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09 ホワイトデー


 芳しいコーヒーの香り。決して主張をしない、エルガーのメロディー。

 カウンターの上では、サイフォンが心地好い音を立てている。


 町外れの喫茶『シャングリ・ラ』は、そこに座るだけで、まるで大人の世界に足を踏み入れたように感じる。



 俺と彼女はいつもの席に向かい合って座っている。普段なら自ら珍しいコーヒーを注文するはずの彼女。しかし、今日は心ここにあらず、「一緒でいい」と言うと、テーブルの上に広げたパンフレットを食い入るように見ている。


 彼女をこんな状況にしてしまったのは、実は俺のせいだった。


 時間は今日の朝にさかのぼる。



      *



 今日、三月十四日午前八時過ぎ。

 前日に連絡した通り、俺は喫茶『シャングリ・ラ』の前で彼女が来るのを今か今かと待っていた。

 彼女と待ち合わせをするのはいつもドキドキものである。世に言うツンデレの例に漏れず、彼女からメールの返事は無い。電話にも出てくれない。

 いくらツンデレが好みの俺でも、そこだけは彼女になんとかしてほしいと思う。今日、それとなく言ってみようかな。


 人気の無い土曜日の朝、俺は蔦がからまる喫茶店の煉瓦に背を預けながら、ジーパンのポケットに手を入れた。

 

 ジーパンでよかったのかな。


 実は、朝から服装について、母親と一悶着あった。

 親父のスーツを着ていこうとしていた俺を、母親は必死の形相で止めてくれた。


「いつもの格好にしなさい。プロポーズするんじゃないんでしょ」


 確かにその通り。浮足立つ心を母親に見透かされたようで恥ずかしくなったが、ここは女性の意見を尊重すべきであろう。俺は着慣れないスーツを脱いで、ジーパンを履き、パーカーを着た。ましてや、今回に関しては母親に頭が上がらない。


 ジーパンのポケットの中には、とあるチケットが二枚入っている。いい年こいて、大人数男性ダンスグループのファンである母親のツテを使って手に入れたチケットである。

 ホワイトデーに彼女に何を送るか迷いまくっていた俺は、以前彼女がこぼした夢を思い出した。手に怪我をしてまでチョコレートを作ってくれようとした彼女の思いになんとかして応えたかった。背に腹は代えれない。


 喜んでくれるといいな。


「なにニヤニヤしてるの。キモいよ」


 心地好いほどの黒い声に思わず視線を上げる。

 俺から少し離れた所に、彼女が立っていた。

 朝日を受け、天使の輪を作る黒い髪。今日はいつもと違って、右側だけを三つ編みに結っている。

 黒いミニのワンピースに、薄いピンクのカーディガンを羽織り、ワンピースから伸びた細い足は黒いタイツに覆われている。足元には、少し大人びた低めの黒いヒール。

 

 スーツにしなくてよかった。初めての遠出デート。彼女みたいなお嬢様は、デートにはドレスで来るんじゃないかと内心怯えていた。


「で、今日はどこに行くの? こんなに朝早くに呼び出して」 


 腰に手を置いた彼女は、頬を膨らませ、俺から視線を外す。

 早朝、といっても朝の八時過ぎだが、三月も半ばになっても、やはりまだ空気は冷たい。彼女の凛とした横顔は、その寒さを倍増させるような気がした。


「実は……」


 俺は出来るだけもったいぶって、ポケットからチケットを取り出した。

 横目で俺の手の中のチケットをチラリと見た彼女は一度視線を外す。が二度見した後、俺に駆け寄りチケットを奪い取る。


「あ、あんた、コレ」


 彼女はワナワナと震える手の中のチケットと、俺の顔を交互に見た。

 その瞳には、今まで見たことの無いような光に溢れていた。俺は胸を張って言う。


「『お笑い爆弾』の出張収録。有名若手芸人達が」


「なにボサッとしとるんや。はよ行くで」


 チケットを肩から掛けた小さな鞄に突っ込んだ彼女は、俺をその場に残したまま、ずんずんと歩きはじめた。


「ちょっと待って」


 チケットをジーパンのポケットにねじ入れた俺は、慌てて彼女に追いつく。


「チャキチャキ歩かんかい。入り待ちに出遅れるわ」

 彼女は言いながら、俺のパーカーの裾を掴む。


 そして、俺は見逃さなかった。

 前を歩く彼女の唇が笑いをこらえるように、ヒクヒクと動いていたことを。



      *



 桜ヶ丘駅から電車に乗った俺と彼女は並んで座席に座った。

 時間は八時三十分過ぎ。いつもより少し時間をずらすだけで、電車の中の雰囲気はがらっと変わる。

 前の座席には年寄りの女性が座り、その向こうの座席には、赤ちゃんを連れた女性が座っていた。

 学生でごった返すいつもの風景とは大違いである。


 とはいえ、横に座る彼女はあいもかわらずチケットを眺めている。


「こんなプラチナチケットよう取れたな。どんな手つこうたんや」


 チケットから視線を上げた彼女は、ジロリと俺を見る。


「どんな手って、普通にチケット屋で」


「うち、何回も電話掛けたけど繋がらんかったのに」


 彼女は唇を尖らせて言う。

 そりゃそうだろう。なにせ、年に一回の出張公演だ。普通に買おうとしても、無理な事は火を見るより明らか。

 俺の母親はチケット業界最大手企業のプラチナ会員である。

 年に数回、年甲斐もなく仲間のおばさん連中とコンサートに行く母親を恥ずかしく思っていたが、今は感謝してもしきれない。


「実は、母ちゃんに頼んで」


 マザコンと思われたくはなかったが、彼女にじっと見つめられた俺は観念して白状した。


「ふーん。まあええわ。でもお母様にもお礼を言わなあかんな」


 お母様…… 俺の母親、そんな風に呼ばれたらどんな反応をするんだろう。

 しかし母親に会うって、つまり、それは両親公認の仲になるって事!


「ったく、何変なこと想像しとるんか知らんけど、うちはあんたがネットとかで騙されたんちゃうか心配なだけやで。別に深い意味はあらへんからな」


 早口で言った彼女は、ぷいと前を向いてしまった。


 電車がホームに滑り込む。ドアが開き、並んでいた数人が車内に入ってくる。 座席が埋まり出したため、俺は少しだけ彼女に近づく。

 

 駅を出発した電車は、カタンと揺れて速度を上げていった。

 加速する電車の中で、彼女は俺に体重を預ける。腕と腕が触れ合う。


 慣性の法則に感謝しながら、俺はチケットを眺めている彼女を見ていた。



     *



 県庁所在地である町の中心部は、地方都市にしては、商業ビルが立ち並び、一端の都会感を醸し出している。

 ターミナル駅を降りた俺と彼女は、途中のコンビニで簡単な昼を買い込み、駅前広場を抜けて、目的地である劇場が入る百貨店の前に到着した。

 開演は昼過ぎのはずなのに、劇場の入口にはすでに行列が出来ていた。


「ちっ、やっぱり出遅れたか」


 行列の最後尾に並ぶ彼女が、親指の爪をかみながら百貨店を見上げる。


「紗耶香の言う通りだった。俺の認識が甘かったよ」


 どこかでゆっくり昼ご飯を食べてから、と思っていた俺は見通しの甘さを痛感した。

 俺は、コンビニの袋から、さっき買った缶コーヒーを二本取り出す。


「微糖とブラックどっちがいい」


 彼女は迷うこと無くブラックの缶コーヒーを選んだ。


 缶コーヒーのプルタブを開けた彼女は、薄いピンクのルージュがひかれた唇を飲み口に近づけていく。


「あつっ」


 缶コーヒーに口を付けた彼女が声を出す。

 普段、クールにコーヒーを飲む彼女とのギャップに、俺は思わず笑いをこらえた。


「だ、大丈夫?」


 笑いを堪えた俺は彼女に尋ねる。


「今、笑ったでしょ」

 彼女は、目を細めて俺を睨みつけていた。俺は微糖コーヒーを飲み込みながら首を振る。


 それにしても…… 開演まで二時間。

 俺は袖の下の腕時計を見てため息をつく。

 こういう行列にはあまり並んだ事がない。みんな何をして時間を潰しているのだろう。


 何となく回りの人達を観察してみる。

 携帯電話を触っている人、本を読んでいる人、携帯ゲームをしている人、折り畳み椅子を持ち込んで寝ている人。

 不思議なもので、誰かが携帯電話を見ていると、自分も見たくなってしまう。かといって、彼女がいるのに、と思い、紗耶香の方を見てみると、缶コーヒーを両手で握り、目を閉じていた。

 

 寝ているのかな、と思っていると、雑踏に消え入るような小さな声で何か呟いていた。


「紗耶香、何してるの」


 彼女は、片目だけを開けて俺を見る。


「暇潰し」


 再び瞳を閉じる彼女。ブツブツと独り言を呟き続けている。


「…… イトハウス、……やはり合衆国の…… いや、キリスト…… 復活祭の……」


 断片的に聞こえる単語。桜貝のような唇から紡ぎ出されるその単語達。


 これは、もしかして。


「もしかして、陰謀論を考えてる?」


 俺は思わず声に出してしまった。

 深遠な思考を邪魔された事を非難するように、彼女は、目を開き、俺をなぶるように見る。


「悪い? 誰に迷惑掛けてるわけでもないでしょ」


 確かにそうだけど、一緒に来てるのだから、こう、恋人らしい会話というか、とにかく、彼氏が横にいるのに独り言はやっぱりおかしい!


「せっかく二人で来てるんだから、何か会話がしたいなあ、と」


 俺の言葉を聞いた彼女は、腕を組み、しばらく考えてから頷く。


「確かにそうね。私が非常識だったわ。ごめんなさい」


 珍しい事もあるもので。頭を下げた彼女は、一歩俺に体を近づける。

 

「で、私の暇潰しを潰した限りは、それ以上のネタがあるっちゅう事やな」


 唇の端に笑みを浮かべた彼女が俺の顔を見上げる。その迫力に押されそうになるが、俺はそれをぐっと抑える。


「俺、お笑いのライブとか初めてなんだけど、見るポイントとかあったらさあ」


 苦し紛れにした言い訳だったが、彼女は、「ほう」と呟くと、瞳を輝かせた。

 彼女の中にある何かのスイッチが入った合図。


「ええ心掛けや」


 彼女は言いながら、鞄から手帳を取り出し、パラパラとページをめくる。


「まず、今日出てくる新人の中でも、注目はタマムシやな。正月の特番から注目しとってん。それから、リズム芸で一躍トップ芸人に仲間入りした……」


 二時間などあっと言う間で過ぎていった。



      *



 まだメディアに露出していない若手達の上滑りする前フリ。

 普段テレビでしか見ることのない芸人達の漫才、コント、漫談。

  会場が笑いに包まれる度に、観客と芸人達との一体感が増していった。


 とりを飾るタマムシの歌芸に客席中が爆笑の渦に飲み込まれていく。

 笑い過ぎて目に涙を浮かべた俺は、ふと横に座る彼女に目をやる。


 彼女は、真剣な瞳で舞台を見つめ、手元のメモ帳に何かを書きなぐる行為を繰り返していた。

 観客席が笑いに包まれる中、俺は彼女が気になり、笑いが起きる度に彼女を見てしまう。


 楽しめていないのかな。


 不安に胸がざわついてしまう。



      *



 観客達が席から立ち上がり拍手を送る中、緞帳がゆっくりと降りていく。

 特設されたグッズ売場で、今回の公演パンフレットと、アホの坂口ストラップを買った俺達は、百貨店を出た。


 いつの間にか外は夕焼けの柔らかい光に包まれていた。


 俺は立ち止まり、後ろを歩く彼女を振り返る。

 夕焼けに頬を染めた彼女は、パンフレットとアホの坂口ストラップが入った紙袋を大切そうに胸に抱いていた。

 

「楽しかった?」


 自信なく尋ねた俺の言葉に彼女は、コクンと頷く。

 そして、目を細めて笑った。


「素敵なプレゼントありがとう」


 両足を揃えて頭を下げた彼女は、俺の横に走り寄りもう一度笑った。


「チケット取ってくれてありがとう」


 彼女は俺の手を握る。


 土曜日の夜に向けて人で溢れる繁華街。俺達は、手を繋いで駅に向かって歩いていった。



      *


 そんなこんなで、今彼女は、俺の事など忘れてしまったかのように、パンフレットを熟読している。


 まあ、それだけ楽しかったってことなんだろうけど。


 なんか寂しい。


「お待たせしました。アメリカンです」


 マスターが、テーブルの隙間にコーヒーカップを二つ置いていく。


「今日はデートでしたか」


 彼女のパンフレットを見たマスターは、砂糖瓶とミルクポットをテーブルに並べていく。


「『お笑い爆弾』の公開収録に行ってきました」


 喫茶店の中はいつもの閑古鳥。土曜の夕方に、こんな町外れの喫茶店に行く人もいないだろう。


「ほう、それはすごい」


 テレビなど興味なさそうなマスターの反応は意外だった。


「マスターもお笑い番組見るんですね」


 俺の言葉に、マスターは顔を赤らめて両手を振る。


「神崎さんと西小路様に触発されましてね」


「へぇ〜」 


 俺は砂糖とミルクを溶かしながら、コーヒーカップに口を付ける彼女を見る。 相変わらずパンフレットに見入る彼女。マスターにもう少し話を聞いてみたくなった。


「ミヤコと彼女、二人にですか」


 ミヤコならこの喫茶店でアルバイトをしているから分かる。紗耶香の名前が出てくるのが不思議だった。


「去年の夏頃ですか。お二人でよく」


「マスター」


 懐かしそうに目を閉じるマスターの言葉を彼女が遮った。パンフレットから顔を上げた彼女は、視線をマスターに向けている。


「いや、これは失礼。少し世話話が過ぎましたな」


 口髭をさするマスターは、頭を下げると、カウンターへ戻っていった。


 ミヤコと彼女の繋がり、もう少し聞いてみたかった。クラスも一緒になっていないはず。そのくせ、やたら仲がいい二人。特にミヤコはやたらと俺達を応援してくるし。

 気になる。


「去年の夏頃って」


「ホワイトデーって、ありゃなんだ?」


「えっ」


 俺を睨みつける彼女の瞳から発する突き刺さるような眼力に、思わず声を詰まらせた。


「バレンタインのお礼を渡す日かな」


 しどろもどろに答える。パンフレットを閉じた彼女は腕を組み、俺を睨んでいた。

 急過ぎる彼女の変貌についていけない。

 砂糖多めのコーヒーを喉に流し込んだ俺はなんとか気持ちを落ち着かせた。


 まあ、ホワイトデーなんてそれこそお菓子業界の仕組んだ事なんだろうけど。そういえば、バレンタインについて調べた時、少しだけホワイトデーについても調べたっけ。


「あの、バレンタインで処刑された神父に祝福されたカップルが結婚した日らしいけど」


 腕を組む彼女は、目を閉じて頷く。


「そういう説もあるんやけど、やっぱりそれはこじつけやな」


 目を見開いた彼女は言う。


「これは間違いなく諸外国による陰謀や!」


 やっぱり。朝、行列に並んでいた時に彼女が呟いていた言葉を思い出す。


 ここは彼女の陰謀論を素直に聞いてあげるべきだろう。

 一通り陰謀論を語ってもらい、満足した後にミヤコとの事を聞いてみよう。


「つまり、どういう事でしょうか」


 俺の言葉に彼女は満足げに頷く。


「よく考えてみ。プレゼント貰ったならすぐにお返しするのが常識や。すくなくともうちはそう思ってる」


 そこを突かれれると、男としてはつらい。一ヶ月の時間があるからこそ、お返しのプレゼントをあれこれ考える事ができたのに。


「それが一ヶ月も待たされる女の子の身にもなってみ」


 自分に置き換えて考えてみる。

 勇気を振り絞って渡したバレンタインチョコのお返しが一月後。その間、特に学生なら毎日顔を合わせることになる。男としては、ちゃんとお返しするから心配するな、と思っているが、女性からすればやっぱり不安になるだろうな。


「日本的な、言わなくてもわかるやろって、そんな事してたら、バレンタインの次の日にちゃんとお返ししてくれた外国人に」


 彼女は俯き、そして、顔を上げて言い切る。


「惚れてまうやろ!」


 うん。最後の所が言いたかったのか。思いっきり芸人のネタパクってるけど、大丈夫かな。

 不安になってしまう俺の前で彼女はもう一度、


「惚れてまうやろ!」


と繰り返す。


「わかった」


 俺は、もう一度繰り返そうとする彼女を手を翳して制止する。


「紗耶香の言いたい事は分かった。でも」


 コーヒーを一口飲んだ俺は、キョトンとした顔の彼女に言う。


「愛情がこもったプレゼントに、すぐお礼を渡せない男の苦悩も分かって欲しい」


 誰が調べたのか、バレンタインへのお返しの相場は、平均一.六倍らしい。


「チョコに込められた愛情に適うお返しなんて」


 コーヒーカップをテーブルに置いた俺は言い切る。


「一ヶ月かけても思いつかない」


 かなり恥ずかしい事を言っている自覚はある。

 でも世の中の、チョコのお返しに苦悩する男性の心境も分かって欲しかった。


「そ、そんなこと言われたら」


 俯く彼女は、少しだけ、まるで早咲きした桜の花びらのように頬を赤らめ、顔を上げて俺を見る。


「惚れてまうやろ」


 消え入るような声でつぶやいた彼女は、コーヒーカップを持ち上げて口に付けた。


「ミヤコとは、一度漫才をしようとコンビを組んだの」


 彼女はコーヒーカップをテーブルに置いて、独り言を呟くように話し出した。


「でも、私のせいでうまくいかなかった」


 テーブルの上で両手を握り締める彼女。


「だから、次こそは」


 彼女は言いながら、鞄からメモ帳を取り出し、テーブルの上に置いた。

 公演を見ている間、ずっと何か書きなぐっていたメモ帳である。


「もしかして」


 嫌な予感がする。


「今日はとても勉強になったわ。普段テレビに映らないボケ中の相方の立ち位置とか」


 ぎっしりと細かい字で書き込まれたメモ帳をパラパラとめくる彼女。


 少し前、彼女と交わした約束を思い出す。


『私と漫才して』


「うちらの初舞台は文化祭や」


 彼女の言葉にくらくらする。あの約束、本気だったんだ。


「大丈夫。ネタはうちが考えるから」


 困惑する俺の表情を読み取ったのか、彼女はメモ帳を閉じて胸を張る。


「泥船に乗ったつもりで安心し!」


「沈みますやん」


 俺は、思わず小声でツッコミを入れてコーヒーを飲む。


「そうそう。なんや、やる気まんまんやん」


 彼女は嬉しそうに笑いながら、再びパンフレットに視線を落とす。


 文化祭、体育館のステージで紗耶香と漫才をする俺。…… 全く想像が出来ない。

 計り知れない程巨大な不安にかられる。


 でも。


 ―― この時、彼女は俺などとは比べものにならない程の不安と戦っていたのだろう。

 彼女とデートしたことに浮かれている俺に、そんな事は知るよしもなかったが。



      *



「今日はありがとう」


 喫茶店から出た彼女は、俺に身を寄せて言う。


「楽しかった、のかな?」


 なにもかも忘れて大笑いして欲しかった俺としては、いささか心配ではある。


「牧よりつばなをおくれり」


「えっ」


 街灯の明かりの中、彼女は、いたずらっ子のように笑う。


「なんでもない。楽しかったよ」


 三月も半ば。昼間こそ陽気を感じるが、やはり日が暮れると少し肌寒い。

 でも彼女の笑顔は、ちぎれ雲の間から差し込む春の日差しのようで。

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