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美魁月乃

 

 私が彼を初めて声を掛けたのは、10月も半ばの頃だった。

 閉鎖されている筈の屋上へと向かう階段の踊り場で、彼は膝を抱えて嗚咽を漏らしていたのだ。

 上半身は裸、ベルトは外され、ファスナーも全開にされ、彼はズボンを辛うじて膝に引っ掛けているような状態で、膝を抱えて泣いていた。嗚咽混じりに聞こえて来るのは愚痴のような弱音のような、小さくか細いSOS。


 なんで俺が。

 関係ないのに。

 もういやだ。

 こんなのやめたい。

 俺ばっかりが。

 どうして。

 なんで。


 不思議な事に私は彼が“救済”を言葉にして求めるまで、自ら行動する気が起きなかった。


 あまりにも酷い状態の彼に手を差し伸べる事は簡単だ。けれども、手を差し伸べるには彼の意思が必須であり、私が強引に動くのと彼が自ら望むのとでは大きな違いがあると思ったからだ。


 私は音を立てず、声を掛けず、その場でじっと待った。


 息を殺し、気配を殺し――そんな素晴らしい能力が私に備わっている訳ではなかったが、とりあえず気配を殺すという事を念じて必死にやってみた――とにかく待った。


 10分やそこらだろうか。それくらいで、彼は口にした。


「だれか」


 その続きを。

 早く、その続きを。


 私は別に嗜虐趣味ではないけれど、どうしても彼に言わせたかった。


 音を立てないように気を付けて、数十年前に塗られたであろう白ペンキの壁に背中を預ける。


「だれでもいい」


 ――まだ、彼は口にしない。


「おねがい」


 ぶつぶつと、泣き声混じりに、彼は呼吸を浅くして


「たすけて」


 ――やっと言った。


 スリッパがやる気なく、ぱすんと音を発した。

 彼は大袈裟なほど肩を大きく揺らし、ぐちゃぐちゃになった泣き顔のまま恐る恐る顔を上げた。


「助けてあげようか」


 これがファーストコンタクト。

 双央学園中等部三年二組の私、美魁月乃(みがしらつきの)と三年五組の睦都太陽(むつたいよう)の出会いだった。






 睦都太陽は俗世で言う草食系男子のようなものだ。

 へらへらと笑っていて、いつも弱気で頼りなそうな、なよっとした正当ヘタレ。彼の中には男気というものがなく、少女が夢見る物語にありがちな“いざという時に格好良い”などという、都合の良い要素もない。本当に意気地なしでうじうじとしていて、つまりは見ていて苛立つくらいの草食系男子である。


「誰に襲われたの?」


 そう問う私に睦都太陽は、怯えを明確に宿した瞳を向けつつふるふると首を振った。


「言ったら、また、ひどいめに合わされるから……」


 真実だ。

 それはこの世の理にも等しい。


 誰かに助けを求めた時、必ずしも助かる訳ではないのはこの世の常で常識でもある。世の中に偽善者は溢れているが善人は溢れていない。誰かに助けを求めるのであれば、何かを捨てる覚悟をしなければならない。これまでの日常を、今まで築き上げた人間関係を、或いは今まで培ってきた自分自身を。


 睦都太陽の主張は正しい。

 恐らく彼は他人に助けを求める事で、酷い目に合わされるのだろう。

 彼を襲った人間は彼を恨むに違いない。それがどんなに可笑しい事かも気付かないで、気弱な彼に八当たりをするだろう。生意気だと罵倒するだろう。彼が他人に縋った事に憤怒して激高するだろう。


「そう。じゃあ一生そのままで良いのね」


 確認である。

 彼がそう言うのならば、彼は一生この先もこのままで良いのだろう。変える気は無いと言うことだろう。ならば私が口を出したのは彼にとって「余計なお世話」にしかならない。


 けれども彼は丸く大きな、少年には似つかわしくない愛らしい目を見開いて驚愕を顕にした。


「い、一生!?一生、このまま……?」


 無駄な問い掛けだ。

 彼は環境が変わろうと、状況が変わろうと、必ず今回と同じ目に合うことがまだ理解出来ていないらしい。


 仕方ない、忠告を一つ。


「そうよ。あなたに手を差し伸べてくれる天使のような救済者なんて、後にも先にも私だけよ。それ以外には現れない。――これは忠告よ。この先、一生訪れないであろう最初で最後の救いのチャンスをあなたは無下にするというのね?」

「そんな極端な……っ」


 彼は勢い良くそのままの状態で立ち上がった。


 重力によってズボンは足元に下がる。

 下半身が露出していた。

 少年には似つかわしくない、可愛くないものだった。

 彼の顔と下半身の雰囲気が一致していない事に私は若干の苛立ちを覚える。


 それは何故か。

 愚問である。


 彼の下半身が意外と凛々しかった事にどうして苛立ちを感じられずにいられようか。


 彼はなよっとしていて、ヘタレで優柔不断な男なのだ。

 それ意外の要素はない。

 彼の下半身を見るまで、私はそう思っていたからだ。


 女が意外性に惹かれる気持ちは分からなくもないが、このパターンをギャップ萌えの部類へ入れる事には激しい疑問を抱く。


「……とりあえず、そのズボンを上げたらどう?粗末だなんて酷い事は言わないけれど、まだ私には早いと思うの。年齢を考えて。私たち中学生なのよ?」


 彼と私との間に起こったこの事件は彼のモラルの欠如が原因だ。私はこんな事件を望んではいない。変態なのは彼だけだ。


「ごめん……ヘンなもの、見せて」


 慌ててズボンを引き上げて、正真正銘の半裸となった彼は割と筋肉のついているけしからん腹筋を晒しながら、けれども顔は怯えたままに私を見つめ返す。


「助けて欲しいけど……俺がなんとかしなきゃだから」


 彼は矛盾が大好きなようだ。

 先ほどは誰でもいいから助けて欲しいと呟いていた癖に、今度は自分で何とかすると言い出した。

 この短時間で。

 恐ろしい程に矛盾している。

 なんてことだ。

 優柔不断より最低だ。男に二言はないという言葉ほど、彼に似合わないものはないだろう。


「なんとかならないからこうしてこんな場所でこんな状況で、子供みたいに泣いていたんじゃないの?」


 追い詰めている訳ではない。

 私はただ、彼に聞きたいだけだ。

 どうして欲しいのか、本当は何を期待しているのか。


「……でも」


 躊躇う彼に苛立ちは増す。

 彼を襲った人間は、こんな気持ちを感じていたのだろうか。


 しかし、私はそんな奴とは違う。

 彼がどれだけ人を苛立たせようとも、物理的に暴力を奮ったりはしない。

 私は純粋無垢であり、全国の女子中学生を代表しても良いほどの優等生なのだ。


「もう一度言うわ。私はあなたを助けてあげる。助けて欲しいの?欲しくないの?どちらかはっきりしてくれる?」


 繰り返す。

 私は優等生で彼に物理的な暴力を奮うつもりはない。

 彼はもごもごと口の中で言葉をつぶやき、やっと口に出した。


「そりゃ、できることなら助けて欲しいけど……」


 決まりだ。

 彼の解答は「助けて欲しい」

 私の手を彼は取ったのだ。

 ならば――助けてやることもやぶさかでない。


「美魁月乃、私の名前よ」

「……睦都太陽」

「知ってる。そもそも、知っているから声を掛けたの」


 いくら校則がゆるいとは言え、髪をオリーブアッシュにしている生徒など全生徒を合わせてもこの男しかいない。


 灰がかった浅い緑の実。

 薄汚れたオリーブの実。

 そんな髪を持つ、不可思議な男に興味を抱いたのだ。


 視界にチラつく彼はいつでも、誰かに怯え自分を隠していた。本性はどこだと探ったのにも関わらず、その一切を見せなかった。

 そうしてたどり着いたのが、これが“彼”だと言う結論。

 人に怯えて機嫌を窺い、誰にも嫌われたくないとおどおどしているのが睦都太陽と言う男。


 小心者なのだろう。

 優柔不断なのだろう。

 それでも彼は嘆き悲しみ、自分が悲劇のヒーローだと主張してやまないのだ。


 反吐が出る。

 自らその状況に甘んじている癖に、ちょっと度が行き過ぎるとあっさり自分を悲劇の主人公へ落とす彼の浅ましさに。


「助けてあげる。その代わり――私の奴隷になりなさい。今まで何人もの主人を持っていたのだから、それが一人に絞られる方がよっぽど楽でしょう?」



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