ぐったりご主人様
アウルベアの件から二日経った。アズティスの様子がおかしい。カイルが自発的に医務室へ行ったのは、授業が終了してすぐのことだった。
友人でもないのにわざわざ様子を見に行くのも過保護だろうと考えつつ、カイルは医務室の扉を開けた。
一番奥のベッドで、寝具をすっぽり被った生徒がアズティスだろう。近寄って確かめれば、ベッドの下にショートブーツがあった。
「ばか」
寝具の中から声がした。寝ていなかったらしい。
「私のことなんて気にしなくていいって、前に言った」
荒れている彼女をどうするべきか、カイルは考える。
彼女が何を憂いているのかは知らないが、彼女が体調を崩す時は、なんらかの心的負担がかかっている時だ。
(だからなんだ、という話だが)
彼女の体調がどうだろうと、自分には関係がない。本来なら捨て置くべき些事だ。
けれど放置しておけない。あの任務先の川で彼女に指摘されたように、自分は結局彼女に弱いのだろう。
カイルは自分の感情は不相応であると自覚している。
けれど理性とは別のところで、どうにかしてやらなければと思う。
彼女がぐったりとしていると落ち着かない。それは自分が彼女の体調を知りたがるのと同じ、自分でもどうかと思うほど献身的な衝動からだ。
幼い彼女の声がする。
ベッドで、ははうえははうえと呼ぶ声。
決して報われることのない苦悶。
高い熱。
カイルが彼女の体調を気にし始めたきっかけ。
カイルは思案する。
アズティスは基本的にカイル・ノアイユに好意的だ。けれど甘えてはくれない。
(今のこの態度からして、彼女はカイル・ノアイユを求めていない)
彼女が弱い心の内を見せてくれていたのは、従者のカイルのみだ。自分に逆らえない相手というのは、彼女にとって何より心を許せる存在らしいから。
(それなら)
もしかしたら今度こそと、希望的に考える。こんなに弱っている彼女相手ならちょうどいいと、打算的になってしまう。
今度は、失敗しないように。
「『アズティス様』」
呼んだ。
カイルは以前、それで一度拒絶されたことがある。
「今だけは、私を貴女の僕としてお使いください」
のそりと寝具が下げられて、彼女の瞳が覗いた。
カイルは昔の口調を簡単に思い出せた。
「望まれるのであれば貴女の好きなお茶をお淹れしましょう。学舎に居づらいなら、今から人目に付かないよう、あの礼拝堂にお連れすることもできます」
従僕的な態度なら身に染み付いているのだ。カイルは己の声に意識して懇願の色を含ませた。
「貴女の憂いを少しでも私に向けていただければ、それだけでも良いのです」
「本当に?」
「はい」
寝具の中からの返事に、カイルは内心ほくそ笑んだ。
「なんでもいい?」
「はい。私に叶えられるものなら」
「じゃ、もっと近くに来て」
カイルは言われたように、ベッドにぎりぎりまで近づいた。
アズティスがのそりと起き上がった。傍らに立つカイルの方に身を倒して、ぽすりと寄りかかる。
カイルは彼女がしてほしいことを敏感に察して、彼女の身に軽く腕を回した。
「固い」
「申し訳ありません」
「母上と全然違う」
「それはどうしようも……」
「でも、落ち着く」
これは子供をあやす真似ごとだ。「ははうえ」と呟いて瞳を閉じた彼女は、見てくれだけは年頃の女性でも、心は幼いままだ。
細い腕がカイルの腰に回って、ぎゅうと縋りつく。
彼女は、カイル・ノアイユには決して抱き締め返さない。
『きみ、一人か?』
カイルの脳内にぽつんと、少女の声がした。
雪がちらちら舞い落ちている、小さな手に握られた真っ赤な果実。真っ黒なコート。そのすべてを鮮明に思い出せた。あの少女が今では、この腕の中でおとなしくなっている。
(もうすぐだ)
これは恋ではない。友愛ではない。彼女に捨てられた時から心にくすぶっているこの感情は、もっと純粋な献身の念だとカイルは自負している。
(もう少しで、俺は彼女の――)