11 挿話 三月三十日 小山家リビング
そこに存在するだけで、回りの空間を異質な物に変えてしまうもの。
この世の中にはそういうものがある。
*
郊外の激安家具店で買ってきたわけありのカーペット。
それが、まるでペルシャ絨毯に。半年前、母親がこぼしたみそ汁のシミでさえ、精密に織り込まれた伝統模様に。
ワンピースから見える彼女の黒いタイツに包まれた細い足が一歩、一歩、その上を歩くだけで。
風呂上がりの父親がステテコ姿で寝転び、テレビを見ていたソファーらしき物。それが、まるで高級リゾートホテルのアンティークソファーに。
ただ、薄水色のワンピースを着た彼女が座るだけで。
少し言い過ぎだろうか。
リビングの窓際に立つ小山隆史は、カーテンの隙間から外を眺める。
目に入った光景は、リゾート地のそれではなく、洗濯したての彼のパンツが湿った風にそよいでいる光景だった。
慌ててカーテンを閉めた彼は、ソファーに座る彼女を眺める。
西小路紗耶香。
膝に両手を置いた彼女は、凛と姿勢を正し、正面の何も映っていない三十六インチの液晶テレビを凝視していた。
「お待たせしました〜」
カウンターキッチンから、母親がお盆を持って現れる。
母親の声に、彼女は、シルクのような黒髪を揺らして立ち上がる。その髪に結わえられた、桜色のリボンがはらりと翻る。
「いいのよ、座って、座って」
母親は、リビングテーブルの傍らに膝をつき、お盆の上からコーヒーカップと小皿に載せられたショートケーキを並べていく。
「お砂糖とミルクはどうする?」
角砂糖の入った瓶を置いた母親が、ソファーに座り直した彼女に尋ねる。
「ブラックでお願いします」
髪をかきあげた彼女は、母親に笑顔を見せた。
「あんたは三つでいいわね」
スツールに腰を下ろそうとする小山に母親が聞く。彼が頷くより早く、母親は角砂糖を三つ、トング掴みコーヒーに入れた。
インスタントコーヒー。
小山はコーヒーカップの中にただよう琥珀色の液体を見てつぶやく。
*
今にも雨が降り出しそうな鉛色の空。
足早に人が通り過ぎる駅前。小山は駅舎の軒先から空を見上げていた。三月三十日、桜前線がこの町を通過していた。
駅から降りて行く人は家族連れが多い。桜の名所である、町の中央を流れる大川の堤防を目指しているのだろう。
「こんなところでキョロキョロしてたら獲物を探している変態にしか見えないわよ」
小山は、背後から掛けられた声に振り返る。
水色のワンピースを着た紗耶香が、人の波から彼の前に現れた。
「雨、降りそうだなと思って」
彼女は、右手に四角い箱を下げ、左手を腰に当てていた。
「嘘、藤ヶ丘の方は晴れていたのに」
小山の横に駆け出した彼女は、曇天の空を見上げて舌打ちをする。
彼女は傘を持っていなかった。
その事実を確認した小山は、手を合わせて祈る。
雨が降りますように
雨が降りますように
雨が降ってほしい理由は二つ。
一つは、大川沿いの堤防を彼女と歩きたかった事。情報雑誌に桜の名所として紹介されてから、この時期になると前に進めない程の観光客が堤防の細い道に集中する。雨が降れば観光客が減り、彼女と二人で歩く事ができる。しかも……
もう一つの理由は、相合い傘。そう、これは世の男子にとっては憧れと言っても過言ではないだろう。
「またニヤついてる」
彼女のため息で小山は我にかえる。
「いや、これは別に」
小山は、しどろもどろに言い訳をしながら、片手に握る折り畳まれた傘を振る。
「言っとくけど、雨降ったら、お父様に迎えにきてもらうから」
冷たい瞳を見せた彼女は、黒髪を揺らして歩き始める。
桜色のリボンが春の風にひらめいた。
観光客の流れから外れた二人は、人も疎らな商店街を歩いていく。
バブルの頃に丘を削って作られた住宅街に入り、家の前に着いた小山は、インターホンを鳴らした。
昨日、晩御飯を食べていた小山は、両親に「明日、彼女が来るから」と打ち明けた。
漫画のようにシチューを吹き出す両親。そこから、小山家始まって以来の大掃除が始まった。
取り敢えず母親が通販で買いためた健康器具、ダンスグループの特集雑誌の束、父親が趣味で集めた釣り関係の道具を二階の一室にほうり込んだ。「この部屋は明日一日、小山家に存在しない」母親はつぶやきながら、異次元へのゲートを閉じるように、その部屋の扉を閉めた。
両親が家中を走り回る中、小山も自室において、また別の異次元へのゲートを閉めようとしていた。
年相応の雑誌。剣道部員の間で回し読みしている、健全な写真集。そしてこれも借り物の、透き通るような南国の海岸の風景を録画したDVD数枚。たまに水着の女の子が映っているけど。「この引き出しは明日一日、この世界に存在しない」つぶやいた彼は、衣裳たんすの最下段の引き出しを押し込んだ。
「いらっしゃい。どうぞ入っ…… て……」
入学式に見たとき以来の化粧を施した母親は、玄関のドアを開けて固まる。
「先日は、素晴らしいプレゼントをいただき、誠にありがとうございました」
さらりと黒髪をしたたらせ、頭を下げた彼女は玄関ドアから顔を出し、固まる母親を見て首を傾げる。
「あ、これ、家の近所で買ったケーキです」
彼女は持っていた四角い箱を母親に差し出す。
「ああ、こんな、ありがとう。さあ入って」
母親は言いながら箱を受け取り、彼女を玄関に招き入れた。
彼女の後から玄関に入る小山は、その首ねっこを母親に捕まれた。
「あんた! あんな可愛らしい娘、どうしたのよ」
母親は、あがりかまちでブーツ脱ぐ彼女を見ながら、小山の耳元でささやく。
「別になにもしてねえよ。てか、どんなの連れてくる想像してたんだよ」
小山は靴を脱ぎながらぶっきらぼうに答えた。
「この年にして、少女漫画の世界を思い出したわ」
顔を赤らめて独りごちる中年女性の手を振りほどいた小山は、脱いだ靴を彼女のブーツの横に置く。
首を傾げたような彼女のブーツが妙に印象に残った。
*
彼女が母親と台所に並び洗い物をしている隙に、小山はリビングを抜け出した。
音を立てないように廊下を歩き、階段を上る。
母親のよく響く笑い声にびくつきながらも、彼はなんとか自室にたどり着いた。
夕方から演劇部の集まりがあるという彼女は、おそらく二階に上がらないまま帰ることになるだろう。
だが、万が一がある。彼は、部屋の中を見回す。
パイプベッドの上には端をそろえて折り畳まれた布団。本棚には雑誌『週間剣道』がズラリと並ぶ。学習机の上には筆記用具が整然と置かれ、わざとらしく数学の参考書が伏せた状態で開かれている。
異次元へのゲートである引き出しはしっかりと閉じている。しかもそのゲートの前には、剣道の道具袋が最強の門番であるゴーレムの如く鎮座している。
極め付けは、壁に張り付けられたハードロック歌手のポスター。
高校生としては、まさに完璧な部屋である。これほど完璧な、まじめで、それでいてちょっとロックンロールな高校男子の部屋があるだろうか。
いや、あるまい。
「なにが『あるまい』なの?」
突然の彼女の声に小山はぎこちなく振り返る。
「へぇ〜、結構綺麗な部屋ね」
その場で固まる彼をよそに、彼女は、腰の後ろで手を組み、部屋に入る。
「じ、時間大丈夫?」
部屋の中を眺め回す彼女に彼が問い掛ける。
「帰ろうと思って呼びに来たんだけど……」
彼女はゆっくりと、そして、薄気味悪い笑みを浮かべながら振り返る。
「この部屋、なんや陰謀の臭いがしよるわ」
「い、陰謀なんて。いつもこんな感じだけど」
「ふーん」
彼女は部屋の中に視線を戻すと、迷う事なく、パイプベッドに向かって歩く。
「どやさ!」
叫びながら掛け布団をめくり上げる彼女。
が、そこには何も見当たらない。
「な、何もないだろ。そろそろ下に降りて」
「どやさ!」
彼の言葉など意にかえさない彼女は、遠慮なく敷き布団をめくりあげる。
敷き布団の下には、携帯ゲーム機と、今はまっている狩りゲーの攻略本が数冊。
掛け布団。四天王の中でも最弱であるとはいえ。こうもあっさりと。
ああ、もうやめて
彼の願い虚しく、彼女は本棚の前に立ち、揃えて並べられた『週間剣道』の一冊を手に取る。
「どやさ!」
『週間剣道』の奥のスペースには、漫画コミックが詰め込まれていた。
漫画コミックを確認した彼女は、壁に貼付けられたポスターに向かう。
「いや! もう無いって」
ポスターに手を掛けようとする彼女。彼は慌ててポスターに向かう。
「どやさ!」
虚しくペロリとめくられたハードロック歌手の下からは、最近売り出し中の美少女グループ歌手のCD購入特典ポスターが現れた。
「もう勘弁して下さい」
彼はうなだれ、チラリと門番である道具袋を見る。たのもしい四天王最強のゴーレムはどっしりと異次元へのゲートを守り続けていた。
「ほう。ここか」
彼の顔をを見ていた彼女は、おもむろに衣裳たんすに向かう。
「なあ、もう時間だって」
彼は彼女の腕を握り引っ張る。が、その細い腕からは想像出来ないほどの強い力で彼の手を振りほどき、彼女は前に進んでいく。
「ますます怪しい。この奥やな」
彼女によって、ゴーレムはいとも簡単に持ち場を離れていった。
終わった。
最悪な終わり方だ。
彼は、その場に膝をついてうなだれる。
「どや…… さ?」
引き出しを引いた彼女は中を覗き込み、言葉を飲み込んだ。
あまりの呆れっぷりに声も出せないのだろうか。
彼女は、引き出しの中を覗き見ている。
「ごめんなさい」
彼女がポツリと言う。
「えっ」
ひざまづきうなだれていた彼は顔を上げる。
そして、力無く立ち上がると、ゆらゆらと彼女の後ろに立ち、引き出しの中を見る。DVDが数本散らばっていた。
『上方お笑い大全集』
『新喜劇パート11』
『お笑い爆弾 新春特別号』
『第三回漫才選手権』
『落語の"ら"』
そういえば、
彼は思い出す。
バレンタインのお返しに悩んでいた彼は、知り合い―― ほとんどはミヤコからだが―― から参考になりそうなDVDを借りていた。何度も見ている内にこんなところに混ざってしまったのだろう。
「失礼な事してゴメンなさい」
引き出しを押し込んだ彼女は彼に向き合い、頭を下げた。
「別にいいよ」
彼は彼女の視線を避けるように首を傾げて言う。
*
家を出て歩き出した二人にポツリポツリと雨がかかる。
母親が彼女に傘を貸そうとしたが、彼女は小山に言ったように断っていた。
「傘、取りに帰ろうか」
彼は足を止めて、横を歩く彼女を見る。
彼女は小さく首を振る。
彼は自分の傘を広げた。 当たり前のように、自然な流れで彼女が身を寄せる。
春の嵐。桜散らしの風。
次第に雨がきつくなり、傘をポツポツと打ち付けはじめる。
傘を持つ小山は、そうっと彼女を見てみる。
黒髪の桜色のリボンが歩く度に優雅に揺れている。
緩やかな曲線を描く肩、ゆったりとした首元の隙間から、控えめな胸元がチラリと見えていた。
そのあまりもの肉感的な光景に、彼は思わず目を逸らす。
湿気を含んだ空気が、二人の頭上の傘の中で対流を繰り返していく。
そのあまりもの生々しい女性のにおいに、彼は傘の柄を握り直す。
堤防に向かう坂道の途中、公園に設けられた野外劇場には、雨を避ける観光客がひしめきあっていた。
一様に不機嫌な表情で恨めしそうに空を見上げる人々。
今、この辺りで雨に感謝しているのは、彼一人なのかもしれない。
彼女はどうなのだろうか。
ハナミズキの緑に囲まれた坂を上っていく。
「雨、止んだね」
彼女が悲しそうに笑った。
傘の下から手を出した彼は、頷くと、傘を閉じた。
「肩、濡れちゃったね」
彼女の言葉に、彼は自分の肩がびしょびしょに濡れていることに気付いた。
「別にいいよ、こんなの」
肩をパッと手で払った彼は坂を見上げる。
坂の向こうの分厚い雨雲が、風で押し流されてちぎれていく。
ちぎれ雲の上端の空との境が黄金色に縁取られていた。
後光のように筋を作る光が二人を照らしていく。
坂を登り切ると、桜色の空間にピンク色のカーペットが敷かれていた。
思わず駆け出す彼女。雨上がりの渇いた風が水色のワンピースを揺らす。
舞い散る無数の花びらの中、その人は、ただ優美に彼を見て笑っていた。
そこに存在するだけで、回りの空間を異質な物に変えてしまうもの。
この世の中にはそういうものがある。
― 第一章 春 完 ―




