第五章 『懺悔ホストクラブ祈り屋』
いつもなら学校の放課後で一、二時間、時間をつぶしていくハッカだったが、HRが終わるやいなやその日はすぐに学校を後にした。いや、正確にはあの日からだ。
児童たちで賑わう昇降口を抜けて、最寄りの停留所から路面電車に乗った。例によって例のごとくであるならば、ハッカはビジネス街で降りるはずだが、彼はそのまま降り過ごしてしまった。そうして行き着いたのはファウンデーションと暁刀浦とをつなぐ続く関所前だった。
降りたハッカは警備員にパスを提示して五〇〇メートルある橋をわたる。
暁刀浦にはもともと漁港があった。しかしファウンデーションの建設にともない今ではまったくその機能を失ってしまっている。所詮は地元の漁業組合と世界的大企業では最初から勝負になっていない。
近未来型都市として成功したファウンデーションとは打って変わり、暁刀浦の街は典型的な地方都市の現状のそのものだ。まず人口の減少、中小企業の弱体化にともなう雇用の低下。加えてベッドタウン化。それらすべてがファウンデーションによるマイナスの経済効果だった。
そんな寂れた漁港と臨海工業地帯を横目で眺めていると、ハッカは商店街のアーケードへ入りそのまま繁華街中心の盛り場へ向かった。
入口に建てられた大きなアーチの看板には〝夢路町〟と掲げられている。
いくらファウンデーションに活気を吸収されているとはいえ、人が住む場所にこの手の歓楽街は欠かせない。しかし配管だけにとどまらず電線や電話線といったライフラインのほとんどが地下に整備されているファウンデーションと違い、ここは電線が蜘蛛の巣状に縦横無尽に張り巡らされている。同様に街そのものも非常に雑多だった。怪しげなブラック企業の事務所が居座る雑居ビルや、居酒屋という日本中であり触れた光景があれば、石造りや木造建築のショットバーやパブもある。この地域には昔外国人のコミューンがあったためだ。
そうして街の中心へと辿り着いた二人の前にあったのは、旧びた木造の洋館だった。前と後ろに尖塔があり、前に十字架、後ろに風見鶏が飾られている。それぞれの店が狭い土地に肩を寄せ合いながら建っているのに対して、この洋館だけは建物そのものが大きいのに加え、囲われた柵のまわりに狭いが庭までついている。
ぎぃぃぃ。
天使と死神が長剣と大鎌で作ったアーチの門を開ける。アーチは青銅で〝MEMENT MORI〟と象られている。
教会だ。
英国風の切妻屋根に十字架。そして門のメメント・モリという言葉は中世ヨーロッパの修道院ではあいさつとして用いられていた。欧米などの町や村の中心にはまずイの一番に教会が建設される。この界隈が外国人コミューンから端を発しているなら歓楽街のド真ん中に教会があってもなるほど決しておかしくはない。
樫の木で作られた重い観音開き。
扉の先にあるのは礼拝堂だ。しかしそこに広がっていたのは昔の外国映画を思わせるような古色蒼然としたイングリッシュ・パブだった。
床も壁もバーカウンターも、すべて木製。旧い木材独特の赤銅色が渋みを醸し出している。教会特有の整然と並ぶ長椅子の代わりに丸テーブルが不規則に置かれ、奥にはセッションステージまで備え付けられている。
外観は教会、内装はジャズバー。
どうも噛み合わない。致命的な齟齬がある。
何かがおかしい。中身がおかしい。
「ん、麦ちゃんおかえりー」
と声をかけてきたのはバックヤードから現れた少年だった。
少年──功刀永久は下に黒いスラックスによく手入れされた革靴を履いて、上にはしわ一つない小豆色のシャツに腕を通し、その上から黒いベストと襟元に赤いリボンタイを巻いている。
人懐っこい笑みを浮かべながら永久はハッカの鞄を受け取ってやる。
「ん……ただいま」
ハッカはそれ以上何も言わずに、バックヤードのモップを手に取り礼拝堂の床を磨こうとした時だった。
「あ、麦ちゃんその前に」振り向くと、永久が人差し指を上へ向けていた。「先に牧師のとこに行ってきてくれないかな」
「……え」
「呼んでたんだよ。だから執務室に行ってきて」
そう言って、やはり永久は笑った。
「う、ん」
永久とは対照的にハッカの態度は堅い。
ノブに手をかけようとしたところで、一瞬躊躇する。
す~~、は~~。
深呼吸を一回して左胸に手を当てる。その時だった。
「麦村か」
木戸越し聞こえてきたのは、アルトの効いた艶のある低い声だった。
「鍵は開いている、入っていいぞ」
「……はい」
中を開けるとそこは珈琲の芳醇な薫りで満ちていた。オーク材のデスクには手挽きミルが置いてある。
「お前も飲むか? 虎子の特製ブレンド。永久ほどじゃないがそこそこ美味いって評判なんだよ」
イタリア製の黒革のゆったりとした椅子に腰かけているのは、黒髪御下げの女性だった。しかし女性とはいっても長く組まれた脚は男物のスラックスが包んでいる。ドレスシャツも茶のベストも紳士用だ。手にはさも優雅さを醸すかのように珈琲カップが添えられている。
「はぁ、じゃあいただきます」
珈琲じゃなくて手前味噌だろ。などと心裡でぼやきながら、ハッカはカップに口をつけた。
「…………っ!?」
むちゃくちゃ苦い。それに尾を引く変な後味がする。
「言い忘れたがここには砂糖とミルクはないよ。欲しけりゃ下に戻って永久に貰いな」
「いりません」
「そうか、なら遠慮せず飲め」
「はい」
結局、ハッカは黙って口にちびちび流し込んだ。
「……、……」
「何見てるんだ、お前」
「なんでもありません」
わずかに上目遣いで盗み見ていたのがバレてハッカは咄嗟に顔を伏した。
「ところで麦村、ここでの生活にはもう慣れたか」
「あ、うん、はい……まぁ、ぼちぼち、です?」
「ふっ、〝ぼちぼち〟ねぇ? そいつは結構」
ふくみ笑いを珈琲の一口で飲み降す。彼女はこの教会の牧師をしている、名を唐鍔虎子という齢二九の壮年女性だ。カトリック教会と違い、プロテスタント各宗派では女性の司祭は概ね認められている。
唐鍔牧師には宝塚の男役特有の芝居っぽさはないが、妙な外連味が目立っている。それはどこか旧い任侠映画の男伊達の世界観に近いものなのだろう。「顔で笑って心で泣いて……」どこからか往年の名優、菅原文太の声が聞こえてくるようであった。
「ぼくはいつまで……」
「あん?」
ぽつりと呟くハッカに唐鍔牧師がやや目付きの悪い視線を送る。
「ぼくはいつまでここにいれば……いいんですか」
「まあ、しばらくってとこかな」
唐鍔牧師は椅子からやおら立ち上がり、後ろの窓の前へ移動した。窓からは夕陽が臨めた。
† † †
「くそっ、またなのか!」
少年が三柱鳥居の中へ消えて一〇分ほど経とうとしていた。
「またわたしは目の前でみすみすっ……! 見捨てたのか、救えなかったのかっ!?」
「牧師……」と永久は唐鍔牧師の哀愁に暮れ泥む丸まった背中を見つめて口篭った。かける言葉が見つからないのだ。この人は常にその一瞬、刹那に全力を注いでいる。だから責任を他人に転嫁し、他人を否定することなど決して出来ない。不器用で愚直で、神すら呪えない。その鋭利な刃は稠人にではなく常に己が心を刻んでいる。
そんな彼女を、永久はずっと見てきた。自分にもわずかでいいからその辛苦を分けて欲しかった。
永久にとって一番の苦痛は、唐鍔牧師の支えとなれない、未熟で非力な、自分の弱さだった。
「ド畜生ッ!!」
その怒声に、永久は一瞬歯の根が合わなくなった。
そうして独り、そっと足音を殺して立体駐車上を後にした。今の自分に、彼女にしてあげられることは何一つない。むしろ彼女はこういう時、総じて孤独を望んだ。
だから気を利かせた──フリに浸った。
何もできない自分の無力さと彼女の心痛に堪えかねて、逃げたのだ。
そんな自分の不甲斐なさを紛らわし、また唐鍔牧師へせめてもの心配りから駐車場内の自販機で無糖と微糖の、それぞれ別メーカーの珈琲を買うために硬貨を入れてすぐだった。
だん!
本来の膂力の半分以下の以下、一〇分の一にも満たない拳で、自販機のディスプレイを殴った。アクリル板は歪み、中で並んでいるジューズや酎ハイ缶の模型は四散していた。
それから「ふぅ……」と呼吸を整えると、
「何やっているんだ永久! お前は本当にあの功刀永久なのか!? もし俺の知る功刀永久なら、慟哭くなッ!! 喚くなッ!! 顔を上げろッ!! お前は唐鍔虎子、唯一の執事なのだから!!」
そうして気合を入れるために自身の頬に平手を叩きつける、と。不意に、鳥の啼き声が耳朶を打った。
こんな夜も開けきらぬ時刻に、いったい。
高い音。硬質的で聞いたこともない囀りだった。それでもなぜだか耳はすぐに鳥の声だと判別した。
背後で、自販機の中から缶珈琲が落ちてくるがこんという音が響いた。しかし永久はもうすでにそこにはいなかった。鳥の啼き声がしてきた方へ、咄嗟に走り出していた。
鉄でできた非常階段を足音響かせ駆け上がった先は、今しがた唐鍔牧師と離別したあの場所。
「牧師ッ!」
「ああ、永久か、どうかしたのかよ」
背後で息を切らしている永久をよそに、唐鍔牧師は極めて落ち着き払った口調だった。
「大事ありませんでしかたか! 鳥の、奇妙な鳥の啼き声が聞こえてきたんですが……」
言いかけて、永久は辺りを見わたした。二人のいるフロアは、先ほどと何ら変わりない。するとその時、唐鍔牧師がそっと口を開けた。
「赤いテレビが……出てきたんだ」
テレビ?
永久は心の中で反芻する。
「テレビの画面には無数の紅い鳥居がトンネルを作っていた、それこそ合わせ鏡のように」
どうしたんだ、いったい牧師は……?
「その画面の鳥居の中から、女が、セーラー服を着た妙齢な女がわたしにこれをまかせるって……」
ここで初めて唐鍔牧師は永久の方へ振り返る。その彼女の両腕に抱えられていたのは、しばらく前に三本の柱を持つ鳥居の中に消えた……少年の姿そのものだった。
「誰なんです? この子を助けた女っていうのは、いったい誰なんですか!?」
永久の詰問に、唐鍔牧師はやおら首を横に振った。
「わからん。ただ彼女は一言だけ、自分のことを亜鳥と名乗ったよ」
† † †
その後ハッカは功刀永久、唐鍔虎子の両名に保護され、この歓楽街に建つ教会──〝祈り屋〟に身を寄せることとなった。
祈り屋はこの界隈では〝懺悔ホストクラブ〟と呼ばれる、かなり名の通った異質な教会だった。
しかしそんなことは別としてハッカは祈り屋に馴染めずにいた。
「まだわたしらのことが怖いのかい」
「べつに、そんなんじゃ」
二人は確かに若者の恐怖の対象、ケータイクラッシャーとして半ば都市伝説になるまでファウンデーションで暴れていた。
「ま、わたしらが不当な暴力活動していたのは事実だがよ? 仕方がない、なんて安い自己肯定はしない。けれどあのクスリをどうにかするにはあのチェーンメールを止めるしかなかったんだ」
ハッカが《ケータイ交霊術》として行った呪い遊び、何でも願いを叶えてくれるネット上の神社──《虹蛇ノ杜》。
しかし巷ではそれらとはまた別の都市伝説があった。《へびつかい座ホットライン》なる携帯でのみアクセス可能のSNS。そしてそこからダウンロードできる《デジタルドラッグ》なる電子麻薬。
祈り屋の二人はこのへびつかい座ホットイラインから垂れ流される《デジタルドラッグ》を追っていた。
「あれは死を招く禁断の麻薬だ。わたしたちは何としても、あれの拡大を阻止したかった。わたしたちケータイクラッシャーの行く先々で人が死んでいたのは、結局のとこ、助けられなかったからなんだよ」
「それはもう……聞きましたよ」
遠慮がちで伏した面差しで、ハッカは言った。
「そうか」さして気にした風もなく唐鍔牧師は二杯目の珈琲を立ちながら机に片腕をついて煎れた。「お前の面がいかにもまだ納得がいってませんって言いたげだったから、なぁ?」
「……、……」
ハッカは何も言い返せずに、下唇を噛み締めた。
「まだ何も……思い出せそうにないか?」
その問いに、ハッカはこくりと頷いた。
そう、ハッカは《虹蛇ノ杜》から戻ることと引き換えにセカイの果てでの出来事を、すべて忘れてしまっていた。
無人駅で錆びついた時間に微睡んでいたことも《へびつかい座ホットライン》というローカル電車に揺られたことも《虹蛇ノ杜》という不可思議な神社へ入ったことも、カレルレンと名乗る不格好な着ぐるみを着た道化のことも、そして……そして自身を救ってくれた、亜鳥のことも、すべてハッカの海馬記憶中枢から抹消されていた。
ぼくはあの時、相澤真希から《ケータイ交霊術》の詳しいやり方を聞くために街へ出て……それから何が起きたんだ?
それに何で《ケータイ交霊術》なんてしようと思ったんだ。
……相澤真希って、どうしてアイツの名前が、頭にある?
疑問ばかりが胸から頭に浮上して、けれど引き揚げられることなく再び胸の最奥に沈殿していく。
「そう重く考えなさんな」
俯いてテーブルを睨むハッカの頭に、唐鍔牧師の手がのっかかる。スポーツをしている男のように、熱く大きな掌だった。
「うちは教会だ、施してなんぼ、奉仕してなんぼだ。いくらでもわたしらを頼れ」
「でも──」
「でもも伊達も政宗もあるか! 子供が大人に気を使うな。つうか、ジーザスの懐の深さを舐めるなよ?」
そう言って唐鍔牧師はハッカの頭をもみくちゃに掻き撫でる。
ハッカは煩わしそうに顔を歪めた。
「ところでな麦村、一つ尋ねたいことがあるんだが」
眼を細めながらハッカは、なんですか、と顔を上げた。
「これ、どっちがいいと思うよ」
と言って差し出されたのは、鉛筆画が描かれた二枚の紙だった。訊かれたハッカは惚けて頭を傾いだ。
「何がですか?」
「だ・か・ら。お前さん好みのデザインはどっちかって訊いてるんだよ」
「はあ」
一方は翔く鳥の翼が輪になった指輪、一方は逆十字のロザリオだった。
「じゃあこっちが」
ハッカは鳥の指輪を指差した。
「ほう、何でだ?」
「なんとなく、シンプルだけどあまり見ないから。そっちの十字架はゴテゴテしすぎ。絡まってる蛇とかいらないんじゃないですか、なんかアルファロメオのロゴを劣化コピーした感じ」
「そうか、相わかった」
「アクセサリーのデザインですか?」
「まあな」
「そう言えば礼拝堂にも飾ってありましたよね、〝ペルソナ〟のベルトが」
「ん? 小学生があのブランドを知ってるのか」
「たまたまネットで調べたんですよ」
ペルソナとはシルバーアクセサリー、皮革製品を主戦力としたファッションブランドだ。元はロンドンの王室御用達銀細工工房から株分けで端を発しているため、伝統と確かな実力から高い人気を誇っている。
仮面──という名称は、この企業独特の奇抜な彫銀細工に由来している。
「〝一二姉妹〟──でしたっけ、あれ」
「ああ、イカすだろ、あれ。市場からはほとんど消えてしまった代物だからな、もう一〇年もすればサザビーズのオーションにだって出るんじゃないか?」
一二姉妹は革のベルトに一二個の不気味な女の貌を取りつけたもので、ペルソナの代名詞かつ出発点にもなっている作品だ。まったく同じようにも見え、けれど細微に表情や装いを変えて一二個それぞれに個性をあたえている。一見すると気持ちの悪い女の貌だが、中々どうして奥床しさと玄妙さを兼ね備えていた。
ようやくたどり着いた共通の話題に、ハッカの表情は和らいだ。
と、それも束の間。不意に執務机の上にある黒電話が鳴る。ジリリリリと聴覚神経に針を刺す騒がしい音だ。
「はい、こちら祈り屋」
受話器を取りながら、唐鍔牧師は懐から取り出した煙草(More)を銜えジッポーで火を点けた。
「ああ、あぁ? ……ああ」
そのまま銜え煙草で話し続ける。電話は煙草がたっぷり一本吸い終わるまで続いた。ハッカはその間、黙ってソファーの上で待ち続けた。
「ああ、じゃあそれで宜しく頼む。わかった。ああ、失礼する」
受話器を電話に戻すと同時に、煙草を灰皿へ押しつぶした。
途切れた会話を再びつなぐ話題もなく、二人の間では沈黙だけが交わされる。
「……じゃあ、ぼく」先に口を開いたのはハッカの方だった。「永久クンの手伝いがあるので、コーヒー、ごちそうさまでした」
とカップをテーブルに置くも、そこにはまだ半分以上も黒い液体が残されていた。
ハッカは唐鍔牧師の方を見ないようにしてドアの前まで差しかかった時だった。
「おい麦村」
呼び止められ振り返ると、唐鍔牧師が神妙な面持ちでジッポーを睨んでいた。
「──I’LL DIE BEFORE I’LL RUN」
唐鍔牧師はジッポーをハッカの方へかざした。そこにはアンモナイトのレリーフと、先ほど唐鍔牧師がしゃべっていた英文が刻まれていた。
「〝走る前に──死ぬだろう〟てさ」
〝かっこよくね?〟そう言って、彼女は笑った。
† † †
「ねぇ永久クン、ちょっと手伝って」
「ああネクタイね、いいよ。え~と、まず襟は立ててネクタイそのものはもう首に通ってるから……まず細い方がおへその位置に来るようにして、一回胸元をクロスさせて太い方をこう二回隙間に通して……」
キュっと絞り上げて結び目を整える。
「これでお仕舞いと。さあ、腕をのばして」
そうして正装へと着替え終わった。子供用に新調された黒いスーツだ。
「ありがとう」
「俺は執事だよ? これくらい礼を言われるほどじゃないさ」
「あのさ、その執事って執事喫茶の執事じゃないの」
「〝お帰りなささいますっておぜうさまッッ!!〟ってやつでしょ?」
なぜに体育会系?
「そもそも執事=(イコール)使用人という固定観念からして間違っている。確かにカトリックなんかだと旧くから執事は司祭さまや司教さまなんかの位の高い人の仕事を補佐する役職だったけど、元を正せば新約聖書の使徒行伝の故事から来ているそうなんだよ。そこには貧しい人々に奉仕をする使徒たちを手助けした聖ステファノをはじめとした七人の弟子たちを執事とみなす考えなんだ」
「ふぅん……で?」
「俺たちはイロモノじゃない! てことさ」
永久はそう言って悪戯っぽくウインクして見せた。
「でも──」
開け放たれた樫の門扉に、ハッカの言葉は遮られた。
「あ、ドッグ、おはよーございまーす」
「おはよーございます」
「アーメーン、若! 今日もしゃべったら残念だね」
「あはっ、残念とか言わなーい」
観音開きの向こうから次々に美男子が入ってくる。
「おはようございます執事長。今日も宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします」
あっという間に礼拝堂はイケメンたちによって占領されてしまった。皆一様に派手でスタイリッシュなスーツ姿だった。ラフなノーネクタイのものもいれば、折り目正しくボタンを留めているものもいる。ただどちらかと言えば永久のようなイングリッシュ・スタイルなドレスシャツやベスト、リボンタイをつけているものが目立った。
「それじゃあみんな集まったところで、ぼちぼち今日の執事會活動を始めますか!」
ハッカの次に年下の永久がこの場の音頭を取ると、礼服姿の男たちは丸テーブルを中心にして輪になって広がる。
す~~は~~。
静まり返った礼拝堂の中で男たちが雁首揃えて腹式呼吸という不思議な光景が、そこにはあった。みな顔は真剣そのもの、肺にある空気が空になるまで吐き出す。
そして一斉に丸テーブルへ片足を載せる。
「我ら、バプテスト教会日本支部! 暁刀浦市担当教会祈り屋──〝執事會〟!!」
「我らが使命はただひとつ!」
「神の計画の魁として、あなたの子らを導くこと!」
「イエスは牧羊者だ!」
「我らの牧羊者──それは唐鍔虎子牧師!」
「ならば手足となって動く我らは牧羊犬かっ!?」
「否──!!」
「断じて否だ!」
「かつてイエスは仰った! 私の導く一〇〇頭の羊に一頭でも迷いはぐれるものが出たのなら!」
「その一頭に狼が襲おうとしたとしたら!」
「私はその一頭を助けるために戦うと!!」
「彼こそ真に我らの主だ! 戦士だ! そして勇者だ!!」
「ちがうか!?」
「違うか!?」
「チガウか!?」
「違うかあぁ!?」
「まったき、その通り(アーメン)!!」
「ならば我らの導き手──唐鍔虎子牧師も勇者だ!」
「我らは彼女を孤独のうちに戦わせるなど決してしない!」
「ならばもう一度汝らに問う、我らは牧羊犬か!? ただの走狗かッ!?」
──否!!
──我らこそ猟犬!!
──狼を狩る猟犬だ!!
「我らの心の羅針盤は常にあなたへ向いている。
……父、御子、御霊にお祈りします」
「アーメン!」
「アーメン!」
「アーメン!」
「アーメン!」
──アーメン!!
神を肯定する決まり文句で締めくくられた祈りの後には、異様な静寂と熱気とが礼拝堂の中に渾然一体となっていた。その空気は体育会系と通り越しもはや武闘派ヤクザの域にまで達していた。
「はい、それじゃあ今日の始めのお祈りもしたところで、礼拝営業を始めますか」
パンと手を叩き、その場の空気を消し去る永久。
「アーメン!」
「アーメン」
未だ興奮冷めやらぬ幾人かの美男子が永久の号令に熱の篭った声で返す。しかしすぐに足を載せていたテーブルを布巾で磨き、その後殺菌消毒スプレーを吹きかける。
先ほどの非日常的な場面から今度は現実的な生活の一コマめいていて何だか妙にシュールだった。
「こんな人たちが……」
「ん?」
ふと呟いたハッカに、永久は視線を落とした。
「こんな人たちが……ホスト、なんだよね」
「そうさ、俺たち執事會に所属する執事の存在そのものが、この祈り屋を懺悔ホストクラブたらしめている一番の要因さ」
「でその執事會、リーダーの永久クンが若年ながら執事長ってわけ。でもいいの、そんなことして? だってここバプテスト教会っていうのの支店みたいなものでしょ?」
「あははは〝支店〟かぁ。面白い例えをするね麦ちゃんは。そう謂えば牧師も〝わたしはこの教会で〝神〟っていう商品を売りさばいていくのさ!〟って言ってけな~」
腕を組みしみじみと過去を振り返り出す永久。
「そんなのどうでもいいから早く教えてよ。執事って教育実習生みたいなものでしょ」
「キリスト教の宗派にも色々と種類があるんだ。それぞれで教義やら秘跡が違うんだ。経営方針の違いって言ってもいいかな? 他の大きな組織は大概縦割りさ。けどこのバプテスト教会って宗派は宗派であって宗派じゃないんだ」
ハッカは首を傾げた。
「全体を司るシステムがないのさ。バプテスト教会系列の教会の基本原則は、各個教会主義っていって信仰のあり方を上から強制しないことなんだ。自分の信じるべきものは自分で見つけてみせろ、ってこと。これは自由主義神学なんかも絡んでくるんだけど、面倒だから割愛、割愛」
両手をカニのハサミを模してチョキチョキ指を動かしおどけてみせる。
「まっ、要するに俺たちは俺たちのやり方で、俺たちだけのやり方で信仰や救済を求道しているだけなんだよ」
「いわゆるひとつの、業界の革命児ってやつ?」
「そうそう、それ! けどねぇ、他の教会からはメチャクチャ異端視されるは最右翼とか言われるはで風当たりは強いよー」
そう言って、永久は自嘲気味に微笑んだ。
礼拝堂の奥の階段からギシギシという家鳴りと、革の靴底とが織り成す硬質な音とが降ってくる。
「おはようございます(アーメン)、牧師!」
「おはようございます(アーメン)!」
「お疲れ様です(アーメン)! 牧師!」
各自開店準備に取りかかっていた執事たちが、みな手を止めて階段から降りてきた黒の化身、唐鍔虎子に恭しく頭を下げた。
「よお、お前らのジーザスは今日も元気してるかい?」
「はい、それはもう元気ビンビンですよ!」
「そりゃ毎日いっしょに鍛えますからね」
「そうか、なら今夜もお前らのジーザスの愛で酒を酌み交わそうぜ!」
──応ッ!!
男たちのかけ声で礼拝堂が揺れる中、ハッカはこのどこまでも体育会系で武闘派なノリに食傷して溜息をついた。
† † †
陽も暮れて久しくなった頃には歓楽街、夢路町は完全に機能していた。街灯以上に眩く光るネオンに照らされた街並みは活気に満ち満ちている。
けれどそれは夢路町中央の教会、祈り屋ではまた勝手が違った。電飾の類が一切なく、ガスの明かりで灯る古式ランタンが外門と正面入口の横にそれぞれ二つ設置されているだけ。しかし思い門扉の向こう側には賑やかで華々しい世界が広がっていた。
あるテーブルでは、
「だから私は祈ったのですよ。『イエス様、どうせ人生を生きるなら、あんたのバカ、アホにしてください。キリストのバカにしてください。中途半端なクリスチャンではなくて、本物の、キリストを愛してやまないバカにしてください』と。だからここにいるのです」
「へぇ~」
またあるテーブルでは、
「聖書の中にある話なのですが、税金をローマ皇帝のシーザーに払うべきか、それとも神に払うべきか、と訊かれた時にジーザスはこう仰ったんですよ」
「こう、って?」
「『銀貨になんと書いてある? シーザー? じゃあ、そいつに払いなさい。神に返すものは神に返しなさい』とね」
「ナニそれ、ジーザスチョーカッコイイじゃん」
あそこのテーブルでは、
「私、〝フリ〟をして今日まで生きて来たんです。喜んでいるフリ、怒っているフリ、哀しんでいるフリ。そして……、生きているフリ。今さら人生に疲れた〝フリ〟をしたところで、何も変わらないっていうのに……」
「そんなこと言わないでくださいよ。まずは気持ちから変えてみましょうよ」
「気持ち……?」
「そう。
気持ちが変われば心が変わる。心が変われば態度が変わる。態度が変われば生活変わる。生活変われば性格変わる。性格変われば人格変わる。人格変われば人生変わる。人生かわれば運命かわる。
聖書の言葉じゃないですけど、俺好きなんです、この言葉」
「あの……これ……バーボンです」
ハッカはテーブルに就いて接客する執事にトレー酒瓶を手わたした。
「ああ、ありがとう。ご苦労さん」
執事は微笑みながら受け取ると、ハッカの頭を撫でてやった。
ハッカはすぐに反転してバックヤードへ戻ろうとした。すると、
「君もここへ来て何か変われたかい?」
そんな台詞を背中に投げかけられた。
ハッカは何も言えなかった。
そして木製トレーを持ったまま永久がバーテンをしているカウンターへ赴く。
「やあ麦ちゃん、やってる?」
「何をさ」
「その調子じゃ、ここの仕事はまだ慣れてないみたいだね」
「うるさいな、ずっと見てたくせに」
「はは、拗ねない拗ねない。それよりも何か飲む?」
「キティ」
「おいおいいくらここが風俗営業してても未成年にお酒は出せないな」
「自分だって未成年のくせに……。じゃあキティのワイン抜きで」
「ただのジンジャーエールね。ちょっと待ちな」
そうしてジュースが出てくるのを待っている間に、ハッカは礼拝堂をしげしげ見渡した。
「はいジンジャーエール。何? どうかした?」
「え? いや……なんというか、やっぱりなんか異様な光景だなっと思って、さ」
「そんなに宗教が気持ち悪いかい?」
「──!」
びっくりした。咄嗟に顔を隣へ向けると、そこには唐鍔牧師が悠然とスツールに腰をかけていた。
「よお永久。麦村はしっかりやれてるか?」
「あ、牧師」
突然現れたこのホストクラブのオーナーは、バーテンダーにキールロワイヤルを注文する。
「はい喜んで!」
場違いなノリで応答する少年バーテンダー。
「宗教って気持ち悪いよな。お前もそう思うだろ」
「なんですかそれ、自虐ネタですか」
「そんなんじゃないさ。これはわたしの本音だよ。でもお前は少なからずこの空間に違和感を覚えているんじゃないか。例えば『神なんて目に見えないもの、どうやって信じろっていうんだ』とかさ」
「……否定はしません」
「あと顔が宗教キモいって表情してる」
ハッカは思わず顔に手を当てた。
「バーカ。嘘だよ、嘘」
「むぎッ!?」
なんだこれ、鼻がすごい痛い。そう思った一瞬、唐鍔牧師が自分の鼻をつまんでいるのに気づいて咄嗟にその腕をつかんだ。けれどビクともしない。まるで、それこそ万力か何かにでも挟まれているとしか思えない力強さだった。
「知ってるか? 小さい頃につまんでると高くなるんだよ、鼻って」
「うそふぁ!」
「もうやめてくださいよみっともない。子供をからかって楽しむなんて趣味が悪いです」
「イタタタ……、わかったよ。わかったから莫迦みたいに人の手首をつかむな」
「ご理解頂けて幸いです」
「たく、主人に手を上げるなんて執事の風上にも置けんやつだな」
「俺の主は神様だけです。それに牧師をいさめるのも執事の仕事です」
「うわ、キモッ! つか、恥ずかし! 『これだから宗教やってるやつは』って、思わないか麦村?」
その言葉が、なぜだかハッカの心を逆毛立たせた。
「それ、ひどくないですか。そうさせたのはアンタでしょ?」
「はっ、違うな。わたしはこいつらに──いや誰かに何かを強要したことなんて一度だってないね」
「だってさっき永久クンが──」
ハッカが即座に視線を横走らせると、そこには長い前髪から柔和な眼差しを漏らした永久が静かに顔を横へ振っていた。
「俺はね麦ちゃん」永久は唐鍔牧師の前にカクテルグラスを差し出した。中には赤く透き通った液体──キールロワイヤルが注がれている。「この人から無理強いされてクリスチャンや執事になったんじゃないし、まして宗教をやらされてるなんて意識まったく、これぽっちも感じたことはないんだよ」
「……は? いやだってそれ矛盾してるじゃん」
「何もおかしいことなんてありはせんさ」唐鍔牧師はカクテルを一口煽る。そうして猫みたいな細い眼でくるくるとグラスの中の酒を回して楽しんだ。「結局な、宗教ってのはそれぞれの型、色に染まることだ。自分をある一定の形に定めて限界を作ってしまうことだ。そして自分が所属する大枠を自分自身と捉え、それと意を反するもの、矛盾するもの、相対するものの一切を否定しなくちゃ成立しなくなってしまう。自分を守るために他者、他の宗教、他の神を否定し続けなくちゃ存在できない存在になってしまう」
「……それって、フツーの人間じゃないですか。学校でもどこでもあることじゃないですか」
「そりゃそうさ、神が人を創ったんじゃなくて人が神を創ったんだとしたら、なんらおかしいことじゃないさ。つまるところ、わたしたちは一〇〇パーセントの人間で、そこから生まれるものなんてしょせん一〇〇パーセント人間の被造物でしかないからさ」
そう言って唐鍔牧師は残りのカクテルを一口で呑み干す。
「言ってることが、ぼくにはよくわかりません」
ハッカは拗ねた。唐鍔牧師に対してではなく、それが理解できない自分に対して。
「悪い悪い、確かに少し子供には難しいこと言っちまったな。ただわかって欲しかったのは、わたしたちは型にはまれとは言わない、逆に解き放てって伝えたいのさ。肩肘はらずに楽になれって。わたしたちはただの〝ジーザスフリーク〟、あのサイコーにクールでイカしたユダヤオヤジに惚れてるだけなのさ。
だからここに来る客にだって別段、勧誘だの改宗だのは勧めたりしていない。ただ識ってもらいたいから、ジーザスっていう色男がわたしたちを救ってくれたことを。
けど識ってもらうには陰湿で何かドロドロして暗い雰囲気のある旧い教会じゃ駄目だ。人は所詮外見でものを判断する。だったらファッショナブルでなくちゃいけない。けれど伝えるメッセージは歴史的な流れの中でトラディショナルの方がいい」
「そんなこんなで二人で知恵と直感を出し合って決まったのがホストクラブってわけ」
永久が言った。何か呑んでいる。ハイボールだ。まだ一五のくせに。
「でもホストってフツー外面ばっかの印象しかないけど」
「そいつは違うな。本当のいい男ってのは想いや熱意が身体の中を駆け巡って血や肉となってるんだ。だから外見よりも中身が大切なんてあれは嘘さ。本当のかっこいいやつはルックスはイカしてて当然の常套! わたしを見な、粋で鯔背なことこの上ないだろ?」
「…………」
もうツッコミどころがあり過ぎて、ハッカには何も言えなかった。いや、それ以上に彼女には反論をさせないだけの何か雰囲気のような……オーラのようなものがあった。普通の人間にはない何か、だ。
「まあいいさ、子供だからって簡単に何でもかんでも鵜呑みするのはよくない。自分で考えて、自分で決めな」
そう言って、唐鍔牧師はハッカの頭を力強く掻き撫でた。あまりに力まかせにして痛いので、ハッカは咄嗟に目を瞑った。開けた頃には髪の毛はボサボサになっていた。
「おい、お前ら祈ろうか!」
スツールから立ち上がった唐鍔牧師は、おもむろに中央のセッションステージ──祭壇へ上った。
「ジーザス! わたしたちのために死んでくれてありがとう! わたしたちのために復活してくれてありがとう!
ジーザス(あいつ)は鉄やガラスの破片がついた鞭で打たれた後、手首と足に杭を受けた。そうすると肩は脱臼して肺がつぶれて全身が痙攣する。
にもかかわらずわたしたちを赦すために生き返ってくれた!
にもかかわらずわたしたちを愛してくれた!
サンキュー、ジーザス! あんたはサイコーにダンディーなユダヤガイさ!」
──サンキュー(ハレルヤ)!
礼拝堂全体が揺らぐほどの歓声が上がる。これが祈り屋スタイル。これが唐鍔虎子という一人の人間が、求道者が出した救いのカタチ。またその過程。
「ぼくにはよくわかんないよ」
と言ってハッカはグラスに残ったジンジャーエールを小さくクピリと口にふくみ、スツールから離れた。
礼拝堂の窓の傍に飾られたスクーター、ベスパP150Xを元まで赴く。『探偵物語』で松田優作が乗っていたバイクだ。アイボリーに角張った車体がアンティーク感の中に前衛的な趣きを醸し出している。
手持ち無沙汰のハッカは無聊の慰みにとベスパのハンドルを握った。
唐鍔牧師や永久が何か正しいことを言っているのはわかる。けど、心がそれに追いつかない。その歯がゆさが、どうしようもなくハッカの胸を居た堪れなくした。
ここにいる人たちは変わっているがみんないい人たちばかりだ。けど心の距離は全然遠い。離れてる。
それはどこか天体同士の絶対等級にも似た錯覚で、光がそこにあるのはわかっているのに、手なんてまるで届きはしない。
ちょっと前まで、こんなことなかった。他人の気持ちなんて、考えるまでもなくいつもそこにあった。嬉しいとも、煩わしいとさえ思えなかった。けれど今はこの有様。
──いつものぼくは、どこにいるんだよ!
握ったハンドルのスロットルを、限界まで回し切った。
バチッ。
「──?」
一瞬、目の前を白い稲妻のような何かが過ぎった。
ザ、ザザザ。
砂嵐?
視界の端々に灰色のノイズが散りばめられる。
頭が痛い。
苦しくなって、ハッカはベスパの座席シートにしなだれかかった。
『……ッカ、クン』
ノイズに紛れて、人の声が、聞こえてきた。
咄嗟に反応したハッカは、顔をいきおいよく上げた。
「うおっ、と! ダイジョブかい麦ちゃん? 顔色真っ青じゃん」
心配そうに見おろす永久の顔が、そこにはあった。
「熱はないよな」
永久の手が前髪を掻き分けて、額と額とを出逢わせた。
「う~ん、子供の平熱と比べてもいまいちわかんないな~。ま、いいか」
一人で納得した永久はちょうど祭壇から降りてきた唐鍔牧師に駆け寄ると、彼女の耳にそっと囁きを入れる。すると唐鍔牧師は中折れ(ソフト)帽の鍔で奥まった瞳でハッカに一瞥をくれた。そこでつうかあな出来事があったのか、永久は深々と腰を曲げお辞儀する。さすがは執事、腰に分度器が仕込まれているかのような綺麗な四五度の最敬礼だ。
「俺たちはもう上がりだって」
永久が戻ってきて言った。
まだ八時だ。ハッカはともかくとして、執事たちを束ねる執事長の永久がこんなに早く仕事を上がってしまって大丈夫なのか?
「ダイジョブだよ。牧師もいるし、みんな子供じゃないんだし。それに俺なんて最近じゃお客取らせてもらえないんだ、バーカウンターにつっ立ってるだけ」
そう言って永久はやんわりと微笑んだ。なぜだか少しだけ、苛立った心が楽になった。
「じゃあそうと決まればさっさと帰ろう」
永久はハッカの手を取り教会の正面入口を抜けた。青銅の門を抜けて大通りに出る。風が温い夜だった。肌に纏わり付いて離れない、雨が降る前触れを予感させた。
やはり雨は降った。ぽつぽつと降り始めたかと思うとあっという間の本降りになった。二人は急いでその建物へと入った。祈り屋と同様に旧い建物だった。赤煉瓦造りの六階立てで、教会から二ブロックしか離れていない場所にあった。ドアを開ければそこはエントランスになっていて、内装は木造だった。
二人の足元のカーペットに出来た染みがみるみる広がっていく。
「はぁ、ったく。まさか俺たちを狙って降ったんじゃないよな。あっ、ちょっと」
「なに?」
ハッカは永久の隣で頭を振り回して顔や髪についた水を周囲に撒き散らしていた。永久はそんなハッカを見かねてポケットから取り出した綺麗にアイロンがけされたハンカチで顔を拭いてやる。
こそばゆくてくすぐったい。こんなことされたの初めてだ。照れ臭いけど、あまり厭な感じがしない。
しかしもし同じ世話焼きの儚なんかがやってきたとしたら、迷わず躊躇わず逡巡せず、容赦なく急所の太もも横に蹴りを入れている。
「ああ、もう大人しくしな」
けれどやっぱり気恥ずかしい。
ハッカは煙たがって顔を動かす。
「そんなに嫌だってんならもう風呂だ!」
「うわっ」
唐突に、永久はハッカを肩に担ぎ上げる。ハッカは手足をばたつかせて幼い抵抗を見せた。
「ふぃー、気持ちいー」
本来は一人で利用する猫足バスタブも、まだ身体の小さい小学生と身長ののび切らない少年の二人ならなんとかいっしょに入ることができる。
湯船一杯に浸したお湯の上に、取り外しのできないシャワーから水滴が落ちる度にいい音が響いた。
「ねえ、麦ちゃんも気持ちいいだろ?」
「知らないよ」
まさか服を脱がされるだけじゃなく身体まで洗われるなんて。しかもあっちからこっちまで隅々、どこもかしこも綺麗にされてしまった。
不機嫌なハッカは顔の半分を湯船に漬けてぶくぶくと空気を吹いている。
「何だよ、拗ねるなよ」
「別にスネてないし」
「そうかいそうかい」
二人はバスタブの両端に背中をあずけて互いに足を向け合っていた。部屋は一面のタイル張りのシャワールーム。ただしトイレは別だった。
この赤煉瓦の洋館は祈り屋の牧師館だ。元は昭和初期に建てられたホテルで、名を景観荘という。歴代のオーナーはなぜかことごとく変死しているらしく、繁華街の一頭地にあるにもかかわらず破格の物件として唐鍔牧師が買い取ったものだ。
屋上には由来不明の屋外神社が建立されていて、オーナーの変死と何か関係あるのでは云々、危ないのでは云々、でも買っちゃったんだからしょうがない云々と、うにゃらうにゃらあって現在に至る。
一連のチェーンメールにまつわる事件を経て、今ハッカはあの場に居合わせた祈り屋の牧師と執事に保護された。社宅で一人暮らしていたハッカは、次の日には身綺麗にしてこの牧師館に移り住むことになった。ほとんど強制連行に近い形だ。いつものハッカならそんなことにさしたる抵抗はない。あるいは誘拐犯にさえ素直についていっただろう。しかしハッカは祈り屋の二人を訝しんだ。猜疑と懐疑の念を二人に向けた。
ケータイクラッシャーと呼ばれ《ブレインジャック事件》の犯人と目されていた祈り屋の二人は未だ真実を話そうとはしないが、悪党ではないのはハッカにも容易に見て取れた。しかし、それでも信用し切れずにいた。理由はわからない。
ハッカもうすべてを平等に、かけ値なしに受け止めることができなくなってしまっていた。
それでも祈り屋の面々、特に永久は陰日向にハッカの面倒を篤く見た。現に今も風呂を上がれば厭がるハッカの身体を拭いてやり、二人でフルーツ牛乳を飲んでいる。そうして胃にもたれない程度の簡単な夜食を作って、食後に二人でテレビを三〇分だけいっしょに観た。まだ眠くないというハッカをよそに歯を磨かせ、あたえた一人部屋へ移動した。
そこは外国映画の安ホテルの雰囲気そのままの極めて質素で物のない部屋だった。板張りの床には旧い絨毯が敷かれ、白い壁の一部は剥がれて赤い煉瓦が剥き出しになっていた。ハッカがいた社宅同様、生活感に乏しい。
「明日はお休みだから八時には起こしに行くから」
そう言って灯りを消し部屋から出ようとしている時だった。
「──あ」
「うん?」
ハッカは永久のシャツの裾をつかんだ。
まだ仕事の残っている永久は風呂に入った後もドレスシャツにスラックスといった出で立ちであった。
「あ……いや、その……」
何も言えなくなった。身体だけが先に動いて、言葉が後を追って来ない。
ここでこの人を見送ってしまえば自分は独りになってしまう。そう思うと、眠れる気がしなかった。
だからと謂ってそんな内情を言葉にできるほど器用でないハッカは、やっぱり自分の気持ちにすら気づいていなかった。隔靴掻痒、それが無性にもどかしくて未知の感情が既知の感情を混乱させた。
「あ……ぅ」
ハッカは顔を伏せ、下唇を噛み締めた。
わかんないよ、どう言えばいいかなんて。
「よっと」
──へ?
不意に、ハッカの身体を不可解な浮遊感が襲った。足が床から離れているのはもちろん、四肢、五躰そのものが宙へ浮いていた。
「え、あれ?」
ハッカは永久に抱き上げられていた。背中と膝の裏のそれぞれに、永久の細いが筋肉の締まった力強い腕が支えて持ち上げている。
借りてきた猫よろしく、ハッカは萎縮して抵抗ひとつできなかった。そんなハッカをよそに永久は黙々と廊下を渡り、別の部屋のドアを器用に開けて入った。
そこは永久の自室だった。洋館の一室とは思えない、部屋全体に和の意匠が散見できた。部屋の床にはすべて畳が敷かれ、椅子の変わりに座布団が、作業机の代わりに直接畳に腰かけて向かう書生チックな文机があった。部屋の隅に唐傘が置かれ、その中に光源をセットして淡く光る照明にしている。
「よっこいせっと」
ハッカを布団に寝かせ、永久は隣の畳に横になった。肘を立てて頭を手に置きハッカの胸をさすってやる。
「永久クンてさ」天井を見つめたまま、呟くようにハッカが言った。「なんでそんなに、優しいのさ」
「どうしたの急に」
「別に。ただちょっと気になっただけ」
なんだか変なことを訊いてしまった。他人に優しくされたことなんて、ほとんどなかったから。
「もういい、なんでもない。おやすみ」
ハッカはタオルケットを顔まで引っ張った。
「俺もさ、牧師に拾われたクチなんだ。ずっと昔だけどね」
「…………」
「執事やってるみんなもだいたい同じ。親がいなかったり、少年院や鑑別所出ても見受けする人がいなかったり、信じられる人が一人もいなかったり……そんな行き場のないのを片っ端から集めて、そんで独立して教会の手伝いに来てるのが、今の祈り屋なんだ」
「…………」
「この牧師館がムダにおっきいのもそのせい。一昨年までけっこう部屋も埋まってたんだよ。でもここのOBが不動産で成功してさ、今じゃその人の空き物件のアパートが祈り屋の寮になってんだ」
「…………」
「昔はすごかったな~。俺が寮母さんでさ、朝とかすっごいもう台風一過だったもん」
「…………」
「でもさ、俺が一番年下の若輩なんだよ? 古株だから一応今じゃ執事長なんて肩書きだけどさ、けっこう疲れるんだ、年上に囲まれてタメはって胸はって指示出して。弱いところなんて見せられやしない」
「…………」
うるさい。
いいかげん、耳障りになってきた。人を寝かしつけたいのか愚痴を聞かせたいのか。まったくわけがわからない。
「だから嬉しんだ──なんだか弟ができたみたいで」
「…………」
「ねえちゃんと聞いてる? もしかして寝ちゃった?」
…………………………………………。
「麦ちゃん?」
「うるさい、バカ。さっきからなんだよ、眠れないじゃんか!」
「ごめん」永久の声は、すっかり意気消沈していた。
そんな永久を尻目に、ハッカは顔の半分だけを覗かせた。
「言っとくけど、ゼッタイに〝お兄ちゃん〟なんてよばないからね〝義母兄さん〟」
「義母兄さん!?」
と驚きを隠せない永久はハッカの顔を確認しようとのぞき込んだ瞬間、
「じゃ、明日の朝八時に起こしてよね義母兄さん。起こしてくんなきゃ、みんな義母兄さんのせいにするから、気分が悪いのも毎週欠かさず見てるドラマがやらないのも全部全部。じゃ、今度こそおやすみなさい」
「え、ちょっと待って! 何なの、義母兄さんって!?」
知らない、自分で考えろ。
と、ハッカはタオルケットを頭の天辺まで被り背中まで永久に向けてしまった。
† † †
『キミはいつまで、ニンゲンのフリをしてるつもりだい?』
その声に、ハッカは咄嗟に何時間も閉じていた目蓋を開けた。
真っ暗だった。
もう夜も更け日付けをとうにまたいでいる。隣で添い寝してくれていた永久はすでに見当たらない。ハッカの記憶では、永久はずっと隣にいた。ともすればおそらくハッカが寝つくまでいっしょにいてくれたのか。
段々と眼が闇に慣れていくと、頭まではっきりと冴えていく。このまま布団に戻っても簡単には寝れそうにない。
仕方なく、ハッカは億劫そうにタオルケットをかなぐり捨て立ち上がった。するとすぐに立ち眩みで数歩よろめく。そのまま覚束ないながらもドアのノブをつかみ廊下へと出る。
暗い夜の洋館の廊下は、薄気味悪いことこの上なかった。省エネ対策からなのか、電灯は点いていない。灯りらしい灯りといえば、等間隔に設置された窓から零れる月光のみ。
ハッカは一度永久の部屋を振り返る。洋燈でもあればと思ったが、それらしいものは見当たらなかった。
月明かりを手探りに冷たい廊下の床をひたひたと裸足のまま歩いた。
途中、ふわりと柔らかい風が頬を撫でた。半開きの窓がレースのカーテンを揺らしている。遠く夏虫の囀りが聞こえる。
ハッカは足を止め、しばし窓辺に佇みながら貧血気味の頭の回復を待つ。
ブゥゥゥン。ザ、ザザザザ……。
抜き打ち、背後で不可解な音が響くと同時に風がやんだ。
ハッカはカーテンをつかみ、後ろを振り返ると、そこにはこの場には不釣合いな立方体があった。
音の正体、それは青いブラウン管テレビだった。画面に映る色は灰色。動く画は砂嵐。鳴らす音は雑音。
テレビ画面のホワイトノイズが、フレームを飛び越えて現実世界を灰色に変える。
ザ、ザザザザ、ザザザザザザザザザザ、ザザザザザザ、ザザザザ、ザザ、ザザザザザザ、ザザザザザ、ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ。
静謐な夜の中でまき散らされる騒音。あまりに異様な光景に、ハッカの思考と反射は機能を停止した。
がちゃり。
チャンネルのつまみが回る。
ガチャ……、ガチャ……、ガチャ、ガチャ、ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ……………………ガチャ、リ。
つまみが止まる。砂嵐の合間から、派手で奇抜な原色の映像が垣間見える。
『……つ、まで……、ニンゲンの……リを、してる……り、だい?』
頭痛が、痛い。
……知ってる。
ぼくはこいつを、知っている。
カレル、レン……。
ぼくは──ニンゲンじゃ、ない?
「麦村、そいつの言葉に耳をかすな!」
その時、廊下の奥からハッカのすぐ顔の横を一条の光が閃き、青テレビの画面に銀の剣が刺さる。間髪入れずにもう三本。テレビ画面のガラスは粉々に破砕された。
周囲のホワイトノイズが一瞬で霧散する。
「一二姉妹が四女──清廉なる乙女〝ガイナン〟! わたしを疾風にしろ!!」
するとそこへ大質量をともなった一陣の黒い風が駆け抜けた。風は槍を持っていた。銀でできた長大な突槍だ。風は突槍でテレビを刺突し、貫いた。と同時に、周囲を覆っていた灰色の暗幕が一瞬にして霧散する。
壊れたテレビはハウリングしたスピーカーじみた不快な奇音・怪音を撒き散らす。
「黙れよ、瓦落多が」
黒い風は突槍柄に付いていた銃爪を引き絞る。と、一発の銃声が大気を嘶かせ、突槍の槍身が五〇センチほど伸張を見せた。鍔からは空薬莢が一発、放物線を描きながら排出される。
突槍の放ったパイルバンカーの衝撃に、テレビは木っ端微塵に砕け散り、破片は床に落ちると同時に跡形もなく泡沫へと消えた。
長身痩躯の黒い暴風の正体、それは唐鍔虎子牧師。
唐鍔牧師はギロリとこっちへ振り返る。日本刀じみた、恐ろしいほどに切れ味のある視線だった。
† † †
「ダイジョブ、麦ちゃん?」
そう言って永久は、ソファーの上でココアを啜りながら背中を丸めるハッカの肩に毛布をかけてやった。
「あ、アリガト」
ハッカの肩は小さく震えていた。
「それが、あの夜消えたお前に起こった真実なのか」
唐鍔牧師は正面の一人座り用ソファーに腰かけ、白磁のティーカップでブランデー入りの紅茶を傾けながら言った。
訊かれたハッカはコクリとわずかに頷く。思い出したのだ、すべてを。
携帯の画面に鳥居を、導かれる光に指を動かし意識を飛ばす──ケータイ交霊術。
悠久の時の中、夕焼けが暮れ泥む黄昏の海岸線──セカイの果て。
セカイの果てを走る、カルトSNSと同名のローカル列車──へびつかい座ホットライン。
山の上で鎮座する座礁した鯨の残骸めいた異形の神社──虹蛇ノ杜。
社の奥でうず高く積まれたテレビの山に棲む道化──カレルレン。
そして、そして幾度となく自分を救ってくれた女性──亜鳥。
欠落していた記憶のすべてを取り戻したハッカは、一つ一つ噛み締めるように、また自分の中で確かめながら、ゆっくりとどもりがちながらも二人に打ち明けた。
本当は言いたくなんてなかった。言えるわけがない、こんなデタラメな話。けれど打ち明けるしかなかった。ハッカの小さな胸に押し込めるには、あまりにも重た過ぎる。吐き出して楽になってしまいたい。こんな不安な気持ち、初めての感覚だ。地に足がついている気がしない。それこそ雲の上で綱わたりをさせられている気分だ。
だから祈り屋の二人に告解した──懺悔をしたのだ。二人は少しでもリラックスできるようにと飲み物を片手に聞き返したりせず、ましてや叱責などもせずに、ただ静かにハッカの拙い言葉に耳を傾けてくれた。
しかし。
しかしハッカは、ここまできてこの二人を未だ信用しきれずにいた。唐鍔牧師が見せたあの尋常ならざる身のこなし、それに何よりあの〝眼〟だ。振り返り様に向けてきたあの〝鬼気〟としか形容できない人間離れした鋭利な眼光。人のする貌じゃなかった。
いや……、もしかしたらもしかすると人じゃないのはむしろ自分の方なのかもしれない。
と、ハッカは思った。
人じゃないのは自分だから。だからあんな目で見られたんだ。
けれど、それもより何よりも、もっと気になることが、ハッカにはあった。
「教えてよ……デジタルドラッグて何なのさ」ハッカは肩にかかっている毛布をはね除け勢いよく立ち上がった。「二人はもともとデジタルドラッグを探してたんでしょ!? デジタルドラッグで人が死ぬ、それはわかるよ! でもなんで二人はそんなこと知ってるのさ!? だって〝アレ〟、チェンーンメールでケータイ交霊術して、そんで虹蛇ノ杜にいるカレルレンからもらうものだろ!
アンタらは────カレルレンと同類じゃないのかよ!!」
言下、両手をテーブルへ打ちつける。ロビーに静寂が重たい緞帳を落とした。
「右の頬を打たれたら……」
「え?」
「左の頬も差し出しやがれ────!!」
それはハッカにとってまったく埒外な出来事だった。右の後から左に、いやむしろ左右ほぼ同時だっただろうか。とにかく桁外れの衝撃が顔面を挟撃した。気づいた時には唐鍔牧師に頭をつかまれ宙に浮いていた。
「そんで御歳暮持ってこい! 暑中見舞いに寒中見舞い、ついでに三指ついて御中元だ!」
意味がわからない。何を怒っているんだ。逆ギレなのか!?
「わたしらをあんなのといっしょにするな、ダラズがっ!! いいかっ、わたしたちはな──」
「牧師、ストップ! ハイってます、キマってます、気管と頚椎が本能寺の変になってます! というかその前に顔面崩壊しますって、タップタップ、ペナルティ!
ウノ! ドス! トレス! 牧師の勝ち! だからさっさと手離してください!!」
はぁ……はぁ……。
永久のおかげで、何とか事無きを得たが、あと数秒遅かったら『ムンクの叫び』もかくやの酷い顔になっていただろう。
「ふんっ、ったく。この程度で音を上げるたあ情けない。わたしが現役で喧嘩やってた頃は関節捨ててでも殴りかかるなんざ日常茶飯事だったぞ!」
いや、あれは関節がどうのこうのとかいうレベルじゃなかった。あのままいっていたら本当に顔面が壊れてもおかしくはなかった。
「ちっ。わかったよ、わたしが悪かった。主よ、どうかわたしのおかした小さな過ちを許してください──別に許さなくたってかまいやしないが」
「牧師ッ!」
「わかった、わかったからそう夜分に大声をはるな、ただでさえうちはヤクザ教会って悪評、汚名が触れ回ってんだ、これ以上ご近所さんに迷惑かけられるか」
「実際にここいらのジャパニーズマフィアを締めて街の顔役やってる人にこれ以上泥なんて塗れませんってば」
「ばっか、お前。わたしが元締やってるからファウンデーションのゲットーにいるマフィアどもを牽制できてんだろうが。あれだぞ、わたしがいなけりゃ暁刀浦は人身売買・薬物・武器のいい出入口じゃないか」
「知ってますよ、それくらい。何年あなたの執事やってると思ってるんですか。五年ですよ、五年! ヒロシ&キーボーなら三年目で浮気して五年目で破局ですからね!?」
「お前、だからネタが旧いんだよ! しかも五年目の破局なんてわたしの世代でも知ってるやつ少ないからな!? お前歳いくつだっつの!」
「一五ですよ!」
「中坊じゃないか!」
「行ってませんよ、学校!」
「そうだったな!」
いいかげんにして欲しい。この二人は本当に主従関係なのか。これじゃあ本当にただの倦怠夫婦の痴話喧嘩じゃないか。
「あ~、もういい、疲れた。お祈だ、お祈り、お祈りするぞ、こんなみっともないトコ神様に見せられるか。仕切り直しだ。
天に在す我らの父よ────以下略!」
やっと終わった。
三人揃って、「ふぅ」と重たい嘆息を吐く。
「けっきょく、アルジャーノンってなんなんだよ」
「虚構薬物性脳髄消失症候群」
「え?」
「通称〝アルジャーノン・シンドローム〟。現実を直視できない夢観がちな子供が、気持ちのよくなるおクスリで脳みその中に引きこもって夢だけを見ながら生き続ける病気さ」
唐鍔牧師は真剣さ三、おどけた調子七の割合でのたまった。
「病気!? もしかしてそのクスリって──」
「デジタルドラッグのことだよ。脳でのみ分泌し、脳でのみ効果の現れる」
「でもぼくはまだ……」
まだ《デジタルドラッグ》を口にはしていない。
「そう。だからお前はおそらくだが……、まだアルジャーノンじゃない」
少々煮え切らない言い方だったが、唐鍔牧師はそうハッカにさとした。
「まだ……アルジャーノンじゃない」
よかった。ぼくはまだ、死なない。
「……よかった?」
ぼくは今、何を考えたんだ?
〝死ななくてよかった〟──なんでぼくは、そんなことを思ってしまったんだ。
自分と他人の価値が等価であったはずのハッカが、どうして自分を優先する思考をしてしまうのだ。いったいいつからだろう……、思案するまでもなく、それはきっと《セカイの果て》から難を逃れてこの祈り屋で生活するようになってからだ。
──なんなんだよ、この惰弱さは!
──人前で、しかもあんなにみっともなく取り乱すなんてッ!
ハッカは奥歯を噛み締めた。その表情は明らかに不快さで歪んでいた。
「なんで……そんなこと知ってるのさ。デジタルドラッグのこともアルジャーノンのことも」
「それを訊くかい。そうかい、そうかい。ったく、仕方ないないなー、本当にー」
唐鍔牧師は「ふっ」と微笑し、口端を上げてそこから皓歯をのぞかせた。
「ならば秘密を教えよう、君だけにっ! 特別に!
この世界には二つの巨大勢力が存在する!
表と裏、光と闇!
この二第勢力は日夜人知れず途方もない攻防を、終わりなき闘争を繰り広げている! はるか昔、宇宙で前史文明が帝国と共和国に分かれて対立していた時代からっ!
光の勢力、秩序と調和をこの世に取り戻すのがわたしたちコスモスの役目! つまりはイイモン!
襲いくるは悪の秘密結社、狂ったマッド・サイエンティスト、セックスカルト教団!
今回わたしたちはダークサイドがこの町でクスリの実験をしているのをつかみ派遣されてきたのだ!
そう、ボクらの地球は狙われているんだ!」
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
唐鍔牧師が話している間、ハッカはエレベーターの前まで移動していた。それから猛烈な速度で〝上へ〟のボタンを連打しまくっている。
「待ちたまえ、まだ話は終わっていないのだよ!」
その時チーンと音が鳴った。この旧いホテル同様、エレベーターは旧式の真鍮格子ドアになっていて、そこに大きな箱が落ちてくる。
「こっからはちと……、真面目な話になる。座れ」
つかまれた肩から伝わるのは、異様ともいえる握力の力強さ。決して痛いわけではない。熱量だ。女性の掌とは思えない熱が、そこにはあった。
そうして二人は再びソファーに着いた。
「こいつを見ろ」
そう言ってテーブルに置かれたのは赤い布で装丁された一冊のハードカバーだった。
表紙のタイトルは『ウロボロスの脳内麻薬』と金字で題され、手にしてみるとやはり重い。ページを開くと紙面にはところ狭しと活字が並び、奇怪な挿絵と意味不明な数式とが渺々と数百ページに渡り印字されている。とても人間が読むのものとは思えない。
ただ何らかの学術的な論文や草稿のようなものだということは、ハッカにも検討がつく。
しかしここでこれを持ってこられる意味がわからない。
ハッカは「これは?」という問いの眼差しで唐鍔牧師を見上げた。
「犯行予告状だ」と言って言葉を切り、永久のホットサングリアを横取りし一口で呑み下した。「ブレインジャック事件のな」
論文が犯行予告状?
「そいつにはな、今回の事件の全容・真相、そのほとんどが初めから予期していたとしか考えられないくらい、精緻に記されているってことさ。お前、カオス理論って知ってるか?」
ハッカは首を横に振った。
「だろうな。じゃあバタフライ効果、風が吹けば桶屋が儲かるってわかるか。何てことはない蝶の羽の動きが、実は巡り巡ってより大きな事象を呼び出したりすることなんだが……、例えば映画やドラマとかで主人公が過去へ飛ばされる話は、わりとよくあるだろう。主人公の何気ない些細な行動が、実は時間の経過によって未来を、歴史を改変してしまうってヤツだ」
そういう風に説明されると、確かに昔週末の洋画ロードショーでそういう風な映画を何度か観ている気がした。
「方程式や関数……って言っても小学生にはわからんか。確固としたデータの導き方がないとしても、一見離れている点と点は、実は見えない線でつながっているんだよ。
この本にはな〝人の思考や意識っていう眼には視えないものが、どれだけ現実に影響をあたえているのか〟そんな突拍子もないことが書かれているんだよ」
その説明に、ハッカは腑に落ちず眉根を寄せた。
「それがなんなの、いったいどう事件と関係してるのさ」
すると永久が口を開いた。
「麦ちゃんにはさ、絶対無理だってわかってる、けどどうしても叶えたい夢とか願いってある?」
「なに、いきなり。それこそ関係ないじゃ──」
言いかけて、ハッカははっとして息を呑んだ。永久の問い。それは以前、スクランブル交差点前で相澤真希とした会話の焼き直しだったからだ。
あの時彼女は言った。自分はどんな願いも叶う神社《虹蛇ノ杜》で今までのアタシそのものを否定してやりたいんだ──そう、切に語っていた。
そしてハッカ自身さえも、もう一度亜鳥と逢いたいという一心から再び《ケータイ交霊術》から《虹蛇ノ杜》へアクセスを試みていた。
「夢や願いっていうのが頭の中で閉じ込められてるイメージなら、それを叶えるってことは実体化させるってことじゃないかな」
それってつまり……。
「俺たちがかかずらってた都市伝説と、このウロボロスの脳内麻薬の骨子は重なり合っている」
確かに永久の言う通りだ。けれど、
「けどそれって、単なる偶然なんじゃないの? その論文が机上の空論なのかもしれないし」
「賢しいな。餓鬼はすぐに小難しい言葉を使って背のびしたがる」
皮肉の塗られた言葉だった。ハッカは旋毛を曲げ、無返答という返答を返した。
「だがな、この事件は偶然でも机上の空論でもない。ましてや必然なんていうあらかじめ用意されていたようなご都合主義なんかじゃ決してない。
蓋然なんだよ。手繰すね引いてるやつがいる。ほくそ笑んでるやつがいる。だったらそいつを叩くしかないじゃないか。だったらそいつの鼻っ柱へし折ってケツの穴に手を突っ込んで奥歯ガタガタいわせるしか、方法はないじゃないか」
ぱしっと右手拳を左掌に叩きつける。唐鍔牧師の眼は本気だ、爛々とぎらつかせ殺気を迸らせている。
「お前は現実と非現実の線引きをする明確な数字がわかるか」
「数字?」
「一〇のマイナス三三乗センチ以下の世界──〝プランクスケール〟と呼ばれる概念がある。これはな、素粒子よりもはるかに小さい世界で、物理上では存在しない、仮定の上でのみの存在なのさ。けどな、ここには人の無意識や虚数領域、わたしたちのいる形と質量を持った実数領域を明在系とした場合の暗在系に位置する世界なんだ」
「よくわかりません」ハッカは唇を尖らせた。
「つまりだ、この世界は眼に視える世界と視えない世界の二種類でできてるってことだ。そして眼に視えない心ってやつは、虚数領域──所謂プランクスケールにあるんだよ。この本の著者はな、現実と空想を明確な概念と数字で分かつことができるのなら、きっかけさえあたえればこの二つを自由に置き換えられると考えているんだ」
「だからどんな願いも叶うって? バカだよ、そんな」
子供の理屈だ。と、ハッカは呆れた。
「と、普通は思うところだ。しかし麦村、お前は現に一度現実から姿を消し、再び戻ってきているんだぞ」
「──あ」
そうだった。記憶を取り戻した今ならはっきりわかる。そう、ハッカは《セカイの果て》へ肉体ごとシフトし、そこから生還してきているのだ。
ということは《セカイの果て》は虚数の、無意識領域にあるということか。
「虚数と実数の行き来には〝確率共鳴場〟という特殊な空間を触媒にする必要がある」
「かくりつ、きょうめい?」
「わからないのか? さっきまでお前がどっぷり浸かっていた砂嵐の空間のことだよ。
確率共鳴現象自体は主に脳が海馬から記憶を抽出する際に誰の頭の中でも起こっている。専門用語ではカオスニュートラルネットワークって言うんだがな?
人は電気信号で動いていると言うが、実際はコンピューターみたく零か一かの単純なものじゃない。強弱様々なパルスが入り乱れているんだ。脳はその複雑なパルスを解析するために、あえてランダムノイズという不規則な信号を流す。すると高度に暗号化していた情報はわかりやすく紐解かれる。コンピューターでいうところの暗号メールの解析や、圧縮されたファイルの伸張・解凍みたいなものだ」
「え、ええとつまり……?」
「いいかい麦ちゃん、人の思考や思念ってのは酷く曖昧でそれ単体じゃ実体化させるのはとても難しいんだ。だから確率共鳴場を使ってプランクスケールにある雑多な意識を抽出してちゃんとした形に整えなきゃいけないんだよ」
「けれどその確率共鳴場も完璧じゃない。あくまで空想と現実の媒をするだけで、完全に空想を現実にはしきれない。だから神隠しは起こった。
実数という現実にいながら虚数という夢を観ている状態。確率共鳴場はそのどちらでもない、文字通りの曖昧空間。故に普通の人間には知覚できない。視えもしないし触れもしない……一切干渉できないことさ」
「ちょっと待ってよ、それおかしいよ。だってさっき社長はぼくを助けてくれた」
「それはだな、麦村」
と言いかけて、唐鍔牧師はハッカの眼前でパチンと大きく指を鳴らした。
一瞬眼を瞑ると、そこにはもう彼女はいなかった。消えていたのだ。
咄嗟、ハッカは首を右左へ何度も見わたし唐鍔牧師をさがした。
「ハッ!」
まさかと思い天井も見上げた。しかしそこにも彼女はいない。
ゴトン。
不意に、エレベーターが動き出した。一回から、最上階の六階に独りでに上昇を始める。
これはいったい……。
半円のメーター状に表記された階表示が、今度は最上階からここ一階に降りてきた。
チーン。
「やあやあお二人さん、お待っとさん」
気さくにひょうげながら片手を上げて歩み寄ってきたのは消えたはずの唐鍔牧師、その人だった。
「え……、ちょっ、え!?」
ハッカは唐鍔牧師がいたソファーとエレベーターとを何度も見直した。仮に階段で上がったとしても階段はエレベーターのすぐ横。そこまで行く間の距離で絶対に気づく。
「時間を止めた……、の?」
「莫迦か。そんなの人類ヒト科にできてたまるかよ。が、いい線いってるよ。わたしはな、さっきこの部屋の空間密度をぎゅっと圧縮して時間の流れを遅くしたんだ」
きょとんとするハッカ。
「ニュートンの第三法則、って言ってもわかるわけないか。莫大な質量を持った物体の近くの時間は止まりこそもちろんしないが、流れが遅くなるんだ」
「つまり?」
「〝この部屋を一〇分の一の大きさに縮めたら、時間も一〇分の一になった〟──みたいなカンジでいいですかね、牧師」
「その説明も大概だが……、まぁ意味としては間違っちゃいない」
「そんなことが人間に……」
「できるんだよこれが、〝量子凝縮使い(オズ=ライマン)〟には」
「オズ……?」
「空間を構成する量子の密度を高め、時空間に干渉する人間──とでも言えばいいのか、としか言いようがないのか」
〝はてさて〟とうんざりするように唐鍔牧師は肩をすくめた。
「おかげて年齢はいつまで経っても取らないわ、宙には浮けるわ、何もないところから妙チクリンな物質を創り出せるわで、もう人外もいいとこで困っているんだが」
「いや、それちょっと万能じゃないですか。未来道具いらずなくらい」
「莫迦言え、莫迦。この莫迦。わたしはなアルジャーノンよりはるかにタチの悪い化物なんだよ。だが確率共鳴場の中じゃ、量子の観測定義がみんなアルジャーノン側に持ってかれるからあまり役には立たんがな……。それでもこいつのおかげで神隠しのアルジャーノンを見つけることができた」
「じゃあ、もしかしてそれ永久クンにも?」
「ああ、俺はナイナイ」顔の前で手を振る。「牧師とは違うけど、似たようなものではあるかな、一応」
「この本は事件とほぼ同時期に送られてきた。こいつが何を意味してるかわかるか?
送り主はな、わたしたちが普通じゃないってわかって寄越したんだよ。わたしたちにしか事件をどうにかできないって。
こいつはな、挑戦状だ。わたしと永久に対してじゃない、この祈り屋に売られた喧嘩だ!
宗教はファッションじゃない、パッションだ! 舐められたら終わりだ! 売られた喧嘩はノシつけて返すのが道理ってもんだろう!
なあ、カレルレン?」
「カレルレンッ!?」
訊き返された唐鍔牧師は『ウロボロスの脳内麻薬』の表紙隅を人差し指で小突いた。
その先にあるのは、著者名──Karellen the Overlordの文字。