大崩落-II
転移魔術は未だ実現には至らず。
発信側と応答側にタイムラグのない相互通信の魔術も、存在はすれど、開発した魔術師の専売特許となっている。
アズティスは、相互通信と似たことができる。だいぶ迂遠で、手間のかかるやり方ではあるけれど。
アズティスは手を開き、そこに落ちた雪の一粒に目を留めた。「これでいっか」。一言の後に、きゅるぅぃう、と微かに引き絞る音がして、そこに細い針が現れる。氷の針だ。それを見た途端、彼女の頭や肩に乗っていた妖精三匹がそわそわと立ち上がる。
彼女は針で、己の人差し指を突き刺した。指の腹からすぐに滲み出て、ぷくりと盛り上がる血液。これが妖精たちにとって極上の餌であることを、アズティスは知っている。
「食べていいよ」
三匹が順番に、血液を舐め取った。
瞬間、妖精たちが巨大化した。人間と同程度に。背丈に応じて、羽も大きく立派になった。
「これは」と目を見開く前侯爵に、アズティスは簡単に説明する。
「摂取する魔力の質と相性が良く、それなりの濃度があれば、妖精としての格も上がってこうなるんです。魔力は体液に宿りますので、手っ取り早く魔力を供給するには血液を食べさせるのが一番いい」
だからこの侯爵家には妖精を娶っただとかいう逸話があるのでは、と彼女は考える。妖精をこうして成長させてしまえば、人間のように扱うことも可能だ。羽を隠して人の服を着せ、何食わぬ顔でパーティーにだって連れていける。抱き締めることも愛することもできる。だから決して、有りえない話ではないのだ。
その妖精の血が、末端の末端の末端の、親戚であるアズティス・レオタールにまで混じっていたら。
だったら銀髪も青の目も、その妖精の色なのだろうか。
自分の根源をぼんやりと考えながら、アズティスは己の配下の妖精たちを見た。
金髪を肩で切り揃えた雌が一匹。銀髪のツンツン髪と、赤い長髪の雄が二匹。
一般的に妖精の容姿は美しく、人間と同じ背丈になれば美貌も際立つ。
妖精たちは自分の体を見下ろすと、顔を明るく綻ばせた。雌はアズティスに後ろから抱き着いて、羽を忙しなくばたつかせながら全身で「うれしい」と「だいすき」を表現していた。
アズティスは擽ったそうに頬を緩ませて、雌妖精をよしよしと落ち着かせつつ、
「君はここに残って私の護衛ね。私、しばらくの間は動けなくなるから責任重大だよ。いい?」
雌妖精はこくこく頷いた。
それを確認したアズティスは、続いて雄妖精の二匹に目をやり、
「君と君は、あっちに急いで飛んで、私の目になってほしいな。できる?」
雄妖精は二匹とも了承したと頷いて、その場で飛び立った。アズティスが気にしていた北方へ、一直線に向かっていく。
急いで飛んでという命令の通り、二匹の姿はすぐに見えなくなった。
前侯爵は、自分が飼っている妖精をじいっと見つめていた。好奇心が輝く童子の瞳だった。
アズティスは念のために注釈を加える。
「大変に申し訳ないんですけど、それなりに大きな魔力の保有者でないと、相性が良くても妖精は大きくなりません」
前侯爵は残念そうに「なるほど」と答えた。
北の方に行って。という曖昧すぎる命令を発して、一時間近く経っただろうか。
雪は降り積もり、見える範囲はうっすら白い。この天候に思うところはあるけれど、現状では手の付けようがない。
急激に低下した気温の中では辛かろうと、前侯爵には屋内へ戻ってもらっている。窓からこちらの様子を窺っている気配だけはあった。
アズティスも、正直言って寒い。
まだ夏の暑さが残っていたはずの九月。
外にいるのは、静けさが丁度いいからだ。音を吸い込む雪の性質が、今はありがたい。人様の家で魔法陣を展開することになれば、心証があまり良くないという事情もある。
「そろそろかな」
アズティスは呟くと、隣の雌妖精に「しばらく『潜る』から」と言い置いて、目を閉じる。するとアズティスの目には、飛び立っていった妖精の視界がそのまま映る。
これ自体は、得意の妖精魔術ではない。
妖精のテレパシーと契約魔術を応用した、遠隔監視方法だ。
赤い長髪の雄妖精の視点が、アズティスの閉じた瞼裏に展開されている。
森林の中を走る列車をすぐに追い越して、細い線路を辿るように飛んでいる。――アウルベアの件で、二位や眼鏡と一緒に乗った鉄道だ。たしかに北方へ向かっているようだ。
――「十一時の方向に動いて」
アズティスは、声に出さずに呟く。すると雄妖精二匹は、指示の通りに方向を変えた。
次第に、森林に繁殖する草木の種類ががらりと変わる。塩湖が近くなると、塩害のため普通の植物が育たない。いま眼下に広がっているのはすべて魔性植物だ。
すぐに、割れた塩湖が見えた。
上空から見てもはっきりとわかる、真っ二つの地割れ。その中心部が特に深く広く崩壊していて、底が見えない。
どういうことだろう。
考える間もなく、例の遺跡と魔物の大群が見えてくる。
「え、待ってほんとにどういうこと?」
現実で声が飛び出した。隣の雌妖精がびくりと驚いて、どうしたのかな、だいじょうぶかな、と不思議そうに飛び回るけれど、遣わした妖精に潜っているアズティスは気づかない。
――「できるだけ近づいて。見つからないように」
その指示の通りに、妖精二匹は岩陰に身を隠した。
魔物と学生が戦っている。ほとんどが二級生だ。――マリアベルもいない?
アズティスは眉根を寄せながら、妖精の視点で学生たちの様子を見守った。
この場の魔物は、本来なら正規の魔術師か、一級生の上位が任されるレベルの個体ばかり。
二級生もまったく素人ではないとはいえ、足手まといにしかならない。
眼鏡が、大量の汗を流して膝をつきながら、立ち上がろうとしている。
一級生は皆が奮戦しているけれど、厳しい戦いだ。
唯一の教官は怪我の一つもないけれど、予断を許さない状況だとその表情が語っている。
二級生が二十人がかりで結界を張り、魔物を外に出すまいと震え立っている。蜘蛛が吐いた毒で地面がじわじわ溶けている。蜂の魔物の大群に二級生が炎で対抗して魔力が制御できなくなっている。魔力切れを起こした生徒たちが集められて別の二級生が結界を張っていた。
ここは間もなく死地になるだろう。
他人事の視点で見ているアズティスは、それでもすぐに動こうとはしなかった。
自分にできることは、その場にいる妖精二匹の遠隔操作。それで事態が好転しなければ、アズティスのおともだち二匹を失うことにもなりかねない。
ならば無視をしてもいいかもしれないとすら考える。
どうせ自分とは関係のない任務だ。介入すれば責任も伴う。
彼らは運が悪かった。幼い体に刃を突き立てられ、最愛の母を奪われ、別の誰かの代わりに生贄にされる自分と同じように。
仕方のないことだ。遠方にいるアズティス自身の安全は確信できたから、それだけでいい。
けれど銀髪の雄妖精が無邪気に問う。
あずてぃすの
おともだちが
いるよ?
――お友達?
げんきなこ
あかるいこ
にばんのこ
――二番の子。……二位?
そう
あのこ
みずのなか
ずうっとしたの おく
水の中、ずっと下。
魔物の氾濫、塩湖の崩落、そして演習の内容を思い出す。
つまり塩湖の崩落で遺跡に水が流れ込み、魔物が溢れているのだ。演習中だった二位が遺跡の地下に取り残されたまま。
妖精との会話に慣れすぎて、驚異の理解力を発揮するアズティスである。
これはとてもまずい状況なのではないかと、ようやく焦り始めた。
二位は妖精と同じく裏も表もない態度でお茶会に参加してくれた。アズティスのお気に入りだ。
それによく考えれば、今にも魔力切れで昏倒しそうな同級生の眼鏡だって「アズ様」と呼んで慕ってくれている様子だった。
顔を覚えていない二級生の中にも、アズティスのカーテシーに拍手をしてくれた生徒がいるかもしれない。
じゃあもしかして、助けなければいけないのでは?
自己中心的な理性と、少しばかりの人情。その間で迷いに迷った末に、彼女は「……ん」と一つ頷く。
この時ばかりは動くことにした。
――「少し頑張ってもらうけど、いい?」
妖精は応える、
がんばるよ
だいじょうぶ
主人の代わりに頑張るからと。少しの間なら耐えられるから、使ってほしいと。
妖精は呆れるほど純粋で、主人の機微に敏感だ。
――「『私の代わりになって』くれる?」
主人からの問い、
いいよ
つかって
従者からの応答。
これでアズティスなりの相互通信方法が、真の意味で確立される。魔力の結びつきが強く、ぴんと糸で繋がれた感覚がある。
妖精が岩陰から飛び出した。
膝が笑っている眼鏡の傍に降り立って、警戒して飛び退こうとする彼女に、先んじて声をかける。
「『これは私の妖精だから、敵じゃない』」
妖精の口を使った、アズティスの言葉だ。
眼鏡は、明らかに魔物ではない生き物に目を丸くして、
「アズ様……!?」
都合が良すぎる、まさかそんなはずはない、という顔だった。
眼鏡の声に、「え?」と間近にいた学生が振り返った。眼鏡が敬うアズ様とは、一級生の一位をおいて他にない。この状況を打破できるかもしれない、学園の怪物。その実力のすべては誰も知らないけれど、もしかしたらと――絶望的だったその場に、悪戯な希望がちらついた。
「アズティスさん?」「来られるの?」その声をすべて無視して、アズティスは淡々と答える。
「『そう私』」
雄妖精の喉を使っているために男声だ。
アズティスの口調が中性的なので、あまり違和感がない。
「『演習中に事故があったっぽいね。連絡取れてないのは何人?』」
「ご、五人。一級生マリアベル、二級生のレナ、セリーヌ、モーリス、リト。遺跡の最下層に落ちた。結界を張って凌いでる。あたしたち、こんな状態。救出に動けない。学園に伝書烏飛ばした。でも、すぐには援軍、こない」
眼鏡の眼鏡は片側が割れていた。
アズティスと通信していて少しは落ち着いたのか、ほうと息を吐く。
「五人の中に、アズ様の仲良しの子がいる。アズ様、いつも二位って呼んでる、任務で一緒になった、レナって」
「『二位はレナって名前だったのか。初めて知った』」
こんなところで知りたい情報ではなかった。
「アズ様、来てくれるの?」
「『行けなくはないけど、時間がかかりすぎるよ。私の本体はほぼ正反対の地域にいる。カイルは?』」
「いない。そっちにも鴉は送った」
「『あいつがいれば、二位の救出にも色々便利なんだけどな……』」
レナという本名を知ってもなお、アズティスの中で二位は二位だ。
「『小一時間待っててくれれば援軍を送れるから、到着したらそいつらに魔物を任せて。できる?』」
「い、一時間」
「『そこにいる二匹がサポートする』」
「……やってみる。待ってる」
「『ん』」
続いて雄妖精は、教官の元に飛んだ。教官が多くの魔物を引き受けていたために話しかける機会を窺っていたけれど、攻防の切れ間にようやく降り立てた。
教官のエリオットは、年若い男性だ。鷹揚として顔も整い、女子生徒に人気がある。彼は息が上がっているけれど、魔力にはまだ余裕がありそうだ。
「おや、君は? 大妖精がこんなところに、何の用かな?」
「『一級生、アズティス・レオタールです。契約している妖精と同期しています。この任務に参加はしておりませんが、応援の妖精をお送りして介入する許可をいただきたく思います』」
「アズティス君か。ああ、それは心強い、ねっ!」
エリオットが飛び退いた。雄妖精も釣られて飛びあがる。直後に、先ほどまで立っていた地面が、魔物が吹いた炎で焼け焦げた。
エリオットが複数の魔法陣を展開して土人形を作り上げながら、
「いいよ、許可する! できるだけ早くお願いしたいなっ!」
「『ありがとうございます。善処いたします』」
許可を得て、それきりアズティスは妖精との音声同期を解除した。
雄妖精への置き土産として、新たな命令を下す。
――「また様子を見に来るから、それまで魔物をたくさん倒すこと。犠牲は最小限」
一人も死なせるな、なんて無茶は言わない。
――「危なかったら退避して。少しだけ頑張ってくれれば、あとは一日おもいっきり飛んで、遊んでいいから」
何かがあったらテレパシーを飛ばしてこいと最後に命じて、アズティスは目を開く。
雪の白が深まった景色がそこにあった。くるりと見回すと、雌妖精が真面目に周囲を警戒して飛び回っていた。とてもいい子だ。
その場で呼吸をする。
冷たい空気が喉を通り、肺に達して、凍り付きそうだ。
「援軍、どれくらいがいいかな」
物事には境界がある。
壁の内外。朝と夜。魔術師と一般人。砂時計に見る上と下。
アズティスが気に入っている人間と、そうでない人間。
あまり頑張らなくていいものと、少しは頑張らないといけないもの。『少し』を隔てる決定的な一線。本気の方面に一歩踏み出してしまったら、そこはアズティスの戦場だ。それなら戦に臨む、相応の態度を取らなければいけなかった。
「んー……? ちょっと多いくらいでいいかな? どうだろ……なんでもいいか」
――ほら、みんな。お仕事だ。
心の中で彼らを呼ぶ。ささやかなざわめきの気配が伝わってくる。さわさわ、と微風に揺れる花のように穏やかで、どこか浮足立っている。学園に置いてきた小さなおともだちみんなの、歓喜の息遣いだ。
アズティスは白い指を、ぱちん、と鳴らした。
――今日は大盤振る舞いだ。
同時刻、アズティスの私室の一部に変化があった。
彼女の血液が満ちた小瓶。妖精文字が書かれた革紐が、ぎゅぐぐぐぅ、と小瓶を締めつけ始める。その圧力で小瓶はあっさり割れて、内容物が漏れ出して、机上に丸く広がった。
様子を見守っていた妖精たち一匹一匹が、アズティスの血液を両手で大切に掬い、小さな口でこくりと飲んだ。
そして人間のサイズを取って、アズティスの部屋の窓から飛んでいく。行先はノートリア・ガルナス遺跡。先に遣わされた雄妖精二匹の気配を追った。
いいの?
だいじょぶなの?
みんなで
あそんで
とんで
とおくで
ほんとに いいの?
興奮混じりの戸惑いに、アズティスは飼い主として答えてあげた。
――「『 』」
妖精の言葉で、私が許す、と。




