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02 ハワイからの中継です

 芳しいコーヒーの香り。決して主張をしない、ボサノバのメロディー。

 カウンターの上では、サイフォンが心地好い音を立てている。


 町外れの喫茶『シャングリ・ラ』は、そこに座るだけで、まるで大人の世界に足を踏み入れたように感じる。


 彼女が来るまでは。



 英単語の書き取り。

 新年早々、空気の読めない英語教師が出した宿題である。


 ほとんどの先生が、正月ボケしている生徒達に気を使って雑談を交えたゆるい授業を流していく中、英語講師のキャロラインは、抜き打ちのテストを始めた。

 もちろん結果は皆さんざんなもの。

 何かに取り憑かれたように怒り狂うキャロラインは、単語書き取り十ページの宿題を出した。


 なんとかSの単語も後少しのところまで進んだ。


 sock sock sock


 靴下。



「邪魔するで」


 声に気付き、見上げると、いつの間にか彼女が立っていた。

 セーラー服にコート姿の彼女は、右手の平を顔の横に突き出し、固まっていた。


「あ、ごめん。すぐに片付けるから」


 俺は慌てて、テーブルの上に広げていたキャロライン先生自家製の単語帳を閉じた。


ハァ〜


 あからさまにガッカリしたため息を吐き出した彼女は、コートを脱いで椅子にドスンと座る。


「あのな、邪魔するで、に対しては、邪魔するんやったら帰ってや…… まあ、あんたにはレベルが高すぎたか」


 肩を竦めた彼女は、頬を膨らませて俺を睨みつける。お餅のように膨らむ頬っぺた。


「お待たせしました。センツァ・スキューマでございます」


 マスターが彼女の前に静かに、コーヒーカップを置いた。


「ありがと」


 マスターに満面の笑みを向けた彼女は、濡れているような漆黒の髪を揺らして、コーヒーカップに口を付ける。

 シットリとした唇に、ミルクの泡をうっすらと纏いながら、コーヒーカップから口を離す。瞳を閉じて、口触りを楽しむ。その仕種一つ一つが完成された芸術のように、誰もが引き付けられずにはいられない。


「ハワイからの中継、ありゃなんだ?」


 油断していた。


 慌てた俺は、なんとか気持ちを落ち着かせる。


「芸能人のかい? そりゃ、普段は見ることのできない芸能人の素の姿を」


「ほう」


 腕を組んだ彼女は、背筋を伸ばして、俺を見据える。珍しく彼女を納得させる事が出来たのだろうか。


 俺は、自然とこぼれる笑みを隠すように、アメリカンを口に含む。


 上目遣いで彼女を見ると、なにやらゴソゴソしている。

 更に視線を上げると、そこには、ビデオカメラを構えた彼女がいた。


「なっ!」


 口の中のコーヒーを吹いた俺は、両手で顔を隠した。


「ちょ、何してるんだよ」


 カメラをテーブルの上に下ろした彼女は、液晶画面を俺の方に向けていた。


『なっ!』


 さっき録画した画像が再生されていた。

 画面の中の俺は、口からコーヒーの飛沫を飛ばしたり、垂らしたりしながら情けなく手を振っていた。

 

「あんた、やっぱり最高だわ」


 彼女は、画像を巻き戻し、一次停止のスイッチを押した。


「ほら」


 コーヒーを吹き出した直後の俺。彼女が指差した俺の鼻からコーヒーが一筋。


「なんなんだよ。誰だって急にカメラ向けられたら」


「そう。これが素の反応や」


 彼女は頷き、カメラをかばんに入れた。


「空港を降りたらカメラが待っとる。一張羅着て満面の笑顔で『楽しんできまーす』、これが素の姿か、お?」


 まあ、確かにカメラが来ている事が分かっているなら、いい服も着て行くだろう。

 ジャージじゃ恥ずかしい。


「深い陰謀を感じるんや」


 始まったか。


 備え付けのナフキンで顔を拭く俺に、彼女の顔が近づく。


「そもそも、なんでハワイやねん」


「まあ、庶民の憧れだからね。いつか俺も行ってみたい」


 できれば君と。なんちゃって。


「庶民か…… なるほど」


 俺の答えに頷いた彼女は、腕を組んで考え込む。


「うちはな、なんでハワイに行くんやろて思ってたんや」


 彼女はコーヒーカップを持ち上げる。


「なんで、モルディブじゃなく、ニューカレドニアじゃなく、ニースじゃなく、ドバイじゃなく、ハワイなのか」


 世界各地の高級リゾート地をまくし立て静かにコーヒーカップを置く彼女。


「大事な事は、庶民が『私もいけるかも〜』て事やってんな。ますます陰謀の臭いがするわ」


「陰謀でも何でもないだろ。ハワイなら、治安もいいし、日本語が通じるところも多いしさ」


 俺の剣幕に押されたように彼女は黙り、コーヒーカップに手を伸ばす。

 いつまでも言い負かされている訳にはいかない。へんてこな陰謀論じゃなく、俺は、俺は、そう。俺はただ、恋人らしい会話がしたいだけ。


「あんたさあ、本当のハワイの現状知らないんだね」


 小さな子供を見るような、慈悲に溢れた瞳で俺を見る彼女。


「強盗の発生率だけでも、日本の二十五倍近く。治安の悪さは日本と比べものにならないんだよ」


「でも、旅行会社とかはハワイの治安はいいって」


 しまった。まんまと引っ掛かってしまった。

 恐る恐る彼女の顔を見る。

 不気味な笑みだった。


「だから、陰謀やいうてるやろが」


 やっぱり。


「でもな、旅行会社は金儲けなあかんから仕方ないと思っとる」


 コーヒーを口に運んだ彼女は、声をひそめる。


「某合衆国による思考操作ちゃうか」


 俺の間近に彼女の顔が迫る。陰謀論に目を輝かせる彼女の瞳はキラキラと輝く。


「世界にはいろんな国があるのに、みんな某合衆国。行った先は、片言の日本語が通じる所。某合衆国は、日本人を本当の意味で国際化させへんために、ハワイで息抜きしてるんや」


 言い終わった彼女は、いわゆるドヤ顔で、満足そうにコーヒーを飲んでいる。


「その宿題もそや」


 彼女は、俺の手元で開いているノートを指差した。

「どうせ、キャルロラインが失恋の腹いせに出したんやろ」


 キャル、キャルロライン?舌を噛みそうなやたらそれっぽい発音。


「キャロライン先生、失恋したの?」


 ウェーブのかかったブロンドヘヤに青い瞳、ボンキュッボンのキャロライン先生は日本語が全く話せないはずだが。


 俺の疑問を察した彼女は、当たり前の様に言った。


「先生とは去年から友達やねん。一緒に買い物行ったり」


 な、なんだってー! ん、という事は。


「うち、小学生の六年間、ボストンにホームステイしてたから」


 So、そうなんですか。


「そんなことより、それ。sock sock sockて、何してんねん」


「いや、だから、英単語を覚えようと」


「あんたな、日本語覚える時に、くつした、くつした、くつしたって練習したんか?」 


 確かにそんな覚え方はしていない。というか、俺、日本語どうやって覚えたんだろ。


「それも、某合衆国の陰謀や。だいたいやな」


 俺のノートを覗き見る彼女が硬直する。

 見ると、彼女の耳が真っ赤になっていた。


 彼女の視線の先には、俺のノート。

 sockの少し上。


 性別。s○xが十個。

 羞恥。shameが十個。

 観察。sightが十個。

 そして靴下。sock。


 いや、これは。


 ついつい、椅子からはみ出ている彼女のすらっと伸びた脚を見てしまう。

 パンプスの上には、ふくらはぎを包む白い靴下。そして、丸みを帯びた生足の膝。


「バカ」


 顔中を桜海老が練り込まれたお餅のようにした彼女は、そう吐き捨てると、一目散に店から出て行った。


 どうする事も出来ない俺は、ただ立ち上がり、喫茶店の窓の外を走り彼女を見ていた。


「忘れ物ですよ」


 見ると、マスターが、彼女が座っていた椅子を指差していた。


 頷いた俺は、椅子からコートを剥ぎ取り、扉へ走る。



     *



 通りに彼女の姿は見えなかった。

 夕日に照らされた寂れた通りの真ん中、俺は彼女のコートを握ったまま肩を落とす。


 と、どこからか笑い声が聞こえる。


 この笑い声は……。


 喫茶店と横のビルの間。覗くと、隙間の向こうを向いてしゃがみこむ彼女がいた。


「ごめん。でも悪気は……」


 彼女の肩に触れようとした俺は手を止めた。

 彼女は、両手で大切そうにビデオカメラを包み、その液晶画面に見入っていた。



『なっ!』


 口からコーヒーを吹き出す俺。


 そして鼻から一筋。


 堪え切れないように、肩を揺らし、くくっと笑う彼女。

 画像が終わると、また巻き戻していく。


 俺は意を決して彼女の肩に手を置いた。

 振り返った彼女が叫ぶ。


「shiiiit!!」



     *



 なんとか誤解が解けたらしく、彼女は再び、俺の前に座っている。

 そして、キャロライン先生が作った書き取り用の単語帳をめくりめくり見ている。


「んー、さすがキャルロライン。英語はやっぱりこうでなくちゃ」


 単語帳を見ながら頷く彼女。


「その単語帳、なんか単語がかたよってるよね」


 俺は、さっきの彼女の反応にビビりながら言う。


「これでいいのよ。英語を覚えるコツはね、少々のエロと」


 彼女は単語帳から顔を上げて、俺を見つめる。


「恋をすることだから」


 彼女の笑顔に、今度は俺が顔を赤らめる役になった。


 あまりのドキドキに、俺は話題を変えてみた。


「紗耶香は正月外国にいかないの?」


 俺の質問に、キョトンとする彼女。熟したナツメグのような唇からどんな言葉が出てくるのだろう。


「家族はみんな、オーロラ見に北欧に行ってたよ」


「え、でも」


 両手でコーヒーカップを包み、彼女は恥ずかしそうに上目遣いで俺を見る。


「正月には見たい人がいたから」


 また顔を赤らめる彼女。

 いいねえ。これこそ、まさに恋人の会話。


「あのふんどし、はちまき」

「え?」


 思わず声が出る。

 彼女は両手をカップから頬に移し、トロンとした瞳で宙を見つめている。


「まさにリアクション芸の神様。あの方の番組を生で見たいから」


「shiiiit!!」

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