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07 雛祭り

芥子雛(けしびな)

高さ十センチ程の小さな雛人形


 芳しいコーヒーの香り。決して主張をしない、ブルーグラスのメロディー。

 カウンターの上では、サイフォンが心地好い音を立てている。


 町外れの喫茶『シャングリ・ラ』は、そこに座るだけで、まるで大人の世界に足を踏み入れたように感じる。



 カウンターに座った俺は、コポコポと音をたてるサイフォンの横に飾られた、親指程の雛人形を見ていた。


「芥子雛というらしいですね」


 タオルでコップを拭くマスターは、恥ずかしそうにはにかみながら言う。

 随分小さい雛人形である。マスターの話によると、江戸時代に豪華になりすぎた雛人形を禁止した時、職人達がならばと、持てる技術を全て注ぎ込んで作ったのがその小さい人形らしい。


 確かに親指程の大きさの二人の内裏雛は、恐ろしいほど精巧に作られている。特に胡麻粒のような小さな目には不思議な力が篭っている。一体、どうやって描いたのだろうか。


 そうそう。人形に見入っていて肝心な事を聞き忘れていた。


「マスターに娘さんがいるなんて知りませんでした」


 サイフォンからカップにコーヒーを注ぐマスターは、真っ白の口髭を揺らして笑う。


「これは、妻が実家から持ってきた物ですよ」


 ブラックコーヒーが入ったカップを俺の前に置いたマスターは、しみじみと雛人形を眺めている。


「妻が病気で逝ってしまってからずっと押し入れにしまいっぱなしにしていましてね」


 初めて聞いた話だった。マスターに奥さんがいたことも、病気で亡くなっていたことも。


「世界中を回るのが趣味でしてね。私の仕事にくっついて来ていろんな国を見てきました」


 俺はマスターの話を聞きながら、砂糖を一掬い、ミルクを少しコーヒーに入れてスプーンを掻き回す。


 そういえば。


 喫茶店の店内には、世界各地の調度品が並んでいた。

 喫茶店に入ってまず気付くのが、カウンターの奥に飾られた木製の巨大なお面。アフリカかどこかのお土産だろうか。

 そして店内には、ヒンズー教の神様らしき象の置物。夕日が差し込む窓の上から吊された丸い網のような物はインディアンのドリームキャッチャーだろうか。カウンターの上、芥子雛の向こうにはマトリョーシカが飾られ、その横には古びたフランス人形が座っている。

 ロシアの横にフランス、インディアンの前にインド。一つ一つを見ていけば、にいかにも乱雑に置かれているが、喫茶店全体の雰囲気の中では、それぞれが、そこにあるのが当たり前のように自然に配置されているように思えるから不思議だ。

 店内のあちらこちらに置かれた鉢植えの緑が、その不協和音を和らげているのだろうか。


「マスターって、喫茶店をする前は何をしていたのですか」


 失礼な質問かもしれないが、聞かずにはいれなかった。まあ、こうして世界各地のお土産を飾っているのなら、過去を隠したいというわけでもないだろう。


「商社みたいな会社で、主にコーヒー豆を扱っていました」


 紗耶香がいつも注文する、聞いたこともないような名前のコーヒーを煎れる謎が解けた。


 店内を見渡していた俺は、店の一番奥、いつも俺と紗耶香が座るテーブルの向こう、テーブル一つ分程のステージの壁に掛けられている楽器に目がいく。


「ああ、あれはバンジョーです。アメリカ南部の弦楽器ですよ」


 俺の視線の先を見たマスターが教えてくれた。

 弦は五本。ギターに似ているが、胴が太く丸い。


「妻がね、明るいあの音色が好きでして」


 奥さんの話をするマスターは、顔をしわだらけにして目を細めている。



 カラン コロン


 バンジョーを見ていた俺の背中でドアのベルが鳴った。


「あ、芥子雛じゃない。かわいい」


 西小路紗耶香。


 彼女は喫茶店に入るなり、カウンター上の芥子雛に掛けより、すぐに前に座っていた俺を押しのけて椅子に座る。


「よくできてるねこれ」


 俺はやれやれとコーヒーカップを自分の前に移す。


「マスターの奥さんの物らしいよ」


「ふーん」 


 芥子雛を指で突いていた彼女は、揺れる人形をじっと見つめていた。


「注文はお決まりでしょうか」


 マスターの言葉に宙を眺める彼女は、


「モンスーンコーヒーをお願いします」


と笑顔で答えた。 


「モンスーンコーヒー?」


 俺は思わず聞き返す


「南インドのコーヒーですよ。コクがあってとてもよい香りです」


 雛人形を見ている彼女ではなく、カウンター奥の棚を開けるマスターが教えてくれた。

 しかし、彼女はどうしてこんなにコーヒーに詳しいのだろうか。

 そういえば、小さい頃、ホームステイしていたらしいし、海外に行く事も多いみたい。海外を回っていて覚えたのだろう。


 普段は少し大人びた雰囲気の彼女だが、雛人形を突く姿は、年相応の少女に見えた。


「雛祭り、ありゃなんだ」


 違う。ギロリと俺を見るこの表情は少女などではない。悪戯好きの小さな女の子か。もしくは、関西のおば……


「桃の節句、女の子の祭だね。雛あられ食べたり」


 コーヒーを口に付けてなんとか答えた。正直な話、一人っ子の俺は雛祭りとは縁がない。


「あんた…… 行事のたんびに食べる事ばかりやな」


 彼女はいつもの蔑む瞳を俺に向けた。物憂げなその瞳には言い得ぬ力を感じる。…… 簡単に言うと、いつの間にかこの瞳の虜になってしまっていた。もっと簡単に言うと、つまり俺はいままで気付いていたかったM体質に目覚めつつある、のか?


 違う。断じて違う。


「雛祭りはな、高齢化社会を見越した何物かの陰謀やと思うんや」


 彼女は腕を組み、背を反らせて目を閉じる。

 いったい彼女の頭の中では、どのような思考が巡っているのだろうか。

 こうして目を閉じて、物思いにふける彼女の横顔は、まるでカウンターで首を傾げるフランス人形のようである。

 それは触れて遊ぶものではなく、ガラスケースの中の人形を見ているようで。


「何物かって、随分曖昧な陰謀だね」


 コーヒーを飲みながら言った俺の一言に彼女は目を見開く。


「ふむ。雛人形の原形は流し雛といわれてるんや。つまり、女の子の災いを代わりに背負ってくれるっちゅうことや」


 そうなんだ。ただ綺麗だから飾ってあるものと思っていた。

 

「それはいいねんけどな、問題は、『しまうのが遅れると行き遅れる』ってとこやな」


 言いながら頷く彼女の前にコーヒーカップが置かれた。


「モンスーンコーヒーです。ごゆっくりどうぞ」


 マスターは笑顔で言うと、いつもの立ち位置であり流しの前に移動した。


「それって、きちんと片付ける事の大切さとかを教えてくれてるんじゃないかな」


 コーヒーを味わう彼女に俺は、なんとか考えついた言い訳をする。

 ふう、と息を吐きながらコーヒーカップをカウンターに置いた彼女は、待ってましたとばかりに瞳を輝かせる。


「実際の話、人形を片付けるなら、ちゃんと晴れた日に片付けるべきや。まあ、人形を早く劣化させたい業界の陰謀もあるやろうけど」


 一息で言った彼女は、もう一度芥子雛を指でつつく。

 年代物とは思えない黒髪の姫雛が、フラフラと揺れた。


「お兄様の五月人形は出しっぱなしだったし」


 彼女は独り言のようにつぶやく。


「紗耶香ってお兄さんがいたんだ」 


 俺の言葉に指を止めた彼女は、そのガラス玉のような瞳で俺を睨みつける。



「なんであんたがそんなこと知ってるねん!」


 あまりの迫力に俺は思わず息を呑む。


「いや、だって……」


 言い訳しようとした俺は気付く。


 これは、お笑いでいうところのボケなのだろうか。だとすれば、「お前が言ったやんけー」と華麗にツッコミを入れるのが正解だったのか。


「まあええわ。そうや。私にはお兄様がいたんや」


 彼女はため息をつくと、コーヒーカップを口に運ぶ。


 次は絶対にボケを逃がさない。そう思い、彼女の一言一言に神経を注いでいた俺は、彼女の言い方が気になった


「お兄さんがいたって、今はいないの?」


 俺は恐る恐る彼女に聞く。

 コーヒーカップを置いた彼女は、カウンター奥の仮面の更に向こうを見るような遠い目をして言う。


「お兄様は、いや、お師匠様はお笑いの国に行ってしもたんや」


「はい?」


 よくわからないが、どこか外国に行ったのだろう。しかしお笑いの国ってどこだろう。やっぱりアメリカだろうか。

 だいたい、お兄さんの事を師匠って。もしかして、お笑いの師匠か。

 彼女のお笑い好きはお兄さんの影響なのだろうか。


「そんな事より『行き遅れる』の方や。これ、ちょっと想像したらかなり残酷な表現やと思わんか」


 もう少しお兄さんの話を聞いてみたかったが、彼女の目はいつもの『陰謀』しか映っていなかった。こうなると止める事は出来ない。出来る事は、軟着陸のみ。


「まあ、教訓みたいな物だから」


 なんとなく言った俺の一言に、彼女は目を見開き、俺には顔を近付けた。


「教訓? はぁ? これはな、娘を早く嫁に出して悠々自適な老後を目論む自分勝手な親達の陰謀に違いないんや」


 "何物か"は両親の事だったらしい。

 しかし、何故そこまで怒りに満ちた瞳をしているのだろう。

 紗耶香程のお金持ちならきっと豪勢な雛人形を飾っているだろうに。


 そういえば。


 俺は剣道部の仲間の一人を思い出していた。

 妹大好き、自他ともに認めるガチシスコンこと西口君。

 去年の雛祭りの後、両親と喧嘩したらしい。なんでも、雛人形を片付けないで欲しかったらしい。いわく、「冨絵を嫁には出さない」らしい。「じゃあ妹は結婚せず、ずっと実家で暮らすのかよ」当時の次期主将山中がどうでもいいいという態度丸出しで対応していた。

 顔を真っ赤にした西口は「冨絵は俺の嫁になるんだ」そうつぶやいた。「ソウデスカ」次期主将山中をはじめ、さすがに皆引いてしまった。


「早くいい人を見つけて幸せになって欲しい、って事じゃないかな」


 俺は結婚に対する、光に霞むように淡い気持ちを吐露する。

 西口君には悪いが、やっぱり女性は好きな人と一緒になるべきだと思う。


 まだ高校生の俺には人生の事など、何も分かっていないけど。


「うちの雛人形はね、雛祭りが終わると直ぐに片付けられるの」


 彼女は、コーヒーカップに口を付けて、その苦みを味わうように目を閉じていた。


「十段上の内裏雛を近くで見れるのはその時だけやねん」


 コーヒーカップをカウンターに置いた彼女は、カップの底に残る琥珀色の液体を眺めている。


「小さい頃は内裏雛が見たくて嬉しかってんけどな」


 視線を上げた彼女は、俺を見ながら言う。


「でも気付いたんや。うちに早く家を出て行って欲しかったんやなって」


 そんな事はない


と言いたかった。

 でも彼女の瞳は俺の意見など受け入れるつもりなど無いように、まるで冷たいガラス玉のような怜悧な光を放っていた。


 彼女は自分の家庭についてはあまり話そうとしない。俺には話せないような事情もあるのだろう。


 彼女の家庭がどんな事情になっているのかは、俺にはよく分からない。

 一つだけ確かな事は、毎年、雛祭りが終わる度に、彼女は傷ついていたのだろう。誰も知らないところで。


「やっぱり人形業界の陰謀に違いない」


 俺はコーヒーカップを握りながら言った。


「本当は流し雛にしたいところだけど、そうすると川が汚れるから。人形を売るためにそんな事言ってるに違いない」


 俺は言い切り、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。

 カップに残っていたコーヒーは、溶け切らなかった砂糖のせいでびっくりする程甘かった。


 いつもと違う俺の迫力に押されたように彼女は頷き、目を閉じていた。


 カタンという音を立てて、カウンターの上に小皿が置かれた。


 見ると、陶器の小皿の上に色とりどりのあられが入っている。


「この時期になると無性に雛あられが食べたくなります」


 俺と彼女の前に立ったマスターは、そう言いながら小さな湯呑み茶碗を二つカウンターに置く。


「甘酒です。どうせなら雛祭りらしく」


 マスターは言いながら、自分の湯呑み茶碗に、髭の下の口を付けていた。

 彼女と目を合わせた俺は、頷きあい、湯呑み茶碗に口を付ける。


 ちょうどいい温かさが、その甘みを更に強くしていた。


 雛あられを口に入れる彼女。

 桃の花びらのような、はかないピンク色の唇にほうり込まれる、原色の雛あられ。


 ビー玉のような瞳がその原色を受けて、複雑な光を放っていた。


「やっぱりあられ業界の陰謀だわ」


 薄い塩味のあられは、一度口に入れると手が止まらなくなる。


「かもしれませんね」


 マスターはクスっと笑うと、カウンターの上の芥子雛を眺めていた。



     *



 喫茶店の外は、まだ夕日に包まれていた。

 随分日が長くなった。そういえばもうコートを着ていない。

 町を歩く人達の服装も春らしく薄着になってきている。


「さっきはありがとう」


 俺の手を握った彼女は小さな声で言った。

 黒髪に隠れてよく見えないが、その横顔にオレンジ色の影がかかっている。 

 彼女の言葉の理由はすぐには理解できなかった。


 でも彼女は俺の手を強く握り、いつもより少し頭を俺の肩に近付けていた。

 甘酒のせいか、彼女の手の温もりを感じる。


 お礼は、きっと人形業界の陰謀と言いきった事だろう。


「俺、紗耶香の陰謀論嫌いじゃないから」


 なんとなく恥ずかしくなり、視線を前に向ける。

 俺は彼女の事で知らない事がまだまだたくさんある。それは彼女が言いたくない事かも知れない。

 でも、彼女の事をもっと知りたい。


「紗耶香の事もっと知りたいから」


 俺は彼女の手を強く握りかえした。


 チリン


 歩道の前から自転車が近づいていた。

 道を開けるために彼女に身を寄せた。

 通り過ぎる自転車を眺めていた俺は、肘に何やら柔らかい物が当たっている感触に気付いた。


 これは……


 恐る恐る彼女を見る。


「ほう。知りたいってのはこういう事なんか」


 俺の肘は彼女の控えめな胸にジャストミートしていた。


「ちょっ、いや、これはその」


 慌てて彼女から離れる。 

 夕日を受けて真っ赤な顔をした彼女は腰に手をやり、頬をパンパンに膨らませていた。


「うちの陰謀論きらいじゃないって言ったな」


 俺は何度も何度も頷く。 夕日を映した彼女の瞳は万華鏡のように、町の景色を映しこみ、キラキラと輝いていた。


「来週は覚悟しときや」


 捨て台詞を言い放った彼女は歩道を歩きはじめる。


 来週……

 ホワイトデーか。


 これはかなり覚悟を決めてかからなくてはいけない。

 実はちょっとしたサプライズを用意している。

 彼女はどんな顔をしてくれるのだろう。

 知りたい事はまだまだたくさん。


 肘に残るあの柔らかい感触を記憶に刻み込みながら、俺は彼女を追い掛けて走る。

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