06 バレンタイン
芳しいコーヒーの香り。決して主張をしない、カノンのメロディー。
カウンターの上では、サイフォンが心地好い音を立てている。
町外れの喫茶『シャングリ・ラ』は、そこに座るだけで、まるで大人の世界に足を踏み入れたように感じる。
今期一番の寒気がまた来ているらしい。窓をガタガタと木枯らしが鳴らしている。
俺はコートに振り積もった雪を払い落としていつもの椅子に座る。
練習後も、なんとか引き止めようとする部員達から逃げ出し、待ち合わせの時間には間に合った。
ほっと一息ついた俺は、カウンターからの視線に気付く。
神崎ミヤコ。
メイドコスチュームの彼女は、ニヤニヤ笑いながら、お盆に水の入ったコップを載せてこちらに歩いて来る。
「なんでこんな日にバイト入ってるんだよ」
かつてミヤコは喫茶店が忙しい時だけ臨時にアルバイトをしていると言っていた。
しかし、今日も店内に客は俺一人。
「私がいつバイトしようがあんたには関係ないでしょ」
乱暴にコップを置いた彼女は、茶色いポニーテールを揺らして俺に背を向ける。
「まあ、チョコ貰うためにせいぜいがんばりな」
ミヤコは笑いながら手を振ると、そのままカウンターに入っていった。
そして彼女はゆっくりと体をカウンターの中に沈めていく。
俺からはミヤコのカチューシャとやたら大きなどんぐりまなこだけが見えている。
あそこから俺達の様子を観察するつもりなのだろうか。
全く、何がしたいのだろう。バスケットボール部に所属するミヤコは身長こそ高いが、容姿もトップクラス。なにより高校生離れした豊かな胸。俺が知っているだけでも彼女のファンも数人いる。
それがこんな日にこんなところで……。
まあ、いい。ミヤコに気を取られている場合ではない。今日の俺にはやらなくてはいけない事がたくさんある。
気を取り直し、床に置いた鞄からノートを取り出した。
まず、バレンタインとはもともローマ帝国時代、二月十五日の女神ユノの日に由来するらしい。このユノの日の前日がルペルカリア祭と呼ばれ、女性が名前を書いた札を桶に入れ、次の日、札を引いた男性とパートナーになるらしい。
一方、ローマ帝国の皇帝は軍隊の士気低下を防ぐ為に結婚を禁止していた。それに反抗して結婚を斡旋していたのがウァレンティヌスて人。この人の処刑された日がルペルカリア祭の二月十四日だった。
この日が選ばれた理由について、一説にはキリスト教が土着の宗教行事を取り込む事が目的だった、とも言われている。
某ウィキ○ディア様々。
必死に調べてこうしてノートにまとめてきた。
今日は彼女の陰謀論などに時間を割くことはできない。
陰謀論など軽〜く論破して、甘〜いイチャイチャトークをしてやる。
そして、そして、甘〜いチョコを。
「何ニタニタ笑ってるの? 気持ち悪い」
西小路紗耶香。
俺は慌ててノートを閉じ鞄の上に放り投げた。
彼女はさげすむ視線を俺に送り付けながら雪を払い落としたコートを椅子にかける。
「ったく。こんなのが彼氏かと思うと悲しくなるわ」
座るなり散々悪態をつく彼女。その絹のような黒髪の上の水滴が、まるで散りばめられた宝石のごとく、喫茶店の淡いランプの光を反射して輝く。
「演劇部の脚本はどうだった?」
まずは気まずい空気をなんとかしなくてはいけない。
「ん、ああ、一発でオッケーもらったわ。でも」
彼女は、テーブルに立てられたメニューを広げながら言う。
「私的には『よしおとあきえ』の方がよかったんだけどね」
『よしおとあきえ』…… そんな題名だったんだ、あれ。
乳首ドリル。実は家に帰ってから動画サイトで確認した。お笑いの道は果てしなく遠く、険しく、そして深い。
「新喜劇とかよく見るの?」
この地方の民放では放送していない。見るとすれば、衛星放送かDVDとかだろうか。
「DVDが多いけど、いつか本物を見に行くのが夢なの」
うっとりと宙を見つめる彼女。そんな彼女の前に水の入ったコップが置かれた。
「御注文はお決まりですか」
いつの間にかテーブルの側に立っていたマスターが尋ねる。
メニューを見ていた彼女はその中から一つを指差して言う。
「この、チョコレートマキアートっていうの二つ」
彼女は左手の指を二本立ててマスターに笑いかける。
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
マスターはメニューを片付け、頭を下げてカウンターに帰っていった。
俺が呆気にとられている事に気付いた彼女は、輝くような笑顔を見せる。
「今日はバレンタインだからね。私がおごったげる」
「そ、そうなんだ。ありがとう」
俺は抑揚の無い言葉で答える。
憧れの『本命チョコ』。それが一杯三百五十円のチョコレートマキアートに姿を変えた瞬間であった。
「バレンタインで思い出したんだけど」
バレンタインの言葉に俺は我にかえり、彼女を見る。そう。まだバレンタインは終わったわけでは無い。
しかし、引き込まれるような彼女の瞳を見て俺は気がついた。この瞳は。
「うち、すごい陰謀に気がついたんや」
やっぱり。
まあ、この流れになるのは想定内である。バレンタインについて理論武装した俺に死角は無い。きちんと論破して、恋人の会話をしてやる。
さあ、誰の陰謀だ。キリスト教か、お菓子業界か、それともいつもの某合衆国か。どこからでもかかってきなさい。
「バレンタインはな、無駄な出費を押さえたい大人達の陰謀やと思うんや」
斬新な切り口である。バレンタインでわざわざチョコレートを買う方が無駄な出費だと思うが。
「詳しく聞かせてもらってもいい?」
俺の言葉に彼女はもちろんと胸を張る。
「バレンタインについては、様々な陰謀が絡みあって成立してる事は分かるやろ」
新雪の上に舞い落ちた椿の花びらの様な彼女の唇から、"バレンタイン"の言葉が出る度に鼓動が高まらざるを得ない。
「もともとはキリスト教が土着の宗教を取り込む目的だっただろうし、チョコレートを送るのは日本だけだから、お菓子業界も随分宣伝したみたいだね」
得意げに話す俺の言葉にさすがの彼女も驚いたのか、切れ長の瞳を大きく見開いていた。
「あんた…… 短い間にずいぶん成長したもんやな」
俺は得意げに胸を張る。
「でも、バレンタインデーに向けてこんなん調べてノートまで作ってる姿は、悲しすぎるやろ」
彼女の手の中にはいつの間にか、俺のバレンタイン雑学ノートが開かれていた。
慌てて足元の鞄を見ると、やはり上に乗せたはずのノートが無かった。
「ちょっと、何勝手に見てるんだよ」
ノートに手を伸ばしてすが、彼女は背を反らしてパラパラとノートをめくっている。
「何々、『バレンタイン。その甘味な言葉よ。嗚呼バレンタイン。たとえ彼が処刑台に乗せられ首をはねられようとも。その御顔には笑顔が』って、われ、いつから詩人になってんや」
耳の先まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。
頼むからもうやめてくれー!
「『バレンタイン、その甘味な言葉は、まるで君の乳房のように柔らかく、そして頼りなく』って、エロ小説か!」
俺は自分の両耳をふさぎ聞こえないふりをし、ノートを取り替えそうと手を伸ばした。
「うちの書いたシナリオ勝手に読んだ仕返しや」
テーブルがガタンと揺れて、コップから溢れた水がこぼれる。
なんとかノートを取りかえした俺は、それを胸に抱いて彼女を睨む。
「チョコレートマキアートです」
騒ぎが収まるのを待っていたかのように、マスターがテーブルの上にコーヒーカップが二つ、そしてチョコレートでコーティングされたクッキーが入った小皿を置いた。
「私からのバレンタインチョコレートです」
マスターは頭を下げると、素早くこぼれた水を拭き取り、カウンターに向かって行った。
「あっ」
チョコレートマキアートを飲もうとした彼女が、左手で持ち上げたコーヒーカップを見ながら声をもらす。
コーヒーカップの中、クリームの上にチョコレートとココアパウダーでハートが描かれていた。
あのダンディーロマンスグレーのマスターがこんな洒落た事を、と思いカウンターの方を見てみる。
カウンターから頭だけを出したミヤコがピースサインをしていた。
ミヤコが描いたのか。なかなか気の利いた事をする。
俺は紗耶香に見えないよう、テーブルの下で親指を突き立てた。
カウンターに気を取られていた俺は、目の前の彼女の異様な様子に気付いた。 彼女は、スプーンでチョコレートマキアートをグルグルと掻き混ぜていた。
「え、何してるの?」
俺の言葉も聞こえない程必死にチョコレートマキアートを掻き混ぜた彼女は、やっとコーヒーカップを口に付けた。
「で、話の続きなんやけど」
コーヒーカップをテーブルに置いた彼女は身を乗り出す。
「妊娠して出産するまで、どのくらいかかるか知ってるな」
彼女の行動に疑問を感じながらも、俺は頷く。
「十月十日っていうよね」
いったい俺は何の話をしているのだろう。ミヤコのナイスアシストもあったのに。
「細かい事考えずにバレンタインデーに十月十日足してみ」
またチョコレートマキアートを掻き混ぜている。
とりあえず言われた通り二月十四日に十月十日を足してみる。
十二月二十四日。あっ。
「気付いたやろ。実にうまいことつくっとるわ」
チョコレートマキアートを一口含んだ彼女は、左手で持ったスプーンを俺に突き付ける。
「つまりやな。バレンタインデーで愛を燃え上がらせて出来た子供が生まれるのが十二月二十四日なわけや」
結構際どい事をドヤ顔で言ってることに気付いてるのだろうか。
ん、そういえば……
「紗耶香の誕生日って」
「せや、十二月二十四日。単体の誕生日プレゼントなんて貰ったことあらへん」
彼女くらいのお金持ちなら誕生日会とかも派手にやりそうなのに。
「でもいつまでもクリスマスプレゼント貰えるじゃん。物は考えようだと思うけど」
彼女は俺を睨みつけるように見ていた。
世の中に美人と言われる女性は五万といるだろう。しかし、その中で怒りに満ちたその表情すら、これだけ人を引き付ける女性はどのぐらい存在するのだろうか。
「…… したい」
ぷっくりと膨らんだ鈴蘭のような頬で彼女がつぶやく。
「え?」
彼女の言葉によこしまな想像をした俺は思わず聞き返した。
「日本でお誕生日会をしたい」
そういえば、去年のクリスマス、彼女は海外に行っていた。たしかヨーロッパの方だったはず。お陰でせっかく彼女が出来たのに、俺は剣道部員達のヤケクソクリスマスパーティーに参加していた。
あれ程悲しいパーティーはなかった。
なんにせよ、今日の彼女は何が様子がおかしい。
『陰謀論』に力が無いというか、集中出来ていないというか。
実は今日の朝からずっと気になっていることがあった。
「右手、どうしたの?」
俺の質問に彼女はチョコレートマキアートを掻き回す手を止めた。
「べ、別に何もないから」
彼女は左手をテーブルの下の右手首に重ねた。
「そんな事ないだろ。朝だって学校の中で手袋してたし、コーヒーだっていつも右手で飲んでるだろ」
「ほんとに何にもないから」
俯いて何度も首を振る彼女。彼女が否定すればするほど、それは俺が知らなければいけない事である。
彼女は自分の事より他人の気持ちをいつも考えている人だから。
俺は椅子から腰を浮かせ、彼女の右手首を掴んだ。
「やめてっていってるでしょ!」
椅子から立ち上がり腕を振る彼女。ちらりと見えたのは包帯が巻かれた右手の人差し指。
彼女は椅子に掛けていたコートを強引に引っ張り取ると、喫茶店のドアに向かって走る。
俺がテーブルの上にこぼれた水に気を取られていると、ドアのベルが激しく鳴り響いた。
「このバカタレが! 早く追い掛けろ!」
カウンターの中から立ち上がったミヤコが叫ぶ。
頷いた俺は、コートを羽織り、ドアに向かう。
「紗耶香を傷つけたら、許さないからね」
ミヤコの言葉を背中で受けた俺は喫茶店の外に飛び出した。
*
街灯に照らされた歩道にはうっすらと雪が積もっていた。
足元からその冷たさが伝わってくる。
しかしその雪のお陰で彼女が走っていった方向が分かった。
点々と残る小さなパンプスの足跡。その歩幅から彼女がかなりの速度で走っていった事が分かる。
コートを羽織りながら彼女の足跡の方向へ走る。
ちらつく雪が顔にふり付ける。どれくらい走っただろうか。いつの間にか革靴の中は染み込んだ水でぐっしょりと濡れていた。
駅に向かうにつれて、徐々に町を歩く人が増えてきている。彼等が吐き出す白い息の中をひたすら全力で走る。
駅の側の公園の前で俺は足を止めた。
道標となっていた彼女の足跡はもう踏み荒らされて判別することができない。
でも、チカチカと点滅する街灯の下、俺は公園に入っていく小さな足跡を見つけていた。
喫茶店の前と比べると、随分歩幅が狭くなっている。
肩を上下させて白い息を吐きだし、公園に入る。
*
公園の中央付近。静かに降り積もる雪の中に小さな休憩所が浮かび上がっていた。
彼女はその中でベンチに座り俺の方を見ている。
俺は彼女の正面のベンチに座った。
雪が溶けて濡れた黒髪。泥だらけになったパンプスと黒いタイツ。彼女は両足の先を合わせて震えていた。
「ごめん」
大切にしていた宝物を汚してしまったような、取り返しのつかない罪悪感に襲われる。罪悪感に苛まれて初めて、それがどれだけ大切な物であったか気付く。何度も繰り返してきた事。なんて愚かなことなんだろう。
「謝るのは私の方なの」
彼女は首を振ってそう言った。
「バレンタインなのに、彼氏にあげるチョコレートが無いの」
俯く彼女の表情はこちらから見ることができない。
「初めてだったから、一生懸命作ったんだけどね」
彼女は包帯が巻かれた指を左手でなぞる。
「火力間違えてほとんど焦がしちゃうし、火傷までしちゃって」
顔を上げた彼女は笑みを浮かべていた。
「やっぱりチョコレート欲しかったよね。あんなに調べてくれてたし」
すぐに俯いた彼女は両手を握りしめて、
「ごめんね」
と言う。
言葉が思い浮かばなかった。
俺は何も言うことができず、そっと立ち上がり、彼女の横に座る。
そして、彼女の左手をそうっと握った。
驚くほど冷たい手。
温めてあげたくて強く握った。
「ミヤコにあげるつもりだったんだけど」
彼女は右手をコートのポケットに入れる。
取り出したのは、ピンク色の包装紙で包まれた小さな丸い物。
受けとった俺は、手の平に乗せて、包装紙を剥がしていく。 現れたのは涙型をした、少し黒いチョコレート。
「ほとんど焦げちゃったんだけど、真ん中はまだいけそうだったから」
憧れていた『本命チョコ』。
彼女の思いが詰まった小さな小さなチョコレート。
「ありがとう」
口の中に入れたそれは、今日の雪のように、淡く、でも確かな余韻を残して溶けていった。
「おいしい」
やっと彼女が笑ってくれた。
「喫茶店に帰ろ」
彼女の手をとって立ち上がる。
「うん」
立ち上がった彼女は俺の手を強く握りかえしてくれた。
生まれて初めてもらった『本命チョコ』。
それは、まだまだ子供だった俺にはとにかく苦くて。
でもそれは、俺だけの大切な秘密の思い出。
とにかく今は、彼女と甘い甘いココアが飲みたい気分である。