第六章 『GOD&SPELL』
晴れた日の週末。海岸線沿いの国道を、一台のスポーツカーが疾走していた。
北米仕様の日産フェアレディZ。ターコイズブルーの車体は、入道雲がそびえる眩しい碧落と穏やかな波に揺れる海の間を走るのによく似合う。昨今のエコカーからは考えられないほどの、旧車のスポーツカー独特の大排気量エンジンの咆哮が閑散とした地方の国道に轟く。
運転するのは黒服の中に菊や牡丹といった和の花が散る派手なシャツを着た唐鍔虎子牧師。普段かけている金縁の丸眼鏡ではなく、〝Ray-Ban〟の黒くて大きなレンズのサングラスをしている。
二人乗り(ツーシーター)の隣座席に座るのは白髪を隠すため目深にワークキャップを被った麦村ハッカ。彼は横の窓を半分開け、遠く岬の外れに見えるターミナス・ファウンデーションを眺めていた。
そんな子供を尻目に、大人はスピーカーがセットされたMP3プレイヤーに手をのばしフランク・シナトラの〝All of Me〟をかける。同時に唐鍔牧師はシナトラと共に陽気に歌い出す。
「All of me, why not take all of me?~♪」
「……社長」
「Can't you see I'm no good without you?~♪」
「社長」
「Take my lips, I want to lose──」
「社長!」
恋する女性が好きな相手に自分のすべてを奪って欲しいと訴えかける歌。しかしハッカによって奪われたのは軽やかに歌う唐鍔牧師の上機嫌だった。
「チッ、何だよ。耳元で我鳴りなさんな、鬱陶しい」
人の声が聞こえないほど歌に酔ってたのは誰なんだよ、とハッカは心裡で呟いた。
「まだ着かないんですか、その知り合いの教会には」
「もうそろそろだ。五分か一〇分か……三〇分か」
今だいぶ飛んだよ。だいぶ。
「わたしとのドライブデートは厭かい? はっ、なら飛ばすぞ!」
カーブを抜けてZは直線に入った。唐鍔牧師は指貫きグローブから漏れた指でとんとんっと木製ハンドルを叩いたかと思うと、即座にクラッチを切りギアをMAXへ入れ換え、アクセルを全開に吹かした。同時にエンジンが激しい雄叫びを上げ、スピードが一気に跳ね上がり時速一五〇キロをマークする。
「うくっ──!」
ハッカの小さな身体に一瞬で二倍もの重力加速Gがのしかかる。
いくら他に車が走っていないとはいえ道路交通法違反も甚だしい。警察に見つかれば一発で赤切符六点が切られてしまう。
「相変わらずたまらんな! Zのエキゾーストノートはッ!」
横で蒼褪めた貌をしているハッカを他所に、唐鍔牧師はスピートを緩めることなくドリフトで鋭くカーブを切った。
一〇分ほどで、唐鍔牧師の運転するZは国道から細い山道に入った場所にある教会の前に着いた。
林の中にポツンと一軒だけ建つ白い石造りのゴシック教会だ。唐鍔牧師たちの祈り屋も旧い教会だが、これはさらに数百年の重みを感じる。
黒い木造建築の祈り屋とは違う、石独特の泰然自若さだ。おそらく日本で建てられたものではなく、中世代のヨーロッパで造られた教会をそのまま移築したのだろう。教会建築の歴史の浅い日本では決してこのような旧い教会はありえない。
唐鍔牧師は獅子が銜える青銅の輪を取り、重い観音開きの扉を開けた。
後ろのハッカがふと上を仰ぐと、そこには不気味なガーゴイルが睥睨と自分の頭を見下ろしていた。
「おい麦村、何突っ立てる。さっさとついてこい」
ハッカは「ふん」と鼻を鳴らし唐鍔牧師のすぐ後に続いて教会の中へ入った。
礼拝堂は海と森に囲まれた立地のためか中はひんやりと冷たく乾燥した空気で満ちている。祈り屋のようにエキセントリックな内装はしていない。極めて普通の、長椅子と祭壇とステンドグラスがある、一般的とさえ言っていい教会だった。
が、そこにいたのはおおよそ一般的とも教会ともかけ離れた光景が広がっていた。
「あっ……、そこです神父サマっ、そこに挿入してください──!」
「ここ……ですか?」
「もっと…………もっと下です!」
「はて、すみません、眼がよく見えないものでして」
上で磔にされてイエスの像がある祭壇のちょうど真下で、黒い尼僧服を着た修道女が大きく裾をたくし上げ、開いた股間を隠すように車椅子に乗った礼服の男性がなにやらカチャカチャと金属音を響かせている。
そんな二人をよそに、唐鍔牧師つかつか大理石の床を踏み鳴らしながら歩み寄った。
「おい」
「はて、うまく入りませんね。本当にこの鍵でよろしいんですか?」
「おい」
「はい、はい、だから早く~──!」
「おい!」
「困りましたね」
「オイッ、つってんだろ!! この腐れ外道カトリック!!」
広いチャペルのすみのすみまで行きわたってもまだお釣りのくるほどの大音声だった。
「あれ、その声は唐鍔サンですか? いつの間に約束の時間に?」
「こいつが急げってんで飛ばして来んだよ! お前ら昼間っから何ピンクの蛆湧かしてんだ! 〝イエス様が見てる〟ってか!?」
「何を勘違いなされているんですか、虎子さん? わたくしはただ神父さまに貞操帯の鍵がかかっているか確かめていただいてただけですよ?」
修道女の格好の女が妖艶な吐息交じりに言った。
「はぁ!? お前は修道女以前にカトリックでもクリスチャンでもないだろがっ!!」
「あなたたち無節操なプロテスタントと違ってカトリックは形式・様式から信心を深める宗派なのです。だからわたくしは神父さまのお世話の合間に、こうして主にささげた操を──」
「ホームヘルパー三級の落ち零れ派遣家政婦がほざくな! 処女ですらない売女がいったい何から貞操を守るつもりだい!!」
「〝何〟って、〝ナニ〟からに決まってるじゃないですか。そんなこともわからないほどわたくしたちので発情しちゃったんですか、牝虎さんは」
「虎……だと……?」唐鍔牧師の俯き、肩と握り拳をわなわなと震わせた。「上等だ、なんちゃってコスプレイヤーが! 今すぐその黒革の貞操帯ごと陰毛全部毟ってやるから覚悟しな!!」
唐鍔牧師は脚を広げて肩を落とし、両手の指をめいっぱい広げて爪を抜き出しにした。中国拳法、虎拳の構えだ。
「あらあらまあまあ、怖い怖い。わたくし犯されてしまうのかしら?」
「ぬかせよ、アバズレ糞ビッチ!」
祭壇で横柄に背をのばす修道女に、唐鍔牧師はじりと間合いを詰める。
その時だった。パンパンと柔らかく手を叩く音がする。
「お二人ともそのあたりでお止めください。仮にも神前ですよ、父・御子・御霊の御前ですよ? それよりもなによりも子供が見ているではありませんか」
車椅子の礼服姿の老人が言った。
すると一斉に六つ目の眼が帽子で貌を隠した少年へ向けられる。
一声かけて二人の喧嘩を止めて欲しい老人。
喧嘩の邪魔をするな、と言いたげな鋭い眼光を飛ばす唐鍔牧師。
ハッカを舐め回すような視線で、凄艶な笑みを浮かべて何やらよからぬことを妄想している修道女。
三者三様の思惑が交錯する中で放たれたる少年の鶴の一声を待ちわびる。
「え、っとあの……。別にいいですよぼくは。ゼンゼンそーゆーの気にしませんよ? ぼく〝売り〟やってる娘たちと知り合いだったんで、慣れてますから」
それは誰のフォローにもなっていなかった。
† † †
「いやはや、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
などと言う老人に通されたのは、中央に二メートルはある大きな暖炉が鎮座する応接間だった。他にも金や銀でできた高価な調度品が並んでいる。
「ふん、まあいいさ、うちの麦村とジーザスの顔に免じて許してやるさね。それよりも……」と、唐鍔牧師は荒っぽくソファーに陣取った。「あんたのジーザスは元気かい?」
「ええ、それはもう。先日も夢の中で私の貸した尻穴で気持ちよさそうにしていましたよ」
「はっ、相も変わらず品行下劣極まりないな、お前さんとこのジーザスは」
「そう言うあなたのイエス様はどうなのですか?」
「決まってるだろ、創世記が三二章二四節から三一節、イサクの息子ヤコブが全裸で天使と一晩中したガチムチレスリングもかくやの情熱的な寝技で朝まで燃えたよ! そんで〝神に勝利する者〟の称号を授かったさ!」
「ほう、それは羨ましい。私も彼と同じで足が動きませんからね、若い時分には憧れたも
のです」
そうして二人はそろって破顔し、打ち笑んだ。
横で聞いているハッカからすればまさしく人智を超えた神代の会話である。
「安心してください、どちらのイエスさまもジーザスも最低ですよ」
そう言って横からにこやかに珈琲をテーブルに置いたのは、先程唐鍔牧師から罵倒の限りを尽くされた修道女のコスプレをしたただの派遣ホームヘルパーの杖池さんだった。
「はい、キミにはオレンジジュース」
「ありがとう……、ございます」
白い頭髪と金の眼を見られたくないハッカは、ワークキャップの鍔をつかみ、伏し眼がちに礼をする。
「あらあら、もういいんですよ、帽子を取っても。お部屋の中なんですから」
「え、いや、その、お気に入りなんです。このボーシ」
「えー、でもおかしいですよー。それにのちのちのために被ってるものは剥くくせをつけておいたのうが女の子にはモテるんですよ?」
「ちょっと、ひゃっ! 変なとこさわらないでください! あ──」
ハッカは隙を突かれ、帽子を奪われてしまった。
「まあ、綺麗な御髪!」杖池さんは嬉々として眼を輝かせた。「黄ばみもないしサラサラで柔らかい! あら? お眼々は金色なの?」
ハッカは「あうあう」と幼く浮き足立つ。
「永久くんもカッコカワイイけど、この子もなかなかですね~、どこでこんな上玉ばっかりひっかけてくるんですか、教えてくださいよ虎子さん」
「ほざけ、性殖者!」
「今日は永久くんは?」
「二人座席で三人も乗れるか。あいつは一人で営業準備中だ。まったく盛ってんじゃないっての──」
と、出された珈琲カップに口をつけた時だった。
「──ブッ!? なんだこの珈琲、ひたすら臭くて不味いぞ! いったいどこの豆だ!?」
「あ、それでしたら午前中にお掃除で使用しました雑巾のしぼり汁です。美味しいですか──虎子さん?」
杖池さんはわざとらしく抑揚をつけて訊いてきた。
「いやー、ツエイケさんの珈琲はいつ飲んでも美味しんですねー」
「おい、ファーザー、あんた虐待介護されてるぞ!」
「ですがこれが飲み続けていると中々癖になるものなんですよー」
「悦んでいいただき幸いですわ、神父サマ」
朗らかに笑い合う二人。どこかがおかしい、すべてがおかしい。
「ファザー……、あんた死んだらこいつに家財に土地、溶けた蝋燭まで尻の毛毟られる勢いで横奪されるぞ」唐鍔牧師は口元をハンカチで拭った。「その女には色々と言いたいことがあるが、今日のところは見逃してやる。ただいつかシャブ漬けにして風呂に沈めてやるから覚悟しておけな」
「うふふ、楽しみにしていますわ」
余裕綽々の杖池さんが気に食わない唐鍔牧師は、「ふんっ」と大きく鼻を鳴らした。
「ところで今日はいったい何用でお越しになったんですか?」
唐鍔牧師たちから神父と呼ばれた老人が訊いた。彼はアンティーク調の電動車椅子に座り、皺でひび割れた顔には円形の真っ黒いサングラスをかけている白人男性だ。ロマンスグレーの頭には司祭帽がちょこんと載っている。
「ああ、こいつを診てもらいたいんだ」
そう言ってハッカの背中をポンと叩いた。
「え、この人って……」
「この御人はな、医者なんだよ」
「闇医者ですがね。ふふふ……」
「他にも薬の調合やファウンデーションのゲットーを通して密輸入なんかもしている」
「ええまぁ。ですが腕には自信がありますよ。内科・外科に内服薬の調合、移植手術と堕胎手術の成功率は一〇〇パーセントと言っていいでしょう」
そうしてまた、「ふふふ……」と不気味に笑んだ。
「……脱ぐんですか?」
「いえ別に服があっても構いませんが、なかったらなかったで大いに構いませんよ」
「まあ! ではわたくしがお手伝いします!」
杖池さんが手をワキワキされてハッカに近づく。その眼は座り、明らかに冗談といった雰囲気ではない。
「だからやめろってんだよ、そういうノリ! あんたの眼でさっさと視ろって言ってるんだよ!」
「なんだ、そうですか。つまりませんね。では神父さま、こんなお仕事さっさと終わらせてさっきの続きをしましょうか♪」
「で、どうなんだ?」
「無視ですか」
「ちょっと待ってください。この眼を使うのは永久サンを視て以来五年ぶりなので、いやはや使えるかどうか……」
「いいからさっさと済ませてくれ。帰りが遅いとまた永久の説教を聞かされる」
急かす唐鍔牧師に、神父は「では」とサングラスを取った。
その眼は──、人間の眼ではなかった。
強いて近いものがあるとするなら、それは羊や山羊のような横長でどこを見ているのかわからないあの焦点が定まらない瞳。虫や魚にも似た感情を感じさせない眼だ。眼が合うと奈落に引きずられそうになる。そんな眼で、ハッカは見詰められていた。
「どこが──悪いんでしょうか?」
「頭だ」
唐鍔牧師はハッカの頭を鷲づかみし、神父の顔の前まで押し出した。
「こいつの頭を視てみてくれ」
「わかりました…………ふん、別段おかしいところは見受けられませんね。若年性の萎縮も見られませんし、腫瘍があるわけでもない。あー…………ふ・る・き・ず・もー……ありませんねー。頭を強く打つことでもありましたか?」
「いや」
「おかしいですね。別段あやしい所は見当たりませんが」
「あら、もしかしてお二人とも頭が弱いんですか? ……お可哀想に、およよよ……」
「アルジャーノン・シンドロームという病気を知っているか?」
「無視ですか」
「いえ、寡聞にして。それは?」
「最近ファウンデーションで出回ってるデジタルドラッグという麻薬があってな。そいつを服用するとどういうわけか脳みそがなくなってしまうんだ」
「脳が消える麻薬……私も永らく禁制薬物を取り扱ってきましたが初めて聞きますね。麻薬というからにはアミノ酸で構成されているはずですから……それなるとステロイド、ということになるんでしょうか」
「ステロイド剤? 一時期流行った筋肉ドーピングがか? たしかにあれは餓鬼が使えば脳に悪影響が出るが、だがあくまでステロイドの反応は身体限定のはずじゃないか?」
「どうでしょうか。前例はありませんが脳でのみ分泌し、脳でのみその影響を与えるステロイドホルモンがあるとすれば、あるいは。……いえ、アミノ酸ならばウィルスということも考えられますね。ウィルスは死滅しない限り永遠に増殖し続けます。その何千何万回と複製して増殖する際に不連続抗原変異が──遺伝子レベルの変化が起きていたとしたら……あるいは」
「ステロイドとウィルス。その両方の性質を持つ薬物ならありえるのか?」
「何とも言えませんが……、今のお話だけでは老いぼれはこれくらいしかお話できませんね。しかしどうしてあなたが?」
「こいつを見てくれ」
そう言って『ウロボロスの脳内麻薬』をテーブル越しに突き出す。
「本、でしょうか」
「ああ。あらかたのことはそこに書かれているんだが、わたしには難しい上に所々意図的に歯抜けにされた未完の論文でな。眼を通してもらえないだろうか」
「私も読んでみたいのは山々なのですが、この眼は人の身体の中を視る以外役には立ちませんからね。杖池サンに読んで頂くか──」
神父は背後に控える杖池さん顔を向けるが、
「わたくしはイヤでございます、そんな分厚くて難しそうなご本を読み聞かせするなど」
微笑みと共に突っぱねられてしまった。
「では知り合いに頼んで点字にしてもらいましょうか」
「すまない」
膝に手を置き深々と頭を下げる唐鍔牧師。
「そんな、私とあなたの仲ではありませんか」
「神父さまのご恩情に感謝することですね」
「なら最後に確認したいことがあるんだが、よろしいか?」
「はい、何でしょう」
杖池さんがまたも「無視ですか」とぼやいた。
「こいつは頭と眼の色以外、おかしなところは一つもないんだな?」
「そうですね、あくまで私個人の見解となりますが。何せ闇医者ですから。しかし心配されている頭に何ら異常はありませんよ、子供らしい成長途中のピンク色をしていますし」
その言葉に、ハッカはほっと胸を撫で下ろした。しかし隣ではハッカ以上に唐鍔牧師が大きく溜息を吐いて安堵の表情を浮かべていた。
「そうか、よかった。なら今回の診察代だが、」
言いながら、唐鍔牧師はジャケットの内ポケットから厚みのある茶封筒を取り出した。
「少ないが取っておいてくれ」
「今回は要りません」
「なに?」
テーブルに置いた謝礼金を返されてしまった。
「私もまだまだ勉強不足だったということです。そのお金はこの本を読んでわかったことがあった時にまた頂きます」
「いや、しかしそれじゃあわたしのメンツが──」
「でしたらわたくしがお預かりしておきますわ」
と言って、杖池さんは茶封筒に手をのばしが、間髪入れずに唐鍔牧師は懐に戻した。
「誰がお前みたいな拝金主義者にわたすかよ!」
「それは残念。せっかく最近簿記三級を取ったのに」
なぜにそんな中途半端な資格を?
とはハッカも口にはしなかったが、貌にはしっかりと出ていた。
「すまんがお言葉に甘えることにする。読んだら必ず連絡をくれ。金はその時に」
「ええ、わかっていますから、早く帰られては? 永久サンが心配しているのでしょう?」
「あ、ああ。そうだったな。では失礼させてもらうよ。ほら麦村、礼を言わないか」
ハッカの後頭部に唐鍔牧師の手が覆い被さってくる。
「あっ、あの……ありがとう、ございます」
「ええ、わかっていますよ」
下げた頭の上に、神父の手が載ってくる。
「ふくっ!」
乾燥して嗄れた、骨と皮だけの不気味な手だった。ハッカは思わず身を萎縮させた。
「怖がらないでください。何も取って食べたりなんてしませんから」
そう言って顔を近づけてきた。しかし眼が怖いのだ。
やっと手がどこかへ行った時にはハッカは酷く焦燥していた。
そうして二人は部屋を後にしようと立ち上がろうとした時だった。不意に、唐鍔牧師が不自然に頭を上げた。
「? どうしたんですか」ハッカが訊いた。
「いや、ちょっと……な」
しこりのあるなんとも歯切れの悪い返事だ。言いながらも、彼女はハッカにではなく部屋の奥を凝然と見やっている。
「帰るか」
スラックスのポケットに両手を入れ猫背になり、踵を返して出口へ向かう。ハッカはその背中を追いかけた。
しかしドアを開け部屋を出ようとした時だった。また、唐鍔牧師の動きが止まった。後ろにいたハッカは彼女のお尻に顔をぶつけた。
「なあ、ファーザー」
「はい? なんでしょう」
「ここにはわたしら以外にも客はいるのか?」
「いえ。あなたも知っているとは思いますが、ここに人が来ることなんて滅多にあることじゃありませんよ」
神父はサングラスをかけ直しながら、その一拍後に「ただ」と続けた。
──あなたたちのようにのっぴきならない事情を抱えた方以外は、ね。
「え?」と、ハッカは首を傾げた。
「そうかい。そうだったな」
「あっ、ちょっと! 痛いよ!」
唐鍔牧師はハッカの手を強引に引っぱり部屋を出ていった。そのまま足早に廊下を進む。
「ホントにどうしたんですか、急に」
「わたしだってわからんさ。ただわざわざ蛇がいる藪に棒を突き刺す真似は割に合わないってだけの話しさ」
「なんですかそれ?」
「だからわたしが知るかっての」
† † †
「中々勘のいい人でしたね、あの方」
ハッカと唐鍔牧師が応接間を出てすぐのことだ。不意に、あの場にはいなかった五人目の声音が響いた。
「これはこれは、いらしていたんですね」
電動車椅子のレバーをいじり、神父は背後へと反転した。その先には真紅のローブ・デコルテを着た長い金髪の女性が立っていた。絨毯の上を裸足で歩き、手にはドレス同様に赤いヒールがぶら下がっている。
妙齢で、それでいて蛾眉をひそめた見目麗しい女性だった。
「ここ、座ってもよろしいかしら?」
「ええどうぞ、何か飲みますか?」
「ではこちらを頂けるかしら」
そう言って片手を背後に隠したかと思うと、再び手を出したそこにはワインボトルが握られていた。
「八九年産のバローロ。さっきワインセラーで見つけちゃった。雑巾のしぼり汁なんて飲まされちゃ敵わないものね」
「見てたんのですか、お人が悪い。あっ、杖池サン、グラスとナイフをお願いします」
「ええ、一部始終。可愛い子でしたよね、あの子」
「あなたもですか」
「いえいえ、黒い子の方ですよ。あの子、魔法使い(オズ)の弟子なんですってね? あなたのあの子、いったいどういう関係?」
「何、彼女とは縄張り(シマ)を争って少々乳繰り合って程度ですよ。今じゃ血判を押した協定も結んでいますし」
「はい、神父さま。お待たせしました」
脇から杖池さんが言われた通りワイングラス二つとソムリエナイフを盆に載せて持ってきた。
「申し訳ありませんが開けてもらえますか。私の細腕では少々難儀するので。ところでこれは」
神父はテーブルで向き合った女性に先程唐鍔牧師から渡された本──『ウロボロスの脳内麻薬』を見せた。
「あなたの物ではありませんか?」
二人の前の置かれたワイングラスに、真っ赤なバローロが注がれる。
「これを使って、彼女を焚きつけましたね」
真紅の女性は一拍空けた後、ワイングラスを眼の高さまで持ち上げその色を確かめた。
「綺麗なガーネット色」そうして一口煽る。「やはりバローロは寝かせたものに限りますわね」
するとグラスに残ったワインを、あろうことかテーブルの中心に置かれた『ウロボロスの脳内麻薬』へすべて垂らし落としてしまった。赤い布で装丁されたカバーに、より濃い赤の染みが拡がっていく。
「この赤は情熱と高潔さ。あの方はそれに見合うだけの才覚があると信じていました。
量子凝縮使い(オズ=ライマン)があの動く特異点に感応してなるものだというのは知っていましたが、まさかあの子たち本人が特異点化しているのではなくて? だってこんなにも早く世界卵を見つけてくるなんて考えられないわ」
「──世界卵」神父もグラスを傾ける。「懐かしい名ですね」
「まだ母の胎から産まれてすらいない無垢なる子。永遠の処女。世界そのものと等しい自身が宿る母の胎を引き裂き出てくるのは、冷徹な処女神か、それとも善悪を超克した全能神か」
「どちらにしても子は親を殺さなくてはならない。母という枷を、父という壁を。家庭という閉じた檻を壊さなければ、人は真に能動主体とはなれない」
二人はテーブルを挟んでグラス同士を打ちつけた。
「カレルレンに死を──」
「それが一二〇〇年前、あの地で消えた一三〇人の子供の中で唯一生き残った我らの使命」
砕けたグラスの破片が、『ウロボロスの脳内麻薬』の上へ舞散った。
† † †
教会を後にした唐鍔牧師とハッカの両名は、もと来た国道の反対車線を走っていた。この調子で進めば午後四時には牧師館に帰ることができる。
運転する唐鍔牧師は機嫌よさげにハンドルを握っているのに対して、ハッカの顔色は曇っていた。
「なんだ、顔色悪いぞ。せっかく問題ないって医者から太鼓判もらったんだ、少しは嬉しそうにしろよ」
「別に」
「もしかして車酔いか? もしくはポンポン痛いとか?」
「ちがいます!」
心配したつもりが余計にハッカを不貞腐れさせる。
確かに脳みそがなくなっていなかったのはよかった。死ぬことはないのだ。髪と眼の色以外に変わったところは一つもない。
──一つも、ない?
違う。一つだけ確かに変わったところがある。一つだけだが、決して変わってはいけないもの──〝心〟だ。
今までどうでもいいと思っていた色んな出来事、ザルに水を通すように何も感じず、なにも疑問に思うこともなく自分の一番底にたまってきていたもの。そんな他愛ない有象無象の一つ一つが、どうしてか今では酷くのどにつかえて苦しくなる。
誰にもあてになんてできない。だってそれは自分の心の出来事なのだから。けれどその自分すら信用しきれない。一歩踏み外せばすぐそこには奈落が迫っている。
心なんて、あるかどうかもわからないものに、以前は絶対に恐怖することなんてなかった。自分の命すら勘定になかったくらいだ。自分にとっての一番がわからないのだ。この矛盾は、まるで胸の内側が膿んでいくようにも感じてしまう。
「飴食うか? あ、そこの自販機でジュース買うか」
唐鍔牧師は数百メートル前方に小さく見える赤い自販機を指差す。
「…………いらない」
この人は、ほとほと空気の読めない人だ。心配してくれるくらいならどうかほっといて欲しい。どうせなにもできないのなら、どうかそっとしておいて欲しい。
そう思った矢先だった。
「チッ!」
「くぅっ!」
唐鍔牧師はいきなり急ブレーキを踏み、指差していた自販機の前にフェアZを停めた。
そのままエンジンを切りキーを引き抜く。どう見たってジュースを買い与えるような優しい大人の姿ではない。
彼女は自販機で自分が飲むであろうブラック珈琲を一缶買うと、助手席に座るハッカを強引に連れ出した。
「痛ッ! あ、あの、その、えっと。いや!」
怒っている。唐鍔牧師は怒っている。
誰に対してだ?
ぼくに対してだ!
どうすればいい?
謝れば許してくれるのか!?
「ご、ごめんなさい。もうわがまま言わないから、だから許して」
「違う!」
違うって、何が?
困惑するハッカをよそに、唐鍔牧師は無言でハッカを引っぱった先には白い灯台がそびえていた。彼女はそのまま南京錠で塞がれた入口の前に立った。
「ふんっ」
卵を握るように柔らかく開いた手を頭上へ上げたかと思うと、そのまま手刀を振り下ろし南京錠を木端に砕いてしまった。
彼女は開いた扉の中へハッカを連れ込んだ。灯台の中は暗く照明など一つもなかった。湿っていてカビ臭く、壁は煉瓦でできている。かなり旧い、おそらく明治から昭和初期代に建てられた煉瓦建築なのだろう。唐鍔牧師は螺旋状に壁を伝って這い上がる木造の階段に足を踏み入れた。階段は一歩踏みしめる度に、不吉なうめきを上げる。ハッカは冷や汗をかいたが、唐鍔牧師の方はそんなのお構いなしにどかどかと無遠慮な足運びで上っていく。
そうして二人は、灯台の展望台へと出た。風が強く、磯の薫りがむせそうになるほどに昇ってきている。
「なんか叫べ」
「え?」
「〝ゑ?〟じゃない。ここは海だ。だから叫べ。面白いことならなおヨシ!」
唐突に突きつけられた意味不明な要求に、戸惑いを隠せないハッカ。
「なにか言えって。ったく、空気の読めないやつだなー」
知らない知らない。そんな空気知らない。いつそんな話になったんだよ。
「ったく、だらねないねぇ。手伝ってあげるよ」
「ちょっ、わっ!」
唐鍔牧師が背後でしゃがんだかと思うと、急に視界の高さが二メートル近くも上昇した。
唐鍔牧師に太ももを抱かれたまま軽々と持ち上げられてしまったのだ。
「なんでいきなり、やめてよ!」
眼下には荒く切り立った崖に海が飛沫を上げている。とんでもない高さだ。ここにはもう身を守る柵もない、唐鍔牧師の気分一つで海に真っ逆さまだ。
「う~ん? まだ声が小さいな、それにこういう時は〝やめて〟じゃないだろう?」
「なんだよそれ!? わかんないよ!」
「じゃあヒントだ。人に頼む時はどうすればいい?」
「ええっ!?」
頼むって、なにを──どうやって?
「カウント入りまーす。五……四……三……」
そんなっ、子供かよ!
「二……一……」
トン、と唐鍔牧師は足首をのばしただけで柵の上へ飛び乗った。
さらにハッカの視界が一・五メートル高くなる。
「助けて!!」
咄嗟に、出てきた。
「その言葉を待っていた!」
「あ──」
あれだけ渋られていたにもかかわらず、いとも容易く降ろしてもらえた。ハッカは疑問の眼差しで唐鍔牧師を見上げた。
「なんでそんな簡単な一言がすぐ出てこない」
彼女の意図することがわからないハッカは、無意識に首を傾げた。
「お前たち子供はな、何か困ったことやわからないことがあれば真っ先に大人を頼っていいんだよ」
「え? それってどういう──」
「そんなこともいちいち訊かないといけないほど、お前のまわりには頼れる大人がいなかったってことだ。たった一言でいい、自分の気持ちを言ってみろ。いいかよく聞け〝You are loved〟──お前は愛されている」
唐鍔牧師はハッカの頭に手を載せた。
「笑ったり……しませんか?」
ハッカはそう、上目遣いで言った。
「言ってみろ、まずはそこからだ」
ハッカは《ブレインジャック事件》とかかわる前の自分、そして変わってしまった今の自分に困惑していることを、とつとつと語った。
「そいつは所謂、自我同一性の拡散というやつじゃないか」
「ジガドウイツセイのカクサン?」
「自分で自分がわからないってことさ。ここにいるわたしは、本当にわたしという存在なのだろうか、って。ま、アイデンティティって言った方がわかりやすいか」
「アイデンティティ……」
そんなこと考えもしなかった。空っぽのままでも生きていけたから。
「お前はさ、息をするのにも意味や理屈がいるのかい?」
「それは……」
「生きるなんてそんなもんだろ。神の御告だ使命だなんだと恥ずかしげもなく喚くクリスチャンが言うことじゃないけどな」
「でも!」
辛いんだよ!
苦しいんだよ!
でもなにも変わっちゃいないんだ。空っぽなのは前も今もおんなじだ。
ハッカはそのままうずくまった。
「わからないのがそんなに不安か? そんなに答えが欲しかったら探せばいい。見つからなければ作ればいい。形がわからなきゃ横を見ろ。頼る相手なんてのは、存外多くいるものさ、望むと望まざるとにかかわらず、な?」
「社長」しゃがんで膝に顔を埋くめるハッカに唐鍔牧師はかがんでのぞき込んだ。すると、「うわっ!」
彼女はハッカを肩車にして担ぎ上げた。
「〝You are loved〟──お前は愛されている。この世界そのもの、福音にだ! 見ろ、麦村。この光景を」
空の青を写した青い海が、渺々と広がっている。遠く太平洋の向こうでは茫漠たる入道雲がそびえている。
「神の声、すなわち〝God&Spell〟だ。わたしだって所詮はただの量産型さ、どこぞの自称預言者みたく神の声なんて聞けやしない。けどな、この最高にクールな神の芸術作品に感動するだけで、わたしは声が聞こえた気になれるよ。自分が独りぼっちじゃないって気づくんだ。
その言葉こそが〝You are loved〟。
まっ、答えばかり求めていても疲れるだけさね。それに、こうやって悩み考えることに意味もあれば価値もあるかもしれないだろ。
だから元気出せ、なっ?」
何かが胸の奥から込み上げた。熱くて、とても大きいなにかだ。