夜と馬車
午後九時。
夕食を終えてしばらくした頃に、学園の門の傍に黒い馬車が停まっていた。門に吊るされたランタンの灯りだけでも、ノアイユ家の白百合の家紋が確認できた。ああこれあの先輩が呼んだやつだ。学園に残っている生徒たちが一目で察して、実際その通りだった。
長期休暇中に実家へ帰らなかった学生が、通りすがりに目を遣る中で、カイル・ノアイユが馬車に近づいていく。
制服と似た形だが、細かな装飾の入った上衣に、ガーネットのループタイ。
貴公子然とした出で立ちでやってきたカイルは、そのまま馬車には乗らず、人を待った。
待ち人はアズティスだった。彼女も長い髪に装飾のリボンを仕込み、編み込みを作って、器用に結い上げていた。白いシャツに細身のスカートを合わせて、全身をすっきりと纏めている。
夜の灯りに照らされて常よりも肌艶がよく見えるのは、新作のパウダーを薄く着けているからだ。肌と似た色の粉に真珠を細かく砕いて混ぜたもので、高価だが人気の品だった。
小走りでやってきた彼女を見て、カイルは一瞬止まった。
「そうして整った格好を見るのは久々だな」
「君と外に出るなら、それなりの服装しなくちゃダメだろ」
次男といえども公爵家。その隣に立つなら、アズティスとて気にもする。手持ちの私服の中で、最も上等な服を選び抜いたつもりだ。
「でもやっぱり庶民の域を出ないから、先に服飾店に行ってほしいな。それらしいの見繕ってくれると嬉しい。泊まりになるって話しだけど、こんなだから着替えも持って来てないよ」
「わかった」
「もちろん自分の買い物は私が支払う」
「…………。」
「黙るなそこで」
カイルは先に馬車へ入り込み、天井に吊るされたカンテラに火を入れた。それからアズティスに手を差し出すと、彼女は慣れたように手を取った。
馬車の黒いベルベット張りのソファに身を沈ませるアズティスは、やはり浮いた印象だ。ノアイユ家の家具は、一族の身体的特徴からとったのか、黒と深い赤を基調の色としている。この馬車もそうだ。白と青の彼女とは正反対だった。
やがて馬が走り出す。
「にしても、よくこんな時間に馬車なんて呼べたね。この辺がノアイユ家の領地内とは知ってたけど、本家からはちょっと遠いだろ。別邸もさらに遠いみたいだし」
ノアイユ公爵家の本邸は、港湾都市『ヴェルス』にある。高台にあって海を眼前に臨む、それは見事な一城だそうだ。『ヴェルス』から人里離れた学園に着くまで馬車なら十時間はかかるから、そんな場所からこんな時間帯を狙って運ばれてくる馬が可哀想に思えてしまう。
そもそも馬は夜も朝も早い生き物で、夜間走行には向いていない。
国内の鉄道網がもっと濃く発展すればいいのに、とアズティスはいつも思う。各都市から王都へ行き来するのに便利な路線ばかりが集中的に作られて、地方都市間での運行は少ないのだ。
「馬は夜が好きな変わりものにしたようだ。学園の馬車は乗り心地が悪いからな。こちらの方が疲れないし、馬の融通もきく。夜のうちに出発すれば、あちらに着く頃には関所も開いているだろう」
「まあ、門が開くの待って無意味に時間潰すのも嫌だしな。それで今日はどういうつもりかな? なんで私は、君と出かけてるんだろ」
がらがらがら。二人を乗せた馬車が、『ヴェルス』を目指す。
居心地悪そうにしている彼女を、向かいの席のカイルが一瞥する。
「服飾店に行く」
「それは私が頼んだんだし」
「元から行く予定だった。朝にお前の着替えを買ってからホテルで休んで、午後にまた別の店に入ろうと思う」
「で、君の買い物になんで私を呼んだ?」
「お前のドレスを買うためには本人のサイズを知る必要があるだろう?」
「んー……。そっか、……そっか……、私のドレス……?」
アズティスは頭を抱えて、
「ちょっと前さ、医務室でいかにも私の犬って感じの言動してたじゃん。それからこういうお貴族様っぽいことやられると、ちょっと気持ちが追い付かないんだよね」
「お前は気にしないかと思っていたが、そうでもないのか」
「ここまでされると流石にね。君の中で色々と考えがあってのことなんだろうけど、まずどうして私のドレスを作ろうと思った? いろいろと言葉が足りないんだからちょっと伝える努力しよ? これは私の元下僕として私に捧げものをしたいのか、君個人の立場で私に贈りたいのか、どっち?」
「どちらかというと個人だな」
それはそれで困るアズティスは、押し黙った。
「新入生懇親パーティーがあるだろう。一級生はただでさえ注目されるから、それなりの格好をした方がいい」
「制服でいいよ」
パーティーの参加に服装の指定はない。学園に貴族が多いとはいえ、平民も混じっている。
「一級生の参加者は皆ドレスで来る。首位が制服でいるのはどうかと思う」
「なにそれ、今日の君は教官の回し者か?」
「俺個人の判断だ。お前が気にしているマリアベルもドレスで来るようだし、それでまたうじうじ言うかと思ってな。要らなければ捨てていい」
アズティスは「ずるい」と言いながら、窓の外に視線を逃がした。
「婚約者でもない女にドレス贈るって、貴族的にだいじょぶ?」
「父は好きにしろと」
「へえ、公爵なに考えてるんだろ」
「……一からデザインを詰めるには時間がない。残念だがセミオーダーになるだろう。明日中にデザインを選んで採寸を頼めば、当日には間に合う」
王室御用達のデザイナーが王都に開いたブランドショップの、二号店であること、オプションは好きなものを選んでいいこと、気に入らなければ他の店にも連れていけること、公爵家本邸は客として滞在しても問題ないが精神的に休めないだろうからホテルを予約してあること、頼んだのはこちらだから見返りなどは求めないこと。カイルが淡々と言い含めれば、彼女はそのたびに頷いた。
「途中で休憩を挟んで、あちらに着くのは朝になる。その間に寝ていればいい」
「んー、じゃあこっちきて。こっち」
彼女が隣をぽんぽん叩く。カイルは何も言わずに立ち上がって、彼女の望み通りの場所に座り直した。そして肩に、とん、と彼女の頭が当てられる。頭髪用液体石鹸のフローラルが香る。出かける直前に身を清めていたのだろう。
寄りかかる体重をものともせず、カイルは静かに本を開いた。彼女の頭もひょいと動いて本の内容を気にする素振りがあったけれど、すぐに興味をなくしたらしい。肩にかかる重みが戻った。服越しに、彼女の体温が肌にじんわりと伝わる。
近い将来、この温かさがなくなるのだ。
カイルは急に彼女の声が聞きたくなった。
「お前は、学園を卒業したらどこに帰る」
「さあ。どこだろ」
彼女が帰るのはどうせカースエリス子爵家の屋敷なのだろうけれど、アズティスはあの家に『帰る』とは言いたくないようだ。ただいまを言いたいのは母親の墓前で、それも屋敷の敷地から外れている。
がこん。馬車の車輪が石を踏んだ。
「今思いついたのだが、俺の家に来ないか。新しく家を買うか、借りようと思う」
「また唐突だね。男女が一緒にいるのはちょっと、勘違いされるから」
「問題ない」
「問題あるよ。身分が違う」
「俺は次男だ。先日長兄の息子が生まれて、跡継ぎも心配要らない。俺の出自が出自だ。学園を卒業したら、すぐにノアイユ家を出て魔術師として働く。魔術研究所には家を出た貴族の次男や三男が多くいる。平民と結婚した者も珍しくない」
「落ち着いて」と、彼女が戸惑っている。
カイル自身、自分が何をそんなに熱くなっているのかわからない。心だけはそれでも冷えていて、口だけが勝手に声を発している。
「お前も、レオタールと名乗ってはいても、戸籍上はカースエリスのままだった。半分庶民の俺と比べればお前は貴族だ。ドレスの一つや二つを贈られていてもおかしくなかった。お前の立場ならそうあるべきだった」
「わざわざ調べたんだ」
「お前に相手がいないなら、俺達がどこで一緒になろうと誰も反対しない」
この誘いに彼女が頷いてくれたら、卒業後は本気で彼女を連れて行こうとも考えている。けれど彼女の答えは、
「だぁめ」
囁くような一言だった。きゅうんきゅうんとじゃれつく犬を宥める飼主のような、くすぐったさを含む甘い声。
「君のそれは同情だよ。君は私なんて好きじゃないんだから、簡単にそういう誤解されそうなこと言ったらだめ。将来に響くよ」
彼女自身にはない未来を匂わせる言い方に、カイルは何かを言い返そうとした。けれど諦めて、ろくに読んでいないページを捲る。そうしていつもの通りの二人になった。
しばらくして、彼女は眠たそうな声で「お願いがあるんだけど」
「ダンスのやり方教えてほしい」
「わかった」
そんな約束をして、すうすうと寝息が聞こえてきた頃に、カイルは彼女の身をゆっくり横たえた。小さな頭は膝に乗せて、そのまま寝かせる。いま学園の生徒がノアイユ家の馬車を覗き込むことがあったなら、目を疑うに違いない。
長話をしていた間に夜も深まって、高い満月が道を照らしている。
(……やはり正攻法では無理か)
彼女の頬をさらりと撫でる。男の太腿は固いだろうに、彼女は無防備に眠っていた。
仲は良くないと信じる二人組の、十時間の旅路だった。




