06
まだ説明は続きます。
俺は再び、暗闇に包まれた次元の狭間を歩いていた。
先頭を歩く佐ヶ宮の歩調は、心無しか重く、そしてその背中からは疲労の色が見てとれた。
俺もその背中を追いかけながら、思わずため息が漏れた。
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「お婆様!冗談はおやめください!」
さっきまで都奈弥に制されていた佐ヶ宮が、再び都奈弥に食ってかかっていた。
気持ちは解る。ついさっき話していた、この世界を救うことができるかもしれないなんていう大層なものが、俺の中に有るなんて言われても、俺自身信じることはできない。
「咲、私が今まであなたに嘘偽りを言ったことがありましたか?」
今度は制することなく、都奈弥はその一言だけ答えた。
「い、いえ。そのようなことは...」
都奈弥の答えに気圧されるように佐ヶ宮が言葉を濁す。どうやら、都奈弥が虚言を吐かないのは本当らしい。
佐ヶ宮が言い返せずにいると、都奈弥がため息をつきながら続けた。
「私だって信じられないわよ。この世界を救える唯一の存在が、魔法師ではなく、しかもこの世界の人間でもないなんて。何かの間違いなんじゃないかと思いたいわ。でもね、」
都奈弥はここで言葉を切ると、俺に向き直り、真っ直ぐな眼差しを向けながら続けた。
「私はこの可能性に賭けてみたいとも思っているの。この世界だけじゃない、水渡辺くん、あなたの世界を救うためにもです。傲慢かもしれないけれど、私はあなたに協力してほしい」
都奈弥はそう言うと、ゆっくりと頭を下げた。微かに見える額のしわが、先ほどよりも深く刻まれていた。
「んなこと、急に言われてもな...」
俺は突然頭を下げられて上手く答えが出なかった。会って1時間も経っていない、しかも自分より目上の人間に頭を下げられるなんて生まれて初めての経験だ。正直困る。
「お婆様、おやめください!お婆様が頭を下げるなど...」
佐ヶ宮が慌てて都奈弥に頭を上げさせようとする。しかし、
「咲!」
都奈弥が佐ヶ宮の手を振り払いながら、俺に頭を下げたままピシャリと言い放った。
「も、申し訳ありません」
都奈弥に叱られた佐ヶ宮は俯きながら答えた。
「水渡辺くん、お願い出来ないかしら」
そんな佐ヶ宮には目もくれず、都奈弥がようやく頭を上げて言った。
「いやいや急に言われても...正直どうすればいいのやら...」
俺はまたモゴモゴとしてしまった。まったく、ここに来てからオドオドしっぱなしだ。俺らしくもない。そうだ、こういう時こそ冷静になれ。COOLになるんだ。ナマケモノになるんだ、俺!
俺が頭の中でCOOLの意味をはき違えていると、都奈弥が再び口を開いた。
「そうね。今のあなたにこんなこと言っても混乱させるだけでしょうね。ごめんなさい。でも、もう時間がないのよ。今日の日付が変わると同時に、門も完全に閉ざされてしまう。そうなれば、こちらとあちらの世界を行き来するのは不可能になってしまうわ。日付が変わるまであと6時間弱。それまでにあなたにどうするか、決めてもらわなくてはならないわ」
「んなこと急に言われても困るって言ってるじゃないか。大体、色々ぶっ飛んだ展開ばっかりで全然状況飲み込めてないし...」
俺は最後に、これ見よがしに肩をすくめて見せる。 実際、異世界だのなんだの言われても全く実感がわかない。問題があまりにもでかすぎる。
確かに俺は今まで、アニメやマンガを読む度に、2次元的なものに妄想を膨らませたりしてきた。もしもボックスがあったらどんな世界にしようか夜中考えたこともあったし、下手くそな魔法陣を描いて喜んだ時期もあった。だが所詮は作り物の話。空想夢想、絶対に現実にはならないとわかっているからこそ、俺はその夢に希望を抱き、勝手に一喜一憂することができた。そう、それでよかったのだ。妄想は叶わないからこそ妄想なのであり、嘘であるとわかっているからこそ、楽しむことができたのだ。
だが、今はどうだろう?俺は今、魔法や、ダムレクトなんていう怪物が存在する世界に立っていて、そして俺自身、魔法を扱うことが出来るらしい。何より、俺はこの世界の救世主と言っても過言ではない力を持っていると、さっきこの婆さんが言っていたばかりだ。完全に物語の主人公的立場になっている。長年夢見てきた妄想することしかできない幻想が、目の前に現実として存在しているわけだ。
さて、俺はこの状況を喜ぶことが出来るだろうか?
答えは、否だ。
少し考えれば分かることだ。「世界を救えるのはお前だけだ!」と言われて、「よっしゃ!やってやるぜ!」なんて答えられる人間なんて存在しない。そんなこと言える奴はよっぽどのアホだ。問題を先送りにして、ただやけくそになっているだけだ。何も考えていない。普通の人間だったら、まず最初に込み上げてくる感情は喜びや意気込みなんかじゃない。単純な恐怖だ。自分の手に世界の命運が委ねられているという、暴力的なまでのプレッシャー。おそらく、核ミサイルの発射ボタンを押す、なんてことなど話にならないほどの圧力に、耐えられず逃げ出すのが関の山だ。
幸い、俺は問題があまりにも現実離れし過ぎていて実感がわかないせいか、予想以上に平静を保っていることができていた。
いや、違うな。そうじゃない。俺はただ単に考えないようにしているだけだ。パニックにならないように現実逃避して、必死に逃げようとしているだけなのだ。
だが、現実はそう甘くはない。まるで奈落の底へと突き落とすかのように、それまで沈黙を守っていた佐ヶ宮が口を開いた。
「いい加減誤魔化すのはやめてもらえないかしら。時間がないといっているでしょう?これは他人事ではなく、あなた自身のことなのよ。それに、お婆様にここまでさせておいて、あなた一体何様のつもりなの?」
佐ヶ宮の声には明らかに苛立ちが混ざっていた。鋭く光る黒い瞳は、まるで獲物を狙う狐のようだ。俺がその凄みに圧倒されていると、横から都奈弥が助け船を出した。
「咲、そこまでよ。頼んでいる私たちに、水渡辺くんを責める資格はないわ」
「しかし、お婆様!この男は世界を唯一救えるという、あのルセオ・クラビスなのでしょう?でしたら、選択肢は一つしかないではありませんか!どうして、本人の意思決定を待つ必要があるのですか!」
佐ヶ宮は早口に捲し立てる。相当興奮しているのだろうか、心無しか顔全体がうっすらと朱に染まっている。それとは対照的に、都奈弥は石のように眉一つ動かさずに答えた。
「咲、私は前々から何度も言っているはずよ。たとえ二つの世界を行き行きできるからといって、互いの人間が相対する世界に干渉するべきではないと。世界がそれぞれ別々に存在しているということは、必ず何かしらの意味があるはずだと」
「でしたら!私たちが今行っているダムレクト殲滅は一体どう説明するおつもりで......」
ハッと、佐ヶ宮は突然言葉を切ると、小さく「申し訳ありません」と謝罪した。何か地雷でも踏んでしまったのだろうか、それから顔を俯かせ、すっかり静かになってしまった。
その姿を見た都奈弥が、申し訳なさそうに苦笑いした。
「咲、確かにあなたの言う通りよ。仕方ないこととはいえ、私たちが少なからずあちらに干渉していることは事実だものね。でもだからこそ、これ以上あちらの世界に迷惑をかけることは避けなければならないのよ。例えそれが、この世界を救うことができる、ルセオ・クラビスだったとしても」
都奈弥の口調は、小さい子供を諭すようなものへと変わっていた。
「私たちが水渡辺くんに強要することは出来ないわ。元々は、こちらの世界の問題なんだもの。私たちでなんとかしなければならないことよ」
都奈弥の言葉に、佐ヶ宮は「はい」とだけ答えると、野ネズミのように小さくなってしまった。先ほどの強気の態度がまったくの嘘のようである。
「ごめんなさいね、水渡辺くん。身内がとんだ恥を晒してしまったわ。さっきの話については、今言った通り、強要はしないから」
「はぁ...」
俺はボリボリと頭を掻いた。なんだかとても居心地が悪い。落ち着かないと言うよりは、むしろムシャクシャすると言ったほうが今の俺には的確だ。あー、今すぐ家隣のおばさんのポチをなで回してメチャクチャにしてやりたい。
「まあ、その.....話、聞くだけなら」
「え...?」
俺のぶっきらぼうな呟きを聞いた佐ヶ宮が、ポカンと小さな口を開いていた。え、何?そんなに意外?いくらなんでもその反応はちょっと失礼でしょう?
大体、今のやり取りを見せられて、俺には完全にNoと拒絶することはできなかった。俺はお人好しではないが、逆に人でなしでもないのである。なるほど、これが日本人の性というものなのか。しっかし、情に厚いのは日本人の美的とよく言うが、俺から言わせてもらえば、ただ損な役回りを引き受けてしまっているだけなんじゃないだろうか。ちなみに、自分自身に優しいのは俺の美的。だってみんなが自分自身に優しくなれば、世界平和も成ったもんだろ?
俺が世界の真理を説く一方で、もう一人の人物は佐ヶ宮とはまったく違う反応を見せた。
「本当に?ありがとう水渡辺くん!本当、助かるわぁ」
都奈弥はそう言って両手を合わせながらニコッと微笑む。なんだろう、なんかあざとい。そりゃもう近所のおばちゃんが俺にお使いを頼んだ時のように。これで飴とかくれたら二つ返事で引き受けちゃう。飴で釣られちゃうのかよ。
「もう一度言うが話を聞くだけだぞ。変に期待すんなよ?」
懸念を振り払うように俺はそう念を押したが、都奈弥はしめたとばかりに目を輝かせながらウンウンと頷いている。駄目だ、乗せられた。やはりこの婆さんは苦手だ。話を聞いたらとっとと帰ろう。もう絶対に飴で釣られるような軽い男にはならないと心に誓いました。
「そうね、長くなるかしら。とりあえずもう一度かけて?あなたはこちらよ、咲」
都奈弥は俺にソファを勧める。俺が座ったのを確認すると、自分も向かい側に腰かけた。佐ヶ宮はさっきのことが後ろめたいのか、おずおずとその横に座った。都奈弥は「さて」と前置きすると、両の手の甲に顎を乗せた。
「何から話しましょうか」
「そうだな.....まず、俺があんたに協力した場合のメリットとデメリットについて教えてもおうか」
「そうね。分かったわ。でも残念ながら、あなたが望むようなメリットを提示することはできないわ」
「は?」
俺が驚きの声をあげると、都奈弥は自嘲気味に言った。
「私があなたにしてあげられることといえば、精々衣服住を提供することぐらいだわ」
確かに、都奈弥の言う通りだ。そもそも、俺は無理やりこちらの世界に連れてこられただけであり、そして俺の中に"鍵"があるからこそ、都奈弥はこうして協力を求めているのだ。最初からメリットなど存在しない。ということはつまり、
「デメリットしか存在しない、っということか」
俺が苦々しく言うと、都奈弥は大きく頷いた。
「ええ。私の望みは"鍵"を使ってあなたにダムレクトホールを破壊してもらうこと。つまり、少なからずダムレクトとは戦ってもらうということになるわ。そうなれば、あなたが命を落とす可能性も十分出てくる。そうならないためにも、あなたにはまず、魔法学校に入学してもらいます」
「魔法学校?」
「そうよ。咲、説明してもらえるかしら?」
「あ、はい、お婆様」
突然話を振られた佐ヶ宮は少し挙動不審がちである。いや、お前誰だよ。ちょっと叱られたくらいで凹みすぎでしょ。佐ヶ宮の弱点が、また一つ俺の脳にインプットされた瞬間であった。激しくどうでもいいな。
そんな佐ヶ宮もいつまでも縮こまっているわけではなく、気持ちを奮い立たせるように居住まいを正すと、律儀に説明を始めた。
「正式名称、対ダムレクト魔法師育成国立魔法大学。そこでは魔法についての学習や、ダムレクトとの実戦に向けた訓練などを行い、この国の国民をダムレクトの脅威から護る魔法師が育成されているわ。在学生は3年間、ダムレクトに対抗できるだけの魔法の技術と教養を身に付け、本校の卒業資格と魔法師としての資格取得を目指しています。1、2年次には、埼玉の本校舎でダムレクトと渡り合えるだけの知識と戦闘技術を、3年次には奈良で主に実戦による実地訓練を中心に行います。他にも細かい制約はあるけれど、これはまた今度でもいいかしら。どちらにしても、あなたがお婆様の要請に了承してくれたらの話でしょうから」
佐ヶ宮は最後に念を押すように言った。なんとなく言葉に棘があるのは俺の気のせいだろうか。
「取りあえず学校に通えってことはわかった。他に、何かあるのか?」
俺の問いに、都奈弥は重々しく答えた。
「一つ、あなたがこちら側の人間になってもらう前に、重要な儀式を受けてもらう必要があるわ」
「儀式?」
俺があからさまに訝しんでいると、都奈弥がうなるように言葉を続けた。
「あなたが魔法師になった場合、恐らく現在のような事態の対応にも追われることになるわ」
「それは、門、のことか?」
「ええ。あなたは門を通ってあちらの世界、つまりあなたが今住んでいる世界にも行くことになるでしょう。そこで、もし知人に会った場合、あなたはどうしますか?」
「そ、それは...」
それは困る。確かさっき、門の周期は4、5年と言っていたか。それだけ行方をくらませておいて、ひょっこり家族や友人の前に出ていった日には、ちょっとした騒ぎでは済まされない。相当面倒なことになるだろう。それ以前に、4、5年も行方不明だったら、俺は死んだことにされてしまうかもしれない。そうなるとますます面倒だ。しかも両方の世界を行き行き出来るのはたったの24時間。あまりにも短すぎる。
俺がうーんと唸っていると、都奈弥は予想通りの反応、とでも言うように頷く。
「困るでしょう?ですから1つ、対抗手段を施します。」
「対抗手段?」
俺が先を促すと、都奈弥は一息つき、そして口を開いた。
「もとの世界での、あなたが存在していたという全ての事実を抹消します。」
「.......は?」
ちょっと待て。存在を消す?なんだそれは。ナンノジョウダンデスカ?
「ごめんなさい、少し違うわね。正確には、還す、と言ったほうが正しいかしら。」
言い換えられても全く意味がわからない。
「んなことはどっちでもいいんだよ。俺が知りたいのは、たかが数年会えないってだけで、なんでそんなことする必要があるのかってことだ」
「ではあなたはご家族や友人に、これから別の世界に行ってくるから何年か会えません、とでも言うつもりなのかしら?」
「い、いや...それは.....」
俺が言葉を探して口ごもると、都奈弥が短いため息をついた。彼女の顔には、彼女本来の年相応のしわが刻まれていた。
「あなたももう分かっているはずよ。こちらとあちらの世界を両立することなんて到底不可能。たとえ門の周期が短くなっているとは言っても、数年間戻ることはできない。あなたが突然行方をくらませば、ご家族やご友人は当然悲しまれることでしょう。そこで数年後、再びあなたが彼らの前に現れたりしたら、混乱を招きかねません」
「.......」
俺が言い返せないでいると、都奈弥が更にため息をついた。
「さっきも言ったけれど、私は二つの世界は互いに干渉すべきではないと思っているわ。その理由も言った通りよ。あなたに魔法師になってもらいたいと言っている反面、矛盾しているのは充分わかっている。けれど一人の人間が、二つの世界に存在を残しておくのはとても危険なことなのよ。だってそうでしょう?ある世界という枠組みの中でそれまで生きてきた人間が、何の理由もなく突然姿を消してまた別の世界で生きていくなんて、必ず矛盾が生じてしまうわ。それだけで、文字通り世界規模で因果関係が狂ってしまうのよ?どんな災いが起こるかわかったものではないわ。だからせめて、元の世界の存在証明だけでもどうにかして、無理矢理にでも辻褄を合わせる必要があるのよ」
都奈弥の話を要約すると、人間は片方の世界でしか生きていくことを許されず、それを破れば何か良くないことが起きる、ということだろう。まあ普通の人間は本当に異世界があるなんて思っていないだろうし、佐ヶ宮のような魔法師と言われている人間もまた、別世界で生きていこうとは考えないだろう。本来ならそんな心配は無用だが、イレギュラーである俺はその懸念がされる、ということか。
まあいい。俺は元々話を聞くだけのつもりだったし、聞いたところでイエスと答えるつもりもない。つまりはこの婆さんの言っていることも、俺にとっては机上の空論ということだ。第一、俺がルセオ・クラビスという救世主だっていう話も、鼻から信じちゃいない。今日初めて会ったばかりの人間を、そう簡単に信じられるか。信じる者は救われる、なんて詭弁はもう聞き飽きた。俺から言わせてみれば、信じるものは裏切られる、そして潰される。人間、自分自身を守るためなら平気で他の人間を切り捨てるものだ。どれだけ世界が偽り、隠そうとしても、その事実だけは変わらない。ならば、わざわざ傷ついてまで他人を信用する必要なんてない。絶対に裏切らない、自分自身だけを信じて生きていけばいいのだ。最初で最後の絶対防衛線、決して揺るぐことのないグランドキャニオン。それを自分の中に確固たるものとして持ち続けること。それが俺の、この世で唯一本物だと言える真実だ。
「.....面倒な話はもういい。それで、その辻褄合わせってのは具体的に何をするんだ?存在を還すだかなんだか言ってたようだが?」
わざわざ「消す」のではなく「還す」と言い替えたのだ。単純な記憶削除とかではないのだろう。
俺の質問に、都奈弥は淡々と説明し始めた。
「水渡辺くん、人はよく過去の出来事について忘れてしまうと言うけれど、だからと言ってその出来事が消えてしまうとは決してイコールで結ぶことはできないのよ。ただ、“思い出せない”、いというだけで、その事実が消えることはあり得ない。どんなに些細なことでも、必ず何かしらの事実として世界には残っている。それを少しずつ積み重ねていくことで世界は創られていき、そして過去として後世に受け継がれていくものなのよ。だから、それを跡形もなく消し去るということは、つまり積み重ねてきた事実を抹消するということは、高く積んだ積み木からまるで虫食いのようにブロックを抜き取ることと同じこと。ブロックの一部である我々人間が、そんな神のような業を成すことはできない。いえ、例えできたとしても、それを成すことは許されない。それは文字通り、世界を崩すことに繋がるから」
都奈弥はここで一度言葉を切った。恐らくは俺に理解するための時間を与えたのだろう。しかし長々とご丁寧に説明してくれたお陰で、話の筋は把握することができた。
「起こった出来事や人の記憶を消すことはできないってのは分かった。じゃあ、存在を“還す”ってのはなんだ?」
「私達の魔法には、存在を“消す”ことはできなくても、存在を“偽る”ことができる魔法があるわ。さっきの話で例えれば、ブロックを抜き取った部分に、代わりに新しいブロックを嵌め込むということ。抜き取ったブロックは、あなたの記憶の中に保存されるわ。代わりのブロックは抜き取ったブロックと大きさや形ができるだけ近似していなければならないから、それは抜き取ったブロックを元として造る。この作業を言い換えて、“還す”なのよ」
「そんなことが、本当にできるのか?」
俺が戸惑いながらも訊ねると、都奈弥が重々しく答えた。
「ええ。けれど、世界の有り様に手をかけることは、許されることではないわ。だからこの魔法は“禁術”として、行使することは愚か、安易に言葉にすることも堅く禁じられているの。今回は例外だけれど、本当なら死罪になってもおかしくはないわ」
死罪。その言葉には色々と言いたいことがあるが、今はそれどころではないだろう。俺は一度言葉を飲み込むと、代わりにうめき声のようなため息が漏れてしまった。
「一つ訊いていいか?」
「何かしら?」
「その、存在を“還す”ってことは、つまり俺のことを知っている人間の記憶とかが、全部俺の頭の中に入ってくるってことなんだよな?だったら.....
死んだ人間の記憶も、俺の所に還ってくるのか?」
俺の放った言葉が、その場にひとしきりの沈黙を与えた。都奈弥は顔を少し俯かせ、隣に立つ佐ヶ宮が息を呑むのが分かる。暫し、俺が答えを待っていると、都奈弥がゆっくりと顔を上げ、そして徐に口を開いた。彼女の双眸は、未だに俯いたままだ。
「.....この魔法は、言い換えれば人間の記憶という名の箱を開けるために、その箱の鍵穴に合った鍵を作り、そして箱の中の情報を入出力すること。でもね、そもそも箱の鍵穴が壊れてしまっては、鍵を作ることさえできない。人間は生きていなければ互いに情報を伝達することができないように、箱も、壊れてしまっては中の情報を取り出すことはできないのよ。だからね、例えどれほどその人間に過去の記憶が眠っていようとも、その人間が死んでしまっては、その記憶を取り出すことは不可能よ。絶対に」
都奈弥は最後に一言、自分自身に確かめるように付け加えた。
「そうか」
希望。それは同時に実現不可能な願望であり、願った先には何も残らない。だが人間は弱い生き物だ。そうと分かってはいても、もしかしたらと確証もなしにそれに頼る。頼って、願って、ずるずると引きずられながらもしがみつく。そして結局、振り落とされて地面を這いつくばり、後悔と懺悔をし、目の前の現実に落胆する。ひとしきり落胆した後は、新たな希望を見出だし、また同じことを繰り返す。勝手に期待して、勝手に落胆して、それを繰り返してきた俺は、いつしかそのサイクルに慣れてしまった。まったくもって、自分自身の適応力には辟易する。
そんなことを考えていると、長い長いため息が出た。
「どうして、そんなことを訊くのかしら?」
そんな俺の仕草を知ってか知らずか、都奈弥が探るように尋ねてきた。
「いや、無理ならいいんだ。元々そんなに期待してなかったしな」
俺がそう言って苦笑すると、都奈弥は顎に手を当て思考を始めた。
「そうね.....亡くなった人の記憶をどうにかすることは出来ないけれど、その人物が亡くなる前の、生きていた頃の記憶なら、あるいは...」
「それは、どういうことだ?」
「水渡辺くん、さっきの口調からだとあなたは誰か知人を亡くされているようだけれど、もしよければ聞かせてくれないかしら?」
「そうだな、別に隠す事でもない。俺の、母親だ。」
「それは....お気の毒に」
「別に気にしなくていい。あんまり覚えてないしな」
10年前、俺が小学2年生のとき、母は交通事故で帰らぬ人となったらしい。らしいというのは、俺はどうにもその時の記憶が曖昧で、事故のことをほとんど覚えていないからだ。それどころか、俺は母親が亡くなる以前の、俺が産まれてからの母親のこともほとんど覚えていない。医者にはショックで記憶障害がおこってしまったんだと言われた。家族からは、母は子供想いの優しい母親だったと聞かされた。実際、事故のときも俺と妹の未来を庇ったらしい。
優しい母親だったのなら問題ないのだが、俺自身としてはやっぱり母親のことは知りたい。顔すらまともに覚えていないのだ。息子として、自分の親のことを知りたいと思うのは当然のはずだ。
「あなたと血の繋がりのある身内というならば、その亡くなったお母さんの記憶はどうすることも出来ないけれど、そのお母さんを知っている人間の記憶を“還す”ことは可能よ」
「いまいち要領を得ないんだが?」
「さっきも話したけれど、死者、つまり壊れた箱から情報を出力することはできない。出力ができないということは同時に、入力することもできないということ。だから、もしあなたの亡くなったお母さんの記憶を本人に還そうとしても、記憶が本人に還ることはできない。ならばその記憶たちはどうなるか。行き場を失った記憶は、還る筈だった人間に一番関係の深い人物へと還っていく。一番関係の深い人物、つまり肉親ということになるわ」
「だがその原理だと、還ってくるのは必ずしも俺とは限らないんじゃないか?」
「そうね。肉親と言っても、あなたのお母さんの両親や兄弟、さらにあなたに兄弟がいればそちらに記憶が還っていくこともあるわね」
「じゃあ結局、記憶が誰に還っていくかは分からないってことか?」
「いいえ、そうでもないわ。記憶は初め必ず、還る筈だった当人の下へと還っていき、そこから、その当人から一番物理的距離が近い肉親へと還っていく。つまり、記憶を特定の人間に還すためには、記憶が還る筈だった故人の肉体が必要になるということよ」
「肉体って...死んだ人間のか?」
「そう。一番手っ取り早いのは...位牌ね」
その時、俺は何かが背中を駆け上がるような悪寒を感じた。反射的に背筋が伸びる。
「.....いや、やめておく」
出てきた声は想像以上に低く、発した俺自身が少し驚いたほどだ。
「そうね。そもそもこの術自体、私は使いたくないわ。どれだけ理屈を並べても、結局は他人から記憶を奪うことに変わりはないのですから」
どちらにせよ、都奈弥が言った通り、今の俺にとって重要なのは家族や友達のことについてだ。いや、友達はどうでもいいか。だって修斗ぐらいしかいないし.....さ、寂しいなんて、これっぽっちも思っていないんだからねっ!
「分かった。とにかく時間をくれ」
俺がそう言って立ち上がると、都奈弥が大きく頷いた。
「もちろんよ。でも、これだけは覚えておいて」
都奈弥はここで言葉をきると、噛み締めるように言った。
「私たちの世界とあなたの世界、救えるのは唯一、ルセオ・クラビスであるあなただけなのよ」
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都奈弥の最後の言葉は、俺の肩に重くのし掛かっていた。
それにしても俺の両肩に世界の命運が、ねぇ。まったく、世界ってのも小さくなっちまったもんだぜ。
「めんどくせぇ...」
俺はもう一度、力無くため息をついた。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。もっと削れるだろうと自分で読み直しながら思っている次第です(笑)。感想や意見など貰えると飛び上がるくらい喜びます。