老人とライオン
作中の神話や文化には典拠がありますが、出てくる部族は一応架空の部族ということにしてあります。(というか、資料が断片的すぎて、架空の部族にしないと一つの話にまとめられませんでした)
昇る朝日がアフリカの大地を照らす頃、老人は目を覚ました。
そして、自分が独り、大地の上に置き去りにされていることに気づいた。
昨日まで行動を共にしてきた部族は、彼が寝ている間に、彼を捨てて行ってしまったのだ。
だが、彼はさほど驚いてはいなかった。いつかこうなるだろうことは、前からわかっていたからだ。老人は言った。
「ついに、来たか…」
老人の属する部族は、この季節は移動しながら生活していたが、重い病にかかったり、歳をとりすぎて足手まといになった者たちは、いつか置いていかれる、というのが暗黙の了解であった。彼自身、そうやって捨てられていく者たちを何度も見てきていた。そして今、自分にもその番が回ってきたのだ。
「さて、どうするか…」
老人は立ち上がって歩き出した。と言っても、どこかに行くあてがあるわけでもない。ただでさえ歳をとっている上に、今は自分独りだけである。遅かれ早かれ、力尽きて死ぬだろう。それでも彼は歩き続けた。
目の前には、昨日までと同じように、はるか遠くまで草地が広がっている。だが今は、そこを歩くのはただ自分独りだけだ。
遠くの草むらを、兎が走り去るのが見えた。
老人は弓矢を取って、辺りを見回しつつ進んだ。
もう一匹の兎が、草を食んでいるのが見えた。
老人は弓を構え、狙い定めて矢を放つ。矢はわずかにそれて、地面に突き立った。兎はぱっと駆け出して、逃げていった。
「くそっ!」
もう自分も歳だ。昔のようには、うまく狙えない。だが、彼は矢を地面から抜き取ると、再び獲物を探し始めた。
やがて、もう一匹の兎が目に入った。再び矢をつがえて、放つ。今度は見事に当たり、兎は一撃で死んだ。
老人はナイフを抜くと、慣れた手付きで兎をさばいて、火を起こし、その肉を焼いて食った。そして瓢箪の水を飲んで、言った。
「老い先短いとわかっているのに、何をやっているのか、私は…。だがわかってはいても、なかなか命は捨てがたいものだな」
老人は、体に刻まれた刺青を撫でた。これは昔、通過儀礼で、彼が部族の一員として認められた時に、そのしるしとして刻まれたものだった。
しかし、当たり前といえば当たり前だが、部族から捨てられた今も、その刺青が消えることは無い。
「不便なものだな」
老人はひとりごちた。
そうやって数日が過ぎた。老人は独りで、移動しながら獲物を狩り、水を汲み、そしてあてどもなく歩き続けた。
そうしているうちに、彼は、一頭のライオンが、自分を付け狙っているのに気がついた。ライオンはずっと遠くを、草むらに姿を隠したり、また現したりしながら、自分のあとをつけてくる。
老人は恐れたが、だが少し気になるところもあった。普通、ライオンで狩りをするのは雌で、それも群れで狩りをするものだが、あのライオンは雄で、しかも一頭だけである。
しかし、よく見ると納得がいった。あのライオンはどうやらだいぶ歳をとっているようだ。
あのライオンも自分と同じように、年老いて群れの中にいられなくなったのだろう。そして、自分と同じように、老い先短い命を長らえようとして、自分を付け狙っているのだ。
それ以来、老人は木の上で寝るようになった。ライオンが付け狙っているので、狩りにも集中できない。彼は蓄えておいた食料を食いながら、移動し続け、ライオンもそれを追って移動し続けた。ライオンは用心深く、なかなかこちらに近づいてはこない。人間を警戒しているのだ。
そうして三日が過ぎた。もう食料も残り少ない。そろそろ、あのライオンと方を付けなければならないな。老人は、弓矢を撫でて思った。
そうして歩き続けながら、老人は昔に聞いた話を思い出していた。
ずっと昔、最初の男と女がこの世に生きていた頃には、天は今よりもずっと低く、手を伸ばせば触れられるほどのところにあった。彼らは神を間近に見ることができ、神に触れないように、よけて通らなければならなかった。
その頃、人々は死ぬことがなく、神は彼らに、毎日一粒づつのキビを与えていた。それは彼らにとって充分な量で、それ以上使うことは禁じられていた。彼らはそのキビを臼と杵でついて、日々の食べ物を作っていた。
しかしある時、彼らは欲を出して、もっと多くの食べ物を得たいと思った。それで女は、いつもより多くのキビをつくために、いつもより長い杵を使ったが、その杵を振り上げた時に、上にいた神にぶつけてしまった。それで、神はずっと遠くへ去っていってしまい、それ以来、天と地ははるか遠くにへだたってしまったのだ。
そしてそれ以来、人々は食べものを得るために骨折って働かなければならず、容易に神のもとへ行くことができず、また病と死とに苦しめられるようになったのだった。
そして今、自分も死のうとしている。あのライオンに食われるのか、それとも、ここを切り抜けた後で、やはり何かの理由で死ぬのか、いずれにせよ、死は避けられぬ。この世に生きている限りはそうなのだ。
それからまた二日が過ぎた。もう食料は尽きてしまった。ライオンはまだ付いてくる。
「来いよ…方を付けてやる」
老人はライオンを見やって呟いた。あのライオンも、相当飢えているはずだ。近いうちに仕掛けてくるだろう。
老人は、子供のことを思い出していた。彼には、昔大勢の子供がいたが、病が流行った時に、そのほとんどが死んでしまった。その中で一人生き残った孫息子を、彼は大事にしていたものだ。
しかし、その孫も、すでに自分を捨てて行ってしまった。
彼はまだ通過儀礼も済ませていなかったはずだ。これから彼はどうなるのだろうか。
きっとこれからも、彼は部族と共に移動しながら暮らして、通過儀礼を済ませて、いろいろなことを学び、結婚して子供をもうけるのだろう。そして、もし自分と同じくらい長生きすることになれば、彼もまた、いつか置き去りにされて死ぬのだろう。そうやって、代々は過ぎ去って行くのだ。
老人はまた、昔聞いた話を思い出していた。これは、別の部族の者から聞いた話だった。
昔、あるところに、大勢の子供をもった男がいたが、その子供らは皆、流行り病で死んでしまった。
それで男は神を恨み、神を射てやろうと思って、弓矢を携えて地の果てまで出かけて行った。
彼が地の果てまでやってくると、どこからともなく声がして、王のために道を開けろ、と聞こえた。男が草むらに隠れて様子をうかがっていると、神が、光輝く従者たちを伴って現れるのが見えた。
男は隠れていたが、従者たちが、最近ここを人が通ったような、ひどい臭いがするぞ、と言い出した。従者たちは、男を見つけ出し、彼を捕まえて神の前に連れてきた。
神は彼に、何が望みなのか、と訊いたが、男は恐れて、何もありません、私はただ、生きているのが嫌になってここまで逃げてきたのです、と言った。
しかし、万事お見通しの神は、お前は私を射るためにやって来たのだろう、さあ遠慮せずに射るがいい、と言った。男は断り、あなたは訊かれなくてもすべてご存知です、と言った。
そこで神は、お前の子供たちならそこにいるから、連れて帰りたければそうしても良い、と言った。彼が振り返ってみると、そこには死んだはずの自分の子供たちがいたが、彼らは神の従者たちと同じように光輝く姿で、ほとんど見分けもつかない程であった。
そこで男は、子供たちは今や神のものなのだから、神の手元に置かれるべきだ、と言った。
それから神は、男にもう帰るようにと言ったが、帰り道で見つかるはずのものに気を付けるように、と言った。
それで男は帰ったが、帰り道でたくさんの象牙を見つけたので、暮らしは豊かになり、後にはまた子供たちも産まれ、年取った父を養って幸せに暮らしたのだった。
この話を思い出しながら、老人は、あるいは私の死んだ子供たちも、今頃は神のもとにいるのだろうか、また、私が死んだら、やはりそのもとに行けるだろうか、と考えていた。
そうしてまた一日が過ぎた。
もう食料はない。水もない。ライオンは姿を見せていなかった。老人は、警戒しながら木から降りて、獲物を探しに出掛けた。
しばらく行ったところで、後ろから草の動く音がした。振り向くと、遠くから、ライオンがこちらに走って来るのが見えた。
老人は弓に矢をつがえ、狙いすまして矢を放った。矢はライオンの首筋に刺さり、ライオンはひるんだが、なおも駆けてくる。
一発で仕留めるつもりだったが、駄目だったか、と思い、急いで次の矢をつがえて引き絞る。距離が近い。だがその分、狙い易い。矢を放つ。矢はライオンの片目に深く突き刺さった。だが、一瞬後に、ライオンの爪が老人の体を切り裂いた。
老人は吹っ飛ばされて、地面に転がった。老人はナイフを抜き、立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。老人は半身を起こして、ライオンを見据えた。
(来いよ…。食い付こうとしてきたところを、喉を切り裂いてやる…)
ライオンは、後足で立ち上がって、大きく吠えたあと、地面に倒れた。しかし、また起き上がって、こちらに歩み寄って来る…。だが、そこでふらふらとよろめいたかと思うと、横向きに倒れて、動かなくなった。
老人は苦しい息をついて、そのまま仰向けに倒れこんだ。
ライオンの爪は、一撃で肉を裂き、骨を砕き、内臓まで達していた。体に力が入らない。もう助からないだろう。本当に死ぬのだ。血が流れ出し、体がしびれてきた。
薄れ行く意識の中で、老人には、天が自分の方に押し迫ってくるかのように見えた。まるで、あの話の中の、古の昔のように、手を伸ばせば届くほどのところにまで、天が戻って来るかのようだった。
(天よ、降りてきてくれ…)
彼は思った。
(降りてきて、私を連れて行ってくれ…。私はもう、疲れたんだ)
そう思って、彼は目を閉じた。