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アウルベア-Ⅶ

 高い谷に挟まれながら、清冽な水が穏やかに流れる。野営地から少し離れた渓谷だった。流れはそう速くなかった。

 水面に落ちた葉の影が、底の砂利にくっきり映っていた。

 座れば腰程度まで浸せる浅瀬で、アズティスは身を清めていた。

 汚れているのが我慢ならなかったのだ。ストッキングは破れて伝線していたし、髪は泥で固まっていた。何より自分だけがそんな恰好でいる状況に耐えられなかった彼女は、カイルを見張りとして水浴びに来ていた。


「何か話したいことでも?」


 彼の声がした。水浴びに際して、わざわざ異性への名指しとは、そういうことだろうと。

 清流の音は細やかだから、相手の声がよく聞こえる。

 アズティスは川縁を見た。転がっている大きな岩の上に、黒髪の頭がはみ出して見える。問いに否定しなかった。


「私が転んだ程度のことで、私よりも動揺してたね。あんまりいい傾向じゃないよ」

「……お前には恩がある。怪我をされるのは好きじゃない」

「ふぅん。私が君を助けた、と思われそーな記憶は一つしかないね」


 言いながら意味なく水面を叩くと、ぱちゃりと透明な音がした。


「気にしなくていいいのに。もう十年も前のことだし」


 アズティスは頭を後ろへ倒して、仰向けになった。高い岩壁のせいで狭くなった空に、大きな満月が覗いていた。

 銀髪が水に浮いて輝く。乾きかけていた泥も落ちている。肌も制服も手洗いした。本当はそろそろ出ても良い頃だけれど、アズティスはまだここにいたかった。綺麗な水の流れる音が好きだ。虫が鳴く声も。

 カイルは静かに問う。


「迷惑か?」


 いつもの、冷静な口調で。


「俺が傍にいるのが迷惑なら、そう言ってくれればいい」

「迷惑じゃないよ。君が一番好きだし」


 穏やかな返答に、カイルが動揺した。魔力に一瞬の揺らぎを見せたけれど、それもすぐに沈黙する。


「君さ、私のこと……やっぱいーや」


 アズティスは静かに立ち上がって、洗った制服を回収して岩場まで歩いた。カイルが身を潜める岩の上に、彼女の荷物がある。


「お前がおかしなことを言い出すのは、大抵が何らかの不安がある時だ。やはり俺が乗っ取りを殺せばよかったか」

「それは私が嫌だ。ああいうのは一瞬で殺してあげないと可哀想だよ。二度も獣に食い殺されたくないよ、誰だって」


 魔物に食い殺されて、カイルの獣に食い殺される。死んだ人間の記憶を欠片でも宿した乗っ取りには、二度の死がある。

 アズティスは身体中の水気を、タオルで拭った。


「獣を使わず魔術で対抗すれば良かったのか」

「……さあ。どうだろーな。それでも、私がやった方が痛みもないんじゃないかな。妖精魔術は優しいから」


 下着を着用して、奇跡的に無事だった学生シャツを羽織った。ボタンを留めていく。


「お前は子供に甘いな」

「君は私に甘いけどね。いや、私に弱いのかな?」


 アズティスの声には、からかいが含まれていた。


「自覚している」

「だろうね。また私の熱、測ってたって聞いたし」


 豪雨の日、旧礼拝堂でのことだ。彼女の配下である妖精に聞いたのだと、言われなくても明瞭だった。


「そろそろ、飼主離れしなきゃ」


 アズティスの言葉に、カイルは答えなかった。そうなることを予想していた彼女は、


「あと三年もないんだよ」


 四つん這いになって、岩の横から半身を見せた。

 彼女は学生シャツのままで、大腿は剥き出しだ。

 元々一泊やそこらの予定だったから、着替えは最低限の下着とシャツしか持ってきていなかった。

 カイルのもの言いたげな目に、彼女は苦笑した。


「ごめん。濡れてても裸よりマシだって思ったんだけど……夏だし……、でもいざ着るとなると思ったより冷たくって。これは無理かなって」


 特にワンピースは身体の胴も下肢も覆うものだから、夏場とはいえ風邪を引いてしまう。


「計画性がないな」

「泥だらけよりはいいよ。腰から下はタオルでも巻こうかな」


 カイルは「これを使え」と自分の上着を投げて寄こし、笑ってお礼を言うアズティスから、そっと目を背けた。


「……やはり俺がいないとダメだな」

「そうかもね」



 翌日、アウルベアの巣を発見した。

 カイルの白猫が先導して向かった先の、大きな洞窟だ。

 一行が警戒しながら進んでいくと、最奥に大量の茸があった。すべて腐敗している。大きな葉で、宝物のように隠されていた。

 アズティスはそれを見て、目を伏せた。

 茸。犠牲になった少女の、母親の好物だ。

 どれも千切り狩られたのか、切り口はぎざぎざで、綺麗ではない。

 アウルベアが収集したものと考えられる。


 知能や思考は、生きてきた経験、刺激によって成長していく。乗っ取りには多かれ少なかれ人の記憶が入る。実際は知能を取り込んだだけの魔物で、自分は人だったと勘違いしてるだけでも、乗っ取りにとって自分はあくまで人間だ。


 腐敗した茸の山の裾に、白いものが見えた。

 白骨だ。おそらくもう一人の犠牲者――父親のものだろうと判断した。


 帰路で後味が悪そうにする二位に、アズティスはぽつぽつと話しだす。


「……去年のこの時期、今みたいに乗っ取りに遭ってね。カイルは私を庇って怪我をしたんだよ。特に足が重傷だった」


 アズティスと二位は最後尾にいる。先頭を歩くカイルの背中を見つめながら、


「その乗っ取りが、あいつの母親だった」

「え……」

「私はそれを殺したよ」


       *


 話を聞きながら、二位は考えた。

 二級生の教科書が更新されていないのではなくて、きっとわざと知らされていないのだ。

 それを殺すことは、一種の殺人であるから。人の意識の残留物を殺すその行いを、受け入れられない人間は多くいるだろうから。


 だから魔術師は人の感情に疎いのか。――きっと自分のために。

 だから魔術師は嘘を吐くのか。――きっと遺族のために。


 鈍感も、隠しごとも、魔術師には必要な要素だ。

 二位の心の奥底から、じわじわと思い出される声があった。


『ああ、見てしまったんだね』


 二位の頭の中で、時折再生される。何度も、何度も。


『招かれてしまったのかな』


 聖堂の一画で、育ての親に言われた言葉。


『それなら次は、きっと、おまえだ』


 研究所も、聖堂も、何か大きなものを隠している。


       *


 帰園したその足で、アズティスは教室に向かった。

 音は凛として迷いがないけれど、どこか荒々しい。前を見据える瞳は冷たく、廊下ですれ違う生徒は彼女を二度見して過ぎた。

 一級生が使う教室。講義はすでに終えていて、生徒は残っていない。けれど席の一画に、人影があった。


「来ると思ってたわー」


 教官である。

 主に一級生を担当する、悠長な口調で若々しい、任務に随行するはずだった、白衣の女性である。

 教官はアズティスを見て、困ったように眉を下げた。


「ごめんなさいねー」


 アズティスは謝られた瞬間、試験の対象が自分であったことを確信した。拳が固く握られる。


「もちろん、アズティスさんが優秀ってことは知ってるのよー? でもねぇ、不安な人がいっぱいいるのよー」


 あのレオタールが、村人にどういう態度をとるだろうかと。研究所の魔術師としての義務を果たせるだろうかと。

 適正を見られていたのだ。

 今回の抜き打ち試験のねらいをわかってほしいと、この教官は示している。


「ね?」

「よくわかりました。……カイル・ノアイユに代わり、任務の完了を報告します。任務詳細では通常の魔物と目されていた魔物は『乗っ取り』と発覚。退治に成功しました。我々が確認を怠ったため、現場に村民を一人介入させました。処罰は謹んでお受けいたします」

「ないわよー」


 教官は即座に返す。


「処罰はないの。これでも、貴女には悪いと思ってるのよー? 明日にはカイルくんから正式な任務報告書が渡されるでしょうから、それでこの件は終わり。罰を負うにしても、今回はカイルくんが班長なんだし、彼にいくわぁ。何より、依頼に関しての生徒の失態はそのまま学園の責任よー」

「……承知しました。失礼いたします」

「ああでも、一つお願い。今年こそ、懇親パーティーには出てくれるかしら?」

「…………………………はい」


 教室を辞したアズティスは、旧礼拝堂に飛び込んだ。

 外で妖精たちが心配そうにたしたしとドアを叩いているけれど、それにも気づけない。

 荷物をすべて身廊に放置して、祭壇の傍に置いた椅子に荒々しく腰掛けた。祭壇には、ペンや紙が散らばっている。いつもはカイルが綺麗に整頓してくれているけれど、今日は荒れたままだ。

 アズティスは、そこにこつりと突っ伏した。


「……痛いな」


 腹を抑えた。刺された腹部と、肩と、腿と。じくじく痛む気がする。

 旅で疲れたのだろうか。任務内容なんて、さほど変わらなかったのに。相手がたまたま乗っ取りであったというだけで、たまたま転んだだけで、こちら側の誰かを傷つけたわけでもなかったのに。


 あの熊は自分の兄を認識していた。

 自分の兄に縋ろうとしていただけだった。

 助けてほしいと、自分が人間でないことも認識できずに。

 殺す直前までは、あの熊は小さな女の子だった。


「――ッ!」


 腹が痛む。心の一番弱い部分が蹲って、ごめんなさいと謝り続ける。目から鼻から口から体液を垂れ流して、地に額を擦り付けて詫びる。情けない。現実にはとても考えられない醜態でも、実際のアズティスは無表情に近い。

 祭壇に頬をつけて、ぐったりとしながら扉の方を見る。いつも両開きの扉を開けて、静かにこつこつとやってくる彼は――今はいない。自室で任務の報告書と戦っていることだろう。


 ――『ちちうえ、これ』


 差し出しても受け取ってもらえなかった花。

 父親の背にいくら声をかけたって、あの人は振り向いてくれなかった。父親についている執事ですら、こちらに寄こす目線はいつも冷たかった。そして最後に言うのだ。お引き取りくださいと。


     なんで、きいてくれないの

     わたしは

     ここにいるのに


 呼吸が止まる。

 肩も痛い。ずきずきする。大腿も痛い。立ち上がれない。


(……だから、乗っ取りは嫌だ)


 どんな意思があったって、どんなに呻いたところで聞いてもらえず、問答無用で押し潰される。その様が過去の自分と似すぎている。


「ははうえ」


 アズティスの脳裏に蘇る。あの夏の夜の惨劇。


(あなたはあの時、あんなにも、痛そうだった)


 助けられなかった。自分に誰かを助けられるほどの力がなかったから。

 母親の、ひゅうひゅうと苦しげな呼吸の音が、まだ耳に聞こえるようだ。

 あんなにも苦しそうだったのに。


(どうしてあなたは、わらっていたのですか)


 何度思い出しても、母親は笑いながら目を閉じた。

 思い出すたびに、母親はそうして何度も死んだ。死んだ。死んだ。


(十年くらいになるかな。……実はもう、母上の顔、覚えてないのかもしれないけど)


 あの赤い唇が微かな孤を描いた光景は、脳裏に焼き付いている。


(会いたいです。母上)


 母親にまつわる思い出はすべて、自分にとってかけがえのない記憶。それに代わるものなど、ありはしない。


 ――あのカイルでさえ。

 ――母上のようには愛せない。


 アズティスは開かない扉に期待するのは止めて、祭壇の上に転がっているペンを執った。数枚で束になっている便箋の一枚をとって、ペン先をインクに浸し、まずは一文字。届けたくても届けられない言葉を、取り留めもない文章に書き落とす。


 ――『おまえは、英雄さんになるんだよ』


 頭の中で声がした。

 しばらく無心で書いていたら、体力の限界がきた。書ききった便箋をそこに放置したまま、アズティスは立ち上がった。大腿を引きずるようにして信徒席まで歩いていくと、そこに寝転んだ。

 どうせ明日は任務明けの休日だ。ここで夜を明かしたってかまわない。


 夢の中でいろいろなものを見た。

 取り留めもなく纏まりもない、ばらばらの映像だった。

 お菓子、雪、繋がれた手、睨みつけてくる黒髪の男の子、夏の日差し、テーブルの上のお茶、お墓、妖精の羽、母親の赤い唇が笑って、

 ぶつん。

 切れた。目の前が真っ暗になった。

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