昔話α-Ⅱ
その五日後、暑い時期のことだった。
当主が休暇を取った。そして避暑に行こうと言った。正妻である夫人と、アズティスを連れて。
アズティスは、父親が初めて自分を見てくれたことに喜んだ。これは『いいこと』をしたご褒美なのだと疑わなかった。
旅立つ前に、屋敷の前で、父親は言った。
「お前は、英雄さんになるんだ」
「えいゆうさん」
「とてもとても、偉い人のことだよ」
「父上、それは――」
とっても、いいことなの?
アズティスが尋ねたら、父親は心から嬉しそうに、
「ああ、素晴らしいことだ」
そう笑った。
だからアズティスもつられて笑った。
馬車に揺られて着いた、人里離れた小さな屋敷。つい最近掃除されたようで、埃はなくて涼しくて、快適だった。
大きなベッドに親子三人で寝転がった。これも初めてのこと。アズティスは嬉しかった。
耳をつんざく悲鳴で目が覚めた。
目の前で黒い液体が散った。
母親の血だった。
月の明かりだけが頼りの青黒い部屋の中、何が起きたのかわからないアズティスは叫びそうになった。けれど大きな手で口を強く塞がれた。誰だろう? 両親でないことだけはわかった。視界の端で何かがきらりと光った。ナイフだと理解した直後に、それが身体に突き立てられた。
「ッ――!」
一度。
「……、ぐッ……」
二度。
「ぃ、――ッ!」
三度に渡る凶行は、幼い身体に穴を空けた。
手足がびくびく跳ねた。目は見開いたままだった。ナイフの軌跡は怖くて見逃せなかった。目は塞がれていなかったから。どうしてなのかわからなかった。ただただ、わからなかった。どうしてこんなことをするのか。どうしてこんなに痛いことをされているのか。どうして父親らしき人が見えないのか。
両親は、隣で眠っていたはずで、それなのに。
腹と、腕と、太腿。無作為に空けられた三か所の穴から、若く新鮮な血液が溢れ出す。少女の暖かくて柔らかい筋肉は、鋭い刃に簡単に負けてしまった。筋線維が断裂して、デリケートな内蔵が破れた。刃が刺さる時も痛かったけれど、乱暴に引き抜かれる時も、傷口がびちびち切れて地獄のようだった。筋肉の繊維や皮膚が引きずられそうになる感覚を初めて知った。一瞬入ってずちゅりと抜けていく刃の無機質な冷たさが、皮膚を通さずに伝わってきた。
どく、どく、血管が脈打つたびに、アズティスは傷口の痛みに泣いた。痛い。痛い。痛い。熱い。熱いだけならまだ良かった。頭は妙に冷めていて、傷口の痛みがよくわかってしまった。呼吸をしたくても、それでついお腹を動かしてしまっては傷口に強烈な苦痛がある。だから浅い呼吸になった。鉄臭い部屋で、夏の生ぬるい酸素をひゅうひゅう吸った。血でべとべとになったベッドの上で、ははうえ、ははうえ、と譫言のように呟いて泣いた。痛いよ。助けて。助けて。カイル、
「……けて」
そうしていると、頭の中で、ぱちんと何かが弾けた音がした。
「たすけて」
助けは来た。
やけに物々しく、医師の集団が部屋に飛び込んできた。
アズティスは治療を受ける。優しく止血されて、手厚い治療を受けた。血を失いすぎたのか、意識はだんだん遠くなっていく。
その不明瞭な視界の中で、アズティスは、隣にいる母親の存在に気が付いた。
大きなベッドの上で、端と端に離されていたから今までわからなかったけれど、そこに傷だらけの母親がいるのだ。ははうえ、と口を動かすと、母親の手がぴくりと動いた。
(まだ生きている)
生きているのに。
(なんで、母上を治してくれないの?)
一人の医師も、母親の傍にいない。傷口はそのまま。血液は垂れ流し。これではまるで母親の死を待っているようだ。
(なんで母上を無視するの。母上をたすけて)
ははうえを、ははうえを。
何度も訴えたのに、医師たちは聞いてくれない。
(わたしじゃない。母上を)
誰か、お願い。
(ははうえが、しんじゃう)
傷の痛みに泣いて発熱に呻いた。寝込んでいて、時々意識が戻っても視界は潤み歪んでいた。優しい誰かに手を握られた。知っている手だ。それだけは覚えている。
歩ける程度に回復したアズティスは、一人で墓の前に立つことが多くなった。
小さな手で摘んだ花を、嫌われ者だった母親の墓に供える。
母親は正妻なのに、なぜかカースエリス家の墓から離れたところに埋められていた。屋敷の敷地から微かに外れた、薄暗い林の中だった。
墓石には、蹴られた痕も、虫の死骸も、唾が吐かれた形跡だってあった。
「ははうえ」
悲しくなったアズティスは、墓に行くたび一生懸命に掃除した。初めは使用人の誰かに頼んでいたけれど、次に来てみれば元の通りになっていたから、だんだん使用人を呼ぶのも面倒になったのだった。
母親に教えてもらった魔術は、墓の掃除にも役立てた。
ふと思い立って、墓石の前で夜を明かそうと思った。
母親の墓に悪さをする人間がいるから、自分が見張りになればいい。危ない人が近づくと妖精が教えてくれるし、どうせ屋敷にいても一人だから、構わないと思った。
けれど目が覚めるとベッドの中にいた。
温かい林檎のお茶が、サイドテーブルに置かれていた。
それから母親の墓が荒らされることはなくなった。アズティスが墓に行くと、新しい花が一人分、ちょこりと供えられるようになった。
アズティスが何度墓の前で眠っても、翌朝には必ずベッドにいるし、林檎のお茶もあった。
そんな生活が続いて、とうとう寂しくて仕方がなくなった。妹に声をかけるのは怖いけれど、そろそろカイルを返してもらおうと考えた。
でも、あの子だって可哀想な子なのに――。
迷っているうちに、カイルが公爵家の血筋だと判明して引き取られていった。
そうしてすぐに、どうしてだか、母親の墓はまた荒れ放題になった。
アズティスは体力と時間が許す限り、墓守に徹した。
お茶が淹れられていることもなくなった。
その日も、墓を掃除した後だった。
寒さで悴んだ手を擦りながら廊下を歩いていると、書斎から、父親とその友人の会話が聞こえてきたのだ。
『あ 娘は、今や国 の 力の持 だ。信 できる魔 に めさせ ら、やはり 力が く って ると』
『な ど、うま やっ も な』
『ああ、まさ こ まで まく と 』
『こ でお の な 娘も』
『そう、 リア ルも、 れる』
その会話を、じいっと。
アズティスは、聞いていた。
アズティスは本を読み漁った。魔術に類するものは大抵読んだ。母親の墓にまで持っていって、暇があれば頭の中に知識を詰めた。
痛い思いをしなければいけなかった理由と、母親が死んだ原因を知った。
生まれ持った魔力は努力によって伸ばすことができる。けれど先天的な限界というものはあるし、何より本人の努力と時間と資質が必要だ。
ただ一つ、努力も時間も必要とせずに、魔力を飛躍的に大きくできる方法がある。
死にかければ良い。
ぎりぎりまで死に触れて、己の魂を感じて、恐怖も痛みも、常とは比べ物にならないほどの感情を揺れ動かさせて、そうして魔力は元の何倍にも膨れ上がる。ただし成功する確率は限りなく低く、必要なのは確固たる『素質』と、途方もないほど奇跡的な『運』、すなわち魔術の『才能』だ。
それを、あの父親は、
(……私で、成功、させた?)
アズティスの頭に、すとんと何かが落ちた。
それまでの苦痛と悲劇、書斎から聞こえた会話、それに含まれた意図を考えて腑に落ちてしまった。
元々アズティスは、国中で二番目に魔力の高い人間だった。
それが今は、国で一番になった。
そんなことのために殺されかけたのだと、理解した。
(そのついでに、母上が殺された)
アズティスは痛くて悲しい思いをして、わざわざ生かされた。
生贄にされるために。
(マリアベルの代わりに、死ぬために)
アズティスは一人の部屋で、ベッドに潜って考えた。
父親が、正妻ではない別の女性を愛していたことなんて知っている。これまでにだって、何度も何度も思い知らされてきた。
それだけでは足りなかっただろうか。
母や娘を視界に入れず、当てつけのようにあの子を可愛がって、それでは気が収まらなかったのだろうか。どうせ死んでも構わないとすら思っていたのだろう、だって成功例もほとんど確認できていないんだから。そんなに自分は要らない子だったのだろうか。悪い子だっただろうか。そんなに、そんなに、そんなに――、
誰かの命を奪うほど、『真に愛した女』の子供は可愛いのか。
心に生まれた疑問を、誰に問えば良いのだろう。
仮にどこかから答えが返ってきたとして、それで納得できるだろうか。わかりやすい答えを望みながら、わかりたくもない。
父親は愛娘惜しさに憎い女の娘を使う。母親の罪を子供が償えとでも言うのだろうか。そもそも何故父親の不義は許されて、母親の罪は許されなかったのか。――この理不尽を素直に甘受できるほど、アズティスは大人でもないし、優しくもないし、ましてや聖女でもなかった。
「嫌いだ」
流す涙は悲しさからではなかった。
「みんな、……みんな、嫌いだ」
胸の内に湧き上がる、怒りが溶け出した液体だった。
だって今もあの父娘が温かく笑う声が聞こえる。
(私はマリアベルが嫌い。父親も嫌い。おまえたちが大嫌い。マリアベルの味方ばかりする使用人も嫌い。汚い手を使っておいて隠蔽できる貴族も嫌い。母上を助けてくれなかった医者も嫌い。私を傷めつけるこの世が嫌い)
アズティスはカースエリスを名乗れなくなった。つい最近没落した、レオタールの姓を名乗れと言われた。
自分がカースエリスの屋敷の敷地から放り出されず生かされているのは、姉のために心を痛めるお優しいマリアベルのためだった。
学園に入るまで、ほとんど誰とも会話をしなかった。
泣いたって怒ったって、慰めてくれる者も、優しく宥めてくれる者も、いないのだから。