怪物と二位
マルティーク大聖堂のとある室内に、巨大な木がある。
ステンドグラスを抜けて注がれる陽光だけで枝葉を伸ばし、夏初めに花をつける。五枚の花弁でできた薄水色の花が何十と、丸い房状にまとまって咲く。それが枝中に連なるものだから、満開になると薄青い雲のようにも見えるのだった。
東の国の『サクラ』と形状は一緒でも、色だけが正反対。
そして夏季には赤い実をつける。
六歳の二位はそれを見上げて、おいしそうだなあ、なんて思っていた。お腹が空いていた。ぼへえと間抜け面で真っ赤な実を眺めていたら、
『食べてもいいですよ』
優しい声がした。穏やかなテノール。
幼い二位が振り返る。
男が立っていた。綺麗な金髪が風に靡いて、うっかり目を奪われる。
けれど逆光のせいだろうか、どんなに目を凝らしても男の顔だけが見えなかった。
『採ってすぐのものだけにしてください。時間が経つと。人にとっては毒になります』
男は二位の横を通り過ぎ、低い枝に成った実を一つ採った。それを二位に手渡して、どうぞ、と一言。無邪気に喜んだ二位は、赤い実を口に入れた。思った以上に甘くて柔らかい。噛むたび果汁がじゅわりと滲み出た。
――おいしい!
二位は目を輝かせて、男に訊ねた。
――あれはなんの木なの?
二位の知識にこの木の名前はない。図鑑にも載っていなかった気がする。こんなにおいしい実が付くのに。
男はああ、と一拍置いて、
『名付けには自信がないので……。エレオノールの木とでも呼んでください』
――エレオノール?
『僕の大事な女性です。彼女のために作った木なので、そのままでいいかなと』
そうなんだ。二位はわかったふりをして頷いた。
幼女にはことの重大性がわからなかった。
この部屋が教会の中でも奥まった位置にある一室であることも、たったいま名付けられた『エレオノールの木』がずいぶん昔からここに育てられていることも、後で不思議には思ったけれど。
二位が成長していくにつれ、この会話を忘れてしまった。
*
「何度も言ってるけど! わたしは! 伝書烏じゃないんだわ!!」
二位は積もりに積もった不満を爆発させ、机を叩いた。
「というかそもそも、こういうものは本人から手渡すのが普通でしょーが!」
教室にいた生徒がおそるおそる二位を見て、すぐに目を逸らした。
けれど相手も引かず、一通の手紙を二位に押し付ける。
「ほんっとお願い! あの人追いかけてもすぐ見失って捕まらないのよぅ! ここ何日か見てもいないし!」
「みんなが追いかけたら逃げるに決まってんでしょ」
「みんなで追いかけてなんで捕まらないの~!?」
「むしろ学園内で情報収集のエキスパートみたいな人に追いかけっこ仕掛けといて、なんで勝てると思ったの」
その地域にいなくたってリアルタイムの情報を見聞きできる人だということは、塩湖崩落事故の件で判明した。
そんな人を無理に追いかけ回そうなんて、どう考えても無駄な行為だ。追手がどこにいるか、どういう動きをしてるか、妖精を派遣されれば筒抜けになるのだから。
「喧嘩売ってるわけじゃないし……」
「同じようなものでしょ。先輩めんどくさがりなんだから、機嫌が良い時を見極めて行くくらいしなさいよ」
「それを見極められるレナに頼んでるんじゃん」
むしろどうしてみんなわからないんだと二位は思う。関われば関わるほど、あれだけわかりやすい先輩はいないのに。比較対象がカイルと眼鏡なので、多少偏った考えではあるけれど。
友人に押しに押されまくった結果、二位の手には手紙がある。
結局押し切られてしまったのだった。
「また受け取っちゃった……」
二位は鞄から、薄く広い缶を取り出した。一般的な書類サイズ。元々はクッキーの詰め合わせの入れ物で、それを流用して『先輩宛のいろいろ箱』と名付けたものだ。
開けると、すでに十数通の手紙が入っている。
すべて別の生徒から。宛先は『アズティス・レオタール先輩』または『カイル・ノアイユ先輩』へ。
先輩に会わなかったこの一週間で、これだけ溜まってしまった。不本意とはいえ引き受けてしまった以上、責任をもって渡さなければいけない。
二位は昼休みに席を立ち、アズティスを探しに行った。放課後にじっくり探したいとも考えたけれど、一級生の予定はただでさえ読めないのだ。昼休みに食堂へ向かった方が、すぐに見つかるかもしれない。
思った通り、食堂の前ですぐに見つけた。
けれど真っ黒い先輩のみだ。
(あの人の分だけ先に渡しとこ。ついでにアズティス先輩の居場所も……あの人に聞くのが確実だし)
ただいつもと違うのは、彼が知らない生徒と話しているという点だ。二位よりも年下の男女が四人、おそらく五級生だ。――等級付きのなりたてが、よくもカイル・ノアイユに近づけたものだ。
(いやあの人のすごさを知らないからこそかな)
二位は彼らに近づいていく。
カイルの声が徐々に聞こえてくる。
「無理だ」
今日も取り付く島もない返答だ。何に対しての却下なのかはわからないけれど。
「渡してくれるだけでもお願いできませんか……?」
「そういうものは本人から手渡すのがマナーとされている」
おつかいを頼まれている二位はぎくりとした。そして、あの五級生も同じ用件でカイルに近づいたのだと察せられた。
「でも、近づけもしないんです。教示要望書、あの人に渡したい人、まだいっぱいいるのに」
「…………。」
カイルは無言で溜息を吐く。
教示要望書は、学園内でしばしば用いられる。元は魔術研究所に端を発する制度だ。
平たく言えば、特定の分野に秀でた先達に、魔術の指導を願う手紙。
あくまで個人授業を要望する意思表示であって、決定権は受取人にある。これまでも学園内では、もっぱら試験前によくみられた。けれど塩湖崩落以降、試験前でもないのに教示要望書の発行が頻発していた。その宛先として人気なのが一級生の上位三人らしい。
(前までは、恐れ多すぎて三人には近づけもしなかったのに……)
学園の黄金期。その象徴たる三人が卒業間近ということもあり、魔術師の卵たちは暴走気味なのだ。
今の冬初めから冬になり、冬を越え、夏始めを迎える頃に卒業だ。残された時間を考えると、今まで周囲でじりじり盗み見て試すだけだった技術を直接学びたいという欲求が溢れてしまうのも無理はない。
(アズティス先輩、卒業したらどうなるのかな)
二位はたまたま、彼女が生贄候補であることを知ってしまった。
近頃の学生たちの浮かれ具合に思うところがあった。静かに過ごさせてあげたい。そう思いはすれど、二位の腕には『先輩宛のいろいろ箱』が抱えられている。これが現実なのだった。
二位が湿っぽい顔で立ち竦んでいる間にも、カイルたちの話は進んでいる。
「五級生だったな。魔術方式の違いは習ったか」
五級生たちは顔を見合わせて、
「ま、まだ、です」
返答を受けたカイルは相も変わらず無表情に、
「妖精魔術と、学園の推奨魔術は別物だ。あれは完全に才能頼りで、少し聞いただけで何かを掴めるとも思えない」
「でっ、で、ででででも、上級生は得意魔術を持つって。それだって、才能だと思うし、本当にすごいって思いますし、だから、あの、僕らにだって、将来的な才能がある……かはわからないけど、絶対にないって言えないじゃないですか……?」
「そうっ! 私たち、先輩たちみたいにすごい魔術師になりたいんです!」
「お願いします!」
五級生、頑張ってるなあ。
(ていうか一人涙目になってるじゃない。あとでアズティス先輩に告げ口しとこ)
先日の件からカイルの弱点を知っている二位は、彼らの攻防を見守った。
「やはり俺たちの『才能』と彼女の『才能』を混同しているようだな。……例えば、俺の得意魔術は契約魔術だが」
「存じてます!」
「知ってます!」
「方式で分類するなら、契約魔術も推奨魔術の内だ。どれだけ改良を重ねても、規模を大幅に広げようと、そもそもの魔術方式自体は変わらない」
現実に、契約魔術は学園のカリキュラムの内だ。
妖精魔術を専攻するアズティスも契約に関しては学園で習ったものを基礎としているし、契約魔術の精度自体はカイルに敵わない。
「学園で習った契約魔術を改良し、己の魔力を組み合わせ、扱いやすいよう馴染ませたのが俺の契約魔術だ。上級生の数人は得意魔術を持つというが、ほぼ全員が推奨魔術を基礎としている」
推奨魔術以外の方式を知る術は、今のところ少ない。
習いたいなら、その道のエキスパートに弟子入りする他にない。
「彼女の妖精魔術は、生まれ持った魔力と環境による賜物だ。現時点で才能が『あるかも』という程度では話にならない」
カイルはアズティスと違って、年下相手にも硬質な態度を崩さない。
そして追い打ち、
「彼女と出会ったのは八歳かそこらだったが、その時点でやつは妖精言語を習得していた」
五級生、見事玉砕。
鉄面皮カイルの洗礼である。
五級生がそれぞれ抱えた『教示要望書』が、一生懸命に書き綴ったのであろうそれが、小さな手に握られて皺くちゃになっていく。胸が痛くなる光景だった。よし今こそカイル先輩こんちくしょうの足を踏んでやろうと二位は奮い立ったけれど、
「……それでも彼女に教えてほしいか?」
「っ……はい……!」
カイルの一言に、一抹の希望を見たと彼らは顔を上げる。
「あの性格を考えれば期待はできないが、渡すだけなら頼まれよう」
なんだ意外と優しいじゃん、と思ってしまった。雨の中で捨て猫を拾った破落戸を見たのと同じ心地なのだろう。
五級生たちが去っていくのを確認した二位は、即座に彼を呼びつける。
「カイル先輩!」
周囲の生徒がぎょっとする中、二位はカイルの元に走っていく。彼も少し驚いた様子で振り返る。
「お届けものでーす」
と、まずは缶の中からカイル宛の手紙を出した。どれも教示要望書だ。カイルは無言でそれを受け取り、「近頃は人伝にするのが流行っているのか」とぼやく。二位だって不本意なのだと解っているのか、叱られはしなかった。
「あと、アズティス先輩どこにいるか知ってます?」
「アズティス?」
彼の前で缶を開いて見せる。彼は「なんだこれは」と眉根を寄せた。
「ぜんぶ先輩宛てです。妖精魔術について教えてほしーって」
カイルは何かを言おうとしたようだけれど、諦めたらしい。
「――……彼女は近頃、任務か授業の後はほとんど研究室に籠っている」
一級生専用の研究室には、希少な薬草類や実験器具が備えられている。二位もその部屋の存在は知っていた。
行くぞと一言声をかけられて、食堂を目前に廊下を引き返していく。
「あのっ、ご飯いいんですか? それに研究室って一級生しか入っちゃいけないんじゃ?」
「食べ物は購買で買える。研究室には一級生が同行すれば問題ない」
研究室は学舎の最上階にある。フロアの廊下がドアで塞がれている地点があり、そのドアの先――教室四つ――がすべて一級生に貸し出されているのだ。
ドア前に受付表がある。名前の左隣に日付を入れる欄があって、アズティスは三日も連続して入っていると知れた。名前の右隣には手書きの『2』の表記――二号室に入っている、とカイルは説明した。
彼はドアを開けながら、
「先に言っておく。部屋に青い光源を認識したら、そちらを見るな。青い光は十中八九、魔法陣だ。直視すれば倒れる。そして彼女の妖精言語を理解しようとするな。聞き続けるのも止めておけ。下手をすれば気を失って、現実に帰ってこられなくなる」
廊下のつくりは、別フロアと変わらなかった。教室のドアも。けれどその一部屋ずつが、一人の生徒に貸しだされているのだそうだ。
カイルが『Ⅱ』のドアを開いた。
彼に続いて入り、床の中央に青い光を視認した途端、二位はさっと目を逸らした。
中央にいるアズティスだけを注視する。
彼女はそこに浮いていた。
床に足もつかず、身を空気に任せ、髪と裾を揺らめかせて、水に漂うようにふよふよと。彼女の周囲だけ、重力から除け者にされている。
この場にいる二位たちを認識しているのかも怪しかった。




