昔話k-Ⅱ
次にアズティスと会ったのは学園の入学式だった。無邪気だった瞳は暗く濁って、光をなくしていた。髪はろくな手入れをされておらず、手指は枝のように細い。
「新入生代表、アズティス・レオタール」
司会が呼ぶと、新入生が静かにざわついた。悪名高きレオタールの血筋の者など、今まで表に出てこなかったからだ。爵位を剥奪され、夜盗に襲われて一族すべて死んだと噂されていた。
そのレオタールだろうか?
多くの疑念の視線がぶつけられる壇上に、一人の女生徒が表れる。
「――はい」
吐息のように儚い声が、一瞬誰のものかわからなかった。
カイルは他の生徒とは違う意味で息を飲みながら、舞台袖から出てきた生徒を見つめた。
彼女は新品の黒い制服に着られていた。袖から覗く白い指は頼りなくて、規定ではない黒いストッキングに包まれた脚は不健康そうだった。
(まるで喪服だ)
アズティスは傷んだ銀髪をそのまま背に流していた。
手にある紙を読み上げる声は幼く可愛らしいものだったが、疲れ切った顔との落差が顕著になっていた。それに気を取られていて、彼女の挨拶など誰も聞いていない。
いつの間にか代表の挨拶を読み終えていた彼女は、ふらりと袖に消えていった。
学園の入学式には有名な通過儀礼がある。時の精霊へ祈りを捧げるのだ。
式典を終え、教室で教師の挨拶を聞いた後、礼拝堂へ向かった。
新入生一人ひとりが祭壇の前で順番に膝を着き、学生生活の安寧を精霊に願う。
カイルは列に並びながら、前にある『それ』を見上げた。
(……約一年か)
全国に点在する礼拝堂は、同じデザインのステンドグラスを飾り祀っている。
時の精霊が持つ時計の針は『Ⅰ』を指している。元々は『Ⅻ』の位置にあった。その針は、人類が時の精霊からお告げを受けてからじわりじわりと、全国で動いている。ステンドグラスのみでなく、精霊を象った銅像も、絵も。
マリアベルの番になる。生徒たちのささやかな私語が押し黙る。マリアベルは幼いながらも、慣れた所作で膝をついた。その途端、反応があった。それまでなかった光が、マリアベルの頭上に降り注いだ。雲の切れ間から覗く陽光がグラスを抜けて、彼女の周辺だけを暖かに照らした。
「……聖女様」
ほう、と誰かが呟いた。まるで奇跡のようだと。恍惚とした空気の中で、マリアベルは速やかに祈りを終えた。
アズティスは、そのすぐ後だった。問題の女子生徒がマリアベルのすぐ後では、見劣りするだろう。誰もが可哀そうだと同情すら覚えたが、けれど――。
「……え?」
「嘘……」
アズティスが無造作に行った祈りに、精霊は応えたのだ。マリアベルよりも鮮烈で清廉な、強い光でもって。
ステンドグラスから差し込む眩しい道筋は、明らかにアズティスだけを包んでいた。陽光のような穏やかさのない、冷たくも温かくもない、無機質で、だからこそ神聖な白い煌き。
前例はあった。同じような光を受けた者はいた。――教科書の『聖人』という項目に。
祭壇の前には誰がいる?
アズティス・レオタール。
聖女ではないはずの。
誰もが困惑する中で、はっと顔を上げたアズティスはすぐに逃げ出した。カイルは、憎々しそうに唇を噛み締める横顔を見た。
彼女の固く握られた拳からぽたりと、真っ赤な血液が滴った。
その歴史的な入学式の日、アズティス派が生まれた。
急いで祈りを終えたカイルは、アズティスを探した。怪我をしているはずだから、手当をしてあげなければいけない。
彼女は寮までの道をとぼとぼと歩いていた。
「アズティス様……っ」
カイルは彼女を呼び止める。
振り返った彼女は苛立っているようだった。
「……誰だ、君」
ぐず、と。カイルの心臓が痛みを訴えた。針が刺さったようだった。
彼女の瞳は、おそろしいほど真っ暗だった。
「アズ、」
「私は君なんて知らない」
アズティスはカイルをその場に残していった。それから礼拝堂に現れなくなった。
新入生は基礎課程から。基礎課程の最初の試験は、夏季試験だ。
アズティスは史上最高得点を叩き出した。そのすぐ下にカイルがいた。
カイルがどんなにアズティスと近い点を出そうと、彼女は必ず上にいた。そしてカイルを見ることはなかった。
カイルは謎の焦燥感に襲われた。どんなに練習しても、勉強しても、座学も技術も彼女には及ばなかった。彼女は今にも死にそうな顔で、あんなにも案山子のような出で立ちをしているのに。
カイルは悔しかった。
彼女の名前を見ると、心臓を細い糸で締め付けられていく感覚がした。
基礎課程の一年目が終わる頃、カイルは学園内で別の礼拝堂を見つけた。
妖精を追ったのだ。こっちに来てとアピールする妖精に既視感があって、誘われるままに辿り着いた。
蔦に絡みつかれた、旧礼拝堂だ。妖精は中に入りたいらしいが、扉が閉まっていた。カイルが開けてやると、その妖精は礼も言わずに中へ入る。
カイルは好奇心で中を見た。
アズティスがいた。
『――っ』
『――――、――!』
「ん、そか。よかったな」
右側最前列の信徒席で、傷んだ銀髪の少女が、ころころと笑っていた。
そこに先ほどの妖精が近づいて、彼女に耳打ちをした。
彼女――アズティスがカイルを見る。
「……あ」
そして固まった。
学舎で見るより、生気のある顔つきをしている。戻るわけにもいかないと、カイルは旧礼拝堂の中に踏み入った。身廊を歩き、その中央で止まった。
「何をしている」
アズティスは答えない。代わりに「ごめんな」と言う。
「何がだ」
「前に、君を知らないって言った」
「……別に、気にしていない」
実はすごく気にしているけれど。
冷静になって考えれば、あの時の彼女の反応は仕方がなかったのかもしれない。今やカイルは公爵家の人間で、アズティスは貴族とみなされてはいないのだ。人目につく場で、彼女に敬称を付けるべきではなかった。それにしたって言い方というものがあるが、不器用なアズティスに柔軟な対応をしろという方が無理な話だ。
アズティスは手慰みに妖精を撫でながら苦笑した。
「今更、戻ってきてほしいとか、言える立場じゃないからさ」
カースエリスの屋敷で、二人は約束をしていた。
アズティスがカイルを「要らない」と言うまで、カイルはアズティスの傍に居ると。
彼女はまだ、その決定的な一言を口にしていない。マリアベルの傍にいてやってと、そういう『命令』をしただけで。そして『戻ってきて』と命じる前に、カイルは公爵家へ行ってしまった。
カイルはマリアベルの傍にいなくてもいいようになった。
アズティスの傍に戻る必要もない。
カイルもアズティスも、約束の破棄を言い出す気力がない。
故に二人はいつまでも宙ぶらりんで、その関係に名前など付けられない。
旧礼拝堂での再会劇は、カイルの苛立たしげな「とりあえずそこに居ろすぐ戻る」という強めのお願いで幕を閉じた。その後に立ち去って、本当にすぐ戻ってきたカイルは手にヘアブラシを持っていて、アズティスは問答無用で髪を整えられたのだった。
「わ、ちょっと……、いた、無理に引っ張るな!」と文句を言いながら涙目で笑うアズティスの横顔を見ながら、カイルは彼女に一生勝てないのかもしれないと思った。
自分が彼女より大きな権力を持とうと、身長を越そうと、力を得ようと、彼女には敵わないと。
この時たしかに、彼女を綺麗だと思ってしまったから。
この先美しく成長していく彼女を、上回れるとはとても考えられない。それは必然とか、運命とか、そういう自分ではどうにもならない世界のルールなのだと、愚かにも確信しかけてしまった。
等級付きになってしばらく経った頃。
三級生だった。
召喚魔術を実践したカイルは、同時に契約魔術も習っていた。この二つは同程度に習得しなければ意味がない。召喚をしても、いうことを聞いてくれない獣に価値はない。
そういえば妖精を扱ったことがなかったと、試しに一匹の妖精と契約した。
成功したので、どんな命令を与えてみようかと悩んだ。
ちょうど旧礼拝堂へ向かっているアズティスを見かけたので、他意なくアズティスの様子を見てこさせた。
そして戻ってこなかった。
妖精を放って一時間後に、自分の魔力が突然返ってきた。妖精との契約が絶たれたことを悟った。
翌日、彼女の傍に見覚えのある妖精がいた。自分の契約を上書きされたのだ。
信頼関係を築けていない契約相手なら、より相性の良い魔力と双方の意思によって、契約主の変更も可能だ。けれど一度巡った魔力を体外に追い出して新たな魔力を流し込むのは、従の側に相応の負担がかかるはず。
(消極的なアズティスが、妖精相手にそんなことをするか?)
違和感を覚えたカイルは、旧礼拝堂に行った。そこに何かがある気がした。そういえば自分は、アズティスがあの礼拝堂で何をしているのか、厳密には知らないのだ。
アズティスがいない時間帯、旧礼拝堂内を探した。祭壇のすぐ横の床に、扉らしきものを発見した。
その『床下収納』には、大量の手紙が放り込まれていた。封筒にある署名は、どれもアズティス・レオタールだった。
母上へ。
そちらはどうですか。
こっちの学食があんまりおいしくないです。
カイルの口には合うようだけど、私にはよくわからないです。
母上のクッキーがたべたいです。
それは、まぎれもなく。
母上へ。
随分と冷え込んで参りましたが、いかがお過ごしでしょう。
こちらは体調良好とは言えませんが、
それなりに充実した学園生活を送っています。
母上へ。
大嫌いな夏が来ます。
よかったら、最期の時は迎えに来てくれませんか?
あと七年です。
母親への、抑圧された執着だ。
母上へ。
寂しいです。
卒業したら、すぐにそちらへ行きたいです。
大人らしく成長していく筆跡に、重ねた年月が現れている。
整った文字はどれも神経質そうで、母親の耳元でこそこそ囁いているような印象を受けた。
「なぁ」
その声が誰のものか。考え至ると同時に、細い腕が後ろから首周りに回される。
手に取っていた手紙は背後の彼女に取られて、それを床下の暗い空間に放り戻された。
「やっぱり君か。だめじゃないか。人には私生活ってもんがあるのに」
幼いながらも艶のある声に、耳朶が舐められる。
言い訳のしようもなかった。
彼女は、アズティスは、気が付いたのだ。カイルが気まぐれで送った妖精のことを。妖精はきっとこの手紙を見た。口封じとしての契約上書きだ。
何も言わないカイルに、アズティスは密やかに微笑んだ。
「しょーがない。君の記憶、ちょっと消そーかな。君で試させて?」
「なにを……」
「だいじょぶ。私は天才だから。今まで妖精魔術を失敗したことはないんだよ」
記憶を消す魔術。妖精魔術特有のそれをかけられれば、きっと己はそれに抗う術はない。愛を囁く柔らかさで、躊躇なく、残酷なことを言う。こんな彼女を初めて見た。
いつからこんなに狂っていたのか。どうしてこんな風になったのか。わからない。
嫌だと、カイルは思った。
「その前に話せ。この手紙はどういうことだ」
「どういうって?」
「学園を卒業したらすぐに、母親の元に行くと。他にも見逃せない言葉があった。お前は何を考えている? 自殺でもするつもりか」
アズティスは考えた末、カイルから手を離した。
信徒席に座ると、カイルの体勢が整うのも待たずに自分の事情を打ち明けた。父親が計画したであろう夏の惨劇や、聖女のこと。カイルに与えられた様々な情報は、とても一度で飲み込みきれる密度ではなかった。
どうせすぐに忘れるのだと、口が軽くなったのだろう。淡々と語るアズティスの瞳は静かに、それでいて心細そうにカイルを見ていた。
「どうして誰にも言わない」
「言っても誰も信じてくれないんじゃないかな。誰にわかってほしいわけでもないし。いつか死ぬからって同情されたくない。あいつみたいにはならない」
――ああ、でも。
彼女は卑屈に笑う。
「あいつが本懐を遂げようとした直前で、その立場を掻っ攫ってやるんだ。散々ちやほやされてさ、今まで祈ったりなんだりしてた精霊が、実は自分をみていなかったなんて知ったら、あいつどんな顔するかな」
「…………。」
「私は世界のためにも、精霊のためにも、祈ってなんてやらないけど」
不信心もいいところだった。
「もういい? 覚悟できた?」
「できない。拒否する」
カイルの口を突いて出た言葉に、アズティスは首を傾げた。カイルでさえ自分の発言に一瞬驚いたけれど、衝動で出た言葉はまぎれもない本心だ。
それならば、あとは彼女を押すだけだった。
「この記憶は消されたくない」
「我儘言っちゃだめ」
「このことは誰にも言わない。お前の事情を忘れたくない」
カイルは、アズティスが座る信徒席の一番端に座った。腕を伸ばしても彼女に届かない位置で、彼女の返答を待った。
アズティスの魔力が微かに揺れたのを感じた。
「……ほんとに、誰にも言わない?」
「ああ」
「もし誰かに言ったら、君、もうここに入っちゃだめだよ」
「わかった」
「……ん」
三つ。死んだ母親にいつまでも執着していること。
四つ。カイルに無防備なところ。
五つ。拗ねるのが得意で、後ろ向きに積極的なところ。
六つ。七つ。八つ――。彼女の気に入らないところなら、数えきれないほどある。
けれど、この記憶を消す消さないの問答から二年経っても、カイルはアズティスの傍にいる。
『試験の点数を取ることに特化した馬鹿』は、今も首位を譲らない。仮にその座を奪えたとしても、彼女は微笑んで「おめでとう」と言うだけなのだろう。さすがだなと褒めてくれて、しかしその心は遠くの母親だけに向いている。彼女はそういう人間だ。
永遠に追い越せない存在がすでにあった。それがどうしてこんなにも悔しいのだろう。
幼い声の「君なんてしらない」を思い出しては、胃のあたりがきりきりする。
つまり。
(つまり俺は、彼女に拾われたあの時に、呪われていたのだろう)
カイルの学園生活は、彼女への焦燥と劣等感と、理解不能な感情で埋まった。
不快の元凶を憎むなと言う方がどうかしている。