おかえりなさい、
暑くうだるような毎日。
五月蝿い蝉。
クーラーで体調は万全とはいかないけれど、なければもっと苦しい。
こうなったらふて寝してやる、とも思ったけれど何だか眠れやしない。
髪が額に張り付き、首に張り付き、密閉された空間のようになった頭は、すでに蒸し風呂状態。
絶対頭皮に悪いと思う。
汗だくで人前に出るのも恥ずかしいのに、容赦なく水分と体力は奪われ、踏み出す足は鉄のよう。
・・・・・・だから夏って嫌なんだ!
私は無性に叫びたくなった。
タオルでごしごし顔を擦る。
ノーメイクで、しているのといえば申し訳程度に塗った日焼け止めと薄い色のリップくらいのもの。
こんな日にメイクなんかしていられない。
皮膚呼吸できなくて、いずれ窒息しそう。
ばっちりメイクしている人は、尊敬するよ。
ため息をついたのと同時に高い位置で結んだ髪の毛がさらりと首筋に落ちる。
その僅かな感触だけでも苛々してくる。
暑さに弱い私は、すでに溶けそうだった。
仕事が終ると買い物を済ませ、庭の手入れを済ませ、食事を済ませ、ちょっと掃除をしてからゆっくり一休み。
けれど夏に毛糸なんて触りたくもないし、読みたい本はとうに一読しているし、今日は再読する気にはなれずにいた。
仕方無しに音楽をかけながらうつらうつらしていると、そういえば外に干していた洗濯物がそのままだったと思い出す。
カチッと音がして鍵を開け、戸を引くと一気に風が流れ込んできた。
暖かいようで、夜の涼しさが合わさった、けれど冬のようにはっきりした冷たさは包含していない、温めの風。
日中に比べたら、涙が出てきそうなほどに涼しかった。
しばらくぼうっとしながら、夜風を堪能すると、慌てて洗濯物を取り込む。
湿り気はしばらくすれば取れるだろう。
籠に入れて、玄関に置いてしまうと、やっぱりやることがなくなって、ふと庭の方を見やった。
植木が並ぶその中で、ちょっと小さめの木がある。
小さい実が生っているその木の名前は、ブルーベリー。
私と私の恋人が以前植えたものだった。
僅かな実しかつけていなかったが、年々ちょっとずつ増えていた。
実はそれぞれの枝に点在していて、熟す時期も違うから、数えてはいない。
でも今年は二十くらいは実をつけているんじゃないだろうか。
それ以上かもしれない。
地面を見ると幾つか零れた実があった。
熟しきっているのかよく分からないまま、地面に落ちているというのはよくあることなので、腐っていない事を確認して、洗って食べてみる。
酸っぱい。
これで何で落ちてしまったのだろう。疑問だ。
だが、なんだか優しい味がした。
笑みを零しながら家に入ると、今夜は早く寝ることにした。
買ってきた本は既に読んでしまった。
どうも私は本を読むのが早いらしく(それで内容を完璧に頭に入れていたら凄いのだろうが)、すぐに時間を持て余してしまう。
ならまたブルーベリーの様子を見てみようかと、外に出た。
今日も涼しげな風が吹く。
昨日よりは強い感じだった。
ついでにと、郵便受けを覗くと一通の手紙。
帰ってきたときに見たはずなのに、いつの間に入っていたのだろう。
仕事で遠く離れている恋人からだった。
時代に乗り遅れている私は携帯を持っていない。
パソコンは持っているが、メールボックスを開く事がまずない。
メールを送ることはなく、連絡用には電話で事足りる。
そんなわけで、私の恋人との連絡手段は電話か手紙だった。
電話も疲れていることが多いので、どちらともなくかけることは少なくなり、専ら手紙でやり取りをしている。
手紙には、もうすぐブルーベリーがなる頃だ、と書いてあった。
相変わらず食べ物の事になると抜群の記憶力を発揮する人だ。
あなたはブルーベリーが嫌いだといっていたけれど、生を食べてみたらきっと気に入りますよと、半ば無理やり買ってきて植えたのがこの木だった。
同じような理由で、我が家の庭にはベリーが数種類植えられている。
私よりも年の若い恋人は、食べてみてくださいね、と付け足すのを忘れていなかった。
今度は生っている実を取って食べてみた。酸っぱい。
もう一つ食べてみた。これはちょっとだけ甘い。
プチ、とした感触が面白かった。
ヨーグルトに入っているような紫が、実の中にまで浸透しているわけじゃなく、ぐちゃぐちゃに柔らかいわけでもない。
これなら、好きになれそうだった。
結局恋人の言うとおりになってしまうのは、どこか釈然としない気持ちだったが。
手紙の続きには僕も食べたい、と書いてあった。
あなたに食べさせてもらいたいなんて書いてきた日には、手紙を破ろうかとも思うが、そんな恥ずかしい事を書く人ではないので、ひとまず安心する。
どうにも恋人の甘い会話、というのが私は苦手で、そんな私を困ったように笑いながら見守る恋人は、私よりも時に年上のようだった。
もう一つだけ、実を口に入れてみる。
今度は甘かった。
砂糖のように甘くはないけれど、甘味に慣れてしまった現代人の舌には、とても新鮮だった。
ちょっとだけ含まれる酸っぱさが、甘さを引き立たせ、その味はすぐに消えてしまう。
これはかなり癖になってしまいそうだ、と思ったが、恋人はこうなる事を予想していたのだろうか。
食べるのをやめて、庭に埋められている大きな石に腰掛ける。
部屋から漏れる明かりを通して手紙を読みすすめると、もう少しでこちらへ帰れそうだと書いてあった。
帰ったら、結婚しましょうか。
今度温泉にでも行きましょうか、くらいのテンションで書かれていた言葉は、私の頭にはすぐに浸透しなかった。
手紙で言うな。
電話でも、帰ってきてからでもいいから、直接言え。
悪びれもせずに、早く伝えたかったから、と笑う恋人の顔が目に浮かぶ。
忙しいのも、今が大事な時期なのも分かるけど。
全く。
絶対怒れないのを知っているんだから、たちが悪い。
帰ってくるときに、また新しい苗を買ってきます。
今度は木苺なんてどうですか。
私が、庭に何か植えたいと言った後、恋人が家に来る時に何かの苗を手土産に持ってくるようになったけれど、ベリー類はあまり好きではない、と知った時から、苺の苗を買ってくるのが習慣になった。
嫌がらせか、と聞いた事があるけれど、その逆です、好きになってもらいたいからですよ、と恋人は笑い、私にとっては嫌がらせに近いものがあると返したのは、容易に思い出せる。
その最初の苗が、このブルーベリーだ。
毎年、実がなります。
俺はあなたの側を離れる事が多いから、これを見て、思い出してください。
俺のこと、忘れないでくださいね。
そう言われた時には、少なからず驚いた。
独占欲なんてものを露にするタイプでもなく、寂しがり屋だという感じはしなかった。
かといって、人を拒絶しているわけでもなく、誰かと喧嘩をしている事も見たことがない。
しかし上手く人の間をすり抜けていくように見えて、人間関係というものには希薄かと思っていたのに。
忘れないでください、と言った恋人の、不安げに揺れていた瞳がとても印象的だった。
まるで捨てられるのではないかと脅えている子犬のようだった。
その前にこれを食べられるかどうか不安なんだが、と返すと、じゃあ見るだけでいいですから、と恋人はようやく笑った。
なされる会話のピントが噛み合っていないのか、私が惚けているのか知らないが、私はよく物忘れをする事が多い。
けれど、忘れるわけないだろ、と茶化して言ったものだが。
後になって思えば、恋人は保証してほしかったのかもしれない。
今になって気づくとは、私もどうかしている。
覚えているよ。
だから、早く帰ってきて。
花火でも見ながら、一緒に食べよう。
またブルーベリーを口に含むと、恋人が帰ってきたときに一緒に食べてから、お帰りを言おうと決める。
その時頭上でひとつ。
星が光って消えた。




