関係だ。君が復讐を為すのなら、そうすればいい」
詭弁だ。嫁入りには常に実家だの婚家だのの事情がまとわりつく。縁遠くなるほど薄まりはするけれど、問題は波及する。少しの醜聞すら気にするのが貴族だ。
けれどアズティスは、公爵家の意向に踏み込むことはできなかった。公爵がいいと言うならこれでいいのだと、当たり前の上下関係で納得させられるだけだった。
無言で俯く彼女の頭上に、自嘲が落ちた。顔を上げる。
「私もあの男と同類だ。どのような事情があったにせよ、正妻ではない女性と一度でも関係をもったことは事実。本来なら偉そうに口を出せる立場でもないのだよ。けれど、だからこそ、片方を不当に扱う人間には思う所がある」
公爵にどのような事情があってカイルが生まれたのか、アズティスも知らない。聞くこともない。
「……カイルを引き取ったのは、贖罪のつもりでしたか」
「いや、それが当然だと思ったからだ。結果的に君から奪い取った形になってしまったが、まあ仕方がないことと思ってほしい」
「もとより、公爵に恨みはありません」
「カイルを拾ってくれたことは感謝する」
「いえ、あれは私が……」
私が。
「一緒にいてほしいって思っただけです。感謝されるようなことは、なにもしていません」
そうか、と公爵は頷いた。
「ところであの花……フラワリングクインスとやらは、東の国では蔑称と同じ発音をするそうだな」
「あれ、そうなんですか?」
「『ボケ』とか」
アズティスは皮肉そうに笑い、「偶然です。東の国は同音異義語が多いらしいですよ」
公爵は愉快そうな顔で、「そうだろうな。ノアイユ流の公爵ジョークだ、許せ」
アズティスが去ったあと、会場でこんな会話がされていた。
「ねえ聞きました? マルティーク大聖堂で……」
「そうそう、公表はされていないけれど」
「供犠大審判の日取りが、すでに決定されているとか」




