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08 挿話 三月五日 三限目『特別活動』


「まあ、そういう訳で後は任せた」


 昼前の格技場。明るい外の光が差し込む道場には長机が並べられ、ジュースの入った紙コップや、パーティー開けされたスナック菓子が並んでいる。


 パチパチパチ


 疎らな拍手を受けて、学生服を着た剣道部元男子主将北條隼人が頭を掻きながら腰を下ろした。

 タイミングを合わせるように、セーラー服を着た剣道部元女子主将緑川圭子が立ち上がる。

 現役中は常に短髪、黒髪の緑川であったが、引退後は焦げ茶色の髪をショートボブにしていた。しかも、そのボーイッシュな顔にはうっすらと化粧が施されている。


 現役当時とは違う、いかにも大人の女性という雰囲気に男子部員達は、姿勢よく立ち上がり後ろ手を組む彼女に見入る。小山の隣に座る主将山中がゴクリと唾を飲み込んだ。


「剣道部元女子主将の緑川だ」


 腰に手を当てた緑川は、いつものように部員達一人一人を睨んで言う。


「世話になった。以上」


 緑川はそのままドスンと床にあぐらをかく。

 拍手をするべきか動揺する部員達。


「緑川」


 見兼ねたように、スナック菓子を口に含んだままの剣道部顧問熊田が巨体を揺すって立ち上がる。


「お前な、せっかくなんだからさ、少しくらい後輩に話をだな」


 鬼のような厳しい指導から各校に『鬼熊』の二つ名で知られている熊田先生だが、この人、剣道の面を被ると人が変わるタイプである。日ごろの温厚な態度から、生徒達にはクマ先生と親しまれている。

 剣道部員は口が裂けても「クマ先生」なんて呼ぶことは出来ないが。


「ちっ」


 緑川の舌打ちが道場中に響き渡る。

 ハラハラと状況を見守る部員達の中、「よっこらせ」と緑川先輩が立ち上がる。

 彼女は息を吸い込み、道場を見渡す。


「今日は、明日卒業式を迎える私達三年生の為に、こんな素晴らしい会を開いてくれてありがとう」


 部員達から視線を上げた彼女は、道場の壁に掛けられた賞状が入った額縁を見る。


「伝統ある新浜高校剣道部の主将として、私がその任に適当であったのか。おそらく答えは否であろう」


 道場の高窓から差し込む光が、スポットライトのように彼女を浮かび上がらせていた。


「女子は全国優勝、男子は県大会優勝。これを目標に私達に出来うる限りの事はやってきたつもりだ」


 緑川は俯き、少し間を開ける。


「しかし、力足らず女子は全国ベスト十六、男子は県ベスト八に留まってしまった」


 緑川は、正座して頷く山中と、同じく姿勢を正し、真っすぐ彼女を見つめる女子主将佐伯美奈子を交互に見る。


「山中と、佐伯。私達の夢はあなたたちに託した」


 山中はコクリと頷き、佐伯は涙を拭きながら「はい」と答えた。


 二人の様子を見た緑川は目を閉じる。


「練習は苦しいし、たまに辛い事も、ほとんどは辛い事だらけだけど、お前達なら絶対、絶対に出来るはず」


 緑川は充血した目を開いて笑う。


「だから、がんばれ」


 一度だけ、さっと目を拭った緑川は熊田先生に一礼をして、正座をする。


 道場が割れんばかりの拍手に包まれた。



     *



 しばらく歓談となり、現役男子部員達は、三年の男子部員五人を取り囲むように車座になっていた。

 

「いいか、緑川はああ言ったが、俺達男子剣道部員の本当の夢はな」


 紙コップのジュースを飲み干した北條は、女子部員に囲まれた緑川をチラッと見て言う。


「いつか女子剣道部をギャフンと言わす事だ」


 鼻息を荒める北條の肩に、三年の薮中が手を置く。


「お前、まだ緑川のこと」


 去年の夏、インターハイ県予選の後、北條が緑川に告白してこっぴどく振られた事は、剣道部皆の知るところになっていた。

 顔を真っ赤にした北條は、何度も首を振り、


「ち、違うわい!」


と叫ぶ。


「いいか、お前達、今年の新人戦、なかなかいい試合をしていた」


 北條は言いながら、部員達を見渡す。


「先鋒の山中、中堅の小山、大将の加山。この軸がしっかり機能していた」


「北條、お前、新人戦見に行ってたのか?」 


 北條の横に座る三年の鮫島が呆れたように言った。今年の新人戦は一月初めに開催された。いわゆるセンター試験の直前。受験生にとっては最後の追い込み時期だっただろう。


「当たり前だ。後輩達の戦う姿を見守るのが、引退した俺達の義務だろ」


 胸を張って答える北條。三年生達皆がため息をつく。


「お前な、そんな事してっから、大学落ちて……」


 薮中の言葉に、北條はガクリと肩を落とした。


「俺の事なんてどうでもいいんだ。俺の事なんて。…… 主将のはずなのに存在空気だし、彼女も出来なかったし、大学も落ちて浪人だし」


 あぐらをかく北條は徐々にこうべを垂れていく。

 暗黒面に入ってしまうとしばらくは帰ってこない。しかたなく、元副主将の薮中が口を開く。


「北條からだいたいは聞いている。あんなに興奮した北條は始めて見たよ」


 薮中は、俯いたままの北條を見、顔を上げると、現役部員に視線を移す。


「小島と西口」


「はい」


 一年の小島敏志が姿勢を正して返事をする。

 西口はさっきから、テーブルの上に残ったスナック菓子を持参したタッパーに詰め込む、非常に地味な作業に従事していた。もはや誰も突っ込まないが、妹へのお土産に間違いない。

 小山に背中をつつかれた西口はタッパーの蓋を閉めながら薮中を見る。


「お前達二人の成長次第で、今年のチームは全国を狙える」


 薮中は言うと、腕を組んで頷く。

 新人戦では、ベスト四で、県内屈指の強豪校敬心館大学付属に敗れた。

 山中、小山、加山の三人は、なんとか引き分けに持ち込んだが、小島と西口が一本負けをきした。結果的には0―2の完敗だが、部員達は手応えを感じていた。その後、敬心館大付属がほとんど完勝で優勝した事を考えると、善戦した新浜高校の評価は高い。

 しかしながら、他を寄せつけない圧倒的強さで優勝した女子剣道部への称賛の中、男子部員は逃げるように会場を後にした。


「いつか、いつか、あいつらを」


 暗黒面に落ちた北條がやっと顔を上げていく。

 その視線の先には、部員達に囲まれて笑顔で話す緑川がいた。


「ギャフンと言わしたかった」


 ため息をついた北條は、呆れ顔の部員達を見回す。


「剣道も大事だけど、受験もあるし」


 北條は再び緑川を見てため息をつく。


「女子も気になるけど」


 彼は、横に並ぶ三年生を見る。


「いろいろあったけど、こいつらと剣道が出来て楽しかった」


 三年生達は頷きながら、目を擦る。


「お前達も、頑張れよ」


 北條の言葉に現役部員達はお互いの顔を見て頷く。


「では、そろそろ歓送隊形に並んで下さい」


 女子主将の佐伯が立ち上がり言った。



      *



 二列に別れて現役部員が作った花道を、三年生が格技場の出口に歩いていく。

 最後にそれぞれに花束が渡された。


「先輩方、どうもありがとうございました」


 佐伯の合図で現役部員が頭を下げる。

 三年生達は恥ずかしそうに花束を胸に抱いて、格技場から歩き始めた。


 しばらく進んだ後、先頭を歩く北條が、ふと足を止めて背後を振り返る。

 釣られて、皆が立ち止まり、同じように格技場を見上げる。


 校舎の端にオマケのように立てられた、コンクリート製の格技場。

 アルミサッシのドアの上には、ほとんど判読不明になっている「格技場」と揮毫された板きれ。


 全国を制覇してやる、と意気込んでここに来てはや三年。

 高校生活の思い出は、と問われれば、躊躇なく「部活」と答える。

 どこよりも長く過ごした場所だから。


「俺達、卒業しちまうんだな」


 北條の漏らした一人言に皆が頷く。

 明日の卒業式を控え、浮足立つクラスメート達を見ていても今一つ実感が湧かなかった。

 それは、この場所こそが、高校生活そのものだったのだから。

 もう、重たい道具を担いであのドアを開ける事も、馬鹿みたいな冗談を交わしながら、格技場に繋がるこの通路を歩くことも出来ない。


「悔いはない、だろ」


 眩しそうに、目を細めて緑川が言う。


「なあ、緑川」


 格技場を見上げたまま北條が口を開く。


「やっぱり付き合ってくれ」


「大学受かったら考えてやるよ」


 即答した緑川は、立ち止まる北條の横を抜け、通路を歩き始めた。


「ギャフン」


 つぶやく北條の肩に、薮中が手をかける。


 何度目の告白だろうか。もう剣道部の恒例行事のようになっていた。様式美というのだろうか。その振られ方も、一種の芸術の域に達しているのかもしれない。


 上を向いた北條の顔には陰欝さは無く、むしろ清々しさがあった。


「聞いたか? 考えてくれるって」


 そのポジティブな思考に、部員達は何度力付けられたことか。

 試合にこっぴどく負けて、鬼熊にボロボロになるまでしごかれて、「もう辞めたい」と漏らした部員もいたりして。


「勉強、分からない事あったらいつでも連絡してくれ」


 国立大学への進学を決めていた薮中が、北條の肩に手を回す。


 一人も欠ける事なくここに至れたのは、部員達の見えない所で彼が奔走したお陰であった。


「俺も、日本史だけなら」


「数学ならなんでも聞いてくれ」


「気分転換したいならいつでも付き合う」


 部員達は口々に言いながら、北條の肩に手を回していく。


「お、お前ら…… 絶対泣かねー」


 北條は目を閉じて空を見上げる。


「女子大生とのコンパの様子や、サークルでのあんな事やこんな事、全部事細かに教えてやる」


 最後に残った鮫島が、肩に花束を担ぎながら言い、通路を歩き出す。


「お前らの情けなんて受けねー」


 部員達の手を振りほどいた北條は、叫びながら一人通路を走り出した。


 通路に残った男子部員の間を、暖かい風が吹き抜けていく。


 顔を見合わせた彼等は、一斉に頭を下げて叫ぶ。


「主将、ご苦労様でした!」 


 通路の先で立ち止まった北條は、チラリと部員達を振り向く。


「絶対泣かねー」


 叫ぶ彼は、また走り出す。

 部員達は頷きあうと、彼の後を追い掛けて走り始めた。



 ―― 卒業。


 それは、誰かから褒められ、称賛されるものでも、うやうやしく賞状を受け取るだけの儀式でもない。


 一つ上のステージ、そこから見て始めて気付く事がある。

 今までの自分を覆っていたもの。ゆるやかに彼等を覆うそれは、まるで空気のようにその存在を隠す。深海で一生を過ごす魚達は、そこが海の底である事を知らない。


 卒業。commencement、つまりそれは始まりの時。graduation、つまりそれは一つ上のステージへ登る事。


「…… 先生」


 窓ガラス越しに、格技場から走り去る三年生を眺めていた剣道部顧問熊田が、佐伯の声に振り返る。


「次の練習試合のメンバーなのですが」


「お、おう」


 振り返った熊田は、佐伯から今週末の練習試合のメンバー表が書かれたメモを受け取る。

 しばらくメモを見ていた熊田は、


「いいだろう」


と、メモを佐伯に返した。 メモを受けとった佐伯は頭を下げて、立ち去る。

 と、足を止めた佐伯が熊田を振り返る。


「いい詞でしたよ。卒業の歌」


 含むように笑った佐伯は口を手で押さえながら、女子更衣室に飛び込んで行った。

 扉の向こうから大爆笑が聞こえた。


 県立新浜高等学校剣道部顧問熊田一。その厳しい指導から、県下の剣道界隈では『鬼熊』の異名を持つ。担当は現代国語。趣味は詩を詠む事。時折漏らす、そのポエミーな詩のスタイルから、クラスにおいては『クマ先生』の異名を持つ。


 バレンタインの日、チョコレートを貰えなかった男子に、恥ずかしい詩を呟いてしまった。


 『バレンタイン。その甘味な言葉よ。嗚呼バレンタイン。……』


 いつの間にかクラス中に広がったその詩。

 忘れた頃、回収された期末テスト現代国語の回答用紙の裏には、クラス一人残らず、彼のポエムが書かれたらしい。


「あ、先生、今日は練習休みでいいっすか?」


 目を開けた熊田の前に、主将山中が立っていた。

 明日の卒業式の準備のため、今日の練習は休みのはず。

 笑顔の主将山中。現代国語は欠点ギリギリの成績。

 しかし、回答用紙の裏に書いたポエムには一切の間違いがなかった。


「いや、ちょっと練習しようか」


 あからさまに落胆した顔の山中を残し、熊田は格技場を出て行った。

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