アウルベア-Ⅴ
その『熊』は陽が出ている中で出歩くのは苦手だった。けれど夜には急に走り出したくなったり、お腹が空く。今夜もそうだったから、熊は――熊より数倍大きい何かは、のそりと穴倉を這い出た。
おいしそうな匂いがした。
匂いの元をたどっていくと、だんだんと懐かしくなってきた。あちらには何か楽しいものがあるのではないかと思った。
熊らしきものは、重たい脚を引きずって山を下る。かつては登るにも一苦労だった大きな岩場もひとっとびで下りられる。ずうん、と大きな音がした。
山を下る。おいしそうな匂いが濃くなっていく。
ある木を過ぎたところで、ふと、小さな青色の光を見た。
熊は四つの目をぎょろりとさせて、光を追う。
あれは、おいしいもの。
おいしそうな匂いよりも、おいしいもの。
口の中に唾液が溢れていく。
匂いの元をたどるよりも、光に集中した。あの光は赤い木の実が気に入っているのか、その木の周辺でふよふよと浮いている。
ふっと息を殺して、足音を潜めて、光に近づいた。昔にこうして遊んだ記憶がある。見つかってしまったら負けの、たのしいゲームだった。なんというゲームだったか忘れてしまったけれど、たしか自分が一番仲が良かった誰かと、こうしてよく遊んでいたのではなかったか。
熊のようなものは、光に集中するあまり、足元の枝をぱきりと踏んでしまった。
あ!
焦った。光は飛び去ってしまう。
すぐに追いかける。あの光はすばしっこいけれど、自分だって昔よりもずうっと速いのだ。相手が逃げて、自分が追う。このゲームも知っている。なんだっけ、ああ、追いかけっこだ。どうして今更、懐かしいと感じるのだろう。
熊はまるで昔に戻ったようで、わくわくした。
それなのに、ある地点まで来たらそれ以上進めなくなった。透明な壁がそこにあるみたいだった。夜は明るすぎなくて、よく見えるはずだけれど。
なんだかわけがわからなくなって、熊は透明な壁をどんどん叩く。痛くはないけれど、壁も全然壊れてくれなかった。
熊が追っていた光は、おいしそうなものの肩にぴたりと止まる。おいしそうなものは熊から少し離れた木の下にいて、ガラスみたいにきらきらした綺麗な目を持っていた。
「……やっぱり、乗っ取ったんだな?」
おいしそうなものは何かを呟いて首を傾げた。白い首はやわらかそうで、追っていた光よりも食べ応えがあるかもしれない。
熊はおいしいものが好きだ。けれど、嫌な気分にもなった。
あそこにはきちんとあたしの印を置いたのに。
ここから先はあたしの場所だよって。
わざわざあたしの手で、教えてあげたのに。
*
あと一時間で到着するとかいうお知らせを落とされたところで絶望するばかりだったアズティスたちは、淡々と行動を開始した。
アズティスが制作した偽物の妖精数匹を泳がせれば、大物は見事に釣れた。その行動から、『乗っ取り』の知能はやはり子供かと思えた。
赤い四つの眼。天高く伸びあがった耳のようなもの。禍々しく発達した手足は岩のよう。毛は抜け落ちて、罅割れた地肌が覗く。頭はふくろう、体だけが熊、ふさふさの巨体。にやあと深く笑う口元からは、唾液がぼとぼと滴った。
アズティスを縦に三人並べたほどの背丈があった。
結界は正常に発動している。二位は結界外にいて、真面目に見学する姿勢だ。アズティスの対角線上にいるのは、カイルが呼び出した黒狐だ。上品にお座りをしている。
結界内の一人と一匹は、平静な態度でアウルベア――人間の子供の知能付き――と対峙している。
「さて、」
アズティスは細い指を獲物に差し向けて、静かな瞳で熊を見た。
アウルベアは唾液まみれの口の奥から低く唸る。
彼女は一歩も引かない。
身の内にしまい込んでいた魔力が、彼女の敵意に応じる。髪とスカートが魔力の風を含んで揺れた。
アウルベアが何かを言う。何を言っているのかわからない。ぐぐ、と唸るだけだ。
知能が人間なら、きっと人間の言葉を使っているつもりなのだろう。
けれどそれができないのは、その肉体が、声帯が、人間の言葉を操れるようにはできていないからだ。
「ごめんな。異文化交流は間に合ってるんだよ」
くう。熊が何かを訴える。
「君は村の子。お兄さんがいたってきいたよ。『君』が悪くないってことは解ってるんだけど、ほんと、ごめんな」
アズティスは困った顔で、首をゆるりと振った。
人間を食べた魔物自身が、自分がその人間だと勘違いする。
だから乗っ取りからすれば、自分は人間なのに、魔術師に殺されるということになる。
人殺しと思われながら手を下さなくてはいけないのが『乗っ取り』の討伐だ。
――アズティスに爪が迫った。
「っ!」
そして止まった。子供の手首ほどの太さがある、つららのような長い爪が、アズティスの瞳に刺さる寸前でぎちぎちと硬直している。
止めたのは、カイルの黒狐だ。熊の腕、胴体、足を何本もの長い尾で縛り付けていた。低く唸っているのは、実は熊だけではなかった。カイルの狐も唸っていた。
彼の召喚獣は、アズティスに害をなすものを嫌っている。
アズティスは黒狐が自分を庇ってくれることを解っていた。自分に突き刺さりかけた爪を前にして、少しも動じていなかった。
「君は人として認められないから」
アズティスは熊に目を向けた。人間の思考をする魔物に「ごめん」と囁く。
それと同時期に、結界外のカイルは眉根を寄せた。――何か見落としている。
数瞬後、見学していた二位が結界内の異物の存在に気が付いた。
結界係の片割れである眼鏡は、唇を噛んだ。予想外の招かれざるお客様が、その場にいた。
弾かれるように草むらから飛び出してきたのは、十歳くらいの、見覚えのある少年だった。
――食われた子供の、兄だ。
確認不足。この時間帯、村人がこんなところにいるはずがないと思い込んでいた。これは明らかな過失だった。 言い訳をするならば、学生たちは中途半端な経験不足だった。現場は戦場、ゆえに魔物を恐れる村人が紛れるはずがないという、常識的な思い込みがあった。
「待ってよ!」
信じられないと瞠目する学生たちの注目を浴びながら、少年はアウルベアを背に庇った。
「うっそ」
アズティスは少年の存在に気付いた今、それを無視するわけにはいかなくなってしまった。