義姉妹と格差
マリアベルは知っていた。彼の世界の中心は、あの冷たい義姉であることを随分前から気付いていた。
失恋もしている。
去年のことだった。負傷した彼に告白した。
『爵位も立場も関係なく、私個人として、あなたが好きなのです。子供は要りません。あなたと一緒にいたい』
夕焼けで染まった医務室だった。
自分の想いを告げて、それでも願いは叶わなかった。
十年近く温めた恋の、決定的な敗北。負け戦だなんて最初からわかっていたから、さほど悲しまなかった。
その後も気まずくなることなく社交界で相手をされるのも、学園で雑談に付き合ってくれるのも、彼が人として優しいからだ。こちらが混乱してしまうほどの自然さで、ただの友人としての付き合いをしてくれるからだ。
都合の良い勘違いをできるほど、マリアベルは愚かではなかった。
けれど周囲に侍る男子生徒たちへ笑顔を向けた時に、ふと考えてしまう。
――カイル様であれば良かったのに。
聖女はこんな考えではいけないのに。
ぐら、と足下が揺れた。はっとして気を取り直すと、周囲の生徒も揺れを感じたらしい。その騒々しさで思い出した、今はパーティーの最中だったのだ。
「地震?」
「最近多いよね」
無意識にシャンデリアを見ると、よく見れば揺れているかな、という程度だ。地震はすぐに収まって、元の平和な喧騒に戻っていく。
顔見知りの女子生徒が、
「マリアベル様、大丈夫ですか?」
「ええ、ごめんなさい。少しぼうっとしていました」
「何かお飲み物をお持ちしましょうか?」
「そうですわね、ありがとうございます。アルコール以外でお願いいたします」
はい! と嬉しそうにドリンクコーナーへ向かう彼女は熱心な聖女信者で、パーティーの最中も何かとマリアベルに気を配ってくれていた。先のカイルとアズティスのやりとりにも苦い顔をしていて、マリアベルの代わりに憤慨していた。
――貴女が信じるマリアベルは、二人の仲に怒れる立場ではないのよ。
言いたくても言えなかった。自分にその資格がないことをわかっている。だからこそ、他の者が怒ってくれていると思えば少し気が晴れた。こんな自分を狡いと思う。
(お義姉様は知っているのかしら)
広いパーティー会場は、マリアベル派とアズティス派で顕著にまとまっていた。だからこそ、勢力の変動が目に見えた。
かつて学生は、四割のマリアベル派、一割のアズティス派、五割の中立派で構成されていた。
先のアズティスのカーテシーに好意的な拍手をしていたのは、およそ半数。一割という数ではないし、残りが中立派かといえば、そうではない。
アズティス派が増え始めている。
昔では考えられない勢いで、アズティスが評価され始めている。
(違う、きっと表に出ていなかっただけ)
魔力暴走の件からか、二大派閥の卒業も近いからか、支持派閥を表に出す者が増えた。
何より気に入らないのは、マリアベル派の生徒でさえアズティスに見惚れていた事実だ。
シャンデリアに照らされたカーテシー。派閥の垣根なく会場すべての人間が、そこに確かな華を見ていた。ダンスもそうだ。庶民の出とはいえ公爵家の教育を受けたカイルの傍に立って、なおも見劣りしない足運びとオーラ。至れり尽くせりのドレスと才能――。
アズティスは天才だ。
マリアベルが血の滲む努力をして身に刻んだマナーを、彼女は一朝一夕で習得していく。
*
会場を出る直前で、アズティスは足を止めた。
「どうした?」
「ん、……ちょっと」
彼女の視線の先には給仕の男性がいる。カイルは面白くなくなって、
「彼がどうした」
「飲んでみたいなって。あれ」
彼女が注視しているのは、男性が配っているグラスだった。白いカクテル。カイルはそっと矛を収めた。
「そういえばパーティーの時って、お酒飲めるんだっけ。飲んでみようかな……」
飲酒は十八歳からだ。
学園内での飲酒は禁止されているけれど、こういったイベントの時にのみ解禁される。
給仕に声をかけてドリンクをもらい、一つずつ飲んだ。
「……ん、不思議な味。喉の奥にぶわーってくるね。白ワインってやつかな? 桃と、……ミルク、と、なんだっけ、知ってる味」
「ストロベリー」
「それ。思ったより飲みやすいな」
カイルが止める間もなく、彼女はカクテルを一気に飲み干した。
その結果どうなったかというと。
「えへへへー」
酔っ払いが一体出来上がった。アズティスはアルコールに弱い体質だった。
カイルは女子寮の許可を得て――過ち防止のため最長三十分の条件付きだが――彼女を部屋に送り届け、さっさと出ようとしたところで彼女に捕まった。
「アズティス」
「だーめ、ちゃんと呼んで」
「……………………アズティス様」
「いいこいいこ~~!」
カイルはベッドに座らされ、頭をぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、髪を雑に掻き撫でられる。カースエリス家に仕えていた時ですらこんな可愛がり方はされなかった。
彼女の気が済むまで耐えよう。
そうと決めたカイルは他所に意識を向けることにした。といっても手元に本があるわけでもなく、マナーが悪いとわかっていても、自然と部屋中の物を見てしまう。
雑然としていた。
分厚い本を二十冊は置けそうな本棚があるのに、それでは小さかったのか、収納された三倍くらいの量の本が適当な棚に突っ込まれている。さらに床にすら放置されている。ガラス製のペンと、透明感のあるボトルインクが数色。紫水晶や小さな天球儀、謎の骨粉、謎のドライフルーツと見たことのない木の実が数種類。棚の試験管立てには数本の試験管がささっていて、その中には何かの毛や乾燥した薬草類が種類ごとに詰められていた。
カイルにはいまいち用途不明なものが多い。
得意魔術が違えば、コレクションもがらりと変わるのだ。特に一級生ともなると熟練度も反映されて、より濃く深い品々になるのが常だ。
椅子の背に部屋着のワンピースと羽織が雑に掛かっている。制服はきっちりハンガーで壁に吊るされていた。
ここが彼女の心置きない住処になったなら、カイルも報われた気分だ。
カースエリス子爵にアズティスの入学を強いたのはカイルだ。もしも彼女が学園を気に入ってくれなかったら、今頃どうしていただろう。
続いて机に目をやり、――そこにひとつ、異様なものを見つける。
(あれは?)
気になったけれど動けない。彼女が「んへへへへへ」と恍惚とした顔で頬ずりしてきている。このままではいけない気がする。自分の大事な何かが奪われそうだ。
面倒くささも極まって、カイルは強硬手段をとることにした。
彼女を持ち上げて、あれ? と鈍い反応をする彼女を力づくでベッドに転がしてみる。勢い余って彼女に覆い被さる形になったのは不可抗力だ。
(……しまった)
カイルは無表情の下で焦った。これで叫ばれたりしたら言い逃れができない。
彼は即座に退こうとしたけれど、彼女はくすくすとおかしそうに笑っている。
「君をね、拾った時も、こーやって押し倒されたねぇ」
言われてカイルは思い出す。
雪の日、彼女から林檎を奪おうとして力尽きたのだった。生きようと必死だった。尻もちをつかせた彼女のコートが、頬に柔らかかった。貴族を害した罪で死ぬ覚悟もしていた。そんな幼少期と、飢えも寒さもなく盛装を纏っている今とでは、まさに天と地ほどの差がある。
――天と地。
(俺と彼女のようだ)
下剋上とは言わないけれど。
それに彼女は、最初から天にはいなかったけれど。
この複雑な関係に名前が付けられない以上、ここにいるのは幼馴染の同級生で、ただの男女だ。
(それにしても、男に押し倒された女の反応ではないな)
カイルは彼女の危機感のなさに呆れながら、彼女の頬に触れる。
「警戒心がない。こうした時は張り手の一つや二つ打てなければ」
彼女はそれでもふわふわとした口調で、
「だって相手が君だからねえ、な~~んでもいいかなぁ~~って。『聖女』らしからぬ遊びをするのも面白いかもしれないしねぇ」
カイルの首周りに両腕を回して、「まあ……」
「私を相手にする度胸が、君にあればの話だけど~~?」
カイルを舐めきった誘惑だった。
青色の瞳の奥に、傲慢な光がちらついている。
私を上手に愛してみろと。そう囁かれているような。
首周りの両腕が解かれる気配はなく、カイルを解放する気もないようだ。
「いい加減にしろ。後悔するぞ」
彼女の滑らかな首筋に、するりと手を滑らせる。それでも彼女の中で優位は変わらず、
「んー? 海にいくのかな? たーのしそーっ!」
「航海ではなく、……いいから放せ」
「やーだー!」
本気かこの女どういうつもりだと口汚く罵りたい彼の下で、彼女は無邪気に勝者の笑みを零している。それがどんなに可愛かろうが、思いっきり侮られているカイルはさすがに腹が立つ。
(悪女の血か?)
眉間に皺を寄せて、起き上がろうとするけれど、彼女の腕がびくともしない。普段は非力なくせにこんな時ばかり謎の力を発揮しないでほしい。
ならばよかろう、戦争だ。カイルは半分自暴自棄になって、売られた喧嘩を買うことにした。変に魔術的な繋がりが発生しないように、少し辱めてやるのも吝かではない。挑発したのは相手だ。それにアズティスは、彼女に対してのみ負けず嫌いなカイルの性分を理解していて、迂闊な発言をしたのだから。
カイルはそのまま顔を下ろして、彼女の首筋に口を付けた。
「はぇ?」
ごく間近で、間抜けな声。
パーティー会場ではほんの悪戯心で手に触れた。素面の彼女は愉快なほど狼狽えてくれたのに。酔っている彼女は状況も掴めず、童女のように笑って、
「あれぇ? くすぐったい〜〜!」
この温度差が残酷だ。
カイルは平たく言えば、わからずやに思い知らせてやろう、今度こそ負けないぞ、えいえいおー! とその一心だった。最初はたしかにそうだった。けれど徐々に別の感情が芽生えてくる。
彼女の髪に含まれているのか、花の香水と、蜂蜜のような甘い匂いがする。その香りに溺れながらもう一度口付けて、わざと赤い跡を残した。
彼女の腕が緩む。ようやっと立場が理解できたかと思いきや、今度はカイルの髪を弄ってきた。さらさらと撫で梳いて、まるで情事直前の恋人のように。意味がわからなかった。彼女は自分の気分でそうしているだけだろうから、カイルも自分の気分を優先する。白い肌はまろやかな香りがする。柔らかくてどこか懐かしい、ミルクのような。
「ねえねえ。私を抱いてもいいけどー、好きになったらだめ、だからねぇ」
「……――。」
抱くつもりは最初からない。けれどカイルは別のことが気になった。
以前から彼女は、カイルの感情をコントロールしようとする節がある。特に『好意』において、不器用すぎるほどあからさまに。
その真意を、今のふにゃふにゃになった彼女なら答えてくれる気がした。
「俺に好かれるのは迷惑か」
カイルの想いは恋情ではないと自負している。だから彼女の言い分は自意識過剰以外の何物でもない、と彼自身は思う。ただ自分の行動がいわゆる追っかけ――悪意のある言い方をすれば女性へのストーカーに類すると自覚しているし、そんな複雑な忠誠心もどきを話したところで理解されるとも思わない。
拡大解釈ならぬ極大解釈をすれば、好意に違いない。
好かれるのは迷惑なのか。
彼女は蕩けた顔のまま「うん、めーわく」と幼く頷く。
「だって君が私を好きって言ったら、結婚しなくちゃいけなくなる。約束だから。まじゅちゅし、だから」
途中で噛んでいた。
「でもねえ、私は君を連れていけないから、かわいそーになるから。だめだよ」
――『もしも将来、君が私を好きになったら、結婚しよう。私に逆らえない君と結婚したら、君は父上みたいにできないはずだから』
彼女はその条件を満たさせないためにそうしているのか。
なんということもない単純な答えだった。
「かいる」
「……なんだ」
「わたし、似合ってるよね?」
何が、と訊ねることもない。
「ああ」
カイルは頷いた。彼女に似合う色とラインを選んで発注したドレスだ。ベッドに広がる裾や髪が芸術品のようで、この光景のまま額に収めて出品すれば相当な値が付くことだろう。城の一個を買えるような。国のひとつを傾かせるような。それでもカイルはその絵を手に入れるに違いない。どんな手を使っても。
だから、
「君が今まで見た誰より、似合ってる? 綺麗かな?」
こんな質問への答えだって、決まっていた。
「似合ってる。とても綺麗だ」
彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて、吐息の中に「さすが私」と自画自賛を混ぜて、ことんと落ちるような眠りについた。
カイルはベッドから離れると、気になっていた小物に近づいていく。
机上。カンテラの傍に、異様なものが置いてあった。
小瓶だ。真っ赤な液体が満ちている。細い革紐が巻き付いているけれど、瓶のコルク栓を封じるものではなく、小瓶本体を戒めているような印象を受ける。
カイルはそれから目が離せなくなった。よくよく観察してみれば、コルク栓にも、革紐の表面にも細かく文字が書いてあった。それを目にした途端、カイルは視線を逸らした。その文字列を意識して視界に入れてはいけないと、長年アズティスに侍っていた経験から察する。
(妖精文字か)
彼女の魔法陣を直視してはいけない原因だ。カイルが一息吐く。
わー!
妖精たちが視界に飛び込んできた。はっとして窓を見れば、数センチ開いた窓から今も妖精がうんしょうんしょと侵入しようとしている。大きな羽を慎重に扱いながら入室して、カイルの目から小瓶を隠そうとしていた。
皆で大きな羽と両腕を広げて、
だめ!
と言いたそうに睨みつける彼ら。妖精言語がわからなくたって、敵意は顕著だった。
妖精がこんな態度を取るのだ、理由はひとつしかない。
「それはアズティスの血液だな」
妖精は答えない。カイルを強く睨んだまま羽を大きく広げ、怒気と警戒に身を昂らせて、瓶を守ろうとしている。
血液は魔術師にとって重要な体液だ。個人の魔力が多く含まれる。カイルが得意とする契約魔術にも用いる。それをこのような形で溜めておく理由はわからないけれど。
欲しい。
このひと瓶と時間があれば、アズティスに勝つとか負けるとか、そういう次元の話ではなくなってくる。カイルの想いの通りにするのも夢ではなくなってくる。
必要だと判断すれば、彼は盗みも躊躇しない。
幼少期を過ごしたスラムでは、強奪も暴行も日常茶飯事だった。奪わなければ生きていけない環境下で、少々ねじ曲がったまま人格が形成された。カースエリス子爵家で従者として、ノアイユ公爵家で次男として、どれだけお上品な教育を施されたとしても。
(……これがあれば――)
後々、妖精が彼女に告げ口をするだろうが、その時はなんとかしよう。
カイルの手が動く。
妖精の大群が明確な攻撃に転じようとする。
アズティスはベッドで健やかに眠っている。
彼女の従者と、最も信頼される従者だった者。険悪な両者がぶつかろうとして、
ノックが聞こえた。
『三十分経ちましたので、様子を見に伺いました』
寮母だった。
翌日、アズティスは酔っていた時のことをまったく覚えていなかった。
教室で対面した彼女があまりに普段通りで、カイルは「この負け方は納得がいかない」とその場で直訴した。「いきなり何なんだ」と文句を言い返された。
せっかく残した紅班も制服のシャツと長い銀髪に隠れてしまっているし、彼女もそれに気付いていないか虫さされとでも思っているに違いない。
この世はまったく理不尽だなと彼は思う。




