アウルベア-Ⅵ
これはまずい。とてもまずい。
現在この結界内に居るアズティスは、先制攻撃型だ。
ほとんどの魔術において隙のないアズティスは、補助魔術の扱いも人並以上ではあるけれど、他人を覆う結界は苦手だ。それは今現在二重結界を担当している二人のような、補助魔術に特化している者しか使えない高等魔術である。
協調性に少々欠ける彼女は、誰かを庇う戦闘に滅法弱い。
「まってまってまってほんと退いてって! そこ危ないんだから!」
人間を攻撃するわけにはいかないと、彼女は必死だった。女性に叩かれようと怒鳴られようと動じなかった彼女が、である。
「こっち来なさい! めっ!」
少年をなんとか退けようと少ない語彙力を駆使して叫ぶアズティスと同様に、少年も必死だった。
「村の子供って、さっき……」
少年は小鹿のように震えていた。
衝動で動いたのだろう。その顔は恐怖に引き攣っていて、声だって小さなもの。それなのに、自分の身体の十倍も大きな魔物を守ろうとしている。
「それはもう違くなっちゃったやつだから。落ち着けって。こっち来い」
「……でも」
やだ。少年は首を振る。
その間にも熊の爪は矛先を変えて、少年の頭に向いた。
ぎぢ、ぎぢ、
嫌な音だ。熊を抑えている黒狐がずりずりと引き摺られている。地面に爪を立てて持ちこたえようとしているけれど、もう長くはもたないだろう。
一瞬で終える予定だった。魔物の中でも膂力で知られる熊相手に、ほんの五秒持ちこたえれば十分のはずだったのだけれど。
「とにかく、こっち……っ!」
ぶぢ。
太い縄が切れる音がした。黒狐が高く啼く。
熊の爪が振り下ろされる。
「ッ――!」
アズティスは、もてる限りの瞬発力で少年の元に走り、抱え込んだ。
熊の爪が、靡いた銀髪の一部に接触した。幾筋かの髪が空に舞い落ちた。
貧弱な彼女は地面に倒れ、そこにあった泥溜まりに飛び込んだ。少年を庇ったはいいものの、彼女の制服は泥にまみれる。綺麗な髪も台無しだ。
「……あー……、だいじょぶか?」
「はい……」
少年が腕の中にいるならばと、アズティスは一先ず結界を張った。自分一人用でも、小さな少年一人くらいは余裕で入る。
「ごめんな」
アズティスは、少年を真正面から抱きしめた。
「紛らわしいこと言った。あれはね、人の思考をするだけなんだ」
「人の、思考?」
「妹さんの頭の良さを受け継いだ魔物だから。あれがたとえ君を『お兄ちゃん』と呼んだとしても、魔物であることには変わりない。放っておけば、もっと人を喰うよ」
熊の爪が結界に当たる。ぎゃりぎゃりと耳に痛い音がした。
「だってほら、君の妹さんは、自分の家族を食い殺そうとするやつなの?」
思わず、といったように。
「アズ……ッ」
二位の隣にいたカイルが、泥だらけのアズティスを呼んだ。普段銅像然と動かなかった彼が、アズティスが転んだ程度のことで取り乱しかけた。カイル先輩も人間だったんだと若干失礼なことを考えた二位も、決して冷静ではない。
「介入する。許可は不要だ。緩めるな」
は? という二対の瞳を一身に受けながら、カイルは指を鳴らした。
それが合図である。
外側からの干渉を受け付けない結界内に魔法陣が構成された。ちょうどアウルベアの真後ろに、ぞぶぞぶと不吉な音をさせながら。
「……だから、嫌」
眼鏡はぼやいた。
――補助魔術の使い手二人がかりの二重結界内に、許可もなく、こんなにも容易く介入できるなんて――。
人様の魔力に自分の魔力を馴染ませ、魔術内に介入する魔術技法だ。閉じ込められた結界に穴を空けて活路を見出すだとか、発動する相手の魔術の行使権を自分に移すためだとか、それこそ『魔術を乗っ取る』時などに利用される高等技術だけれど。……正規のベテラン魔術師でも難しいのに。
――この怪物二号――。
カイルは補助魔術が不得手でも、魔力操作の実力は折り紙付きだ。妖精魔術を扱う怪物とは様式が違うけれど、彼女と競えるほどには得意である。
「出ろ」
展開された魔法陣へ向かって、カイルが命じる。
溝水のような音をさせながら這い出てきたそれは、黒い三本指の手だ。動物なのかもわからない何か。地面に両手を置いて、その身体を今にも晒そうとしていた。
二位も、あの三本指をお茶会で見たことがある。今まで見てきた人様の契約獣の中でも、ぶっちぎりで可愛くなさそうだ。
カイルはそれを使って、あの熊をどうしようというのか。
皆の視線が禍々しい獣に向く中、
「ちょっとまって」
アズティスの声が大きく響いた。問題の獣の動きが止まった。
「だいじょぶだいじょぶ。ちょっと待って。私がやる」
「だが、」
「いいって言ってる。私がやった方が痛くない」
有無を言わせなかった。
「……わかった」
カイルは発動しかけていた魔方陣を綺麗に消し去ると、黒狐に指示を送る。痛みにぐるぐると喉を鳴らしていた狐は魔法陣に沈んだ。
アズティスは少年が後ろを振り向かないように抱き締めたまま、囁く。
「耳を塞いでて。すぐ終わらせるから」
地面にへたり込んだまま、立ち上がりもしないで、彼女は右手を熊に向ける。だらりとした指先で標的を定め、
「『――、――』」
何かをぼそりと呟いた。
標的は怯むことなく、彼女に鋭い爪を差し向けた。それが届く前に、
「『――。』」
彼女は挙げていた片手を動かした。親指で、自分の首を掻っ切る動作。
そして標的は絶命した。突進する勢いのまま地面に倒れ込み、強かに体を打ち付けて動かない。血の一滴も零さず、魔物は死んだ。
派手ではないが、えげつない攻撃魔術。妖精魔術の一部である。
さらさらと粒子状になって消えていくアウルベアを見届けているアズティスから、少年が引き剥がされる。そのまま眼鏡に身体検査を受けさせられた。
流れるような措置を見ていたアズティスの傍には、不機嫌そうなカイルがいた。
アズティスがぴくりと動く。続いて後方の木を振り返り、仰いだ。何かがいるのだろう。カイルも一緒になって夜闇に眼を凝らす先で、一部の枝が揺れた。
黒く大きな――鳥だ。
月光を背に、黄色い双眸で見下ろしてくるその鳥には覚えがあった。連絡用にと連れていた伝書烏である。
アズティスは眉を吊り上げた。
強められた語気にも反応せず、伝書烏は飛び去っていく。
「やられたな」
「ん」
カイルの言葉に苦々しく返すアズティスの様子に、二位はうろたえた。いつも飄々としている先輩がこんなにも怒りを露わにするところを見たことがなかった。
訊ねようにも尋ねられない二位の傍に、補助魔術係の男子生徒がとたとたと寄っていく。
「あんた、あれ初めて? そっすね、まだ二級生じゃあ会ったことねっすよね。あれ『抜き打ち試験』ってやつっすよ」
「あの筆記とかでよく聞く、抜き打ち試験ですか?」
「そっす。あんたもまぁー大変なもんに巻き込まれちまったもんっすね……。心中お察っすっす」
おさっすっすとは「お察しします」の意だろうと、二位は解釈した。
「こういうことって、よくあるんですか?」
「よくは……ねっすねっす。なかなかねっす。問題のある生徒を監視するとか、逆に卒業後に研究所のどっかの部署で引き抜きたい人材を見てみるとか、そーいうもんっすね」
「じゃあ、悪いことじゃないんですね」
「っすね。この班は成績上位十位以内で占められてるっすから? まー、オレたち優秀っすから? 上層部の注目の的なんっすよぉ。……ただ、誰を対象にしたんだか知らねっすけどぉ。今回の任務に教官がいなかったっつーのも、怪しい話で。どっからが試験だったんだかねぇ」
男子生徒は軽率な口調ながら、言葉の端々が刺々しい。あの二人ほどではないが、彼も今回の『抜き打ち試験』を歓迎してはいないようだ。
「上は乗っ取りのことを知っていたんじゃないのかっつーのが、あの二人のお怒りポイントっすよ。二人にとって、乗っ取りっつーのは嫌なもんなんだろーなって……、あー、いやまあ……知らねっすけど? 去年のこととか。オレあの人たちのことよく知らねっすけど? 仲良くねっすもん」
男子生徒は何も言えずにいる二位にお茶目に片目を閉じて、
「今回の抜き打ち試験が何の名目でも、討伐中に一般人が紛れたのは間違いなく減点っすね。上位二位コンビっすかね! ざまぁ! オレ対象だったら笑えねっすけど!」
そんな笑えないことを言った。二位は、相手の口調で性格を判断してはいけないことを学んだ。明朗かと思えば、とんだ陰湿野郎だ。
アズティスは差しだされたカイルの手をとった。ふらりと歩いて、少年の傍に片膝をついた。
「ごめんなさい……」
怒られると思ったのか、少年は顔を蒼褪めさせていた。
アズティスは俯く少年を静かに見上げている。怒ってはいない。ただ無言で、その手を少年の頭に乗せた。
怯える少年と目を合わせて、
「ごめんな」
魔術を発動した。何の音もせず、風もない、ただ彼女の手のひらが光っただけの静かなものだった。
微かに瞠目した少年は倒れて、カイルに受け止められていた。
動揺したのは二位だけだった。
「あれ、は……」
「今のとこ、世界中見ても、一位サマしか使えない魔術らしいっすね。まあ妖精魔術使えるのがあの人しかいないっつーだけっすけど。見せつけてくれちゃってまあ」
ということはつまり、妖精魔術でしか成し得ない効果の魔術だ。火を熾したり水を操るといった、多くの魔術で実現できるものと違い、その魔術方式固有の魔術。
「あの一位サマ、人の記憶を消せるんだってさ」
「……え」
アズティスが怪物と呼ばれる所以がわかった気がした。