昔話rと先輩
時の精霊信仰の母体――王都で広大な敷地を占有するマルティーク大聖堂。
そこで、後にアズティスから「二位」の称号を与えられる少女は育った。
七歳の少女は聖堂の中で迷子になっていた。
歩くたび、靴の音が奥までこだましていく。廊下の天井は高くて遠く、少女には価値のわからないフレスコ画なるものが長々しく続いていた。
おそらくここは、自分の身分では入ってはいけない場所だ。だからこんなにも静かで、人が一人も見当たらないのだ。ひとつの障害もなく迷い込んでしまったけれど、本来ならその入り口に見張りが立つような、重要な場所かもしれない。少女は幼心にそれを理解していた。
だから戻ろうと思ったのに、
「なんでぇ?」
戻ろうと思うほど、迷い込んだ。
角を曲がれば、嫌がらせのように神聖な廊下が続いている。呼吸は荒くなって、吸い込んだ空気は甘い。ここは一人で立つには清潔すぎる。隅から隅まで掃除された処置室に、ぽつんと落ちた埃みたいな気分だ。
身勝手だけれど、精霊に縋りたくもなった。
少女は信心深くはない。教会に所属している理由は、赤子の時に捨てられたのが聖堂のぎりぎり敷地内だったから、というだけだ。早朝散歩のついでに拾って育ててくれたのがちょっとばかり偉い神官様であったのも、その一因だろうか。ついでに神官は精霊なんて偉くもなんでもねぇと言う不敬極まりない男だ。
少女は迷いに迷って、ある扉の前にいた。鉄の扉は厳重に塞がれていた。左右の取手には太い鎖が何重にも巻き付いて、厳つい錠前がかかっている。
そして少女の目の前で、錠が外れた。
「へ?」
いきなりがちゃこんと鍵が開く音がして、錠前が派手な音を立てて床に落ち、それだけにとどまらない。太い鎖までひとりでに動くのだ。蛇がとぐろを解くように、取手から滑り落ちていく。
「え、なに? あれ、ぇ?」
あきらかに何者かの意思があったように思う。
修道服の広い袖口から生暖かい風が入り、肌を舐める。逃げなければ。少女はそう思った。けれど脚は前へ進む。勝手に開き始めた、あの扉の中は入っちゃいけない場所だろうに、自分の体は自分の制御から外れていた。足は進む。進む。進む。
「や……っ」
少女は、鎖も外れた扉の中に吸い込まれていった。
白。
予想外の純白が目に眩んで、少女は固く瞼を閉じた。
少女の背後で扉が閉まる。おそるおそる目を開いて、少しずつこの明るさに慣れていって、やっとこの空間を認識した。
展示室だった。
きっと円柱型の部屋だ。展示されている絵がぐるりと円形に並んで浮いているから。本当は金具で壁に掛かっているだけで、浮いているという表現は不適切だろうけれど。
背景に白しかないから、家屋特有の閉塞感が失われて、空間が無限に続いているようで、廊下で迷った時よりも深刻な場違い感に襲われる。
部屋の中央に木のイーゼルがあって、キャンバスが黒い絹布で覆われてた。未完成なのだろうか。それにしては、画材らしきものはどこにも置かれていなかった。
少女は下を見た。
自分の影がない。
この部屋には影がない。
光源も見当たらない。
なのに白が眩しい。
そして空気が、今まででいちばん甘い。
等間隔で浮いている八枚の絵画は、どれも人物画だった。
少女は一歩、踏み出した。白い空間に床の感触を見つけたので、絵を一番左から見ていった。
すべて時計が描かれている。柱時計、花時計、日時計――どれも手に持てる大きさではなかった。それらは人物の背景に、見切れてはいても、それらしきものがしっかり描画されていた。
少女は時計を意識して人物画を見ていく。時計は右の絵になるほど徐々に手軽なものになって、六枚目でポケットへ入る程度になった。時計がなく蝋燭を見ている人物もいて「あれ?」と思ったが、これはれっきとした火時計というものだと後に知る。
――時の精霊がいた。
八枚目。一番右の絵だった。
太陽みたいな金髪で、月光みたいに優しい色の目を持った少年が、懐中時計を持っている。
どこの礼拝堂でもステンドグラスやら石膏像やらになって飾られている、精霊様だった。
「どう、いう」
どうもこうもなかった。
ここはやはり自分が入ってはいけないところだった。
恐ろしいほどの神聖と、理解不能な光景。少女は焦りながら、精霊様の次の『九枚目』に視線を滑らせる。
少女が始めに九枚目を数えていなかったのは、そこに絵がなかったからだ。何も入れられていない額だけがそこに浮いて、後にやってくる中身を無言で待っている。
そういえば描きかけの絵がそこに、
「ああ、見てしまったんだね」
「っ!」
突如聞こえた声に、少女は振り返った。
後見人の神官がいつのまにかそこにいた。
「ここへ着くまで、誰とも会わなかったのかい」
「は、はい」
彼は「そうか」と頷いて、思慮深そうな瞳でじっと少女を見下ろした。
「あれに招かれてしまったのかな」
「え?」
「それなら次は、きっと、おまえだ」
彼に「おいで」と言われて、少女は素直についていった。
この『展示室』の中央、布のかかったキャンバスの前に立った。壁にかかっている絵とサイズが同じだと気付いた。
なんだか怖くなって、少女が神官を小声で呼んだ。けれど彼は問答無用で、黒い布に手をかけた。
少女と同じくらいの年頃の子供が、絵の中にいた。亜麻色の髪の優しそうな女の子だ。手に乗せた木枠の砂時計を大事そうに見つめている。
「生贄様だよ」
「いけにえ、さま」
少女はその名前を思い出そうとした。
「マリアベルといったかな。今はカースエリス家に引き取られている」
「その人の絵が、どうしてここに……?」
神官は答えてくれなかった。
彼に手をとられて導かれるままに歩くと、あの迷子の道中はなんだったのかと思うほどすんなりと、見慣れた場所に着いた。自分に与えられた部屋だ。聖堂の隅っこの物置を小ぎれいにしただけの。
少女はお日様の匂いがするベッドに寝転びながら、今日の出来事を考えていた。
神官は明らかに何かを知っている。
そういえば、彼は時々どこかへ消える。果物や焼き菓子を持って、聖堂の奥に入って行って、数時間して帰ってくるのだ。
ご報告するお役目だよ。国の様子を精霊様にお伝えしているんだ。――ということらしいけれど、実際は少し違うようだ。空になった皿を持って洗い場へ行く顔は、どこか楽しそうに見えた。そんな彼は精霊様への報告係というよりも、お世話係のようだった。
『お世話係』。
ということはつまり、どういうことだろう。
(そもそもあの八枚の肖像画は、誰?)
一枚は時の精霊様だ。
では他の絵は他の精霊様かというと、これも違う。精霊は時を除けば四体だ。
それなら別の――たとえば聖人たちの肖像画。これかもしれない。
生贄の少女が描かれていた。贄になれば聖者だ。その姿を絵として残すのは鎮魂か布教だとかの目的で、いわゆる宗教画というやつだ。
でもそれなら、時の精霊様である金髪の少年だけは、もっと偉そうに飾ってあってもよさそうなものだ。なんといってもこの国は時の精霊様のお膝元で、彼だけは特別な存在となる。そもそも精霊というだけで、他の偉人聖人と並列する存在ではないのだ。
いやその前に、あれは本当に時の精霊様なのか? そっくりさんか?
「んんんんんん……?」
わけがわからない。
胸にもやもやとしたものを抱えたまま、少女は入学した。
そして二級生にまで昇級した。
『義務ではないし、面倒くさいから、あんまり監督したくないんだ』
『君にそれを聞かれると、なかなか威圧的だね』
『ごめんな。異文化交流は間に合ってるんだよ』
――濃い三ヶ月だったと思う。
聖堂の迷子、改め二位は、ひょんなことで一級生のトップ二人と知り合った。
不本意ながら彼らと関わり、その性格を少し知れた。
アズティスは下級生相手でも、初対面なら丁寧語を使うこと。幾度か話して一定以上仲良くなって初めて、あの独特な口調ーー妖精訛りというらしいーーを使い始めること。時折思い出したように人をからかうこと。いつも蜂蜜みたいに甘い匂いがすること。他人に興味がないこと。そのくせ年下には少しだけ優しいこと。
そしてアズティスを見つければ高い確率で同時に視界に目に入ってくる黒い先輩カイルは、趣味でアズティスに侍っていること。
考えるほど謎な人たちだった。
対面する席の友人がシチューのにんじんをスプーンで掬って、
「ねえ、実際どうなの?」
興味深そうに訊ねてきた。
何に対しての『どう』なのかは解っているし、答えも決まっていた。
「普通の人たちよ。付き合ってもないし、そのつもりもないみたいに見えるけど」
あの二人のことを訊かれたのは何度目だろう。彼らと話す仲になってからというもの、親しくもない同級生からも同じような質問を受けることがある。
何を期待しているのやら。
学園の食堂は丸いテーブルがゆとりを持って並んでいて、テーブルクロスもよく見れば細かい装飾がなされた上流階級風の内装をしている。けれど、それらを使用する生徒の半数一般庶民の出である。食事時ともなれば、その空気は優雅さとはほど遠い。
そんな庶民的な喧騒も、友人の声を掻き消してはくれなかった。
「付き合ってないなら、ああやってベタベタしないでほしいよね。マリアベル様には時間がないんだから、少しくらい、ちょっとだけでも、譲る、って言い方はおかしいけど、でもさぁ」
「何度も言ってるけど、アズティス先輩が悪いんじゃないのよ。カイル先輩の方だって離れる気がないの。あの二人、じゃなくて三人の問題でしょ。外野がどーこー言ったってしょうがないじゃないの」
「うぅ冷たい……聖堂育ちなんでしょー?」
「教会は世情に中庸、精霊様に従順」
「人間には?」
「どうでもいいわ」
言い捨てた。聖堂育ちは穏やかだなんてよく聞くけど、偏見も良いところだ。
二位は少し固くなったロールパンを取り、両手で優雅に千切って、
「文句言わず見守るのも人情ってもんでしょ」
皿に残ったシチューを拭い、
「なまじ有名人だから忘れられがちだけど、あの人たちだって人間なのよ」
「そりゃそうだけどさ。でも教会としては、マリアベル様関係は気になったりしないの?」
「マリアベル先輩が精霊様に捧げられるって、まだ決まってないもの」
「まだ、でしょ」
「まだ、よ。十分に一般人の範囲だわ。教会にとって三人は取るに足らない人たち。人なんだから、いい加減にほっといてあげればいいのに」
みんなただの人間だ。
二位はマリアベルのことは知らないけれど、アズティスのことなら少しは知っている。あの先輩はちょっと魔力の扱いがうまいだけで、皆が恐れるほどじゃない。笑うし、甘いもの好きだし、悪戯するし、時々ドジするし。
「わからないって言えば教えてくれるし、普通に話せるし、」
だからきっと、生贄候補のマリアベルだってそうなのだろう。
「観光だって一緒にしてくれるし、くっついて寝ればいい匂いするし、」
「アンタ心臓に特級育毛薬でもかけた?」
心臓の毛がふさふさだと言いたいらしい。
だいぶ失礼な友人である。
じろりと睨みつけて、食後の紅茶を飲む。香りが少し飛んでいるけれど、許容範囲内だ。そもそも二位は紅茶の味の違いなどよくわからない。
と、覚えのある甘い匂いが微かに流れ込んできた。あ、と思って食堂の入り口に目を向けると、案の定。
「……噂をすれば」
昼食時は両開きにぱっかり口を開けているドアの、ど真ん中。ここは我が道とばかりに歩いてくるアズティスは、やはりカイルを連れている。
本日も顔が美しい。
きらきらを撒き散らさないと生きていけない人たちなのだろうか。
大なり小なり存在感がある一級生の中でもトップクラスの有名人が来ると、二人にちらちらと視線を遣る生徒も多い。アズティスが来て微かに嫌そうにする者もいれば、席が全て埋まっていて困っている彼女を見て席を譲ろうとする『信者』もいる。
「よければこちらへっ」
「ああ、ありがとうございます」
己のハンバーグランチセットを飲み込む勢いで食べ終えた生徒に、外行きの顔で微笑むアズティス。その茶番に、
(……よくやるなあ)
と二位は思う。
アズティスは二位に背を向ける形で席に着いて、力イルはその向かいに座った。
なんとなく彼らを見つめていれば、アズティスが「ん?」という顔で振り返り、二位を見つけると、身内に見せる悪戯小僧の笑顔で軽く手を振ってきた。声を付ければ「こんなところで奇遇だね」だろうか。昼食時に食堂で会って奇遇も何もないと思うが、あの先輩は少し抜けているところもあるので――、
(ここまであの人について詳しくなるつもりは無かったんだけどなあ)
複雑な心持ちで、二位は手を振り返す。
すぐにアズティスが力イルに呼ばれ、前に向き直った。
と。
それで終わりかと思いきや、今度は力イルの視線とぶつかった。いつも思うけれど、人形に育てられでもしたのかというくらいに無表情だ。あの先輩はもっと人間の交流というものを学ぶべきだと思う。
二位は紅茶を再び口に含み、ゆっくりと飲み下す。カップも中身も完全に冷めていた。
(彼らも普通の人間、とはいえ)
やはり普通でないところもあるのだろう。
あの二人は会話をしているようだけれど、声が食堂の空気に紛れ溶けてしまって、こちらまで届かない。
存在感はあるけれど、静かな人たちだ。
いつも騒ぐのは周囲だけ。
だからこそ。
(……なんだろう、あの二人)
抱えている何かが多い気がする。
外見だけが綺麗で、隙のない外面や、やりとりの中に内包されている何かがあるように思う。
夏季で最も熱気が厳しい十四日間は、全校生徒が休みになる。
学生寮でのんびりするもよし、己の魔術に打ち込むもよし、田舎に帰るもよし。二位は一度聖堂に帰ることにした。
気になることがあった。
先が折れた三角帽型の国土の、右つばに学園がある。
定期的に巡回する馬車で、最も近い地方都市『サネラ』に向かい、その駅から鉄道を使って次の街へと乗り継いで、ホテルを利用しながら二日と半日をかけて向かった先が王都『マルシュ』だ。この中心地に、二位が育ったマルティーク大聖堂がある。
都市に向かうほど、魔術学園の生徒に適用される学生割りがあるので、二位は遠慮なく使わせてもらった。とても好意的に接してもらえた。
『学園の嫌われ具合でその地域の田舎度がわかる』とは、本当らしい。
聖堂についてすぐ、あの白い部屋を目指して歩いていると、いつの間にか目的地に着いていた。どこの廊下をどう曲がったのかも覚えていないけれど、そういうものなんだろうな、と今なら簡単に納得してしまう。
白い部屋の壁にかかっている八枚の絵。
九枚目は空の額縁。
そして中央に、黒布をかけられた『生贄様』の絵――。
二位は遠慮なく布を取り、確認した。
「……あーあ……」
口から突いて出たのは、それだけだった。
心のどこかで、ああやっぱり、と納得する自分がいて。
以前に見た時は亜麻色の髪の愛らしい少女、マリアベルだった。けれど今は銀髪の美しい少女に変わっている。学園でよく見るアズティス・レオタールの姿。
神官いわく『生贄様』の絵に。
どうして。
絵の中のアズティスは柔らかく微笑んで、手の平に乗せた銀色の砂時計を見つめている。青い砂は一粒も落ちていない。
二位は飛び出した。広大な大聖堂を駆け回って、誰に注意されても聞こえないふりをして、養父代わりの神官を見つけた。
「あれってどういうことなんですかっ!」
脳内で言いたいことが大渋滞を起こしていて、冷静な言い方ができない。
そんな彼女を見て神官は何を思ったのか、「一緒に来なさい」と自分の部屋に連れて行った。神官は高位の司祭で、広い執務室を与えられていた。
彼が椅子に腰をおろした。ぎし、と軋む音で、二位の頭が少し冷える。昔から、彼と真剣な話をする時にはこの部屋に連れてこられていたのだった。
「それで、おまえは何を知ったのかな?」
「白い部屋に行きました。あの絵も見ました。生贄はマリアベル・カースエリスではないのですか。何故アズティス先輩が?」
「あれを見たのか。ということは、おまえの中で何か直感が働いたのかな。そうだろう、だからおまえはまたあの部屋に入ったのだろうから」
その通りだ。隠す必要もない。二位は「なんとなく、確かめなきゃいけないと思って」と返答する。
「原因は知らないが、魔力の大きさが逆転したのだろう。それにより、最も魔力が大きい彼女が生贄として最有力候補になっている。それだけの話さ」
「アズティス先輩はそれを知っているんですか?」
「時の精霊様が、加護の光を下ろしたと言っていたよ。それでそのアズティスとやらが自覚したのかどうかは、まだわからないが」
「そんなの……っ」
あんまりだ。
自分が死ぬ運命にあることを知らないなら、残酷でしかない。
(……いや)
アズティスは、きっと知っていた。
――『できるだけ適当に、好きなことだけして生きていければ、それでいいかなって思ってる』
アウルベアの任務の時にそう言って、ふ、と笑った。あの時のアズティスにはすでに、真の意味で、将来の展望などなかったのだ。
それなら今、あの先輩はどういう気持ちで生きているんだろうと考える。聖女と崇められるマリアベルと同じ時をどんな気持ちで過ごして、どんな気持ちで任務に当たって、車窓から眺めたノートリア・カシャッサ塩湖を、どんな気持ちで。
「お前はどうやらマリアベルより、アズティスを推しているようだね」
「関係なくないですかそれ」
「関係、関係ね」
訳知り顔で、神官はくつくつ笑う。
育ての親ながら、何を考えているのかわからなかった。




