閑話 モブ男子生徒
図書棟には時折、妖精が現れる。
本を抱いて機嫌良さそうに歩く姿は飛ぶように軽やかで、ひたすらに美しい女生徒だ。
一級生のトップに君臨する彼女。
彼女は図書棟の奥の机を気に入っているらしい。そこで本の中見をたしかめて、熟読したい本は借りて、部屋へ持ち帰ってしまう。あまり長い時間はそこにいてくれないから、僕は残念に思っていた。
以前から気に入っていた彼女が、ここのところ、さらに輝いて見える。きっかけは塩湖崩落事故の直後のできごとだ。
魔物との交戦でぼろぼろになった体を粗方手当して、ようやく学園にたどりついた、その瞬間。
雪が降りしきる学園の庭。僕はそこに、聖女を見た。
真っ白な服と、輝く銀髪。曇り空の合間から射す光の柱は、彼女だけを閉じ込めていた。静寂の最中、芸術品のような彼女が、こちらを見る。――僕の前に立っていたカイル先輩を。
そっと細められた瞳は、僕に向いてはいなかった。
当たり前だ。彼女は僕のことなんて知らないのだから。
彼女はカイル先輩と、そこらの妖精にしか優しくしない。
そういえば同級生に可愛がられているやつが一人いるけど、それくらいだ。
僕のことなんて知らない。学園内で彼女をみかけるたびに目で追っている、ちっぽけな僕のことなんて。
一度だけ、明確なやりとりをしたことがある。
彼女に教示要望書を出した。僕がどれだけ妖精魔術を学びたいと思っているか、自分の語彙力を振り絞って書いた。少しでも彼女の目に留まりたくて。丁寧なお断りの返信をもらって、今も大切に保管している。彼女の冷たい外見に似つかわしくない蜂蜜色で、彼女らしい紋章を象った封蝋が可愛いと思った。
この事務的な一往復だけが、僕と彼女にまつわるすべてだ。
それから少し経って、彼女とカイル先輩の婚約の噂が流れた。
僕は内心にもやもやしたものを抱えながら、図書棟に足を向けた。
最上階の、特に入り組んだ場所に置かれたテーブル席。はたしてそこに、彼女がいた。私服姿だった。図書棟は学園に所属している証明ができれば、制服でなくても使用できる。
髪は右肩の前に流し、ゆるくまとめられていた。ニットワンピースに大判のストールが引っ掛けられて、椅子の背には長いコートがかかっていた。プライベートな服装に、心臓が高鳴る。
もしかしてこの姿を、僕しか知らないんじゃないか。
声をかけてもいいだろうか。
なんて言えばいいだろうか。
婚約なんて嘘ですよね、と願望を?
それとも、「このテーブル、時々僕も使っているんです」なんて偶然を装って?
迷っていると、僕の横をすっと黒いものが通った。
カイル先輩だった。
彼は僕にちらりとも目を向けず、彼女に躊躇なく話しかけた。
「ここにいたか」
「ん……、ここで会うのは珍しいね。なにかあった?」
カイル先輩は彼女の隣の席について、
「お前に用があってな。明日にはまた任務があるから、今のうちに」
「なに?」
彼女はぱたりと本を閉じて、聞く姿勢になった。
鳥肌が立つほど青い瞳。そのまっすぐな視線を一身に向けられるカイル先輩が、羨ましい。
僕は踵を返そうとして、
「……会いたかった」
その率直すぎる発言に固まった。
カイル先輩はこんなことを言う人じゃないのに。といえるほど、僕はこの人を知らないけど。
その認識は間違っていなかったみたいで、彼女も困惑している様子だ。
「私に? どんな心境の変化?」
「どうもこうもない。自分でもわからない」
「ふうん。まあいいけどさ」
カイル先輩の手が彼女に伸びる。滑らかな頬を、大きな手が包む。
「さては君、私に触るの好きだな?」
「それなりに。お前は相手が俺だと逃げないだろう。少し気分がいい」
二人は恋人の距離感で囁き合う。
頬のついでに、首元や耳にカイル先輩の手が這う。そんなところに触れられても受け入れる彼女は、『悪女』の印象よりずっと素直で、恥ずかしそうで、嬉しそうに見える。
「君さあ、なに企んでる?」
「企んでいる? ……ように見えるか」
「私と距離を縮めようとしてる。とっても急速に。まあいいんだけどね。君が私の敵にならないなら、どーでもいい」
この会話の意味は、僕にはわからない。
とろとろに安心しきった表情は、懐いた仔猫のようだった。
「君の手は、安心する」
その瞳に、声に。
唾を飲む。
喉が鳴る。
普段の、氷の魔女のような姿とは正反対の愛らしさを、僕にも向けてほしいと思った。
僕が逆立ちをしても触れない肌に触れている、カイル先輩の手を切り落としてしまいたかった。
「でもあんまり触らないでって前に言った。飼い主離れしないと」
「我がまま」
「私が君を相手に我がままじゃないことがあった?」
「自覚しているようで何よりだ」
彼女の隣にいられて、その存在を認識されていて、成績も良くて、顔も声も良くて、愛想がないくせに女子に人気で、家柄がよくて、そんな彼が羨ましい。
(カイル先輩には、マリアベル先輩だっているし。だったらせめて、アズティス先輩をくれてもいいでしょう)
僕が継ぐロストン伯爵家なんて、ノアイユ公爵家と比べものにもならないけど。カイル先輩は次男だからいずれ家を出る、だったら僕が彼女を娶った方が幸せになれるじゃないか。たくさんお金をかけてあげる、愛してあげる、だから僕を見て。
自分の欲望を知って茫然としたけれど、納得もした。
R.Wに誘われたのは、その後すぐのこと。




