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昔話k-Ⅰ

約十年前。


 疲れ果てたおじさんが、貴族は屑だと吐き捨てる。

 スラムをふらふらしていると、そういう人とすれ違った。ぶつぶつ何かを呟いている人、足を引きずっている人、目が見えない人。いろいろな人がいたけれど、皆の瞳はぎょろついているか、何もかもを諦めているかのどちらかだった。


 当時のカイルは、子供三人で組んで生活した。

 夏は悪臭地獄だった。路地の吐瀉物や汚物を誰も掃除しないから、黄色い酸化臭や鼻の曲がるような悪臭が身体中に染み付いた。


 それが懐かしく感じるほど寒い日のこと。

 仲間の一人が熱を出した。体に良いものを求めて、カイルは大通りに潜った。

 大通りにはいつも綺麗な人がいっぱいいるけれど、その日は雪のせいで人が少なかった。

 屋台に真っ赤な果物が売っていた。どこかの良家の息女らしい銀髪の子供が、自分で買ってみようと緊張していた。横顔が好奇心に満ちていた。

 その子供――おそらく同い年か少し年下だ――が金を払い、自分の手に果物を持った瞬間を狙って、カイルは動いた。


「あ……っ」


 子供が小さく声を上げたが、構わずに走り抜けた。


 子供の手から奪った果物は、熱を出した仲間に与えられることはなかった。あんなにも高熱だったのに、カイルが帰ってきたら冷たくなっていた。

 見張りの子供が悔しそうに手を握っていた。

 三人の子供は二人になった。


 冬がさらに深まった頃、カイルたちは裏路地の片隅に蹲っていた。以前まで住処にしていたところを大人たちに追い出された。

 ごうごうと、魔物が鳴くような地吹雪が止まなかった。

 裾や袖から冷たい空気が侵入して、弱弱しい体温をさらに冷やす。何日も食べていない。隣にいる唯一の仲間が生きているのか死んでいるのか、確かめる気力もなかった。


(……食べ物を……)


 さがさなければ。

 カイルは立ち上がった。隣の仲間に「行ってくる」と言い置いて、そのまま大きな道に出た。

 屋台などなかった。

 人影などなかった。

 カイルはいつも食べ物を探している瞳を上げて、空を見る。そして、どしゃり。倒れた。


「――……。」


 たしか世界は精霊が支配していたのだったか。この国なら、たしか時の精霊がいるはずだ。

 意識もしていなかった常識を、何故かこの時になって思い出した。

 精霊は媚び諂う人間以外に用はないのだろう。媚び諂う余裕もない人間のことなど、見てすらいないのだろう。

 顔の半分が雪に埋まる。己の体温が負けていく。今までに見た、たくさんの死に顔を思い出した。

 このまま雪の中で死んだら、きっとどこかの貴族の馬車が自分を踏んづけていってくれるだろう。そしてきっと自分は平たく潰れて、この道の一部になるのだ。それを考えると、ぞっとした。

 カイルの頭上でごうごう、雪が啼く。その雑音に紛れて、


「なあ」


 誰かの声がした。

 自分に話しかけているのだろうか。幻聴だなとカイルは思った。

 そうしていると、また声がする。


「きみ、一人か?」


 いつの間にか、カイルの傍に銀髪の子供がいた。

 黒いコートを着て、黒い帽子を被っていて、暖かそうなブーツを履いていた。

 麗しい唇から吐き出す吐息は白く凍っていた。


「ひとりか?」


 手袋を纏ったその手に、赤い果実を持っていた。

 それに吸い寄せられるように、ふらりと身を起こす。

 食べ物がほしかった。それを奪うためなら、この子供を殺してもいい。

 子供に襲い掛かる勢いで果実に手を伸ばし、前のめりになる。

 それだけだった。果実に触れることすらできず、子供に尻をつかせて中途半端に押し倒しただけだった。子供のコートに、汚れたカイルの顔が埋まった。信じられないほど柔らかく心地良くて、この温もりから逃げることもできない。いずれこの子供の従者か家族が来て、自分は酷く打ち据えられながら凍えて死ぬだろう。ゴミのような人生だった。


 カイルに、ふわりと温かい布がかぶさった。

 子供――アズティス・カースエリスのマフラーだった。


       *


 カイルがカースエリス家に拾われて、その意識が戻ってすぐに温かい湯を浴びた。食べ物と寝床を与えられて、人生で一番満ち足りて清潔な体になった。アズティスにお願いして、元の路地に連れて行ってもらった。そこにいたはずの仲間はすでにいなくなっていた。


 カイルはスラムの人間の多くがそうであるように、貴族が嫌いだった。だから貴族のアズティスなんかに、恩義など感じたくもなかった。


 アズティスのお付きになったカイルは使用人が集まる休憩所で、彼女とその母親の立場を知った。


 ――ほら、また。使用人の仕事とはいっても、夜中にお菓子を作れというのは……。

 ――娘が起きたらすぐにあげるのですって。甘やかしすぎるのも考えものよね。

 ――ああ、だめ、いけないわ。仕えている方にこんなこと。

 ――そうね。貴女も疲れているのでしょうし、もう休んだら? 夜遅くまで起きていたのでしょう。

 

 使用人の口からこぼされる呆れや不安の話題は、明らかに母娘を指していた。

 アズティスと夫人は、性格はともかく容貌がよく似ていた。それも使用人たちを遠ざける原因の一つなのだろう。

 学生時代の夫人の所業は、使用人なら誰もが知っている。

 しかしカイルはその場面を見ていないから、夫人を軽蔑もできなければ信じることもない。そもそも貴族が嫌いなのだから、夫人も子爵も使用人も似たり寄ったりだった。

 たまたま夫人と二人になる機会があった時に、


「死人に口なしと言うじゃない?」


 そんなことを聞いた。死んでしまっているのなら、あの女があの人の傍に侍ることはできないわ、と。それはそれは玲瓏に微笑んだ。虐めは本当にあったと確信できた。だからって、どうとも思わないけれど。

 そして夫人は娘に甘い。


「可愛いアズ、もっとおいしいものがほしい?」

「じゅうぶんです、ははうえ」

「そう、アズは無欲なのね。新しい本はどう?」


 子爵に相手にされなくとも、アズティスこそが夫婦の証。だから夫人は娘を甘やかすのだ。自らの技術を、お菓子を、絵本を、抱擁の体温を、母親の愛を偏執的に与えた。

 アズティスは自分の不幸の責任を優しい母親に負わせず、他の者を怖がって生きている。


「ははうえは、父上のこといっしょうけんめいに好きなんだ」


 母親のことを嬉しそうに語るアズティスを、不憫に思った。あの雪の中、カイルに「ひとりか?」と聞いた子供こそ、一人ぼっちだったのだ。真実を教えてやろうとする者が誰もいない。カイルはそれを知っていても、わざわざ夫人の不興を買う真似もしたくなかった。


 けれどカイルも人間だ。

 懐いてくるアズティスに情が移ってしまう。

 器用なカイルは彼女の好みを把握し、口答えもしなかった。


 アズティスの部屋を掃除していたら、後ろから勢いよく抱き着かれた。その手に握られていたのは白い花だ。父親に届けようとしていたそれは、しおれかけていた。


(今日も会ってもらえなかったのか)


 彼女はどうしたら父親が喜んでくれるのかと子供なりに考えて、毎回違う色の花を探す。


 動ける範囲で振り向くと、銀髪頭の旋毛が見えた。背中に涙を擦り付けるのはそろそろやめてほしい。

 仕方がないから、しおれた花はカイルがもらってあげることにした。


『ご主人様』は毎日毒を仕込まれるような生活をしている。直接何をされるわけでもなく、生まれた時から疎まれていて、自分の何が悪いのかもわからず、どうすることもできない。荒れた街で遭遇する明確な害意よりも陰湿だ。屋敷の中で、小さなご主人様は俯きがちだった。


 ――その状況に苛立ちを覚えるようになったのは、いつだったのかは覚えていない。


 自分を頼ってくるアズティスが、微かに怯えているのを察した。カイルも周囲の使用人のようになってしまうのかと。離れていかないでと。幼い瞳が懇願してくる。

 それが鬱陶しくなった。だから言ってやった。


「貴女が私を要らないと言うまで、ずっとお傍にいます」


 意図したよりも強い声になってしまったけれど、アズティスは満足してくれたようだ。

 女子だというのに着替えまでの世話を任されるのはどうかと思うけれど、アズティスは他の使用人がつくのを嫌がった。

 夜は彼女が眠る前に一杯のお茶を淹れる。安眠効果のあるハーブティーが多い。

 いつものテーブルにそれを用意して、アズティスを椅子に座らせて傍らに立ち、飲み終えるのをじっと待つ。そのまま他愛ない雑談をするのがお決まりだった。

 その日のアズティスはどこか遠くを見ていた。


「私もいつかは結婚しなくちゃいけないのかな」

「ええ、貴女がこの家の令嬢である限りは」


 この家にいては、幸福な結婚生活など描けはしないだろう。彼女は自分の行く末を憂いているようだが、貴族なんてそんなものだとカイルは偏見的に考える。


「相手が君ならいいのに」

「私ですか?」


 酔狂なことを言われた。


「もしも将来、君が私を好きになったら、結婚しよう。君は私に逆らえないから。結婚しても、君は父上みたいにできないはずだから」


 ――ふ、と。彼女は笑った。

 幼くて無邪気で小さなご主人様。自分勝手もいいところだ。

 カイルは、自分の心を守ろうと必死な彼女のお願いを、断ることも笑い飛ばすこともできなかった。


 そんなうすっぺらい婚約をどちらも本気にしていないのに、十年経ってもその約束を覚えているなんて、この時のカイルはまったく予想していなかった。



 一つ。貴族らしい傲慢さはあるくせに、貴族らしい誇りが欠片も感じられないところ。




 アズティス様、おはようございます。

 ……はよー。

 アズティス様、お着替えをお持ちしました。

 ん。ありがとー。

 アズティス様、お食事はどちらで――。

 ここ。

 アズティス様、――。

 

 彼女は何をするにもカイルに言われるがままだった。代わりに夫人からは扱かれたが、その甲斐あってかアズティスの表情や顔色、様子で彼女の体調等を読み取れるようになった。

 

 そんな時だった。カースエリス家にマリアベルがやってきたのは。

 カイルはなぜかマリアベルに好かれてしまった。さらにこれもどうしてだか、小さなご主人様は言ったのだ。


「これからマリアベルに付いてやって」


 なんて。

 ひたすらアズティスに尽くしてきたカイルを、裏切ったのだ。


(裏切り?)


 自分はこれを裏切りと感じられるほど、ご主人様を信じていただろうか? お茶も着替えもお菓子も絵本も、自分に捧げられたものはすべて快く「ありがとー」と言ってくれた、主体性皆無の子供の何を信用していたというのか。

 カイルはアズティスがわからなかったけれど、自分の心が一番わからなかった。


 二つ。拾った生き物の面倒を最後までみないこと。


 次に会ったアズティスは重体だった。強盗に襲われたと聞いた。

 屋敷中がばたついている最中、カイルは執事長にマリアベルの傍にいろと命じられていた。

 深夜にアズティスの部屋に行った。夜通しの看病を任されたメイドは眠そうで、カイルが交代すると言えば喜んで代わってくれた。

 アズティスは高熱に呻く。すぐに温くなるタオルを冷水で冷やして、額に乗せる作業を繰り返した。

 手を握った。柔らかい手だった。

 夫人が亡くなって、この先、この手を誰が取ってやれるのだろうと考えた。


 マリアベルは習い事を多くやらされていたから、自分もそれに随行しているとアズティスの様子を見られない。アズティスが母親の墓に通っていると気付いたのは、妖精が「ついてきて」とアピールしてきたからだった。

 暗く湿った林の中。ははうえははうえとしゃくりあげながら、汚された墓石を掃除している元ご主人様がいた。

 彼女はあろうことか墓の前で眠ろうとするから、彼女を抱き上げてベッドに運んでやったりもした。貴族の娘なのだから彼女の手を汚すのはいけないと、使用人であるカイルが夫人の墓を綺麗にしてやった。貴族の夫人に花の一つも供えないのはいかがなものかと、使用人として花を用意した。

 それもできなくなった。公爵家の迎えが来たのだ。

 なんと自分は、貴族筆頭の公爵家の血筋らしい。

 

 自分にできるのは、せめて最後に彼女の安全を確保しておくことだ、と思った。

 

 カースエリス子爵に最後の挨拶をする際、


「あれは部屋で臥せっていましてね。今は誰とも会わせられません」


 そう言ってやんわりとアズティスとの交流を絶とうとしてくる子爵の言葉を受け入れて、


「それでは仕方がありません。今は諦めます。彼女とは学園で、また会えるでしょうから」


 彼女を無事に入学させることを密かに強要した。

 アズティスを監禁でもしかねない、この家の雰囲気を察していたから。

 彼女は魔術を使える。一定以上の魔術を扱える貴族は大抵が入学する、あの学園をアズティスの逃げ場と定めた。

 子爵の拳がぴくりと微動したのを見て、カイルは嫌悪と、それと同程度の高揚を覚えた。

 この時、人生で初めて、階級社会の権力を使った。

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