01 年賀状
芳しいコーヒーの香り。決して主張をしない、ジャズのメロディー。
カウンターの上では、サイフォンが心地好い音を立てている。
町外れの喫茶『シャングリ・ラ』は、そこに座るだけで、まるで大人の世界に足を踏み入れたように感じる。
彼女が来るまでは。
木製の重厚なドアが勢いよく開き、ドア鈴が緊急事態を告げるように鳴り響く。
西小路紗耶香。
町を歩けば、男性はみな振り向き、女性はすべからく恥ずかしさに下を向く。 サラリと広がる黒髪はまるでビロード。生まれたときからマスカラいらずの切れ長な瞳。芯の強さを物語るシャープな眉。
イチゴグミのようなぷっくらとした赤い唇。
俗にいう、超お嬢様である。
あの口を開かなければ。
「あ、おったおった」
彼女はグルリと店内を見回し、一人しかいない客の俺をみつけた。
「あ、マスター、カフェ・ヴィエノワをお願いします」
空色の短いスカートをヒラヒラとはためかせた彼女は、髪を書き上げ、しおらしくマスターに頭を下げた。
すぐに俺の方に向きを変えると、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて、コートを掛けた椅子に座った。
コートの下は雪のように白いブラウス。
慎み深くその存在を主張する膨らみ。
コーヒーカップを持ったまま、思わず見とれてしまう。
「年賀状、ありゃなんだ?」
ぐふ。年始早々来たか。
「年賀葉書を売りたい奴の陰謀やろあれ」
彼女の顔が、俺の目の前に迫る。俺は背筋を伸ばす。
「うち一枚も書いてないのに、年賀状大量に届いてな。おとんに大目玉ですわ」
「まあ、年始の恒例行事だからね」
「それが納得いかへん。行事て、こんなん始まったん明治時代に郵便制度できてからやろが。そんなもん江戸住んでる奴がみんな年賀状書いてたら、飛脚何人おってもたらんわ」
「もともとは、平安時代の年始の挨拶回りからきてるんだろうけぐぷぷぷ」
彼女は、ぷうっと笑い、俺の唇を指で挟む。
「オマエラは貴族かって。どのつら下げてゆうとるんや」
腕を組み、背をのけ反らせて俺を見下ろす彼女の前に、マスターがコーヒーカップを静かに置く。
「だいたいやな」
マスターがカウンターに入ったのを横目で確認した彼女は、また顔を俺に近づけた。
「書いとる内容はなんやねん。『賀正』『賀正』『賀正』おどれらはがちょうか」
「謹賀新年とか、あけましておめでとうとか、いろいろあると思うけど……。だいたいがちょうは」
俺の言葉を遮るように、彼女はコーヒーを口に含み、唇にクリームを付けたまま、分かりやすいため息をつく。
「猫も杓子もネットのご時世に、手紙て。パソコン業界、プリンター業界の陰謀にまんまとひっかかってるだけや」
「まあ、確かにメールで十分な気はするよね」
「極めつけは写真や。写真業界も必死やな」
「プリンターが進歩して大変みたいだけどね」
コーヒーカップを口に付ける彼女。上品な振る舞いに心が奪われる。
「今年の年賀状の発行枚数どのくらいか知ってるか」
俺は首を振る。
「約三十三億枚や」
彼女は、両手の指を三本立てる。触れれば折れてしまいそうな華奢な指。
しかし、その数字には正直驚く。
「一億人ちょっとの国民だから、一人三十枚くらいか」
そう考えると、妥当な気もするが。
「おまえは、小学生の算数か? 産まれたての赤ちゃんまで『あけましておめでとうでちゅ』ってか」
俺を馬鹿にするように口をすぼめる彼女。くそかわいい。
「国家的な陰謀を感じるんや」
彼女は、コーヒーカップを口に運び、腕を組む。
辺りを伺うように視線を送った彼女は、俺に顔を近づけるよう指示する。
急接近する彼女の小さな顔。ほのかに香る……
「いててて」
思いっきり耳を引っ張られた。
「ええか、年賀状に記載されとるのは、宛先と差出人の住所、家族構成、家族の顔写真。かなり重要な個人情報や」
彼女は急に小声になり、口元を隠すように、頬に手を沿えている。
「郵便会社抱きこんで、うちらを監視してるんちゃうか」
「だれがやねん」
俺は思わず彼女の口癖を真似てしまった。
「そりゃ、国家的なやな」
ボソボソと言う彼女。
形勢逆転のチャンス!
「そんなことより、紗耶香から年賀状貰えなかったの、ちょっとショックだったな」
俺の言葉に、ビクンと反応した彼女は、顔を真っ赤にして、膝の上に置いたショルダーバッグを開く。
「陰謀に巻き込まれたくなかったから」
テーブルの上に、ピンク色のカードを置いた彼女は、足を組んで横を向く。
ピンク色のカードには俺の名前が書いてあった。
取り上げて裏返した俺は、息を飲み込んだ。
『あけましておめでとう、今年もよろしくお願いします』
色とりどりのペンで書かれた装飾文字。
様々な大きさのハートの中、一番大きなハートの中には俺と彼女の似顔絵。
俺は羊の着ぐるみを着せられているらしい。
「あ、ありがとう。凄く嬉しい」
このカードを作るのにどの位の時間が掛かったのだろう。
「あんたのくれた年賀状も」
彼女は、ブラウスのポケットから、ビニールで保護された葉書をちらりと見せてくれた。
俺の年賀状だ……。父親のあまり物。既に印刷されていた『賀正』の文字。羊の絵。ゲームをしながらボールペンでなぐり書きした『今年もよろしく』。
「ほんとに、ありがとう」
俺は言いながら、ピンク色のカードを胸に抱いた。
*
コーヒーを飲み終えた彼女は、立ち上がり、椅子に掛けていたコートを羽織った。
次の予定は初詣。
マスターにコーヒー代を払い、喫茶店を出た彼女を追い掛ける。
「初詣なんだけどさ」
ここからなら、駅の側の神社が近い。が、人のあまりいない俺の家の近所の神社もいいかもしれない。
「初詣……」
前を歩いていた彼女が立ち止まる。
「初詣、ありゃなんだ?」
今年もいい年でありますように。