第七章 『大(オオ)顎(アギトノ)真(マ)神(ガミ)』
週初めの月曜日、ハッカは学校に渋々行った。変色した髪と眼をあまり人目に晒したくなかったからだ。しかし唐鍔牧師はそれを許さなかった。一度休めばずるずると管を巻き次から行けなくなると主張するからだ。代わりに永久が学校までついて行ってくれた。
学級担任の先生に警戒心を抱かせない柔和な笑顔で、素直に自分が教会の執事だと伝え、一人暮らしを余儀なくされているハッカの面倒を見ている、と包み隠さず端的に答えた。そして服用したステロイド剤がアルビノ体質に反応して副作用が出てしまった、脱色以外に問題はないが学校にいる間は注意してあげて欲しい、と自身の連絡先が記された名刺を丁寧に渡した。
担任の二〇代後半の女性教師はなにやら永久を見てうっとりしていた。
そうして堂々と正面入口から入った永久は、来た道を悠然と引き返しながら学校を出ていった。ハッカは教室前の廊下の窓から、玄関から正門へ向かう永久を見下ろした。男子も女子も、初等部生徒から高等部生徒まで、みな片眼を隠した少年に釘づけだった。学校という隔離された世界では、外来者は奇異の眼に晒されるのは常だ。しかしそれ以上に永久が注目を集めるのはその眉目秀麗な面差しと全身にまとう玄妙な佇まい故だろう。
彼が必要以上に悪目立ちしてくれたおかげで、ハッカが目立つことはなくなった。
正門を抜けたところで、永久は背後の視線に気づいたのは、見返ってハッカに手を振った。
「もう……」
唐鍔牧師にしても永久にしても、どうしてこうもお節介焼きなんだよ。
ハッカは窓辺に溜息を吐いた。
そうしてやっと、学校が終わった。それほど学級の中でも注目を集める子供ではなかったハッカだったが、さすがに授業が始まっても帽子を被り続けたままで、かつその隙間からは純白の毛髪がのぞいていてはやはり気にならないほうが難しい。永久のフォローもあったが、やはり神経を使う。
そんな疲れ果てた放課後のことだった。不意に、携帯の着信ベルが鳴った。
「永久クンだ」
携帯の液晶画面には、そのものずばり〝永久クン〟と映し出されている。
「もしもし永久クン?」
『ああ、麦ちゃん。学校はもう終わってるよね?』
「うん、まぁ」
『今そっちに向かってるんだ、あと一〇分くらいで着くと思う』
「ホントに!?」
『だからどっかわかりやすい場所に立っててよ。正門とかさ──あ、もう信号変わったから切るね、じゃ』
「あっ、ちょっと永久クン!?」
ツー、ツー。
いきなり電話をかけてきたかと思えば、いきなり切られてしまった。
「なんだよ、もう」
一〇分。なにかするには短過ぎる時間だが、待つとなると微妙な長さだ。けれど迎えに来てくれているのに無視するなんてあまりにやぶさかだ。ハッカは正門入口の外側、銅製の表札の横で待つことにした。
「はぁ」
やはり何かを待つ時のこの独特の時間の流れは堪えがたいものがある。ハッカはその場にしゃがみ込み、膝に顔を載せた。
「…………………………………………、」
なにか、気配のようなものを感じる。いや、それは気配というにはあまりにもお粗末な……例えるなら自分から声をかける勇気のない子犬がくんくん鼻を鳴らして訴えかけてくるような、そんな……。
「……ハッくん、だよね?」
「はっ──!」
小声が聞こえてきた瞬間、咄嗟にハッカは顔を上げた。
「あうっ! あっ、やっぱりハッくんだ!」
『だから言ったであろう、俺様の鼻にまかせていれば百発百中だと』
そこにいたのは、ハッカがもっとも苦手とする人物──三千歳儚と、
「また駄犬サマかよ」
その守り神大顎真神だった。
「ど、どうしたの、ハッくん……その御髪、まっ白だよ。あっ、お眼々の色も変わってる!!」
キャッキャウフフと騒ぎ立てる儚に対して、ハッカはあからさまに表情を歪ませ不快をあらわにする。
初等部校舎に来ているということは、どうやらまたイジメられたのか。ボサボサにのびた前髪で隠した顔に、制服にはいくつもの縫った跡が残っている。相も変わらずみすぼらしい身成だと、ハッカは蔑みの眼差しを向けた。
「ハッくん今日ね、今日ね!」
「うるさい! どっか行け!」
「でもね、でもねハッくん!」
ああっ、糞! 埒が明かない。
さりとてこのポンコツ犬神憑き女はハッカがどれだけ罵ろうとプラスにしか受け取れないドMなポレアンナ症候群患者だ。
逃げればついてくるし、こんな女の飯事につき合う気などもうとうない。永久が来ればおそらくついてくることもないだろうが、こんな知り合いがいることを永久に知られたくない。
「ねぇハッくん、ねぇハッくん」
「なぁ儚、鬼ごっこしないか」
「鬼ごっこ?」『ほう、隠れ鬼か』
儚と真神が同時に言う。
「そう。やるだろ?」
「うん、やるやる!」
よし、かかった。
「じゃあオマエが最初に鬼をやれ」
「うん♪」
そうして儚は壁にもたれかかった。
「じゃあ数えるね。いーち、にーい、さーん」
「ばーか」
数を数える儚の言葉に合わせてハッカは冷罵を浴びせ、そのままそっとこの場を離れる。
──まったく、こんなのに構っていられるか。
永久には正門で待っているように言われていたがこのまま歩いていればどこかでぶつかるはずだ。そう思い軽い強歩で進んでいた、その時だった。数メートル先のポストの陰に、何やら人影らしきものを見つけた。
「あ、しまった」
明らかに見覚えのある顔が、一瞬見えて隠れた。
ハッカはポストに駆け寄った。
「永久クン!」
「あ、あははは……執事は見ちゃったって、やつ?」
「見てたの?」
「う~ん、まあ大体?」
「一部始終?」
「う~ん、まあ大体一部始終、かな?」
「サイアク、趣味悪ッ!」
ハッカは永久を置いて一人で歩き出す。
「ああ、もう拗ねないでよ。悪気はなかったんだから」追いかける永久。
「別にスネてないし」
「ああ、待ってよ、置いてっていいの、あの娘」
「いいだよ、あんなやつ」
「そういうの好きじゃないなー」
「ホストやってる八方美人に言われたくないよ」
「もうわかったからさ、一人で行かないでよ。今日は歩きじゃないんだから」
「え?」
とハッカが振り返ると、永久の隣には大きな黒いスクーターが停車されていた。
「ヤマハ──マグザム。どう、かっこいいだろ?」
「これ永久クンのなの?」
「いんや、ホスト仲間の。借りてきた」
「だから急に電話を切ったのか」
「ごめんごめん、この後すぐに開店準備だからさ、急いでるんだ。乗り方、わかるだろ?」
「う、うん。そういえば永久クン、免許持ってたんだね。……あれ、たしかバイクの免許って一六からじゃ──」
「麦ちゃん、俺たち未成年は少年法で罪にはならないんだよ」
「え? いやでもそれ触法じゃ──」
「はい、ヘルメット」
永久から半キャップヘルメットを渡される。
「まあ白バイが相手じゃない限りこのバイクじゃ軽く逃げられるから。気にしない気にしない」
唐鍔牧師といい永久といい、常識を疑う人ばかりだ。本当に信用していいものか、今更ながら悩んでしまうハッカであった。
† † †
「うああ……永久、お願いだ~わたしを殺してくれ~」
バーカウンターに突っ伏しながら、唐鍔牧師は穏やかでないことを吐く。
「やめてくださいよ子供の前で。二日酔いくらいであなたっていう人は死にません」
「けど頭ガンガンなんだよ~。くっそー、昔後頭部に食らったスタンガン並みに痛~」
「はぁ……わかりましたよ」
永久は底の厚いビールグラスを取り出すと卵黄・ウスターソース・ケチャップなどの素材を次々入れていく。そうして一分もしない間に、
「はい、どうぞ」
永久特製向かい酒、プレイリーオイスターのでき上がりだ。
「おお、そいつを待っていた」
唐鍔牧師は鼻を詰まんで一気にのどへ流し込んだ。
「うへぇ~……こいつが効くんだ~」
さも不味そうに顔を歪めながらも、どこか満足そうに言う。
「社長口臭いです」
「煩い、お前も高校入れば呑むようになるんだよ!」
飲酒は二〇歳からでは?
どうやら永久の飲酒や無免許運転はこの人の受け売りらしい。
「はい、麦ちゃんにはこれ」
と言ってバーカウンターに備えつけられている中型の業務冷蔵庫からサンドウィッチを出し、ラップを外してハッカの前に差し出した。
「ありがと」
本当にこの人は何をやるにも手際がいい。いったい何を食べたらこんなに気立てがよくなるのやら。
「言っておくが永久はわたしの嫁だからな。変な眼で見るなよ」
横に唐鍔牧師に囁かれる。
「変な眼ってなんですか!?」
「お前が今してた眼だよ。とろんとしてさ」
「してません!」
「ま、精々変な気は起こさないことだ。こいつにはファンが多いからな。キャバ嬢や風俗嬢なんかが親衛隊作ってるし、祈り屋の若頭ってんで近所のヤクザにも一目置かれてる。お前さえよければ友達になってやってくれ。いつも歳上とタメ張ってたんじゃ餓鬼同士のつき合い方を忘れてしまう。息抜き相手が必要なんだよ」
「ふ~ん?」
よくわかんね。
「ちょっと変なこと吹き込まないでくださいよ。俺が寂しいやつみたいじゃないですか」
「なんだ聞こえてたのか。でもお前飲みにつき合わされるのいつも厭がってるじゃないか」
「あれは牧師が面倒臭いって俺に押しつけるからじゃないですか。いつもいつもほとんど知らないメンツだし。なんで俺みたいな若輩者が祈り屋の代表で出なくちゃいけないんですか」
「お前に世渡り上手になって欲しいという老婆心故さ。第一わたしのパイプや地盤はいずれお前が継ぐんだ。慣れておくことにこしたことはないだろ」
「俺はあなたの世話だけでいつも精一杯ですよ」
「またまた」唐鍔牧師は茶目っ気のある仕草で永久を指差した。「よし! 向かい酒も呑んだことだし、そろそろ行くわ。永久、金くれ」
「二万だけですからね」
「え~、もう一枚、もう一枚だけ!」
「ダメです、どうせ負けてくるんですから。牧師賭けごとめちゃくちゃ弱いんだから」
「でも終わったら呑みもあるし~。というか~、負けるって決めつけるな、今日はいけそうな気がするんだよ~」
普段からは考えられない猫撫で声で甘えてくる唐鍔牧師に、永久は溜息を吐いて財布から三枚の紙幣を取り出す。
「二日酔いのくせにもう今晩の呑みのことなんて考えてるんですか? はぁ、二五〇〇〇円まで、それ以上は出せません。まっ、勝ってくると言うのなら、精々期待しないで期待させてもらいますよ」
「サンキュ、愛してるよ永久♪」
そう言って彼女は永久の頬にキスをした。
「だからやめてください子供の前で」
「ははははっ。じゃ、行ってきまーす」
「友達に借金しないでくださいねー!」
彼の忠告に、唐鍔牧師は背中を向けながら片手を上げて応えた。
さらに永久はその返事に対して、唐鍔牧師からは見えてもいないのに深々とお辞儀をして見送った。
「どこに行くって?」
「競艇。PTAの人たちと」
「PTA!?」その単語を耳にした瞬間、ハッカは凝然と永久を仰ぎ見た。「あれって保護者と教師の集まりでしょ? なんで社長が……しかも競艇って」
「あはは、牧師のはPTAはPTAだけどP・T・AのPTA。ようは夢路街近辺のダメオヤジたちを集めた連盟会だね」
「ダメオヤジって……」
「まぁ賭けごとも煙草も酒も呑むけど、みんなで節度を持ってやろうってのが理念。月に一、二回、お金を決めてね。たまにみんなで人間ドックに行ったり、ボランティアなんかもしてるよ」
「ダメオヤジ、ねぇ……。社長ってたしかにそんなカンジがする。で、強いの賭けごとは?」
「それがてんで。いつもオケラになって帰ってくるよ。あの人自身は麻雀もカードもビリヤードも、スポーツ全般にも強い〝負けなしの虎〟なんだけど、いざそこに金品が絡んでくるとてんで弱いんだこれが。そのくせ無類の博打好きってんだから本当に頭が痛いよ」
やれやれ、と永久は頭を抱えた。
まるで世話焼き女房だ。単に手綱を握っているわけではなく、あくまでも唐鍔牧師を一番に戴かせる立ち回りをしている。
友達、姉弟、親子、恋人、夫婦。あらゆる関係を二人だけで完結させたような唐鍔牧師と永久だが、やはり上下関係においての線引きはしっかりとされている。師弟と言えば格好はつくが、それでもあまりない関係だ。けれども傍目から見ていてまるで危うさがない。
ハッカの眼には二人の関係がどうしようもなく新鮮で眩しく映った。自分にもこんな人とのつき合い方ができるだろうか、と。
なんてことを考えながらハッカはぱくりとサンドウィッチに齧りついた。
「──!」
めちゃくちゃ美味い。
なんてことない普通の卵サンドだと思って食べたはずなのに、口の中で独特の辛味と甘味……それにほどよい酸味が広がってくる。歯ごたえと舌触りもシャリシャリ小気味いいものがある。
これはもしかすると──、
「どう、タマネギがいい味出してるだろ? レモン汁もほんのちょっと入れるのがポイントなんだよ、これがさ。それぞれ癖が強い分、いっしょにするといい感じに互いの角を削ってくれてさ──って、聞いてる、麦ちゃん?」
「ふぇ(え)、ふぁ(な)に?」
自慢げに説明する永久をよそに、ハッカはサンドウィッチを口いっぱいに頬張らせていた。
「牛乳、飲む?」
口が開かなくなったハッカは、頭をこくこくと何度も頷かせる。
「はい」
「ありふぁ(が)と」
「その口にものふくみながらしゃべるのやめなさい。あ~、そんな口のまわり汚して」
柔らかいナプキンが口をなぞる。
「そうだ麦ちゃん、今日これから買い出しに行くんだけどつき合ってくれるかな」
「ごくっ……買い出し?」
「そ。食料品とか生活雑貨とか。ああ、祈り屋で使うのじゃないから安心して、こっちのは大量で大変だから業者さんに来てもらってるから。牧師館で使うやつなんだけどさ──手伝って、くれる?」
わずかに首を傾ぐ仕草で訊いてくる。
「永久クンって、ホント主夫だね」
「ん? 俺は執事だよ。なに言ってるのさ」
永久な切れ長な眼をきょとんとさせてハッカを見返した。
「ああ、それに天然だ」
† † †
「永久クン大丈夫? そんな大きなの持って」
「ん? ヘーキ、ヘーキこれくらい」
そう言って永久はホームセンターで買った数枚の床板用の木材を肩に担ぎながら軽々とステップを踏んだ。土方のバイトでもしていたのだろうか。
「でもそんな重くて大きなのサービスカウンターで宅配してもらえばいいのに」
「そしたら今日中に作業できなくなるからね。こないだ牧師が麦ちゃんを助けた時に踏み込みだけで穴空けちゃったし、うちの牧師館はただでさえ旧いからね。一年通して少しずつ修繕していかないと保たないんだよ」
「そんなの改築業者にたのんでぱぱっとやっちゃえばいいのに」
「はぁ~、麦ちゃん」
永久は顔をしかめて項垂れた。
「何さ、そんな深いため息ついて」
「改築がどれだけお金かかるか知ってるの。規模にもよりけりだけど一般民家でだいたい二、三〇〇万だよ。それにうちみたいな煉瓦造りじゃ受けつけてくれる業者は限られてくるし、足元も見られやすい。極めつけに一棟丸々となると一〇〇〇万じゃとても効かないよ」
「そういえば祈り屋の台所は永久クン一人で管理してるんだったけ」
「金銭感覚が破綻してるうちの牧師に経理なんて絶対無理だからね。クレジットカードなんて持たせたら一晩で利用停止になっちゃうよ」
「あぁ……あの人ならやりかねないね。で、もう回るところはないんでしょ、さすがにもう持てないだろうし」
「う~ん、最後にドラッグストアに寄りたかったんだけどな~。でも寄ってたら修理する時間も夕飯の時間もなくなるし……」
木材だけでなく両腕にたくさんの買い物袋をぶら下げた永久が、右手首の腕時計を変な方向に首を動かして見やる。
「ぼくが行くけど?」
「ホントに。じゃあこれにチェックしてるやつ買ってきて」
と、永久は赤い丸がいくつも記された広告をハッカに手わたした。
「え~と、石鹸にティッシュ、トイレットペーパー、この詰め替え用のシャンプーとコンディショナー……これ領収書はいるの?」
「君は変なことを知ってるな。いらないいらない、レシート一枚あれば充分だから。はい、お金ね」
そう言って永久は財布から数枚の紙幣を出した。
「ちょっと多いんじゃないの、これって」
チェックされている商品の合計金額よりもいくらか多い、これっていったい……。
「お駄賃」と永久。
「オダチン?」
「もしくはお小遣い」と永久。
「モシクハオコヅカイ?」
「そ、麦ちゃんまだ祈り屋にきてまだ日が浅いのによく手伝ってくれてるな、って。だからそのご褒美」
「ソ、ムギチャンマダイノリヤニキテマダヒガアサイノニヨクテツダッテクレテルナ、ッテ。ダカラソノゴホウビ?」
「……………………麦ちゃん、それわざとやってるでしょ」
永久は半眼に眇めたジト目を向けてくる。
それにはっとするハッカ。どうやら夢現だったらしい。
「どうしたの、麦ちゃん。嬉しくないの? それとも少なすぎかな?」
「そんなそんな、ゼンゼンゼンゼン」
ハッカはぶんぶんと首を横に振る。
「ただ」
「ただ?」
「はじめてだったから、ご褒美なんてもらうの」
「〝はじめてって〟そんな莫迦な、あ──」
毎月口座には充分過ぎるほどの生活費は振り込まれてきてはいるが、空っぽだったハッカの性格に愛想が尽きた両親は、ずっと彼のことを冷遇し続けてきた。
だから永久がしたおこないは、本当の本当にハッカにとって初めての経験だった。
ただし、あくまでも儚のおこないを抜きにした場合だが。
しかし儚は善意でハッカに奉仕しているわけではないので、きっとその限りではない。
「そっか」永久は肩をすくめなが鼻で溜め息を吐いた。「じゃあなんでも好きなもの買ったり遊んだりしてよ。といっても少ないけどね──あれ?」
そう言ったころには、ハッカはもう広告のドラッグストアへ小走りで向かっていた。
すると五〇メートルほどのところで永久の方へ振り返る。
「ありがとー、永久クーン! 大事に使うねー!」
小さな身体でめいっぱい手を広げて振った。
永久もそれに微笑みで返した。
† † †
「はっ、はっ、はっ──」
誰かから信頼されること、期待されること、そしてそれに見合う報酬をもらうこと。今までたった一人で完結していた世界が一気に拡がった気がした。逸る気持ちを抑えきれずに、自然と脚が加速し出して走ってしまう。
気がせって、永久からもらったお金はまだ財布に入れてない。握ったまま走っていた。
その時だ。
「うわっ!」
「ひゃうぅ!」
『グルるぅ……』
ハッカは夢中になるあまり細い路地から出てきた人に気つかず、勢いよく正面からぶつかってしまった。
「痛た。なんだよいったい」
「ハッ……くん?」
聞き覚えのある声。そしてぶつかった感触にも覚えたがった。顔に覆いかぶさる柔らかくて大きなもの。
「あっ、あっ、ごごごごごごごごごごごごご、ごめんなひゃいっ! あのともだちと鬼ごっこしてて、そしたら真神サマにひっぱられちゃって──あれ?」
当たってきた人物の右手が、唐突にハッカの手首を取った。
『こふぉ(ぞ)う、やっふぉ(と)く(つ)かふぁ(ま)えたふぉ(ぞ)』
「へぁ?」
ハッカは自身の右手に絡んだ布と、それと一緒に聞こえてくる、これまた聞き覚えのあるハスキーヴォイスに思わず声を裏返した。
「あっ、ハッくんだ!」
『だから言ったのだ、儂の鼻にまかせておれば万事仔細無いと』
野暮ったい前髪で顔を隠し、女にしては高過ぎる身長に、グラマラスなプロポーション。それに右手にはめられた犬のシルエットのマペット。
このすべてが当てはまる人物を、ハッカは知っている。このすべてが当てはまる人物を、ハッカは一人しか知らない。それは、
「儚!?」
心を病んだ犬神憑きの少女──儚だった。
「なんでオマエがこんなところにいるんだよ!」
「え? だって鬼ごっこしてんじゃないの、儚たちって」
こともなげに出てきた儚の言葉に、ハッカは瞠目した。
「まさかオマエ……一晩中ぼくをさがしてたってんじゃないだろうな」
「うん、そだよー。だってハッくんたらかくれるのがすごくすごいうまいんだもん。おかげでお昼になっちゃったよー」
そう言う儚の眼は真っ赤に血走り、寝ていないせいか、話し方もどこかイントネーションがおかしい。
「だからってオマエ……そのかっこうはいったい」
儚の姿は一晩で見違えるほどみすぼらしく薄汚れていた。髪はボサボサで千々に乱れ、服は所々綻んでいる。また頭には蜘蛛の巣がかかり、靴を片方履いていない。泥だらけの靴下は破けて親指がのぞいていた。しかしいくら一昼夜外を歩き回ったとはいえ、どうやったらここまで見苦しく汚れることができるのか。
「さ、これでいっしょに帰ってくれるよね」
「あっ」
儚はハッカの腕を取る。見た目の鈍臭い印象とは裏腹に、彼女は非凡な力強さを秘めていた。体格も小さいハッカでは、簡単に力負けし引きずられてしまう。
「くそっ、やめろ、引っぱるな! ぼくはあんなところ二度と帰らない、ぼくには祈り屋が、社長と永久クンがいるんだから、あ──」
儚がつかんだ手首の先。その手の先に、握り締めていたはずの紙幣がなくなっていた。
どこにいった?
どこでなくした?
「ん? どうしたのかな、ハッくん」
「はなせ、バカ!」
ハッカは儚の足の甲を踵で踏み抜き、手首をつかんでいる手に噛みついた。
「ひああぁぁ!? 痛いよハッくん! ……ハッくん?」
困惑する儚をよそに、ハッカはアスファルトに手をつき四つん這いになってなくした紙幣を探している。
「ない、ない、ない! どこにいったんだよ、くそっ!」
永久クンからもらった大切なお金なのに!
どうしよう、見つからないよ。せっかく永久クンがまかせてくれたのに、頼んでくれたのに!
「どうしたのハッくん……落し物したの?」
「うるさい、アホ! オマエのせいだ! オマエがいきなりぶつかってきたりするから、永久クンからあずかったんだお金がなくなったじゃないか!」
「ナガヒサくん? だれかな、その人? お金なら儚のを上げるよ。それでなにか買お、お菓子でも、おもちゃでもなんでも買ってあげられるよ」
儚はポケットから財布を取り出す。色気も何もない、茶色いくて地味な、紳士ものの薄汚れた財布だ。それを眼にした瞬間、儚の言葉を耳にした刹那、ハッカの中で飽和し沈殿していた感情の結晶が化学反応を起こして爆ぜた。
「うわああああああぁぁぁぁぁアアア!!」
ハッカは儚に飛びかかり、一回りも二回りも体格の大きいはずの彼女を、何と押し倒し馬乗りにした。
ハッカの心の底で弾けた〝それ〟は、暴力というカタチで質量をともない現実へと干渉する。組み伏すハッカは儚の顔目がけて何度も拳を振り下ろした。
なんでこんなやつが。
こんなやつのお金と永久クンのとが釣り合うもんか。
なにも知らないくせに、なにもわからないくせに。
なんなんだよ、その汚い財布は、汚いお前は。
せっかく新しいスタートが切れると思ったのに、こいつはぼくを縛ろうとする。あの空っぽで空虚だったころのぼくに縛ろうとする。
だったら否定してやる、今の、このぼくを守るために、肯定するために、この薄汚くて矮小なちっぽけな存在を──。
感情という渦の中を、無数の泡沫が生まれては消えてを繰り返す。
ハッカの拳が、儚の顔を逸れて固くてささくれだったアスファルトを叩いた。じんわりと広がる熱と痛み。そして、そして自分の股の下で涙を流して啜り泣く少女。
はたと、ハッカは我へと帰る。
拳から血が滴り落ちるのを見ながら、すっくと立ち上がった。
「ひっ……、ひぐっ。ハッ……くん?」
顔を庇っていた腕の隙間から、儚は自身を蔑み見下す少年を見上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。お願いだから儚のこと嫌いにならないで、なんでもするから、ハッくんが嫌がることは何もしないから。だからお願い、お願いだからそんな顔で儚を見ないでよぉ……」
「………………………………フン」
ハッカはなにも言わず、静かに落ち着き払って様子で踵を返した。心の秒針は、もう零から離れなかった。
「待って、お願いだから待って! 儚を一人にしないで、儚がんばったよ、一生懸命ハッくんをさがしたよ? 学校でイジメられてももう泣かなくなったよ。お父さんとお母さんに何もしてもらえなくても、ちゃんと自分一人でがんばってるよ。すごいでしょ、えらいでしょ? でも辛いんだよ? ねぇ、かわいそうでしょ? だから儚を守ってよ、儚がイジメられないようにどこかに閉じ込めてよ! ねぇ、ハッくん!!」
「うるさいッ!!」
取り縋って泣きつく儚を、ハッカは文字通り蹴りで一蹴する。
『何をするか小僧ッ! 儚は夜の間鳥目で役に立たない儂に頼らず、一睡もしないで一晩中捜し続けたのだぞ! 謝れ! でなければその首掻っ切るぞ!!』
日本の狼伝承に、大口真神という家を空き巣や火事などから守ってくれる御利益の狼神が存在する。しかし〝犬・狼〟といった獣には、そういった家を守る番犬的な側面以上に、神話や伝承の時代から洋の東西を問わず、乙女を守護するものとして記されていることが多い。けれどもここにいるのはただのスエードのマペットで、物理的に守護するのは不可能といっていい。しかし儚のために激昂する真神の姿は、普遍的無意識から面々と受け継がれる少女の貞操観念ないし父性を象徴・体現化した〝狼の元型〟そのものだった。
「それがどうした、黙れよ駄犬」
ハッカは儚の右手にはまった真神をつかむと、そのまま地面へかなぐり捨てた。
「あ……、あああぁ……真神サマが、真神サマが」
落ちた真神を拾い、地面にへたり込む儚げな少女。
「オマエは」
あひる座りをする儚に、ハッカは一歩、歩み寄った。
「オマエは誰かから心配されるほど大切な人間なのか? 特別な存在なのか?」
射殺すような、冷厳な眼差し。起伏も抑揚もないいたく冷静で落ち着き払った声音であるにもかかわらず、酷く峻烈で突き放す……言葉だった。
「憐れだな。オマエはどうしようもなく惨めだよ」
儚はびくりと肩を震わして萎縮し、涙を流した。明らかに動揺している。
ハッカはそれ以上何も言わず、ただ足音だけを響かせながら身を反転させた。
「ハッくんだって……」背中で、むせび泣きながら名前を呼ぶ声がした。「ハッくんだって……かわいそうだよ」
ハッカの足が止まる。
──ぼくが……、かわいそうだって?
ハッカは即座に背後の儚に振り返る。
儚はハッカの形相に怯えた。
「…………はっ、くぅ」
ハッカは何かをしゃべろうと大きく口を開けたが、直ぐにその口を閉じ、代わりに拳が真っ赤になるほど握り締めた。
「絶交だ」
「え?」
儚の涙が引いた。
「もういい、アンタとは今後いっさい顔も合わせないし話もしない。…………絶交だよ」
そう言って、また静かに歩き出す。その小さな背中は、誰も隣に並び立つのを許さなかった。
† † †
暁刀浦からファウンデーションへと続く橋。
暮れ泥む夕陽、残照が空を彩る落日の時間。
少女と、その右手に宿った犬神はまさに失意の底を歩いていた。
こんなはずじゃない。
どうしてわかってくれないの。
こんなにかわいそうな儚を、こんなに脆弱な儚を、どうしてハッカは守ってはくれないのか。
「ちがう」
あんなのはハッカじゃない。
以前のハッカは冷たいけれど、その中は空っぽで空虚で、誰も拒まない真綿のような何かがあった。
でも今はもうない。唯一儚が縋れた場所は、もうなくなっていた。
誰がそれを奪った? 誰がハッカを変えてしまった、あの素直で可愛らしい、ちょっぴりへその曲ったいじらしいあの子は……いったいどこへ行ってしまったんだ。
「イノリ……ヤ」
ハッカが言っていた、儚の知らない単語。
シャチョウ、ナガヒサくん。この二人がハッカを変えてしまったのか。この二人が……儚からハッカを奪っていったのか。
「許せない」
誰なのかは知らない。けど自分だけのハッカを、あの自らの歪な内面を理解できない憐れな少年を────────────目醒めさ(きづか)せて、しまった。
あの少年は、蜘蛛の糸を伝う危うさと不完全の上に立っていた。けど、それ故に彼は完璧だった。画竜点睛を欠くあの状態だからこそ、まだ儚が依存できる余地があった。あの子にとって自分は必要な存在なのだと、思わせてくれた。
その均衡が崩れてしまった。
本来心を持たないはずの人形が、自我に覚醒させてしまった。
心を持ったピノキオは、世界を知るために旅に出る。
「だからハッくんも……」
この手から離れていってしまったのか。
延々と答えの見えない堂々巡りの思考を繰り返しているうちに、儚はファウンデーションへ着いていた。その足は、家へは向かわない。いつもハッカが座っていたセンターエリアのスクランブル交差点前の階段。ちょうど日も暮れ、空が黒衣をまとい、街が電飾の盛装を始めた時だった。ハッカはいつもどんな気持ちで独りぼっちの街で黄昏ていたのだろう。あの子もずっと、何かを待ち続けていたのだろうか。
でももうそれも、わからない。ハッカはきっと二度とここへは来ない。このスクランブル交差点のように、心は交わってくれない。
『儚ぁ……』
そんな心を傷めた少女を憂いてならないのは、守護神の真神だ。彼もまた自身の無力さに打ちひしがれていた。元々、この大顎真神は儚の幼少期からの育児放棄や学校でのイジメなどから常に守られていたいという欲求から生まれた、謂わば他人格だ。ユング的な分析心理学でいうところの父性権力の象徴が狼神という仮面をまとい精神から乖離した。そんな彼にとって、儚を守ることこそがあたえられた唯一無二の存在意義。
けれど守れない。どうしようもなく守ることができない。あまつさえ儚は人形を愛でるが如く心のないハッカに依存する始末だ。
ならこの大顎真神の存在価値はどうなる。神でも、ましてや人間ですらないこの不完全存在に、生きていく価値は、儚の傍にいる価値は、はたしてあるの否か。
『もうあの小僧のことは忘れろ。最初から無理だったのだ、あのような人としての欠陥品にもうなんの未練もなかろうに』
ケッカン……、ヒン?
「ちがう! ハッくんは欠陥品なんかじゃない!!」
いくら他人への無関心と傍観を心情とする都会の人々でも、この異質な雰囲気で大声を張り上げる少女に対しては奇異の眼を向けずにはいられなかった。
スクランブル交差点の隠れた隅、潰れて久しいテナントビル前の階段に、未だかつてない視線が注がれる。しかしそれもほんの数秒の出来事、街は、人は再び機能を取り戻す。何ごともなかったかのようにだ。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ! ハッくんは欠陥品なんかじゃないハッくんは壊れてなんかいない。だって初めからそうだったんだもん。でも最初から壊れてるから欠陥品って言うから、でもだからこそおんなじ儚のことを感じてくれた。儚とハッくんは最初から壊れてたってことなの? じゃあ今のハッくんは何? 直ったってこと、まともになってしまったってこと? そんなのダメ。儚独りが置いてけぼりなんてヤダ! ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん!!」
少女の思考は、すでに意味をなくしゲシュタルト崩壊を引き起こしていた。このままでは本当に、心を病むどころか粉々に壊れてしまう。その時だった、少年が放った一言が不意に脳裡に去来したのだ。
──オマエは誰かから心配されるほど大切な人間なのか? 特別な存在なのか?
だったら、特別な存在になってやればいいじゃないか。なんでそれに早く気がつかなかったんだ。ハッカから心配されて、また守ってもらえるだけの、特別な、とびきり特別な、特別な存在に。誰にも負けない、誰にも追いつかれない、そんな存在。もし、他の特別があるなら、そのことごとくを否定してやる。みんなみんな否定して、拒絶しつくしてやる。それこそが、自分を肯定すること。肯定し尽くした先にあるのが、並び立つもののない唯一無二の〝特別〟。
その時だった。
『そんなに特別が欲しいなら、いくらでもボクがプレゼントするよ』
携帯電話の着信メロディーが、ざわめく雑踏の中で響いた。誰からもかかってこないせいで、自分で設定しておいていながら忘れかけてしまうほどに久しく鳴った、音だった。
着信はメールだった。メールランプが点滅している。
怪訝に思った儚は、二つ折り携帯を開いた。
しかし画面には何も映ってはいなかった。電源を切った覚えなどないのに真っ暗だった。すると薄っすらシンボルが、紅い鳥居が浮かんでくる。
玲瓏な鈴の音が、耳の奥で響くように耳朶を打った。
シャン、シャン、シャン、シャン。
液晶モニタに完全に鳥居が姿を現すと、文字キーが独りでに光り始めた。
「あ……、ぁ……」
儚の親指も、独りでに動き出す。打った文字が、古印体となった鳥居の下に並んだ。
「あ……、遍くセカイの片すみで……」
打ち込んだ文字がのどの奥から口を衝いて出る。
『儚? どうした、儚!』
右手が主人の異変を察知する。しかしそれも遅かった。
「飢えたのどを────掻きむしる」
その瞬間、スクランブル交差点の片すみにいた少女は消えた。誰の気にも止められることなく、なんの痕跡も残さずに──いや、
パサリとコンクリートの階段に薄汚れた布が落ちた。
狼を象った、手作りのマペット。
少女がそこにいた、ただ一つの証跡。しかしそれこそこんなものに気を止めるものなど、誰一人、いなかった。
† † †
かごめかごめ 籠の中の鳥は
辺り一面に広がるのは鬱蒼とした竹林。そこに霧が灰色の紗幕を垂れ込めている。
風はない。竹同士がぶつかる音もしなければ、笹の葉擦れのざわめきすらない。
ただ、そんな静かな竹林の中で響くのは、三千歳儚の旧びた石畳を踏みしめる足音だけ。
彼の進む石畳の上には鳥居があった。真っ赤な朱に染まった明神鳥居。それも一つではなく、何千なのか、それとも何万なのか……。途方もない数が林立して、朱色のトンネルを象っている。
いついつ出やる
儚の目は虚ろだった。目的がわらない。それでも足だけは前へ出た。いったい何時間、儚はこうして歩き続けているのだろう。もしかしたら何日間も──いや、ひょっとしたら生まれた時から歩き続けているのか。儚には今が昼なのか夜なのかすら判然としない。ただ実感としてあったのは、いろいろな感覚や感情が一つずつ麻痺して壊死して腐り落ちていくような、途方もない喪失感だけだった。
夜明けの晩に
不意に、霧が濃くなる。水に牛乳をまぜたような空気が、四方をさらに強く覆い隠す。儚の呼吸が荒くなる。空気を吸っているのではなく、まるで水を飲んでいるよう。頬や前髪を、つぅと大きな雫がしたたり落ちる。いつの間にか、儚は春雨を被ったように濡れそぼっていた。
鶴と亀が滑った
とうとう鳥居も見えなくなってしまったところで、儚はようやく歩みを止める。
すると周囲に人影のようなものがいくつも浮かび上がる。それらは手をつなぎ、儚の周りを取り囲みぐるぐると回りだす。それはちょうど、〝かごめかごめ〟に似ていた。『囲め、囲め、屈め、屈め』。儚は自然としゃがむ姿勢になっていた。
後ろの正面だあれ?
後ろの方で確かにそう尋ねられた。儚が背後を振り向いた先にあったのは青いテレビだった。
ザ……ザザ、ザザザ……お、めでとう。
砂嵐のモニタ画面に、少しずつ鮮明さを得ていく。そこに映るのは縞の服を着たネズミのマスコット。その造形は極めて醜悪だ。
『おめでとう、キミは選ばれたんだ────アルジャーノンに』
「彼は誰?」
針の入った水晶のような小さいけれど透き通った低い声が、儚の口から零れた。
『ボクかい? ボクの名前はカレルレン。特別と永遠を求める子供たちのトモダチさ』
カレルレンは画面越しにPEZを差し出した。
『さあ、これを食べて夢を観るといい』ことりと、テレビの下にPEZが落ちる。『所詮この世は夢幻。だったら面白い夢を観た方が勝ちだと、思わないかい?』
そう言って、カレルレンは笑った。被りものの中など見えはしない。けれどその声は確かに冷笑し(わらつ)ていた。
『意識で肉体を使役するんだ』
† † †
「おい、起きろ麦村。夕寝なんぞしてると夜寝れなくなるぞ」
頭の上から降ってくる音声に、ハッカはビクリと身を震わせた。
「……しゃ、ちょう?」
目ヤニで固まった目蓋を擦りながら上体を起こすと、そこには右肩にジャケットを担ぎ、火の点いていない煙草を銜えた唐鍔牧師が立っていた。
「どうしたお前、教会なんかで寝て、今日は営業ないって言わなかったか?」
「別に……、何でもありませんよ」
ハッカは牧師館ではなく、祈り屋の礼拝堂のソファー。儚との悶着で与っていたお金をなくしてしまった負い目から、永久に合わせる顔のないハッカは隠れて不貞寝をしていたのだ。しかしお使いの品はしっかりと身銭を切って買っている。けれど表情ばかりは誤魔化しきれない。きっと心配するし詮索だってしてくる。きっと自分はそれに堪えられない。そう思ったら、自分にはここしか隠れる場所がなかった。
「ったく、何もないわけないだろ、そんな旋毛の曲がった顔しやがって」
唐鍔牧師はすでに呑んできているのか、口を開くたびに酒気を吐き出し、身体からはニコチンと周りの親爺たちから拾ってきた加齢臭をまとっていた。
「臭いです」
「んあ? 何だって?」
「だから近寄らないで。臭いんですってば、起き抜けの繊細な粘膜を刺激しないでください」
「え~、そんなこと言われるとお姉さんか~な~し~い~」
唇を尖らせながら、覆い被さるように抱き着いてくる。
「あ゛~、臭いくさいクサイKU・SA・I!」
まるでタチの悪い酔っぱらい親爺のようだった。まさにタチの悪い酔っぱらい親爺同然だった。
「何拗ねてんのさ」
耳を舐めるか齧るかしてきそうな勢いで肉迫してきたかと思うと、そっと囁やかれた。
「なんのことですか」
ハッカはつとめて冷静に、落ち着き払った声音で返してみせた。
「はん、別にお前が白ばっくれるってんならいいさ、尊重しよう。けどな、わたしは牧師だぜ? 今までどれだけ他人の心に触れてきたと思ってるんだ。告解を強要するほど野暮なことはないが、わたしゃ言ったよな昨日、自分の中に溜め込むなって」
ハッカはそのまま押し黙る。
「その沈黙、わたしゃ同意と受け取ったね。まあいいさ、言いたい時にしゃべりな」そう言って、煙草(More)に火を点ける。「そうだ、お前こんなの要るか?」
わたされたのは木綿の布片。それを手にして束の間、ハッカの時間が止まった。既視感が衝撃となって頭の頂点から爪先に迸る。
「どうしたんですか……これ」
「ああ、ファウンデーションから帰る時に拾ったんだよ、繁華街で」
唐鍔牧師が持って帰ったその布は、主に灰色の寒色で統一され、作りが袋状になっていて、鍋つかみのように手をすっぽり入れられる形になっていた。
「大顎……真神」
ハッカの口からその布の、もといマペットの神名が零れる。
「なんだ、知ってたのか?」
唐鍔牧師はハッカの顔をのぞき込む。
「いえ、知りませんよこんなボロ雑巾」
ハッカは嘘を吐いた。儚が後生大事にしているはずの真神が、こんな所にあるなどありえない。しかし儚とは数時間前に絶交したばかり、それはつまり縁を切ったということで、もう彼女らに構う義理もないことを意味している。
「んん? なんだその知ってますと言わんばかりの表情と間は?」
確かにこの態度では、彼女が訝しがるのも無理はない。けれどもどっちにしろ「知っている」と言えば自分自身に嘘を吐くことになる。
故にハッカは選択した、自分を偽りたくはない、と。
「別に他意はありませんよ。ただ本当に……ぼくはこのマペットのことなんか知らないんですよ」
「そうか。ならこれはお前が持っとけ」
そう言い、唐鍔牧師は祈り屋の大きな樫の観音扉へ歩きだした。
「ちょっと、ぼくこんなの要りませんよ」
すかさずハッカは唐鍔牧師を呼び止める。しかし彼女は、
「お前の好き嫌いなんて関係ないさ。わたしはさ、それがお前にぴったりだと思ったから持って帰ってきたんだからな」
「適当なこと言わないでください。僕とこのボロ雑巾のどこがどうぴったりだって言うんです」
少しだけ感情的になるハッカに対し彼女はやれやれとでも言いたげに肩をすくめると、おもむろに身を反転させハッカの方を向いた。
「わたしはただ何となくそれがお前の許へ行きたがってるように感じたから、きっとわたしにはそれ以上のことは分らないんだよ。でもぴったりのお前なら、もしかしたら違ってくるかもな」
それだけ言うと、唐鍔牧師は再び踵を返して戸の方へ行ってしまった。
「ぴったりってなんだよ、こいつがぼくをところに来たがってるって? 社長まで電波サンかよ!」
投げつける相手もいない怒りが、腹の底から湧き上る。
「ふん……文句があるなら、儚ナシで言ってみな」
ハッカいつも儚に言っているようないじわるをふて腐れるような口調で吐き捨てて、マペットを、大顎真神を、ゴミ箱へ落とした。するとその刹那鳥の啼き声が、耳の奥で響いた。
† † †
そこにあったのは茜色の空と、潮騒と、無人駅だった。《へびつかい座ホットライン》がやってくる。今度は停らない。そのままスピードを緩めることなく、ハッカの眼の前を過ぎて往く。風が鼻先を掠め、ハッカは咄嗟に眼を閉じた。
その一瞬、電車の窓辺に紅い服と帽子を被った人影が映る。しかし再び目蓋を開けた先にはもう電車などはるか線路の向こうだった。
ハッカは視線を正面の海へと向けると、線路を挟んだ駅の対岸に灰色の毛をたくわえた狼が佇んでいた。
大きな、それは巨躯な狼だった。艷やかな毛は潮風に揺れ、イヌ科独特の面長な顔は人間に例えるなら精悍で筋肉質の青年を思わせる。何より特徴的だったのは金色がかった白眼と小さな黒眼だった。三白眼。睨んだ相手を射すくめる、和弓のようなしなやかな鋭さ。その視線が今、直線上に立つハッカに真っ直ぐに注がれていた。
「あ……っ」
ハッカは恐怖で動けなかった。狼に敵意はない。が、眼光の放つ見えない縛鎖の前からは逃れられなかった。
「は──ぁ」
ハッカは息を呑んだ。狼が大きく弧を描き宙へ躍ったのだ。線路を越え、ハッカの頭上を越え、そして無人駅のプラットフォームへ四足同時に着地する。
ハッカと狼、背中を向け合った両者は申し合わせたように同時に、左から首を傾けて振り返った。
両者の視線が水平に位置する。それだけ、狼の身体は大きかった。
「真神……なのか」
振り絞るのような声で、ハッカは言った。
『如何にも。我、真神原が狼王、大顎真神にてござ候』
それはたしかにしゃべった。小さく口を開け、低く唸るような声で人語を解した。
すると続け様に一歩、二歩、ハッカの方へ歩み寄ってくる。
喰われる、とハッカは思った。人喰いでも知られる真神伝説。あの大きなあごならば、子供どころか猪や牛の骨おも砕きかねない。
ハッカが身を萎縮させたその時だった。真神は腰を降ろし、頭を地へ落としたのだ。それはちょうど人間が畏敬の念を込めて深々と土下座をするのと同じ姿勢だった。
『麦村ハッカ。お願いだ、儚を助けてくれ……!』
「なんのマネだよ。儚を助けるって、」
戸惑うハッカは、数歩背後へ後退る。
『あの山の頂きに棲む天狗に、儚が連れされたのだ』
真神が向く方向には紅く錆びた電波塔がそびえていた。
──虹蛇ノ杜。
奇人カレルレンの居城。ファウンデーションで起きていた神隠し、そのすべての因果がつながる場所だった。
どうして、とハッカは虚脱する。チェーンメールの呪いは自分で終わっているものとばかり思っていた。
『あの儀式は特別でありたいと願いすべての子供に起こりうると、あの刀自は仰っていた』
「刀自って、女の人? だれだよ、それ。なんでそんなこと知ってるんだよ」
『儂もそこまでは及ばない。が、あの御仁は、亜鳥と名乗った御仁は貴様にしか助けられんと、そう云って儂をここまで案内、引き合わせてくれた』
亜鳥、が……?
ハッカは首にかかった真鍮の螺子巻きを握る。胸が、軋むように痛苦しかった。
『この命貴様に捧げてもいい。だから後生だ、儚を救ってくれ』
どうやって助けろと言うのだ。それになぜ儚は特別なんてものを望んだ。平凡・凡庸のさらに下の下を、底辺を這いつくばり、さらには溝すらさらう生き方を一七年間もしてきた女だ。そんな女が今さら人よりも上に立ちたいとなぜ思う?
『お前のためだよ、麦村ハッカ』
「どういうことだよ……それ」
『彼奴は、貴様に認めてもらいたいがためだけに……天狗と契を交わしてしまった』
ぼくの……ために?
眩暈が襲った。吐き気が食道を這い上がる。
「オマエは、儚の身体と心から離れてここにきたのか、主人を助けるために」
『違う、儚は主ではない! 彼奴と儂は、主従などという関係を超克した同一存在だ……半身なのだ。だが、もし力を貸してくれるのならば、貴様にかしずくことをここに誓おう』
ハッカのすぐ前まで歩み寄ってきた真神は、少年の足許に再び頭を垂れた。
「なんだよ……なんだよ、それ」
困惑するハッカは、また一歩背後へ後退ると、そこにはもう地面はなかった。すぐ下は線路だ。
「知るかよ……、そんなの」
『な、に?』
「ぼくはもうあいつと絶交したんだよ。だったらかまってやる必要なんてないじゃないか。だったら知ったこっちゃ……、ないじゃないか」
『麦村ハッカ……、貴様』
ハッカは震えていた。
「ぼくにどうしろって言うんだよ! 彼奴は自分で選んでそうしたんだろ!? だったら、だったらぼくは関係ないだろ!」
涙が、零れ落ちた。
「わからない……、わからないんだよ!」
矛盾だ。ハッカの中で様々な思考や感情が相克を繰り返している。
儚を助けなければならないのはわかる。唐鍔牧師と永久がしてくれたように、あの二人がしてくれたことを、自分もしなくちゃいけない。そんな使命感にも似た何かがあった。けど、それに反発するものがあった。儚を否定する気持ち。
仮に助けるとして、無力な自分にいったい何ができるのか。
己が無力さを思い知らされる惨めさ。
まただ、また答えが見つからない。答えなんていらなかった、悩むなんてなかった。ただ自分がそこにあっただけの頃が、酷くもどかしい。
『彼奴はただ、貴様の傍にいたかっただけだ。彼奴は弱い、風が吹けば傾き、雨が降ればふやけて破ける。だから儂が生まれた。彼奴を守るために、傷つかないために。
けど駄目だ、駄目なのだ。儂では儚を守れなかった……!
所詮……、彼奴が望む役を演じていただけの矮小な存在だ。
弱いものが自らを慰めるために創った仮初なぞ、結局はこの程度ということなのかもしれん。だがなぁ麦村ハッカよ、貴様は違うのだ。辛い現実から逃避する為に縋る依存だとしても、彼奴は自分以外の人間を、貴様を受け入れようとしていた』
「だから」唇を噛み締め、足を踏み出した。「ぼくしか、できないって言うのかよ」
胸の螺子巻きをつかむ。
『儂はな、麦村ハッカ。お前のことがずっと妬ましかったのだ』
静かに、自分に言い聞かせるように、真神は語り始めた。
「真神?」
『儚にはいつも儂がついているはずだった、儂だけでよかったのだ。しかし彼奴は儂ではなくお前を選んだ。それが悔しくて、情けなくて、羨ましくて……いつも惨めでならなかった』
そう言って真神は牙を噛み締め軋ませた。
『しかし……儂は内心それに甘えていた。麦村ハッカ、貴様が儚との間に作った隙間に無理矢理自身の居場所を見出していたのだ。
だから貴様には嫌悪以上に感謝をしていたのだ。どんなに痛罵や悪態をついていてもそれは結果的には儚を支え、あまつさえ儂の居場所まで用意してくれていたからだ。
しかしそれは逃げだ! 勝手に自分の限界を決めつけ、そこに満足感を覚えていたに過ぎない!
儂は覚悟を決めた。もう誰からも、何からも逃げないと。儚からも、貴様からもだ。だからお願いだ、最後の好機を…………儂にくれ!!』
この状況、もし唐鍔牧師や永久だったら、もし亜鳥がいたのならきっと、そうきっと、
迷わず、
構わず、
顧みず、
「きっと儚を救っていた」ハッカは小さいが、確かな一歩を前へ踏み出した。「儚の場所へ案内しろ、真神」
『済まん……!』
少年は静かに頷き返す。
『ならばその螺子巻きを儂に向けろ』
「は?」
『言ったであろう、貴様に仕えると。儂のその右腕を貸せい』
儚のようにマペット越しに腕に宿ろうと言うわけか。
ハッカは握っていた螺子巻きを首から外し、真神の額に向けて真っ直ぐのばす。
『──廻せ』
その言葉が獣の口から出るよりもわずかに早く、ハッカは手首を捻らせた。
ガチャリと鍵を回す音がする。
かけまくも ゆゆしきかも
言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に
久かたの 天つ御門を
畏くも 定めたまひて
神さぶと 磐隠ります
万葉集の一首を唱えて、真神は吼えた。脚からあごの先まで、真上に向かって垂直に顔を上げて遠吠えをした。
長く……永く……、咆哮はいつまでも、そして海の向こうまで届くほどだった。
† † †
永久が祈り屋の両開き扉を開けた。
「牧師から聞いたよ麦ちゃん、どうしたのさいつまで経っても帰ってこないで。晩ご飯はもうとっくにできてるんだよ──うわっ!」
礼拝堂の中に灯りはない。真っ暗だった。
「いるのー、麦ちゃーん」
返事はなかった。それでも、永久はハッカの気配を感じていた。
「何があったか知らないけどさ、ご飯の時間にくらいは帰ってきなよ」
すると足音が聞こえてきた。
「儚はどこに」
『出島だ、急げ!』
片側の扉を手で押さえて半開きにしていた所に、勢いよく少年が飛び出していくのを永久は認めた。それは確かにハッカだった。それともう一つ、それとは別の厳かな気配があった。
しかしもう遅かった。少年と正体不明の影は、ネオンの灯りに消えていった。
「ったくぅ、どこに行く気だよ。人の気も知らないでさ」
などとぼやきながら回れ右して戻ろうとした時だった。眼の前に黒い長身の孤影がそびえていた。
「っっっっっ────────って、牧師! びっくりさせないでくださいよ」
「それよりも、あいつは行ったのか?」
「えっ、あぁ、麦ちゃんですか。そうなんですよ、迎えにきたらいきなり飛び出していっちゃって、」言いかけて、永久は言葉を区切った。「どうしたんですか、そんな格好して」
「ん? ああ、まぁな。お前も伽藍堂を持ってこい、ちっくと走るぞ。ちっくと年甲斐もなく、騒ぐかもしれんぞ」
「牧師……?」
永久が見上げた先にあったのは、白い歯の間に煙草を噛んで凶暴な笑みを浮かべる黒牧師の姿だった。