第八章 『スレチガイ交差点(スクランブル)』
「おい! ホントにこの道であってるんだろうな!?」
『この期に及んで儂の鼻を疑うつもりかっ!』
「だってオマエ、あの時は大きくなって普通の狼みたいだったからなんとなくその場の流れて信じたけど、よくよく考えるとナイわっ。どうやってぼくの右手動かしてんだよ、どうやって匂い嗅いでんだよ!?」
『気合だ気合、心の嗅覚を研ぎ澄ますのだ!』
「はぁ~、いるよななんでも心の〇〇で見ろとか、考えるな感じろだとか、子供にたいして自分じゃ絶対できないようなこと言う大人ってさ!」
『儂は神だ! 大人も子供もあるか! 貴様は速く走ることだけ考えろ!』
「寄生してるくせにエラそうなこと言ってるなよ! そんなに文句があるなら自分の脚で走ってみろ、まっ、どうせ無理だろうけどな!」
『ええい、黙れ黙れ! 今は儚を助けることだけに集中しろ!』
「うっせ、駄犬、バーカ、バーカ」
犬の鼻に頼っているいるせいか、さっきから細い路地を行ったり来たり、右に曲がっては左に曲がるの繰り返しだ。まったくの出鱈目。実際には何キロも走っているはずが、目標に近付いている気がしない。
ハッカの息が上がる。小学生の体力の限界が迫っていた。
『彼処だ、彼処に出ればもう眼前だ、気張れよ麦村ハッカ!』
路地の先に明かりが広がる。
「っつぅ────う?」
明かりの先に待っていたのは、無数の灯り。街の灯りが待っていた。路地裏から出た先にあったのは繁華街の中心、いつもハッカがいたスクランブル交差点前だった。
「おい……こんだけ走ってなんでこんなとこに出るんだよ」
『そんなのは儂の埒外だ。儂は実際にこの道を通ってあの伴天連寺に着いたのだ、故に責などあってたまるか』
ったく、あの酔っ払いは。
ハッカの脳裡に飄々とした黒服姿の女性が浮かぶ。
「で、肝心のアイツはどこにいるんだ」
あたりを見わたすも、儚らしい影はうかがえない。
「おい、いないぞ真神。ホントにここにいるのか」
『知らん』
「はぁ!? だってオマ──」
『儂はあくまで儂を運んだ者の匂いを辿ったに過ぎん。儂にはな、もう彼奴の匂いがわからんのだ』
「それって」
神隠しって、ことなのか。
真神の鼻ですら見つからない《アルジャーノン》の儚を、どうやって。
するとかちゃりと、胸のあたりで硬質な音が鳴った。
ハッカは息を止める。そうしてゆっくりとたしかめるながら首からぶらさがる革紐を手繰る。その先にあるのは真鍮の螺子巻き。ハッカは今気づいた、螺子巻きには小さく〝Fulcanelli〟と筆記綴り(スペル)が刻まれていた。
おもむろに、ハッカは首から革紐を外す。
『麦村ハッカ?』
集中する、聞きたい音以外はすべて耳には届かない。
革紐の先をつまみ螺子巻きをぶらさげる。そのまま眼を閉じて螺子巻きの先端に意識を尖らせる。傍目から見ればそれは丁度ダウジングのようであったが、ハッカはむしろ振り子を思い描いた。事実、螺子巻きはなんら力など加えたはずないのに、ゆらゆらと揺れ始め最終的には細長い楕円を描きながら反時計周りに回転を始める。
それはまさに、地球の自転を示す現象〝フーコーの振り子〟そのものの動きだった。しかしそれは、紐の長さは最低でも一〇メートルを要し、また錘は重い球体でなければ決して成立しない代物だ。
地球の重力と反時計回りの自転運動とがもたらすため、宇宙から見れば回転しているのは振り子ではなく地球に見える。謂わば地球の中心、確信の祭壇を呈していた。
鳥の啼き声が、響いた。
その瞬間、暗く閉じていた目蓋の裏に光が灯った。ハッカは眼を開ける。光明が示した場所はスクランブル交差点、その丁度真ん中だった。歩道信号が、一斉に赤から青へと移り変わる。まだ夜も若い。人は大勢いた。その中を、ハッカは一歩一歩確かな足取りで歩き出す。そんな少年に、人々は誰も近づかなかった。この密集率の高い中で、ハッカを中心とした周囲二メートルからすっぽり丸々人が消えてしまった。
ハッカはスクランブル交差点の中心の一歩手前で、止まった。
何秒も、何十秒も、動くことなく立ち尽くした。やがて、人垣は霧散し信号は赤になる。
四五秒間の静寂が──、始まる。
スクランブル交差点に残されたのは少年ただ一人。
凛と、玲瓏な鈴の音が響きわたると、ハッカの眼前に紅い鳥居が現れる。
ハッカはその門を躊躇なくくぐった。すると中に入った先にはホワイトノイズが広がっていた。背景の色という色が失われた、灰色の世界だった。
ただ、少年とその傍らに控えた狼だけは、本来の色を持っていた。
真神はマペットの状態から再び四足巨躯の狼へと変態を遂げていた。そして二人の視線の先には、うずくまり膝に顔を埋めた少女の孤影があった。
ハッカ、真神、そして儚。三者に動きはない。誰も音を立てず、ただ黙して息を殺していた。そんな中で耳に入るのはパチパチ弾けるノイズの煩わしさばかり。
『儚……』真神が、一歩二歩と警戒しながら儚に歩み寄る。『儚!』
堪らず狼は駆け出した。
その瞬間、ハッカは何かを察知する。
「待て真神!」
ハッカが制止をかけたと同時に、まわりを黒い人影が囲っていた。人影は手をつなぎ、円形になってハッカたちの周囲を回りだす。
影たちから、文字通り子供の声で童歌を歌い出す。
すると儚の背後の影から青いテレビ、《カイロスの檻》が出現した。
画面はまだ砂嵐の状態だった。
かごめかごめ
鏡よ鏡
籠の中の鳥は
鏡の中の私は
いついつ 出やる
もう一人の自分に逢えるのでしょうか?
夜明けの晩に
丑三つ時夜に
鶴と亀が滑った
私はすべてを失います
後ろの正面だあれ?
私のうしろで私の背中を見つめているのは────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────いったいどこのどなたでしょう?
すくりと、少女は立ち上がった。頭だけ俯いて、顔は陰になり表情はまったくうかがい知れない。右手を真っ直ぐ横へとのばす。その指の先には紅く煌めく飴玉が摘まれていた。彼女はそれをやおら口へと近づけ、カリっと、小気味いい音を響かせて、かじった。
すると儚の長い黒髪は一瞬にして輝く純白に、瞳は妖しく碧に染まる。
そうして、それは顕現れた。
「は──ぁ」
『なんと……これは!』
少年と狼は息を呑んだ。
眼の前にあったもの、それは──真っ黒い、闇を凝縮させた巨大な四足の獣。
丸太よりも太い脚。身体を覆うのは針葉樹の葉のように硬く太い毛。文字通り人すら一呑みにしてしまうほどの、大きく裂けた犬口。そこからは粘度の高い唾液が垂れ、呼気が湯気となって昇っている。爛々と紅く光る眼球は、瞠目してなおハッカと真神を睥睨していた。
そこにいたのは巨大で強大な、一匹の狼。その巨躯は熊も牛も象すらも凌駕し、頭頂部は車両信号機とほぼ同じ高さに位置していた。
かつて飛鳥の地、真神原にはそれは大きな山犬──狼がいたと謂う。その狼は付近の集落を襲い、幾人もの人間をかじり、呑み込み、食べ、咀嚼し、腹を満たした。
かくして妖怪・荒御魂・荒神だった狼は人々に祀り上げられ〝大神〟となった。
少年の傍らにいる獣なぞ、単なる矮小な畜生にまで見劣りしてしまうほどの、果てしない暴力性を記号化させる存在だった。
ザ、ザザザ……。
儚の背後にある《カイロスの檻》のノイズが薄らいでいく。すると、
『やあ、魂消たかい? 魂消ただろ。キミのトモダチ、カレルレンがなんでも教えてあげるよ?』
映るのは、縞模様の服を着たネズミ男。
『キミらが今いるこの空間は《後天性奇形大脳皮質》と言ってね、謂わばアルジャーノンのイメージの中、頭の中にいるのと同じなんだ。だから今、その子の頭の中には脳みそがないんだ。ここならすべての願いが叶う、自分が生み出すありとあらゆる安心と快楽を享受し、耽溺できるんだ。
サイコーだとは思わないかい?
む・ぎ・む・ら──────ハッカくん?』
カレルレンの言下、ハッカの頭上に巨大な狼──大神の前足が振り下ろされた。
『麦村ハッカ!』
隣にいた真神がハッカのシャツの裾に噛みつき、そのまま持ち上げて移動し躱す。
振り下ろされたアスファルトには大きな穴が穿たれた。
「なんなんだよ、あれは! なんで儚からあんな化物が出てくるんだ!」
『気になるかい、この子のことが』
そう言いながらも、大神の攻撃はやむことはなく、同じように前足が落ちてきた。
『くっ、麦村ハッカ、儂の背に乗れ!』
銜えながらよけるのに無理がある。真神は首を振りハッカを背中へ俯せ乗せた。
『それはね、後天性寄生新生児と謂ってね、ああキミらは〝脳の中の小人〟という話を知ってるかい? 少し前にカナダにそれはそれは頭のよい脳医学者さんがいてね、あっ、でも天才のボクには敵わなかったけどね? 彼は脳に電極当てたり脳波を測ったりしてね、脳のどの部分が身体のどの部位に連動してるかを調べたんだ。それを画にするとね、おおよそ普通の人間とは似ても似つかない妙ちきりんな生き物ができあがるんだ。それが脳の中の小人。
じゃあ、だよ? 頭の中が自分を特別と認識することだけに変異したアルジャーノンは、その子専用の小人が生まれるって思わないかい、なぁ思うだろぅ?』
『ぬうぅぅ』
大神の動きはカレルレンのおどけた口調と合わせて弄ぶように緩慢だった。が、躱してもアスファルトの破片が飛び散り、真神の身体に食い込んでいく。
『だからね、こいつはこの子──三千歳儚の心の中の自己そのままを投影しているんだよ。
後天性奇形大脳皮質は子宮で、アルジャーノンと後天性寄生新生児その中でしか生きることのできない謂わば未熟児だ。けどね、外の世界での最弱は、この閉じた世界において最強ってことなんだ。自らを孕み、自らを産み落とす神産み。永遠の、入口も出口もない閉じた輪の中にいるのさ、つまりは永遠の連環──〝永劫回帰〟さ。
彼女は孤独と拒絶を望んでいる。そりゃそうさ、ここは彼女だけの庭にして胎内そのもの、キミらは異物だ。
他者を否定することで弱く脆弱な自己を肯定して守るというのは、なにも人間の心に限ったことじゃない。世界そのものがそういう風にできてるんだ。自分が望む自分。自らを観測定義し、確定する。その行為の繰り返し、決して終わることのないアップデート作業。路傍に転がる石の一粒でさえ、自己を自己として認識し定義している。その小さなものの積み重ねで世は成り立っている、実数領域も虚数領域も、下位世界も上位世界も。
しかし皆が皆、自分が自分だけの特別であろうとする限り、決して路傍の石が光り輝くことはない。それはすべてが特別な世界なぞありえないからだ、あってはいけないからだ。
だからボクは子供に手を貸すんだ。彼らはそうでなければ生きていけないから────どっかのバカが、道化をやらなきゃいけないんだ』
『ぐううぅぅぅ!!』
「たぁ──!」
拳大の一際大きな飛礫が、真神の腹を穿った。体勢を崩した真神はハッカごと地面に崩れ落ちた。
『悪いがボクはアルジャーノンの味方だ。邪魔をするキミらには消えてもらわなくちゃならない。けどこれも因果だ、ボクも受け入れるからキミらもどうか…………甘受してくれ』
そう、言葉が切られると同時に、二人の頭上に影ができた。大神の巨大な足の裏があった。今度は速い、地面に突っ伏した今の状態では、よける暇など、万に一つ存在しなかった。
「さあ、祈りな」
囁く声がした。と同時に、一陣の黒い旋風が、背後から吹き荒ぶ。白刃が閃き、ハッカの頭上近くまできていた大神の足を薙ぎ払った。
風はカタチを持っていた、黒く長い四肢を。鐵の蛇刀を思わせる御下げ髪が揺れる。その先には婦人物の金と銀の腕輪がはまっていた。
この後ろ姿、立ち姿、そして何よりここぞという時に現れる歌舞伎の演目じみた外連。こんなことをする人物を、ハッカは一人しか知らない。
「社長!」
「あいよ」
そう応えて、唐鍔牧師はハッカの頭に自身の中折れ(ソフト)帽を被せた。
「お祈りは済んだかい麦坊主」
彼女は男物の大きな着物の羽織を肩にかけていた。橙色の肌をした三つ眼の鬼が大きく描かれた渡世人や役者が着るような傾奇な羽織だ。
さらに手には一振りの打刀が握られていた。長さにして二尺四寸五分──約七四センチの白鞘拵の居合刀だ。
「麦ちゃん、大丈夫?」
永久が倒れていたハッカを抱え起こした。その傍らには黒いアタッシュケースがあった。
「どうしたの……二人とも」
「何、莫迦が押っ取り刀でやってきた──それだけの話だ。それよりも、お前はあれをどうしたいと思っているんだ?」
唐鍔牧師が柄の先を大神の向こう、白髪の少女を差した。
「え──」
すると大神が先程と同じように前足を振り下ろし唐鍔牧師へ襲ってくる。
「ふん」
唐鍔牧師は柔らかく、それこそ卵を握るように柄に右手を添えた。
大神の前足が頭上のすぐそこまで迫った。もはやこの距離では近過ぎて抜刀できない。が、居合をするように鞘で刃を走らせ、当てた。刃ではなく、柄の頭を、だ。柄当ての衝撃で抜刀に適した距離が生まれると、唐鍔牧師は素早く納刀し抜打で頭上に白刃で弧を描いた。
大神は怯み、大きく二歩、その場から後退した。
「ちっ、硬いな。こいつを出すのは久しぶりだったからな~、白鞘じゃ滑るし柔らかいしこりゃすぐ壊れるな~、帰ったら肥後拵に換えるか」
しげしげと刀を眺めながら、独り言を呟く。
「で、どうなんだ麦村」彼女はハッカの方へ向き直る。「わたしらはお前を助けにきた。そして目的の半分は達成した。このまま確立共鳴場から脱出すればいいだけだからな。だが、それはあくまでわたしたちの都合だ、お前のじゃない」
「…………」
ハッカは押し黙った。
「じゃあお前はどうなんだ、麦村ハッカ。お前はどうしてここにいる」
「……助けたかった」
「誰を、だ?」
「あいつを」
ハッカは視線を外した。いや移した、少女に、三千歳儚に。
「あいつは何だ」
「…………っ」
ハッカは視線を逸らし、下を向いた。
「もう一度訊く、あいつは何だ、お前の何だ」
「…………わかりません」
「お前はよくわからん奴のことを助けようとしていたのか?」
「はい」
「たった一人──」唐鍔牧師はチラリと横目で真神を見た。「いや一人と一匹で、か?」
「はい」
「どうだ、できそうか?」
「……ムリです」
「そうか、ならどうする、逃げるか?」
唐鍔牧師は鼻を鳴らして笑った。
「イヤです!」
即答だった。そして強い眼差しだった。射抜くような視線が、唐鍔牧師の双眸を捉えた。
「そうか、だったら自分のお口で頼んでみな」
「はい、ぼくだけの力じゃムリです。力を貸してください!」
「その言葉を待っていた!」
そう放つと同時に、唐鍔牧師は再び抜打を放った。火の位、上段から下段へ神速の気合で振り下ろされたそれは、刀身から衝撃波を飛ばした。
「いい返事だ! だがな、甘えた分だけ男になれ! お前にはその義務と責任がある!
いいか、タフに生きろ! 見せかけだけの優しさもういらない!」
「はい!」
「いくぞ永久、殿戦だ!」
進者、極楽往生! 退者、無間地獄!
「ノブレス・オブリージュ──どもまでも、あなたと共に」
永久が姿勢を低くして唐鍔牧師の矢面に立った。
「起動きろ──〝伽藍堂〟」
それは囁く声だった。けれど低く唸るようで、柔和な永久には似つかわしくない冷厳な声音でもあった。
持っていたアタッシュケースに幾つもの亀裂が入り、瞬間、それが重機関砲へと変形わった。アタッシュケース下の四隅の角にあった金具がシザーアンカーとなってアスファルトに突き刺さる。
「いい子だ。〝慣性相殺機関〟起動」
そうして放火を吐き出した。初速約一〇〇〇m/s。秒間七〇発の徹甲弾を放つ化物だ。
弾丸はすべて大神へ着弾した。が、それらは目立った効果は上げられず、大神の硬い表皮と体毛に当たると同時に横へ逸れて流れていく。
「ダメだ。次々動け、この凡骨が」
そう言うと、再びアタッシュケースがガチャガチャと蠢き出し、今度は刃渡り一メートルのチェーンソーになった。
大神は前足の爪で迎え撃つ。接触すると、火花があたりに散った。
功刀永久が伽藍堂と呼んだ鞄。それは数秘魔術師のソロモン=ヒルベルトが生涯たった七二器しか創造らなかった空間兵器だ。ケースの中は内積が存在しない空間が広がっており、この中に棲みつく仮定存在──〝ヒルベルトの悪魔〟と契約することで使用者はこのケースの内積および構造の有限・定義化ができる。
この構造の有限定義は契約者が望むすべての形となって願いを叶えることを意味している。が、内包する空間がヒルベルト曲線に類似した直線と直角のパターンとなっていて、それがフラクタル圧縮されているため、機械的および無機的なものに変化がしやすくなっている。
これらの事柄からヒルベルトの悪魔と契約した者は〝悪魔憑き(マイスター)〟の異名で呼ばれる。もちろん永久もそれに漏れないが、むしろ役職とも謂える〝執事長〟と呼ばれるのがほとんどだ。このブラックは執事たち猟犬を束ねる意味での長を意味しているが、何よりも悪魔と契約したことでただの猟犬ではなく地獄の番犬──〝鐡の魔獣〟という敬称にして忌み名の二重の意味をふくむ所からきている。
「はあああぁぁぁぁ────!!」
本来チェーンソーは肩から上へ決して持ち上げて使えず、かつ腰で地面と平行に構え、刃の先と上部で切ろうものなら即座に暴走しかねない代物だ。
またさらに言えばチェーンソーを扱いづらくしているのはその重さと、重さが極度に手元に集中しているせいで安定し過ぎて動かせなくなっている点だ。
しかし永久はあえてチェーンが回る方向を逆に設定し、それを地面に押し当てチェーンの回転で地面との反発作用を起こし強引に加速させ刃を振り上げ、さらに上がり切ったところから自重による落下運動を利用して斬り下ろす。
永久はこの出鱈目な操作術を唐鍔牧師の居合術を真似ることで実現した。地面を迸るチェーンを鞘に見立てて刃を加速させる。
ただしこれは特性上どうしても隙の多い大振りに傾きやすく、また一度加速を殺してしまうことはそのまま自身の死につながる。
そしてこのチェーンソー操作も体力と息が続けばの話。
「くううぅぅぅっ!」
体力・知力・技量、どれをとっても他の追随を許さない非凡さを秘めている永久だが、所詮は一五歳の少年のそれでしかない。十数合目かの打ち合い、永久は力負けし上半身を大きく仰け反らせた。
「あとはお願いします」
「任された」
背後へ跳んだ永久と入れ違いにして、羽織をなびかせた唐鍔牧師が身を低くし、刀を下から上へ抜刀と共に抜きつけ、返す刀で振り降ろした。逆袈裟に刀身を振り上げてから袈裟に斬り降ろす〝袈裟斬り〟という技だ。
そうしてまた仕斬り直しだ。永久に次いで唐鍔牧師も距離を取る。
しゃがんで片膝をつく永久と、軽く左足を前に出した左半身で刀を右背後へ流す脇構えを取る唐鍔牧師が並んだ。
「存外硬いですね、あれは」
「ああ、だな。わたしの真改でもろくに斬れやしないし、斬ったそばから塞がるよ、ったく」
そう言って唐鍔牧師は嘆息した。
彼女の振るう刀はかつて江戸前期、大阪正宗とさえ評された刀工──井上真改によって鍛えられた打刀だ。若い頃の作は父と同じ国貞と銘を打ち、刀身は厚く荒々しい。唐鍔牧師の持つ真改も国貞銘で、二尺四寸五分という大振りの本身は一度市場に出れば一〇〇〇万の値は軽く降らない一品だ。
「ところで、なんで脇構えなんですか。あの獣に得物の長さを隠したってあまり利点はなさそうですよ」
脇構えは刀身を背後へ流すことで相手から得物を隠し、出方に応じて刀を長くして、あるいは短くして使えるようにする構えだ。すでに斬り結んでいる既知相手にはあまり意味がなく、ましてや知性すら望めない化物にどれだけの効果があるのかはほとほと疑問である。さらに言えば剣術なぞ所詮は一対一の人間相手を想定して発展した技術だ。あるいは御伽草子にある源頼光・渡辺綱のように悪鬼魑魅魍魎を人智ならざる力で斬り伏せれば話は別だが。
「はっ、上段になんぞ構えたら、せっかくの一張羅が肩から落ちて汚れるだろ」
彼女がスーツの上に着ていた和服羽織は江戸末期の浮世絵師、一勇斎国芳が伊達男金神長五郎に着せた三つ眼の紅鬼が堂々と描かれた派手な羽織と、まったく寸分違わず同じものだった。
伊達男気性競
金神長五郎、歌舞伎でも人気の渡世人だ。彼女の趣味と矜持がうかがえる。
「ああ、こちとら伊達と酔狂だけで生きてんだ。傾いてなんぼ、ひょうげてなんぼの人生だ──てな!!」
裂帛!
今度は反撃に転じてきた大神が口をめいっぱい開けて襲いかかる。その上顎の先から下顎の先を結んだ長さは優に二メートルはあった。唐鍔牧師は、納刀してあった刀を再び居合斬りで抜きつけと同時に上段へ斬り上げた。
磊落!
さすがの大神も神速の気合で抜かれた初太刀に気圧された。知性のない獣に見えて、やつにも自己防衛本能はあるようだ。それはきっと三千歳儚が恐怖しているのだろう。これは三千歳の防衛本能が《後天性奇形大脳皮質》全体を使って拒絶してしることにはならないか。現に、量子凝縮能力と悪魔でここまで侵入してきた唐鍔牧師と永久だったが、明らかに拒絶の風当たりが強くなっている。手足はもちろん身体全体が白黒のホワイトノイズが走り始めている。
「しゃらくさい!」
唐鍔牧師は八相の構えで走り出す。次いで永久が腰よりも低い姿勢で追従する。
怒涛!
大神と相対する刹那、唐鍔牧師は跳躍した。優に五メートルはある飛燕だ。
また永久は大神の顎の真下に立ち、チェーンソーを大きく背後にした脇構えの状態からエンジンを最高速度に回転させる。
「これでっ!」
零から即座に限界へ。チェーンソーはアスファルトを割り、そのまま永久の前へくると反動を利用して下方から上方へ、身体ごと昇らせて斬り上げる。
チェストおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
八相の構え、もとい薩摩示現流〝とんぼの構え〟で振り出だしたるは電光石火の必殺剣──〝一の太刀〟。
永久のチェーンソーは下あごへ、
唐鍔牧師の一太刀は大神の顔面へ、
師弟の刃を上下に交えた挟撃が炸裂した。
愚婁婁婁婁婁婁婁婁婁婁ぅぅぅぅ…………!!
大神の咆哮、いや苦悶の叫びが轟いた。
『今だ麦村ハッカ!』
「はっ!」
そうだ、と、ハッカは身を震わせた。
「そうだ麦村! それに犬っころ! 人生なんざたった一度きりの主演舞台だ。だったら魅せてやらなきゃな、役者が違うってことを!」
「はい!」
その言葉に押されて、ハッカが一歩踏み出すと同時に、生きた疾風となった真神が襟首を銜えて走り出す。
牙唖唖唖唖唖唖唖!
「おっと、こっちを忘れんなよ」
ハッカに反応する大神に、唐鍔牧師は二の太刀をお見舞いする。
二人の先人に後押された少年と狼は少女の前へと到着した。
「儚……」
ハッカは両手を儚の頬へとのばした。それがひたと白い肌へ触れた、その時、
「冷たい」
という触感覚と同時に、あることを察した。それは鼻を儚の手に近づけていた真神も同様だった。
「いない」
『ああ、いない』
二人は静かに頷いた。
「ここに儚は……いない」
《アルジャーノン》となった儚の碧眼は、どこにも焦点など合っていない、どこまでも虚ろで、それこそ命のないガラス玉といっしょだった。それから彼女の口端からよだれが落ち、ハッカのその粘ついた液体を指に取った。
親指と人差し指の間で引いては縮めて見つめ続ける。
「おい、こいつをどこに隠した──カレルレン」
ハッカは視線を鋭く横へ滑らせる。そこにあるのは青いテレビ《カイロスの檻》。
『バカ言っちゃいけないよチミぃ~、彼女なら目の前にいるじゃないか。その歳でもうモウロクしたかい?』
道化は笑う、ただ知らぬ存ぜぬと。それに少年はわずかに柳眉を曲げた。
『そんな怖いカオしないでよ、ボクはなんにもウソは言っていないゼ? だってそうだろ、ここは現実でありながらそうでない場所、脳みそ(プランクスケール)の中だ。ここには彼女を形作るものすべてがそろっている。
なのにナゼ彼女が見えないか? 答えは至極カンタンだ。キミらは彼女の本質をなにも理解しようとはしていないからだ。
そこでそうやって立っている彼女のカタチをしたモノも、結局はキミらがそんなカタチであって欲しいという願いが大脳皮質の願望器官に反応して投影されているに過ぎない。
じゃあ人間の本質っていったいなんなんだろうね? 核心とも言っていい。ヒトを内側から形作るモノ。これこれこうでなきゃいけない自分、これこれこうあったから今の自分になってしまった原因。因果。
わかるかい? わからないだろう? そりゃそうさ、他者が他者を完全に理解するなんて不可能だからさ。ましてキミらは一つだって、これっぽっちだってわかっちゃいないから、だからなまじカタチなんてものにこだわろうとする。そうすればキミらはマンゾクするんだ。
おおっと、ボクは別にそれが悪いなんて言わないよ? 責めてないよ? だってそれがニンゲンってモノじゃないか。それがキミらの本質じゃないか。だからこそボクはキミらが一人きりの孤独でも強くいられるように手をかしてあげてるんじゃないか。
他人にとって他人のココロなんてモノは芥子粒と同義さ。あってないようなモノだよ。所詮はその程度だ。この世界に満ちているのは孤独と欺瞞と支配だ。
ところでキミたちは〝ヘルペンのカラス〟という思考パラドックスを知っているかい?
ああそうだ〝百匹目の猿現象〟でもいいや。これはエセ学者のライアル・ワトソンというブリテン人がだね──』
カレルレンの茫漠たる説明とうんちくはどこまでも続いた。それそのものに大した意味などなく、聞く価値などない、例えるなら住宅地を徘徊する廃品回収車や市議会議員選挙の立候補者が大言壮語と共にスピーカーで垂れ流す騒音のそれと同じだ。
ただ、それでもハッカの心の中に一つだけ、たった一つだが、それでも強く締めつけ棘を刺す〝一言〟がふくまれていた。
──本質……、ぼくはいったいあいつのなにを知っているんだ。
胸が内側からジクジクと疼いた。痛痒くて、今までに経験したことのない未知の痛みだった。ドンドンと拳で何度も叩いた。それから爪を胸に食い込ませた。しかし駄目だった。それは外からどんなに痛みをあたえても紛らわすことができない〝苦痛〟だった。
もう今すぐシャツを引き裂いて胸を無茶苦茶に掻き毟りたかった。
『あの子を見つけて』
その時声が聞こえた。針の入った水晶を思わせる、小さいが芯の通った力強い声。
ハッカの眼の前に少女が佇んでいた。黒いセーラー服の上に羽織られたオレンジがかった朱色のチェスターコート。そして外套とそろいの色のキャスケット帽を被った出で立ち。周囲の空間同様に、その身体にはノイズが走り半透明に透けていた。
「亜鳥」
忘れもしない。網膜に焼きつき海馬に刻まれた少女、その名前を舌の上で転がせる。
『わからないのなら探して、あの子の本質を。知らないのなら識って、三千歳儚という存在を』
「どう……やって、どうやってさ!」
ハッカは憤りをあらわに傍らの儚を指差した。
「だってこいつはこんなにも空っぽじゃないか────!!」
口にした直後、ハッカははっとした。空っぽだった自分は、亜鳥に手をさしのばされたから心を手に入れた、だったら。
「ぼくにも、儚が…………救えるの?」
その平坦なトーンで問うた言葉に、少女は静かに子供をさとすように頷き返した。
『ちょっとちょっと、いきなり現れてなにゼンブ持ってこうとしてるのかな~? あ~、ヤダヤダ、二流役者風情がボクの脚本と演出に横槍を入れるのは迷惑以外のナニモノでもないね。あ~あ、どうしよどうしよ、どう修正しよう』
不意に、ハッカの胸に違和感が去来する。先程まであった胸とのどの熱がある一点に凝縮していた。
それは胸のちょうど中心、胸の内側ではなく外側、胸骨の真ん中にあった。
「これは……」
螺子巻きだ。真鍮の螺子巻きが皮膚の上に貼り付き熱を帯びている。
『〝大聖堂の秘蹟〟……聖堂、賢者の邸宅の謎を解き明かす鍵。あの〝オッカムの剃刀〟とならぶ真理への方程式か』
そう言ったカレルレンの声からは、余裕と揶揄する調子が抜けていた。
ハッカは螺子巻きを首から外し、おもむろに自身の前へかざした。
「これで、いいの」
亜鳥は頷くと、そっと何かを持つように手を下の方へ置いた。するとそこへ鳥駕籠が現れる。ハッカの持つ螺子巻きと同じ真鍮でできていた。
鳥駕籠の中には黒い影の生き物がひそんでいる。
瞬間、ハッカは思い出した、亜鳥からもらった螺子巻きはこの鳥駕籠の形をしたハミングバードのゼンマイを回すためにあると。
入れた。ハッカは宙にたゆたうハミングバードに空いていた鍵穴へ、手にした螺子巻きの先を挿入した。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十となりけりや
ギチギチという音を立てながら螺子を回すと、それに合わせて亜鳥が死んだ人間を甦らせるという祝詞〝布瑠の言〟を唱え始める。
布留部 由良由良止布留部
カチリ。
ゼンマイが止まる。瞬間、真鍮の鳥駕籠がガラスのように砕け散った。その破片はキラキラと輝きながら空中で一瞬動きを止めると中心の黒い影に向かって集まり出す。
黐黐黐黐黐黐黐黐
金属同士をこすり合わせた甲高い音。
そこには一羽の小鳥がいた。真鍮の羽根を一枚一枚まとい、背中に大きな螺子巻きを備えた機械仕掛けの小鳥だ。
ハッカが人差し指を出してやると小鳥はすぐにそれに止まった。
『デミアン、それがあなたの翼』
「──え」
とっさに顔を上げると、すでに少女の姿はなかった。
「デミアン……」
自分の口で一音一音噛みしめながら確かめる。
ハッカはおもむろに機械仕掛けの小鳥──デミアンに顔を近づける。
デミアンは啼く。背中の螺子巻きが緩く回転する。すると小鳥はハッカの唇に向かってクチバシで啄んだ。
「うん、わかった」
唇から滴る血を舐めながら、ハッカは頷く。
『麦村ハッカ……』
真神がハッカを心配する沈痛な面持ちと声で近寄ってくる。
「大丈夫。こいつはいいやつだよ」
ハッカは真神の頭を撫でる。
「ちょっと儚のところまで行ってくる」
それを聞いた真神は眼を瞑り、ハッカの足下まで深々と頭を下げた。
「どうか儚を頼むぅ……!」
「ああ、わかった」
そう言うと静かに目蓋を閉じ、そしてまた開けた。
黐黐黐黐黐黐黐黐
一際大きく甲高い啼き声が木霊すると同時にデミアンは金属の翼を羽ばたかせた。その翼はみるみる膨張し、身体の何十倍にも広がりハッカをまるまる包んでしまった。
ハッカを抱えたデミアンの身体が輝き出す。するとそれは光そのものになって直上へ昇り、消えた。
† † †
そこは電車の中だった。
右手の窓一面に夕日が横たわっている。
悠久という路線を走り続けるローカル電車《へびつかい座ホットライン》そして《セカイの果て》だ。
ギシリと、床板が軋む。西日に照りつけられた横顔がいやに熱かった。今いる最後尾の車輌には誰もいないし何もない。ただ前の車輌との戸が半開きになっていた。ドアノブに手をかけ横滑りさせる、と。
がちゃり。
そこには女の子がいた。
夕暮れの住宅街。一〇歳過ぎの少女が声にならない声でむせび泣いていた。親にしかられて家から閉めだされたのか、アパートの前で寒そうな肌着だけの格好をしている。
まわりはいつも少女を腫れ物のように扱っていた。知遅れ、自閉症のきらいが強い少女には誰もかかわろうとせず、近寄らなかった。
「おい」
そんな少女に近づく孤影があった。
「ハ……くん」
小学校に入りたてくらいの色白肌の少年だった。男の子はなんの躊躇いも衒いもなくおもむろに歩み寄り、少女へあるものを差し出した。
「ん」
そうして男の子が少女にわたしたのは灰色の毛をしたハスキー犬の子供だった。子犬は涙でぬれた少女の顔をペロペロ舐め回す。
「こ……こ、これなに?」
「ひろったから、おまえがそだてろ」
「え──」
男の子はそのまま子犬を少女へ投げやった。
「じゃあせわしろ」
そう言って、男の子は隣の部屋の扉に入り消える。
あとには少女と、少女の顔を舐め続ける子犬だけが残された。
「きみは……なにくんちゃん?」
訊かれた犬は首を傾げて止まったが、またすぐに少女を舐めだす。
「そうだね、おおかみさんだね」
ハッカはその様子を微動だにせず、それこそ瞬きも呼吸も忘れて見入っていた。
「儚……」
口からは無意識に少女の名前が零れ出ていた。
夕暮れのアパートが消え、再び黄昏の車中に移り変わる。
ハッカは次の車輌へ続く扉を開けた。
その先に広がっていたのはアパート近くにあった小さな公園だった。少女はすみで再びすすり泣いていた。ハッカはやおら歩み寄り、しゃがむ少女の前に立った。
彼女は穴を掘っていた。そこへあの少年もやってきた。
「なにしてんだ、オマエ」
「ほってるの」
「だからなんの」
「お墓」
「だれの」
「…………犬の」
「──!」
ハッカはジャリと砂を踏んだ。
「しんだのか?」
男の子その問いに少女は頭を振って応えた。
「わからない。でも……お父さんが保健所につれてったから、もしかしたら今ごろ……」
少女はそこで言い淀み、またシトシトと涙を流す。
「あ、そ」
言いながら、少年は少女の脇にあった墓石代わりとなる木の棒を蹴飛ばした。
「なんで……」
眼にいっぱいの涙をためて少女は少年を見上げて、心からの問いを投げる。
「なんでって、その下にはあの犬はいないじゃん。いみないよ、こんなの」
「……ちがうよ」
「ちがうくないよ」
「だからちがくないよ!」
遠くで井戸端会議をしていた主婦たちが、少女の放った癇癪に眼を向けた。
「オマエ、またあのひとたちからヘンなやつだっておもわれてるよ。いいかげんやめろよ、そういうの」
「ちがうよ! だってあの子はひとりぼっちだったんだよ? 儚とハッくんしかかなしんであげられないだよ? そんなのってないよ……かわいそうだよ。カタチだけでも──グスっ、残してあげようよ」
少女は涙を拭い木の棒を少年へとのばす。
「ぼくはべつに、かなしくなんてない」
「えっ」
ビクリと少女の肩が震える。
「ぼくはかなしくなんてない。だからそんなのなんのいみもない」
少女がわたそうとした棒は、少年の手をすり抜け、地面へ落ちた。
「かわいそうだって……思わないの?」
「おもわないね」
少年は踵を返し少女を置いて一人去っていった。
「そんなハッくんが一番────かわいそうなんだよ?」
その小さくか細い声を聞いていたのは、少年ただ一人だった。
† † †
「これで!」
永久が居合を利用したチェーンソーの逆袈裟斬りで大神の脚を斜めに斬り上げた。
「どうだ!」
永久の背中に隠れていた唐鍔牧師が、執事の肩を踏み台に跳躍する。そのまま左手に握った真改にそっと右手を柄に添えて抜き放つ。まずは機先を制する抜きつけの横一文字、そこから振り抜きを止め上段に構えて降す縦一文字。さらに両斜めの袈裟斬りに、返す刀から激突の一刀。それを都合三組み、計一二の剣戟を叩き込む技は、抜刀術の基本中の基本にして剣道の〝前〟。夢想神伝居合で謂うところの〝初発刀〟だ。見事、と言う他ない精錬された抜き打ちだった。アウトロー気質の強い彼女がここまで基本に忠実な型を見せるのはかなり異質なことだ、が、しかしここで一番驚くべきことはこの技をすべて空中で抜き放っている点だ。本来は正座から始まり佇立して残心するまでの工程を、大神の脚のつけ根、胸、そして顔にかけて斬りつける様で表現したのだ。
が、彼女の表情は曇っていた。
「ちいいいぃぃぃぃ!」
まただ。唐鍔牧師の必殺の一太刀がどうしても届かない。大神のその象をも超える巨躯は迅雷の顕現である唐鍔牧師には止まっているも同然だった。だがその刃は、肉は断てても骨までは遠く及ばない。鎖帷子のように鎧の役目を担った灰色の毛が衝撃を殺し、辛うじて傷つけた身体もすぐに再生されてしまう。
取り立てて目立った攻撃方法もなく、動きも単調そのものだったが、底抜け体力と物量差を埋めるには如何ともし難い壁が如実に現れていた。
「つあぁぁ……このままじゃ量子凝縮で強化した刀身が折れるぞ」
「どうしますか?」傍らの永久が訊いた。
「こいつを使う」
唐鍔牧師は腰のあたりを一つ叩く。その眼と口の端が不敵に吊り上がる。
「〝一二姉妹〟……ですか?」
方や永久は緊張という糸の通った声音と眼差しで、唐鍔牧師の腰に巻かれているベルトを、純銀製の不気味な女たちの貌を見やった。
「できるんですか、発動条件最悪のこの状況下で」
「やるしかないだろ」
この確率共鳴場──もとい《後天性奇形大脳皮質》の中において、量子の振る舞いはすべてにおいて《アルジャーノン》側に優先される。量子や虚数を操り、通常空間では無敵の唐鍔牧師と永久だったが、この中では辛うじて肉体を維持し戦うのがやっとだった。
「くっ、伽藍堂が言うことを聞かない。これ以上の長期戦は無理です」
そう言って永久は自分の掌を見つめる。その手はノイズにかすれ、半透明になりかかっていた。
「ああ、だからとっておき(ロイヤルストレートフラツシユ)をお見舞いしてやるのさ」
「でもあれの〝鋳造〟には時間が。それに牧師の身体にだって負担が──ムグっ!?」
声を荒らげる永久の口に、唐鍔牧師は人差し指を軽く押し当て黙らせる。
「ああ、だから時間を稼いでくれ。一〇分──いや五分でいい。あの犬っころの遊び相手になってくれ。な~に、多少の無茶は承知の上ってな」唐鍔牧師はそう言って破顔し、「なっ、頼むよ」と愛嬌のある仕草で片眼を瞑った。
「ぷはっ──まったくずるい人だ。俺があなたに何も言えないと知っていてそんな無茶を言うんだ。けど何よりも、俺がその笑顔に滅法弱いって……知っていて、お願いするんだもの」
永久は陶酔した面差しで目元を蕩かせた。
「だったら自分のお口で言ってみな? いい子だから」
「了解!!」
「いい返事だ!」
すると二人の周囲に暗い影が落ちる。次の瞬間、大神の足が落ちた。
永久は前へ跳び、巨体が仇となってできた胴体下の死角に回り込んだ。逆に唐鍔牧師は羽織を怪鳥の翼のように翻しながら、大きく背面へ飛燕する。
彼女は着地すると腰に巻いていた一二姉妹から一つだけ、銀の乙女の貌を取り外した。するとそのまま身を低く屈め、羽織の裾で自らの顔を隠す。
「さあ、一仕事だ!」
大神の真下へと逃げ込んだ永久はヒルベルトをチェーンソー形態からスタンロッド形態へ変形させていた。しかしその形状は〝ロッド〟などと言うかわいい形容ではとても収まりのつかない凶暴な悪鬼の角だった。全長二メートルに及ぶ長大な槍なのだ。穂先は犀利に尖り、バチバチと紫電を帯びている。
「火花放電!」
永久は放つ、雷火をまとった槍を、大神の腹目がけて。
「──!」
躱された。あれだけ愚鈍だった大神が、ことここに至って永久の知覚でも捉えきれぬ速さで地を駆った。一足で一〇メートルを進み、そこで小さく楕円を描きながら方向転換して永久の方へ直進してくる。動きそのものは豪快で数の多い動作だったが、時間にすればそれこそ一瞬に等しかった。
「不味い!」
攻撃直後の永久はまだ体勢を整えきれずにいる。上空に構えた槍を下に降ろし迎え討つにも、また伽藍堂を変形させるにも、その動作の数は三から五工程。間に合わない。
大神の大口が間近にまで迫る。
永久は眼を閉じなかった。自分が死するその瞬間まで抗いながら、受け入れながら〝そうあ(アー)れかし(メン)〟という言葉通りに生きたかったから。するとそんな彼の耳朶を、玲瓏な風鈴の音色が撫でた。
大口の
真神の原に降る雪は
いたくな降りそ
家もあらなくに
永久の眼前まで迫っていた大神の開かれた口も、牙も、顔も胴体も脚もすべて。万葉集第八・一六三六舎人娘子作の一首が詠われ瞬間、氷塊に覆われ凍りついた。
『儂は確かに麦村ハッカを妬んでいた、恐れていた、そして感謝をしていた。だがな……』
永久は背後を振り返った。そこには黒かったアスファルトを白く覆う雪原を悠然と歩く狼の姿があった。
『人を恐れる番犬なぞ、駄犬だ!
何より獣を恐れる猟犬は畜生にも劣る腐った肉の塊よ!』
真神の足は永久の傍らで止まり、頭を下に項垂れる。
『儂はずっと虚勢と虚飾で自らを狼と偽った狗だった……、負け犬だったのだ』
言下、真神は片方の前足を地の氷に叩きつけると同時に顔を大きく上げた。
『貴様は儂だ、儂は貴様だ! 貴様のその他を威圧する図体は、儚を守れなかった儂の不甲斐なさの象徴だ! 故に否定する! 儂は貴様を否定するぞ! そしてその神性を喰らい、初めて神に、真なる神────大顎真神となる!!』
真神が啖呵を切った瞬間、大神は覆っていた氷を内側から砕いた。と同時に真神と永久はそれぞれ反対方向へ跳んで避ける。すると真神は大神の前へ、永久は後ろへとそれぞれ対局に位置し獲物を囲んだ。
大神の脚の間から二人は互いに見つめ合う。まだ顔を合わせて間もない二人だったが、大神を倒すという共通の目的からすでに言葉なくして心を通わせていた。
(此奴は儂を優先して狙ってくる)
(囮になってくれるのか?)
(ふんっ、ただの噛ませ犬にはならんさ)
(はっ、あんた、気に入ったよ!)
二人をつないでいた視線が解かれると同時に、真神は駆け出した。大神も釣られて走る。永久も走り出す、が、真神や大神を追うのではなく、大きく弧を描く軌道で迂回を始める。
真神と大神の疾駆は同等の速さだった。まったく体格が違ったが、真神は小さな身体を武器に小回りの効くバイクのように駆け、逆に大神の長い脚は大型トラックの巨大なタイヤに相当した。トップスピードでは明らかに大神に分があったが、真神は右往左往と直角に方向転換することで翻弄する。
すると真神と大神の直線上六〇メートル先に、迂回していた永久がこちらに向かって走ってきていた。
(策はあるのか?)
視線を交えた真神が永久に伝える。
(語るに及ばず!)
そうアイコンタクトした永久の表情は不敵な笑みを浮かべる唐鍔牧師のそれとよく似ていた。
真神は永久との距離が六メートルの地点から大きく躍り上がった。そのジャンプの最頭頂部は優に八メートルに達した。大神の頭の位置は地上からおよそ五メートル。獲物を捕えるため、大神は本能的に跳び上がり真神の後を追った。
永久の頭上に、極大な獣の影が覆う。
「この瞬間を待っていた!」
永久は元の基底状態に戻った伽藍堂から一本のシザーアンカーを射出した。ぐるぐると大神の身体を這うように縛っていく、が。
『痴れ者がっ! そんな細い鎖で、そんな小さな身体で其奴の動きをどうにかできるか!』
着地し、永久の元までやってきた真神が吼える。
「まあそう言いなさんなっ!」
シザーアンカーの先が永久の所に戻ってくる。彼はそれを伽藍堂の中へ差し込んだ。
『──っ?』
真神がシザーアンカーの鎖を見ると、それは幾つもの返しのついた刃の連なりでできていた。
『まさかっ!』
「そのまさかさ!」
そう言い永久が伽藍堂の柄についた瞬間、大神の身体に巻きついていた鎖が高速で巨躯の上を這いずり回る。鎖の蠕動は大神の巨体の毛を毟り、肉をえぐり、血飛沫を周囲に撒き散らした。尋常の牛や象ならば五躰がバラバラに斬り刻まれていた所だろう。
「どうだ、特大のチェーンソーを喰らった気分は?」
『えげつないことをしてくれる』
大神の巨躯は地面に崩れ、全身からは血煙が立ち昇っていた。
「これでしばらくは大人しく──!?」
永久の言葉を詰まらせたのは大神の眼光だった。左眼だけとなった隻眼の眼光で、歴戦の兵である永久を射竦めてしまったのだ。身体から昇る煙は自己修復の証。もう数十秒とすればこいつはまた襲いかかってくる、おそらく先程よりはるかに凶暴に。
永久は伽藍堂を構え、真神は身を低くのどを唸らせた。
「──earth to earth」土は土に。
唐突に、祈祷書にある埋葬儀礼の一節を響きわたる。
「──ashes to ashes」灰は灰に。
唐鍔牧師の手にある一二姉妹の貌が白金色の光を放ち始める。
「──dust to dust」塵は塵に。
『何だ、何が起こるのだ』
「〝概念質量の引用〟だ」
唐鍔牧師たち量子凝縮使い(オズ=ライマン)は量子密度を操るという人間の枠を超え神の領域すら侵しかねない能力を持っている。突き詰めればそれは時間や空間を操ることにとどまらず、どんな物質の生成をも可能とする究極の錬金術であり、また無限のネエルギーを生み出す永久機関、外宇宙を旅する恒星間航行、宇宙そのものの創造すら可能としてしまう。
だが彼女らにはそんな大それたことはもちろんできはしない。単に物体を何もない空間から生成するにしても、そこには原子一つ一つを構成する中性子と陽電子の計算から始まる莫大情報処理が必要になるからだ。故に量子凝縮使いたちは量子の密度を濃くするか薄くするかで時間と空間を少しだけいじるだけにその能力をとどめている──が、彼女らはたった一つの事柄にまつわる物体のみ、無条件に生成することを許されている。それは自身の内側でもっとも強く作用を及ぼす〝概念〟でなければならない。
そしてその概念を見つけた量子凝縮使いたちは、量子の振る舞いを操ることで心象に普遍的に内在する〝概念質量〟のみを現実世界へ投影することができる。
それらを総じて──〝概念質量の引用〟と呼ぶ。
「the──soul to soul」魂は魂へ。
刹那、唐鍔牧師はなんら加速をつけることなく宙へと飛燕した。背中に携えられた金神長五郎の羽織、そこに描かれた鬼があたかも躍っているかのようだった。
すると唐鍔牧師は白金色の光を遮っていた羽織を翻し投げ捨てた。解き放たれた光が彼女を包む。
「一二姉妹が三女──蛮勇の乙女〝ドラクロア〟! わたしに勝利を確信させろ!!」
白金の光明は一本の長大な単装銃へと姿を変えた。
「牧師の概念質量は、すなわち〝銀〟!」
という永久の指摘通り、本体である先込め式ライフル銃も、その先に装着された銃剣も、すべて輝く銀でできていた。
一二姉妹は唐鍔牧師が今まで鋳造してきた銀製武器の中でも最高傑作にあたる一二器の発動キーの役割を持っている。今顕現しているドラクロアは、銃身と銃剣が鋼よりも硬いミスリル銀でできている。
全長一・八メートルの銃身に加え、通常ではありえない五〇センチ強にも及ぶ規格外の銃剣。合わせて二・三メートルにもなるドラクロアが、大神の右眼に深々と突き刺さった。
愚婁婁婁婁婁婁婁婁婁婁ぅぅぅぅぅぅぅ…………!!
ドラクロアが刺さった右眼は、ちょうど彼女が示現流必殺のとんぼの構えで深手を負わせた場所だった。止めの一撃には到底届かない一太刀だったが、それでも大神の再生能力を麻痺させるに至っていたのだ。
大神は苦しみながらも唐鍔牧師を振り落とそうと頭を振り回した。
「はははっ、そう慌てなさんな。これからが今週のハイライトなんだからなっ!」
そう言いながら唐鍔牧師は銃床を叩きドラクロアをより深く大神の右眼に喰い込ませる。そして銃爪に指をかけた。
「さあ、祈りな化物。
そして父・御子・御霊よ。これよりおこなう我が蛮行を見届け給え、赦し給え、贖い給え───そうしてどうか、憎み給え」
銃爪が引かれる。銃口から放たれるのは〝死を呼ぶ魔銀〟を鋳造して作った一発こっきりの魔弾。それが脳に直接ぶち込まれ、後頭部の頭蓋を突き破って出てきた。
「アーメン」
そう唐鍔牧師が呟くと同時に、大神は地に伏せた。
「牧師、大丈夫ですか!」
駆け寄る永久。
「まぁ、な」
溜め息まじりの声で言った瞬間、唐鍔牧師は形相を変えた。
「来るな永久!」
彼女が叫んだのが早かったのか、それとも死んだと思われた大神が動くのが早かったのか。
「センセ────────────────────────!!」
唐鍔牧師は大神に丸呑みにされた。
† † †
ガタガタと電車は揺れる。
ハッカは次の扉を開けず、座席に腰かけ夕陽に横顔を照らされながら一人黄昏ていた。
「…………」
手を前で組み、意気消沈として項垂れている。
唐突に、窓から射す光が途切れ車内が暗転する。
十数秒後《へびつかい座ホットライン》はトンネルを抜けた。
「どうして、扉を開けないの?」
窓の外は海岸から一変して竹林風景へと移り変わっていた。そこで耳にしたのはハッカが初めてここへきた時、ちょうどこの竹林で逢った少女の声だった。
「亜鳥か……」
ハッカはやおら首を持ち上げて言った。
「まだ扉は一つ残っているよ」
そう言いながら、亜鳥は先頭車輌へ続く扉を流し見た。
「こわいんだ、アイツのことを知るのが」
「どうして?」
「う……受け止め切れる……、自信がないんだ。こわいんだ」
少年の肩は小さく震えていた。
「それは、彼女に対して? それとも過去の自分に対して?」
ビクリとハッカは身を萎縮させた。
「わからない……どっちもかもしれないし、どっちでもないのかも……しれない」
「けど、こわいのね?」
優しく諭す声。ハッカは奥歯でものを噛み締めるように、ゆっくりと静かに、そして確かに頷いた。
「そう。ならここで引き返す?」
「え──」
「あなたは決して、選ばれたからここにいるんじゃない。確かにわたしは彼女を救えるのはあなただけだとあの狼に教えた。けれどあなたはアルジャーノンではない、選ばれた存在、特別な存在ではないの」
「ぼくは……選ばれたわけじゃない」
「じきに、この列車は千本鳥居をむかえる。そうなれば後に待つのは虹蛇ノ杜だけ。あそこに捕らえられてしまえば、わたしの力じゃどうにもできなくなる」
「そんな! でも亜鳥はぼくを!」
〝助けてくれたじゃないか〟──そう主張するハッカに、亜鳥はそっと首を横に振った。
「わたしは全然、あなたを助けられてなんか…………ないよ?」
下唇を噛むような、歯切れの悪い、はにかむ笑顔でハッカに返した。
「亜鳥……」
「でもあなたは違う」
「ぼくなんかに……何ができるって言うのさ。ぼくは、社長や永久クンたちみたいな特別なチカラなんてない。ただの非力な……、子供なんだよ」
「確かにあなたは選ばれた存在じゃない。けど、選ぶことはできる。むしろ選ばなくちゃいけない。選ぶことに、力の強弱なんて関係ない。必要なのは……〝覚悟〟だけ。零か一かの片方で、状況はどんな風にだって傾くんだから」
そう言って、亜鳥はハッカの小さな手に握った。
選ぶ……そうだ、ぼくはもう選んだはずだ。だからここにいるんだ。なのになんでこんな益体もないことしてるんだよ……。
「覚悟が……足りなかったんだ」
ハッカは立ち上がり、亜鳥を見下ろした。
「行くの?」
「行くよ」
「覚悟は?」
「できた」
「ハンカチ、ちり紙は?」
「持ってる」
「じゃあ、行ってきなさい」
「うん、行ってきます」
小さく肘から手を振る亜鳥に見送られ、ハッカは最後の扉のノブに手をかけた。
ガチャリと音を立てドアは横へスライドする。中に広がっていたのは何もない空間だった。何もない白い床と白い天井だけの、何もない世界だ。
ハッカはそこである違和感を覚えた。
「小さい……」
身体が縮んでいるのだ。それはハッカが五歳ごろの時分の姿だった。
「いきなりどうして」という疑問はもちろん出てきた。しかし段々と、そういった思考や感情といった感覚が鈍麻になっていることにハッカは気付かずにいた。
「あ、の。ハ……ハッくーん」
するとそこへあの少女がハッカへ駆け寄ってくる。
ハッカは気だるげな眼差しで返事はせずに、視線だけをその方向へ傾けた。
「ね、ね、ねぇ! これ見て、これ!」
そう言って差し出されたのはスエードを太い布で縫った灰色の犬のマペットだった。
「なんだよ」
どうしてだか、少女の言うことが酷くどうでもいいように思えてくる。
「これね、これね、作ったんだ儚が! あの犬くんに似てるでしょ?
ワン、ワン。仲良くしてほしいワン!」
少女はぐいぐいとハッカの顔に手にはめたマペットを押しつけてくる。
「やめろよ」
煩わしさにハッカは咄嗟に手を出した。少女の手にはまっていたマペットが、地面へ落ちる。その行動はハッカにとってまったくの埒外だった。なぜ自分がこんなことを彼女にしてしまったのか、まるで理解の外だ。
混乱したハッカはその場から逃げるように踵を返そうとした時だった。
──そうじゃないだろ。
自分自身の声がした。
──オマエは空っぽなんかじゃない、ただ知らないだけだ、他人を、なによりも自分自身を。
するとハッカの眼の前に光でできた鳥居が現れる。鳥居はハッカに向かってきてその口の部分でちょうどハッカをくぐらせた。鳥居を抜けたハッカは五歳児から、一一歳の今の姿に戻っていた。
ハッカは反転し少女の元へと戻った。
「あ……」
落としたマペットを拾い上げ、それを少女へわたそうと手をのばす。しかし彼女は受け取る所か、怯えて身を縮めてしまった。
「もしかしたら、間違っていたのかもしれない」
「……え?」
「何もかもが間違いだったのかもしれない。だったら何もかも、ここから始めよう。二人で始めよう。出逢い方も、接し方も、新しい関係を、二人で見つけていこう。ぼくとオマエで──なぁ?」
そう言ってハッカは微笑んだ。何の躊躇いも屈託もない、純真無垢な子供の笑顔で。
「ぼくの名前は麦村ハッカ。オマエの……いや、キミの名前を教えてよ」
本来あり得ない一一歳の少年と少女の、出逢いの瞬間だった。
† † †
「センセ────────────────────────!!」
何たる生命力か、こうしている間にも大神は徐々に、確実に回復を見せている。まさに神代の一柱に並ぶに値する神性を秘めていた。
まず右前足を、次いで左後ろ足を。唐鍔牧師に壊された頭部こそまだ戻っていないが、永久にズタズタにされた身体の六割は元に戻りかけている。
「センセー、センセイ、センセイ、センセ────!!」
常に冷静さを忘れず、時に冷酷な選択さえ厭わない彼がここまで感情をあらわにするのは、つまりこの状況があの唐鍔牧師をしてもそれだけの大事なのは必至だった。
「くそ、くそ、くそっ!」
永久は伽藍堂を構える。するとヒルベルトに禍々しい存在感が漂い始める。何か途轍もないことをしようとしているのは自明の理だった。
「悪魔……俺の魂、存在、すべてくれてやっていい。その名に恥じないチカラを貸せ」
すると今度は永久本人から、鬼気としか名状できない凍てついた空気が流れ始める。
カシュンと、ヒルベルトの鞄の金具が独りでに解封される。わずかに開いた隙間から、包帯のような布の束が無数に溢れ出てくる。
「〝埋葬儀装〟よ、我が肉叢を貪れ。代わりに、俺を不死の化物にしろ!」
永久の言葉に呼応して、当て所なく蠢いていた布は永久に向かってのび、見る見る身体を覆っていく。
「う、くっ、ああああああああああああああああああああっ!!」
激痛が身体を駆け回り、身の内側から針が突き抜けたような錯覚に陥る。しかしこれはまだ永久が己のそのものを代償に手に入れようとしている力の、ほんのまだ前準備。ここから先はもっと──、
「だあああぁぁぁぁ、五月蝿い!! ピーピーピーピー……喚いてんじゃないよ、餓鬼じゃぁあんめぇし!」
突如、怒声と共に現れたのは唐鍔牧師その人だった。ただ出てきたのは大神の口の中から、下あごに足をかけ上あごは両腕で持ち上げる。全身の筋肉をフル稼働、膂力の限りで化物の大口をこじ開けたのだ。
「ぐっ、ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅぅぅ…………」
まさに食うか食われるかのデスマッチという光景だった。
「いい気合じゃないか負け犬。〝俺はクールでNo.1〟とでもいいたげだなぁ、おい?」
大神のあごの筋が裂ける音がする。唐鍔牧師の脚と腕の関節が悲鳴を上げる。
「ああ、ちくしょう!」
永久はすぐにでも助けに入りたかったが、一度伽藍堂に下した命令を取り消し、埋葬儀装をまたヒルベルトの中に戻すのに手間取っていた。
まさに刹那以下の桁、六徳の下、空虚の隙間を縫うわずかな時間に、勝負は決した。
† † †
突如として怪物、大神は消え、代わりに儚の《カイロスの檻》の前に現れた光の鳥居からハッカが舞い戻ってきた。
糸が切れた人形のように崩れそうになる儚に、ハッカは即座に駆け寄り肩を抱いた。
「やったのか……なんて訊くのは、野暮だったかなMVPの旦那には」
唐鍔牧師は余裕もないくせに軽口で大仕事をやってのけたハッカを祝福した。
「じゃあ帰ろうか、俺たちの家に、俺たちの教会に」
永久がハッカに手を貸そうと近づいたその時だった。
「あれ?」
眼の前の永久が突如として紅い血の斑点を被った。
ポカンと虚脱していた永久の表情が、みるみる歪んで戦々恐々という真逆の面持ちへ豹変する。
「うわわわわあああああぁぁぁぁぁぁ!!」絶叫する永久。
「へ?」
と、永久が自身を見ている箇所に視線を下げた瞬間、ゴボリと、ハッカの口から血の塊が零れ落ちた。
「せっかくハッくんがここまできてくれたのに……、本物のハッくんがきてくれたのに。ここでいなくなっちゃったりしたら…………儚はずっと、独りぼっちだよ?」
ハッカの腹部からは儚の腕が生えていた。
「ごふっ」
腹部からの出血と吐血の返り血で、儚の白い繊手は朱に染まる。
「何でだよ! 何でなんだよ!」憤りをあらわにする永久。
『〝どうせ互いの身は錆び刀、切るに切られぬ腐れ縁〟って昔から言うじゃないか。だからさぁ、そろそろ無作法な道化にはここらでご退場願おうかな?』
それまで鳴りを潜めていたカレルレンが、青いテレビの中から言った。それは意識チャンネルの合っていない永久の耳には聞こえていない。が、構わずカレルレンが指を鳴らすとハッカたちと永久たちを分かつ結界を発動させ、奇怪な幾何学模様が縦横に駆け巡る。
「ちぃっ」
唐鍔牧師は満身創痍でフラつく身体を起こし立ち上がった。そして右手の人差し指を拳銃の形にして結界に向けると、銀の輝条が迸る。概念質量の引用で瞬時に銀の剣を鋳造し、空間圧縮の反発作用を応用することで放つ銀の矢だ。唐鍔牧師はそれを都合三回、無造作に解き放った。
が──、銀の剣はキーンという高く透き通った玲瓏な、けれど無残な音を立てて地面へ落ちた。
「うっ……」
今ので残された力を使い果たしたのか、彼女の身体は軸を失いぐらりと大きく傾き倒れた。
「牧師ッ!」即座に駆け寄り肩を担ぐ永久。「くそっ、だったら伽藍堂の空間破砕兵器で!」
すると永久の激情に呼応して、伽藍堂がみるみるその形状を異形のものへと変化させていく。
「フラクタル圧縮バレル──解凍!」
伽藍堂を黒い霧が包む。と、永久の背後の空間から巨大な黒い大砲の砲身が現れる。
「全重力アンカー射出! ランディングギア、アイゼ、ロック」
黒い砲身から無数の鎖が射出される。が、それは地面ではなく中空に突き刺さり、そのままずぶずぶと空間へ食い込んでいく。
「第一次から五二次までの拘束機関を強制解弁─────ハインリヒ・シュタイナー弁へのアクセス……反対一、沈黙一、条件付きでの賛成一。よって出力〇・五パーセントの解放許可の取得!」
──こいつでみんなみんな絶対真空に相転移して、プランク世界へ還元する!
指にかかった銃爪が引かれる刹那、
「莫迦野郎! いくら虚数空間の中だからって大気圏内で宇宙戦艦の主砲を撃つ莫迦がいるかっ!」
頭に血が昇った永久のつむじに唐鍔牧師のチョップが炸裂する。
「痛ぅ……でも出力はかなり抑えたはずです」
「絶対真空の相転移現象に出力云々があってたまるか! 確率共鳴場どころかファウンデーションごと消し飛ばすつもりかっ!!」
頭に血が昇った永久のつむじに唐鍔牧師のチョップが炸裂する。
「これくらい、親のわたしがケツ持ってやるさ……」
「牧師!」
ガタつく身体に鞭を撃って立ち上がろうとする唐鍔牧師を、永久は制止した。
「これ以上、この子らをお前の玩具にさせるかよっ、カレルレン!」
『〝智に働けば角が立つ。情に棹させば流される〟てか……世知辛いね、世の中は。やりきれないね、人の心は。キミもそう思うだろ、ハッカ?
まっ、別におもちゃだっていいんじゃんか。苦しみも哀しみも感じないってだけじゃなくて永遠の快楽の連環の中心にいられるんだ。
心をなくしたってかまいやしないよ。所詮キミらが心と感じているものなんて電機信号パルスと脳内で生成されるペプチドホルモンとが織り成す化合物じゃないか。そんなのビーカーの中に薬品を入れて電機を流すのと大した違いなんてない。キミらのココロなんて大概そのようなものなんだよ。
何、その程度の傷、気にすることはないボクがチャチャっと直してあげるよ。なんてったって、ボクらはトモダチだからね? オイ、聞いてるのかよハッカ?』
「……めんな、さい」
『あん?』
「ごめんなさい」
『オイオイ、男の子が命乞いかい?』
ハッカは茶化すカレルレンとは別の方を見ていた。
「ごめん……、儚。ぼくは……オマエの特別には……、なれそうにない」
「麦ちゃん……?」
「オマエはきっと、自分を守ってくれる、縛ってくれる絆とか、大切な約束とか…………そんな、そんな当たり前でありふれたものがほしいんじゃないかって、ぼくは思う──かはっ」
また、血を吐いた。消化器系の内臓の出血が食道を逆流している。腹部の神経は鈍麻にできている。だから侍の切腹も簡単には死なない。が、腹を貫かれた人間が尋常であろうはずがない。
「オマエの特別になれるかなんて……ぼくにはわからない。限られた物と想いは、きっとみんながみんな、分け合うことなんてできないんだ。
ぼくがどうしようもなく空っぽな気持ちも、オマエがどうしようもなく孤独な気持ちも、どうしようもないくらいに…………分け合うことなんてできないよ」
それがハッカの出した答え。自分は誰も理解できず、また自分を理解できる人間もまたいない、というハッカがまだ空っぽだった頃と何ら変わらぬ答え(モノ)だった。
「麦ちゃん、麦ちゃん!」永久は変形させず基底状態のままのヒルベルトを結界に叩きつけた。「おい、お前も何かしろよ! あの子たちの身内だろ!」
永久が視線を向けた先にいたのは茫然自失として首を項垂れる真神だった。
『いったい自分がどこで何を間違ってしまったのか、それがわからないのだ』
「何の話だ!」
『いや、最初から間違っていたのかもしれない。儂という存在が、この大顎真神が、儚を狂わせた原因かもしれない。教えてくれ、守るとはいったい何なのだ。絆とは、約束とはいったい何のためにあるのだっ!』
「かけ間違えたボタンは……」
不意に、唐鍔牧師が近づいてきてそっと、右手を結界に添えた。
前後に大きく開かれた足の後ろ、左足が地面のアスファルトに直径三メートルのくぼみが生まれる。その踏み込みで発生した〝勁〟は背筋を伝い右腕に収束して拳から放たれる。
──寸勁。
途端、結界の四方に亀裂が走る。
常人の眼には、おそらく彼女の動作は卵を握るように開いた手を一瞬で閉じただけの動作。しかしその掌には空間凝縮を極限にまで高め、量子級超重力天体の生成がおこなわれるほどの縮退現象が起きていた。一瞬で生み出した後、また一瞬で蒸発させるという最小限動作。そのための寸勁。
結界にどれだけ高度な空間断絶効果があったとしても、この三次元宇宙においてブラックホールを防ぐ手段があろうものか。
「かけ違えたボタンは──」
彼女は見返り様に懐から出した〝More〟銜え、アンモナイトのレリーフが彫られたジッポーを擦った。
「またかけ直せばいい、冷めちまったスープはまた温め直せば済むことだ。わたしの見立てじゃ、少なくともお前らはそれができないほど子供でも愚かでもないはずだ」
背中では結界が粉々に砕けながら崩れていた。
「なあ、そうだろう?」
「はぁ、はぁ、はぁ……だから」少年に限界が差し迫っていた。それでも、「だからごめん……ぼくにはオマエをわかってやれません。ごめんなさい…………でした」
しゃべる度、一言一言、言葉を紡ぐ度、ハッカの顔が蒼褪め生気が失われ、代わりに死の色が濃厚に鎌を寄せる。
すると儚は動いた。ハッカの腹に食い込ませていた腕を後ろへ、肘を手前へ引いたのだ。その表情は白髪化した前髪で隠れていたが、その頬には涙の筋が二筋伝っていた。
でも。
と、途切れかけていた語気を強めると同時に引き抜こうとしていた腕を、自身の腹を貫いた儚の腕を、あろうことかハッカは再び腹の方へ引き寄せ返したのだ。
オマエのそばにいることはできる。
それが少年の出した真実。
「オマエのことなんて全然わかんないけど、ゼンゼン、ゼンゼン、これっぽっちもわかんないけど、わかろうと努力する。がんばる。だから今から、ここからお願いします」
ぼくの名前は麦村ハッカ。キミの名前を聞かせてください。
下から臨む、強い瞳だった。
パサリと儚の前髪が揺れる。その奥の双眸が呼応する。ハッカの目線と言葉に、呼応する。
「儚の名前は」
少女の白かった髪が毛先から根元へと黒へ戻っていく。
「儚の名前は、三千歳儚っていいます」
その瞬間、儚の瞳が黒くなると同時に、周囲全天を覆っていた灰色のノイズが消え失せた。
スクランブル交差点の信号が一斉に赤から青へ様変わりする。
数え切れない人ごみの中で、少年と少女はスクランブル交差点の真ん中に立っていた。
四五秒────それが、現実で経過していた時間。赤信号から青信号へ変わる時間。二人が再び出逢うまでに要した時間。二人の新しい時間が、生まれる時間。