05 挿話 二月十四日 朝の風景
二月とは思えない生暖かい空気が澱んでいる。
鼻をつくようなすえた汗のにおい。
疲労した体。節々が痛みを訴えている。
校舎の北端にひっそりと佇む格技場。
いまだ朝練の熱気が残る道場、そして男子更衣室。
「そういえば、今日はバレンタインだったな」
誰かの一言が空気を凍らせた。
高窓から差し込む淡い光の中、男達がむくり、むくりと起き上がる。
彼等はギラギラとした目を言葉を発した男に向けた。
「今日が始まって八時間と少し。俺達のバレンタインは終わった」
誰かが呟き、握り締めていた手を開いていく。
その、震える掌の上には、サイコロの形をしたチョコレートがビニールに包まれて一つ。
彼の行動に合わせるように皆が固く握った拳を開いていく。
それぞれの手に、もはやサイコロとしての機能を失った半溶けのチョコレートが乗っていた。
今から数分前……
「はい、義理チョコ。ホワイトデー楽しみにしてるからね〜」
朝練が終わった憩いのひと時。部室のドアを思いっきり開けた彼女達。
白い道着をうっすらと汗で濡らした彼女達は、茶色いサイコロチョコレートが入ったビニール袋を、今まさに袴を脱ごうとしていた主将山中颯太の足元に置いた。
「俺、食べる」
腹周りの風格だけは、大将格。最近、メタボリックという言葉を知った加山猛。彼は、言うや、手の上のビニール袋を開き、その茶色い塊を口に入れた。
「甘い」
贅肉の付いた頬を揺らして口を動かす彼は、チョコレートを飲み込む。
「でも、なんでだろ。心がビターなんだ」
彼は口の中のチョコレートを懐かしむように言うと、天井を見上げた。
彼を見ていた皆が一斉にチョコレートを口にほうり込む。
「ほんとだ。苦い」
口を動かし、天井を見上げる男達。
突然、チョコレートを飲み込んだ主将山中がスクッと立ち上がる。
床に座る皆は、固唾を飲み込み、主将山中の姿を仰ぎ見る。
「この中に裏切り者がおる」
彼は上半身裸で部室の中を見渡す。
ざわつく男達。
皆の注目の中、主将山中の視線は、部室の一角で止まった。
「あ、意外とおいしいかも」
そこには、嬉しげにチョコレートを頬張る男がいた。
「小山隆史!」
突然名前を呼ばれた彼は、「え、俺?」と辺りを見回す。周りの男達は、彼から距離を取るように離れ、ただ頷く。
道着袴姿の小山は頭を掻きながら立ち上がる。
「副主将小山、名を呼ばれた理由がわかるか?」
後ろ手に両手を握る主将山中が、ゆっくりと小山に近づいていく。
「いや、なんの……」
「じゃかましいわい、おおう」
袴の裾を振り足を踏み出す主将山中。張りのある声が部室中にこだましていく。
「すでに調べはついておる。貴様」
主将山中は、奇妙な笑顔を作りながら、小山の周りを一回りする。
「今日、本命チョコをもらうつもりであろう」
ざわつく周りの男達。頷く主将山中が手を広げ、そのざわめきを消した。
「我等がアイドル。西小路紗耶香嬢と御主の仲」
主将山中が、くっつかんばかりに顔を小山に近づける。
「知らぬとでも思ったか! おおう」
「いや、まあ、でもチョコを貰えるかどうかは」
腕を組み、宙を見つめる小山。
「お前も知ってるだろ。彼女の性格」
容姿端麗、才色兼備。学年内でもトップクラスの美少女。しかし、その近寄り難いツンツンぶりも学内一。これまで数々の怖いもの知らずがアタックをしたが皆敗れ去っていた。いわく、彼女の後には草木一つ、タンポポすら生えないらしい。
実際、小山が学内で彼女に出会っても、目も合わせてくれない。
「貴様、しらばっくれやがって。おい、西田、話してやれ」
主将山中の指名を受け、部屋の隅にいた男がオロオロと立ち上がる。
「あれは、たしか先週の事。俺、母ちゃんに頼まれて妹と二人で商店街に豆まきの大豆を買いに行ったんだ」
ギクリ。思いあたる節があるのか、小山は幼い顔立ちの西口を見て唾を飲みこんだ。
「寒い日だったな。妹の富恵の手が冷たかった」
目を閉じて物思いにふける西口。
「手が冷たいのは、こころがあったかい証拠だって。きっと、富恵の心はとてもあったかいに違いねえ」
また始まった。西口は自他ともに認める重度のシスコンである。愛妹富恵の話をしだすと、もはや誰にも止める事ができない。
「西口、妹の話はまたゆっくり聞かせてもらう。で、お前は何を見たんだ?」
主将山中が西口の肩を叩く。
「おら、見ちまった。あいつ、姫様と腕組んで歩いてただ」
西口は両手で顔を隠し床に座った。
再びざわつく男達を静めた主将山中は笑みを浮かべ、小山の肩に手を置く。
「別に俺達は、ここで貴様を糾弾するつもりはない。いや、それよりも祝福してやりたい気分なんだ」
主将山中の顔を見た小山は気が付く。彼の目が一切笑っていない事を。
「みんなに公表するにしても、俺にもなんていうか、今ひとつ、付き合ってるって感覚が」
「もういい」
小山の言葉を両手を広げた主将山中が遮る。
「お前、いつからそうなった。昔のお前は違ったよな。バレンタインは女子部員からサイコロチョコを貰う日だったはずだよな」
「いや、だから、俺も彼女からチョコ貰えるかどうかは」
「副主将小山」
言い訳しようとする小山は、主将山中だけでなく、部員みなの悲しい瞳が自分を見ている事に気付く。
その憂いを帯びた瞳達は、地獄の底から遥か頭上の楽園を見るようで。見上げればいつも頭上にあるのに。手を伸ばせば届きそうなのに。でも決してそこに行く事はかなわない。
「祝福してやりたいのはやまやまなんだがな。俺はどうしても貴様を許す事ができないんだ」
地獄でうごめく小鬼の総大将山中が、男達を代表するように小山に向き合う。
「言ってやれ主将山中!」
誰かが煽り、主将山中が頷く。
「どうして副主将の貴様に彼女ができて、主将の俺にはできないんだよ」
そこかよ。
部員達のため息混じりの声が、予鈴のチャイムの音で掻き消されていく。
「やべ、貴様ら早く着替えろ」
つい先日、朝練後に皆でゲームをしていて授業に遅れ、先生から大目玉をくらったばかりである。
彼等は無言で脱いだ道着と袴を物干しロープに掛け、学ランを着る。
今だ熱気の残る道場に一礼し、靴を履き変え、校舎の出入口に向かっていた彼等は、誰ともなく歩みを止めた。
そう。もはや、近づくことすら叶う事がないと思われた天上界から垂らされた、一筋の糸。その名は下駄箱。
部員達は、それぞれの下駄箱の前に立ち、呼吸を整える。
蓋を開けて中を確認するまでは、この中に、チョコや呼出しの手紙が入っている世界と、いつもの通り汚い上靴しか入っていない世界とが存在する。
たった数十センチ四方の小さいスペース。なんの変哲もないこの下駄箱が、今日、この日この瞬間だけば、二重確率の世界を含有すパンドラの箱となる。
意を決して下駄箱の蓋を開ける。
やはりと言うか、中には一足の上靴しか見当たらなかった。
何事もなかったように上靴を取り出し、目立たないようにその中をまさぐる。
そこにあったものは希望ではなく空虚のみ。皆がため息をつく。
同じクラスである主将山中と小山の下駄箱も同様。
「うわ、何だよこれ」
声の方を見ると、クラスメイトの佐々木留騎亜が、下駄箱からこぼれ落ちるチョコを拾い上げていた。
某男性アイドルプロダクションにスカウトされたという彼は、日本人離れした甘いマスクでため息をついていた。
佐々木の様子を見ていた小山の肩を主将山中が叩く。
「住んでいる世界が違う」
首を振りながら小声で言う主将山中。小山は頷くと、素早く上靴を履いた。
部員達は肩を落とし、無言で階段を昇っていく。
二年の教室が並ぶ二階の廊下、誰かが「あっ」と声を出し、部員達が足を止めた。
最後尾を歩いていた小山が顔を上げる。
廊下の向こうから女子が一人こちらに歩いて来ていた。
西小路紗耶香。
窓から差し込む朝日が、歩く度に揺れる彼女の黒髪をサテンのように輝かせている。
彼女は真っ白な手袋をはめて、ピンク色の小さな花が活けられた花瓶を大切そうに持っていた。
ここが学校である事を忘れてしまう。まるで、お姫様が城を抜け出し花を摘んで帰ってきたようである。
部員達がコソコソ話しながら小山をチラリと横目でま見る。
「お、おはよう」
通り過ぎ際に小山が彼女に声をかける。
表情一つ変えない彼女はそのまま、スカートを揺らして廊下を歩いていった。
振り返ると、部員達がまたコソコソ話しながら小山の方を見ていた。
「まあ、しかたないよな」
主将山中がガハハと笑い小山の背中を叩く。
頷く小山は、もう一度彼女の方を見る。
「これは、西小路紗耶香様。本日もご機嫌麗しく」
山の様なチョコの箱を両手で抱えた佐々木が頭を下げたまま彼女の前に立ちはだかっていた。
「おやおやこれは美しいシンビジウムですね。しかし、あなたの美貌には」
「邪魔」
彼女の氷のように冷酷な一言に、彼は頭を下げたまま廊下を譲った。
教室に入り、窓際の机に鞄を置く。
結露で曇る窓の外、空にはグラウンドに重くのしかかるような曇天が広がっている。
朝の本鈴が鳴り響く中、学生達がグランドを猛スピードで走っていた。
椅子に座った小山は、最前列で、何気なく机の中を覗く主将山中を見る。
教室の扉が開き、口髭を蓄えた担任のクマ先生が教壇に向かって歩いていく。
いつもとなんら変わりない、退屈な朝の一幕であった。