手紙と罪状
公爵城に一泊して、翌朝に雑談まじりの食事をいただき、八時過ぎには護送の馬車が構えていた。
百合の家紋が描かれた黒い馬車。まだ人通りの多い時間帯に、この馬車で港湾都市ヴェルスの街中を突っ切るのはなかなかに胆力が要りそうだ。アズティスだって恐縮する。ノアイユ家の一員ではない自分一人のために……、と。
ただ、
『そうだ君のために一室用意しよう。部屋は有り余っているんだから、息子の婚約者のために空けておいたって誰も文句は言わないだろう。なに、来る暇がない? はっはっは、備えあればというだろう。用があれば……用がなくても来たまえ』
と、城内に部屋まで作られてしまった。それなら馬車程度に恐縮するだけ無駄ってもんだった。
見送りに来た公爵は、アズティスが悩ましい表情をしているのに気づいたのか「どうかしたか」と声をかけてくる。
部屋も馬車も受け入れた今、直近の悩みは婚約についてだ。
「婚約のことをカイル様にどう言おうかと。長い間、ただの『お友達』だったものですから」
「本人はすでに知っているし、承諾している」
「…………えっ」
昨日の今日で、もう伝わっている? 伝書烏か? いや伝書烏は学園で扱うものだ。それに婚約を報じてからその返事をもらうまでの一往復には、それなりの時間がかかる。
ということは。
(もしかしてあいつ、知ってた……!?)
アズティスが公爵の手紙を受け取った時、カイルはすでに承知済みだったのだろう。
何食わぬ顔で手紙を渡してきて、公爵家へ送りだして。昨日の授業中には「今頃は婚約について聞かされている頃か、さぞ驚いていることだろう、どうだあの怪物女め一杯食わせてやったぞ、ふっふっふ」なんて涼しい顔で考えていたに違いない。――なんて奴だ!
(というか最初から私に選択肢なかったんじゃないか)
この任務は婚約の相談なんかじゃなくて、事後承諾に呼び出されただけだった。
ノアイユ父子の手の平で踊らされていたようで、猛然と腹が立ってくる。
けれど、間違っても公爵に文句は言えない。帰ったらカイルの足を踏んでやろうと決意した。
馬車のドアを閉める直前。公爵は、
「すまないな」
と、謝罪を滑り込ませた。
「君の本来あるべき将来に、重たいものを背負わせてしまって」
婚約の件だろうか。それとも、それ以外の?
どちらにせよ、公爵の透徹とした眼差しにごまかしはない。
妻以外の女と子供を作った、この点はカースエリス子爵と同じ。だから公爵を心から尊敬することはできない。軽蔑すらしている。
けれど長男を後継ぎとして育て上げ、カイルを見つけて即座に引き取り、不自由なく生活させた。己の最低限の責任を果たしたというだけで、子爵よりも数倍は良い大人のように思える。
「……もっと幼い時期に閣下とお会いしていれば、私はここまで捻くれずに済んだことでしょう」
「私からすれば、君も赤子と変わらないがな」
そしてすぐに、公爵の手で馬車のドアが閉められる。身分あるものが進んで雑事をするのは、それが彼なりの気持ちということか。
お付きの者がぎょっとするのに構わず、公爵は「また来るといい」と、口の動きだけで伝えてきた。
アズティスも口を動かす。
――よろこんで。
御者が馬を動かして、馬車の車輪が進みだす。
公爵家の整った敷地を走り抜け、城壁を潜り、ヴェルスの街中を衆人環視の中で通り、やがて外へ。学園までの道程を進んでいく。車輪が石を踏む音はするけれど、座席への衝撃が限りなく少ない。
そういえば聞いたことがある。
ノアイユ家は愚直なまでの忠義でもって、王家に愛された大貴族だ。王家からの降嫁先として幾度も候補に立つほど。その忠誠心を歴史が証明しているのだ。
自由気ままを身上とする妖精とは真反対の、獣。
(獣、ねえ)
やっぱり彼が、そこまで危ない人間だとは思えない。
「どちらかと言うとわんわんだよね」
雪の中で凍え、痩せ細っていた仔犬。
そして図体ばっかり大きく育って、今や静かに頭を擦り付けて甘えてくる――たまに噛みついてはくるけれど――それだけの大型犬。なのに。
――『似合ってる。とても綺麗だ』
脳裏に過る声と共に、首筋に噛みつかれたような、ちくりとした痛みを思い出した。
首筋に虫刺されのような跡ができていたことがあった。鬱血していたようだった。制服のブラウスを着れば隠せる位置で、気にしてはいなかったけれど。
それを見つけたのが、懇親パーティーの翌朝だ。……パーティーの夜、確かに自分は彼といた。
「あ、あれ? あれぇ?」
(私、あの時、なにを言った……?)
酔っていた自分が、とんでもないことを口走った。聖女らしからぬ遊びがどうたらと。
それがきっかけになったのだろうか。彼の闘争心か、良からぬ感情に火を点けてしまった覚えがある。だって彼は涼しい顔をしながら、瞳が変にぎらついていた。
あれは主への態度ではない。
――獣は危ない生き物だ。
公爵の忠告が身に染みる。
ならばその獣にとっての『主』である自分が、まかり間違って『番』と『獲物』とすらも認識されてしまったら。その執着はどうなるのだろう? どこまで重く救いようのない、どんな名前の感情になるのだろう。
ましてやそれが、一族の中でも獣の気が強いという、彼のものなら。
(でもあいつにそういう気持ちがあるのかもわかんないし。ないはずだし。何かの間違いだ、うん、きっとそう)
いつになく心が騒がしい。ここまで焦るのはいつぶりだろうか。
(それに公爵の口ぶりからすると、婚約の件だってあいつが言い出したことじゃない)
そう、貴族の結婚には本人の意思が介在しないのが常だ。
だからきっと根本的なところでは、自分たちの関係は変わらないはずなのだ。
「失礼しました」
担当教官に任務終了を伝え、一礼し、そっとドアを閉めた。
ヴェルスから帰還して真っ先にここへ来たけれど、すでに夕刻だ。学舎にはほとんど生徒が残っていない。自分もさっさと寮へ帰ろうとした時、進行方向にカイルの姿が見えた。
こちらに歩いて来る。これから夜間実験の付き添い任務だろうか、アズティスの知らない二級生を三人連れていた。
二日ぶりに会ったからといって、変わらない鉄面皮。婚約のことなんて欠片も知りませんという顔。まったくとんでもない男だ。アズティスは近づく彼への苦情を心に溜め込んだまま、むっと睨み付けた。こんにゃろう後でぜったいに罵詈雑言を浴びせてやるぞという感じだった。
かといって、いまここで話す内容ではない。任務が終わったらその時に、と。
カイルは彼女の視線を冷静に見返してくる。二級生は怪物の睨みにびくついている。
二人が擦れ違うところで、アズティスの手首が彼に捕まれた。
そっと顔が寄せられ、
「明日、十六時に天文棟で」
耳打ち。たしかにそれを聞き取った彼女は、手首が離されると無言で足を進める。彼もそれで充分とみなし、問題なく任務へ赴いていった。
翌日、十六時。
武骨な石造りの高い塔は、この学園中で空が最も近いとされる天文棟である。内部の壁に沿う螺旋状の階段を階段を歩くと、途中途中で資料室や展示室などがある。最上階は、見晴らしの良い展望場だ。
アズティスは柵に手をかけて外を眺めていた。
空を覆うむら雲が夕日の茜色に縁どられて、海のようだ。
ゆるりと流れていく雲の下に、学園の整然とした建物や散歩道がある。ずっと向こうには街が見えた。民家は大小様々で、けれどきちんと並んでいて、米粒のような人が歩いている。川が夕日を細かく照り返していた。
そのうちに背後できいとドアが開く音がした。カイルが来たのだ。
アズティスは振り向きもしなかった。
「わざわざ時間指定してこんなとこに呼び出したってことは、婚約の話?」
「ああ」
「旧礼拝堂でも良かっただろ」
「あの場所には妖精が多い。確実に邪魔をされる。ここにはあまり人の眼もないし、お前が妖精を呼びさえしなければ邪魔もないだろう」
アズティスがふうんとひとまず納得して、一段落。
続いて本題に入る、
「弁解があるなら聞くよ。なんで私に黙ってた?」
「いずれ知ることなら、父から話をした方がいいと思った。お前は俺に強いが、それ以上の権力者を前にすれば断れないだろう」
「断られたくなかったんだ」
「お前がどこぞの好色貴族に嫁ぐことを考えたらな」
風が吹く。
アズティスは目の前の光景から目を離さず、長い髪を耳にかけた。
「まあいいよ。婚約とか、どうせ卒業までだろうし。それまでよろしく」
「卒業まで?」
「それ以上はだーめ。……だめだからね」
「…………。」
「黙るなそこで」
カイルは無表情のまま近付き、アズティスの頬をむぎゅっと摘まんだ。
「……いや、意味わかんない。何かあった?」
「今の一瞬でイラついた。なんだろうな、お前のせいであることはたしかだ」
「なんだそれ。いきなり酷いこと言わないでくれるかな」
「それより逃げないのか。お前の従者ではない俺なら、簡単に害を加えられる。こうして頬をつねる以上のことも」
「君は意味もなく私に酷いことしないよ」
「ここまでくると、お前が俺の行いをどこまで許容できるのか試したくなるな」
自分が被害者のような顔をするカイルに、アズティスは何を言ってやろうかと悩んだ。気が済んだのか彼の凶行が止まりはしたけれど、それにしても謎の行動だ。ぼうっと見下ろしてくる彼が、危うく見える。
アズティスはいかにも「しょーがないな」と言いたげに、彼の頬に両手で触れた。自分の手は冷たいから、これで少しでも彼の頭が冷えてくれるだろうか。
そのアズティスの手に、彼の大きな手が被さった。
「私は婚約を公表したくないんだけど、いい?」
「わかった。俺からは何も言わない。勝手に広まるだろうがな。せいぜい一週間程度か」
「具体的な予想やめろ。そういえば、婚約したいって君が言い出したのか?」
「その案を持ち出して、そうなるように仕向けたのは父だ。だが最終的に決めたのは俺だ」
「……もしもだよ。もしも私と結婚するなら、浮気とか許さないから。やったらその場で君を殺して魔術の実験台にしてやる。君の目を保存して加工してアクセサリーにしてやる」
「浮気しろと言われてもしない。実験台はやめろ。どうせこの先の人生も、お前の茶を淹れるので手一杯だ」
「林檎のお茶がいい」
「ああ」
「たまにはハーブのやつ」
「わかった」
言葉が少なく、弱くなっていく。
「あと桃のも好き」
「知っている」
「ミルクティーは茶葉の濃いやつ」
「心得ている」
言葉の数と反比例して、緊張感が強くなっていく。
彼の眼差しが、本人も自覚せず、愛しいものを見るように柔くなっていく。
アズティスは会話を切らさないように「えっと、それと」
「万が一、一緒に暮らすことになったら、……朝はダージリンとかもいいって思う」
「そうだな」
「私、スコーンとか焼くの好きだし。朝食用に、チェダーチーズとかベーコン練り込んで。そしたらちょうどいいね」
自分が未来を語る滑稽さに気づき、
「あ、でもそうはならないって思うけど。君と一緒になれないって、前にも言った、し」
「そうか」
「だから……」
弾切れ。
とうとうその場に沈黙が降りた。
他に言うことはないのか、と彼の目が語る。困ったことに、アズティスにはもう希望も苦情も思いつかなかった。昨日はあんなに苛々として、彼にくどくど説教しながら足を踏んでやるつもりだったのに。
(あ、だめだ、これ)
なんて、思う。
いまどういう状況に立たされているのか、自覚してしまったから。
(これは……逃げられない)
アズティスの両手は彼の頬に触れたまま。
彼女の手を覆っていた、彼の手が離れた。
「嫌なら言え」
と。
アズティスの後頭部が押さえられて、一気に引き寄せられる。二人の距離が縮まって、彼女の眼は恥ずかしそうに他所に向き、
「……べつに、いいよ。君なら」
一回だけだから。
とせめてもの強がりすら声に出せないまま、唇が塞がれた。
ここに何らかの感情があることは確実だった。口付けとは本来、互いの愛情のやりとりだ。
けれどアズティスはまだ、己の中の感情を見つけられない。
そういう雰囲気になってしまったから、流された。それだけ。
彼女はカイルの胸をそっと押して、距離を取る。
「こんなの一回きりだから。変な風になったら嫌だし」
関係の変化を頑なに拒みながら、アズティスはその場に蹲った。具合が悪いのかと屈みこんだカイルは、彼女の耳が赤いことに気づく。
「いま、顔あげられない。先に行って」
「俺としてはお前の恥ずかしい顔を見たいのだが」
「へんたい。ばか。あほ。こんなんで一緒に歩いたら、何かあったって気づかれるだろ」
「……わかった。ここは冷えるから、早めに戻れ」
彼が去ってしばらくしてからようやく、アズティスの頭が動きだす。
(これから私、あいつをうまく捌けるのかな)
願うならこれまでのように、主従もどきでありたい。その方が楽だから。彼が女性としてのアズティスを求めてきても、上手に丸め込んで、なかったことにしなければ。
(情の深みにはまれば、別れはつらい。あいつがかわいそーになる。それに、……そしたら、私)
そうしたら。
(私、本当に、死にたくなくなっちゃう)
もっと共に生きていたいと、愛ゆえに泣き喚いてしまう。
それはアズティスの人生で指折りの、不幸な瞬間になるだろう。無様で、愚かで。一生懸命に男を愛した母のような執着を、最悪の形で晒すだろう。
(……まだ大丈夫。一緒にならない、好きじゃない、好きじゃない)
何度も言い聞かせて、存分に頭を冷やして、彼女は地上へ下りていった。
*
アズティスのように堂々とした足音が出ないのは、靴のせいだろうか。
こと、こと、こと。小さな人形が歩いても同じ音がするに違いない。洗練された優雅な速度で、マリアベルは廊下を歩いていた。
周囲にはもちろん付き添いの生徒がいた。おなじみのモーリスやリト、パーティーの時にも傍にいてくれた女子生徒。
ふと、足を止めた。
マリアベルはその場で、左手の窓をぼうと眺める。瞬きの一つもしない無言の凝視を、周囲の生徒が訝しむ。
「……マリアベル様? 何か……」
運が悪かった、としか言えなかった。
偶然ここが四階で、偶然この時間で、偶然一瞬でも外に意識を遣ってしまったから。
天文棟にいる二人を見つけてしまった。
「あれはっ」
マリアベルよりずっと遅れて、モーリスが気付いた。
この場から複数の視線が注がれる先で、二人の顔が重なった。
気のせいと言い訳できないほど近く、長く。彼の手がアズティスの頭を優しく押えて、もう片方の手も背に回されて、離れるなと言わんばかりに。
事故ではない。強いられた行為でもない。彼の意思でそうしているのだと、傍目からもわかる。
――誰かの心が、ぴしりと罅割れる。
*
唇に指を当てて、あの感触を忘れなければと思う。
今日はカイルが任務で助かった。昨日の雰囲気を引き摺ったまま彼と会ったら、アズティスだって落ち着いていられない。
とはいえ本日も、授業と教官の手伝いという任務は完璧にこなした。明日は自分の遠方任務があって、彼とはすれ違いになる。次に顔を合わせた時は、上手い具合に平常心でいられるだろう。
(婚約の噂が、どういう風に広まるのかはわかんないけど……)
そのうち騒がしいことになる。今は束の間の休息というやつだ。
アズティスが寮へ歩いていると、よく知った後輩が「先輩っ!」と駆けてくる。
カイルの鷹揚とした足取りとは正反対の、飛び跳ねる小鳥のような軽やかさだ。
「はいこれ、お届けものでーす」
二位は鞄から薄い長方形の缶を取り出し、蓋を開けた。先日と同じようにアズティスへの手紙が溜まっているらしく、中身を引っ掴んで、
「……あれ、五通?」
「うん?」
「おかしいな、渡されたの四人だと思ってたんですけど……一通多い……?」
宛先はいずれも『アズティス先輩』か『アズティス・レオタール様』または『アズ様』だ。いずれも『教示要望書』。
「まあ一通くらい、影のうすいやつに渡されてたら忘れることもあるんじゃないかな。ぜんぶ私に宛ててるんなら、貰っとくよ」
「あ、はい」
納得していなさそうな二位から手紙を受け取って、一日を終えて部屋に帰った。
制服を脱ぎ捨てながら、もらった手紙に目をやった。
二位から届けられた教示要望書が五通。ペーパーナイフで一通二通と開けて、内容を読み、三通目は、
「『ティアデラ・レオタール元伯爵令嬢の罪状について』……?」
眉を顰めて、封筒を確認する。教示要望書とたしかに書いてあった。差出人はイニシャルで、『R.W』とある。
続きを読んでいく。
平民出身の女子生徒に、身分を蔑む発言をした。同女子生徒のものを盗み、それを壊した。階段から突き落とした。水をかけた。服を破いた。食事に異物を混入させた。男を雇って、襲うようにけしかけた。
などなど。
他多数の罪状を綴っていた。
アズティス・レオタールの母親の悪事。
差出人が、何を考えてこんなものを送ったのかわからない。
それは世代を超えた告発文だった。




