第四章 『虹蛇(ナギ)ノ杜(もり)』
車窓に映る風景は、やはり相も変わらずの竹林ばかりだった。
風に揺れる笹の切れ間からオレンジ色の夕焼けの陽射しが零れ落ちる。
《セカイの果て》をひた走るローカル線《へびつかい座ホットライン》に乗っているのは灰色の髪を風になびかせた少年、麦村ハッカと、狐の面で顔を覆った数人の子供たちだった。
ハッカの頭にも狐の面はあった。顔の正面にではなく、頭の横で斜に傾けられている。
電車は山を這うよう大きく、また緩く蛇行しながら少しずつ傾斜を登っていた。
子供だけという閉じた空間であるにもかかわらず、電車の中は異様なほどに静まり返っていた。シャラシャラと軽やかな音を奏でる笹の方が、よっぽど子供らしい。風と戯れはしゃぐ様相は、無邪気な子供そのものだった。
空気が、変わった。
気温が三度冷えたような、大気中から酸素原子が三分の一ほど──唐突に霧散霧消したかのような不可思議な現象。
すると、線路の奥に鉄筋を組み上げただけの立体物が見えてくる。赤い錆が全体を包み、線路上を挟んで左右に支柱がそびえ、それを上下に並んだ梁がわたされていた。
鳥居だった。
赤くて紅い、朱色の鳥居。無骨な鉄筋でのみ作られた鹿島鳥居だ。それも一つではなく、百か千か、数え切れないほどの鳥居が整然と、かつ延々と長い列をなしている。それはちょうどトンネルだった。高さ五メートルほどの電車そのものを囲む巨大な千本鳥居のトンネルだ。
電車が、一番手前の鳥居をくぐる。と、その瞬間、電車に乗っていた子供の一人が、突如として消失した。消えて、なくなったのだ。
またしばらく進むと今度は二人の子が同時に消える。
また一人また一人今度は二人と、次々に狐面をした子供たちが忽然と神隠しにあっていく。
そうして最後まで、電車の中に残っていたのは麦村ハッカただ一人。まさしく孤独だった。しかしそんな状況にあるにもかかわらず、ハッカのアルカイックな面差しは崩れることを知らない。ただ電車に身をまかせ、ただ状況に呑まれようとしている。
右へ左へ、いくつものカーブを繰り返して登っているためトンネルの先は見えない。
線路と鳥居はどこまでも続き、いつまでも続いた。
しかし終わりは突如として訪れた。千の数の鳥居と、万の長さの線路の先にあったのは山の頂上。
『ご乗車ありがとうございます。まもなく虹蛇ノ杜、虹蛇ノ杜、終点です。どなた様もお忘れ物のないようご注意願います』
緩慢になってゆくスピードの中、電車は駅に停った。そこにあったのは錆びた大きなコンテナに巨木の根がからまった歪な建物だった。駅という概念の外観とはおおよそかけ離れている。下の駅もうらぶれ、打ち捨てられ、零落してただれた様相を呈していた。しかしこの駅の前ではどんな無人駅、廃駅も見劣りしてしまう。ここはそんな、駅だった。
空圧式の自動ドア開く。
《へびつかい座ホットライン》からは、誰も降車しようとはしない。何せハッカ以外皆消えていなくなってしまったのだから。さらに唯一残ったハッカは、魂が抜け落ちたような状態に陥り、ただ呆としているだけだった。
なぜ自分がここにいるのか、何がしたくてここへ再び戻って来たのか。今のハッカには自分をふくめたすべての記憶が抜け落ちていた。
かちゃり。
不意に、奇妙な音が胸のあたりから聞こえてくる。しかしそんなのどうでもいい、まるで気にならない。
電車は動かない。ハッカをまるで待っているかのように一向に動かない。
仕方なく、ハッカは不承不承といった体でやおら立ち、電車を出てプラットフォームに降りる。すると同時に、電車──《へびつかい座ホットライン》が駅から発車する。
駅舎へ進むと、そこには奇怪な形をした機械が設置されていた。錆びとも違う酸化現象を起こしていて、旧いが、それでも機能しているようだった。どうやら自動改札らしいというのはすぐに判明した。チカチカ光る矢印には切符を入れる細い穴が空いている。ローカル線に自動改札。少々アンバランスさはあるものの、ハッカの手にはキップが一枚握られていた。
「何だこれ」
行き先は〝麦村ハッカ 虹蛇ノ杜行き〟と印字で記されている。
何ら考えもしないで入れてみると自動改札機は正常に機能し前方をさえぎっていたバーが開いた。
「使えた」
そう一言呟いて通過しようとした時だった。
かちゃり。
またあの金属の音が鳴った。それと同時に自動改札機が警告音を発し閉じてしまう、が、その前にハッカは改札を通り抜けた。
「何だよもう」
コンテナのような外見の駅舎の中には、ハッカには読めない記号のような文字や数字がかしこに散りばめられている。朽ちた壁からは巨木の根が侵入して、大きいものから小さいつたのような根が至る所を這っていた。その根が生き物の血管じみていて、さながら巨大生物の体内を思わせた。
駅舎から出ると、木々が枝葉でドーム状の屋根を作った参道の回廊が続いていた。
幅の広い道。敷き詰められたブロックは石でも鉄でもなく、どことなくセラミックチックだ。踏み鳴らす音が妙に小気味いい。道の脇には〝狐狸道街〟という立看板が据え付けられている。そこからズラリと道の両端に並ぶのは古木に針で磔られた狐や狸、狗に猫などの獣面の数々。
神楽に使う面打ち物から縁日の張子まで、種々雑多な面々が回廊側を睨む。
ハッカはそれにもたじろぐことなく、独り閑散と静まり返る回廊を進む。風が吹けば糸で吊るされた面がカラカラと乾いた音でハッカを笑う。
しかしそれすらも気に取られないハッカは、ほどなくして回廊の袋小路に突き当たった。
目の前の建物を見上げる。
それを形容するなら、そう、まるで座礁した鯨の残骸。朽ち果てた金属の鉄筋が飛び出し周囲に破片を撒き散らした、見るも無残な廃墟じみた遺跡。
その背後には無数の鉄骨鳥居が組み合わさってできた巨大な電波塔があった。風で軋むその威容は、今にも轟音と共に崩れ落ちそうでもあった。
廃墟の遺跡の正面には竹林に林立していた鳥居と同じものが壁に埋まっていて、それはちょうど門にあたった。鳥居の空洞部にシャッターがついている。
かちゃり。
そこに少女は、佇んでいた。
黒いセーラー服の上から赤いチェスターコートを羽織り、頭にコートと同色のキャスケット帽を被った少女だった。
「────、────」
ハッカに何かを訴えかけている。が、声が耳まで届かない。どこまでも遠く、ノイズのようなかすれた声しかやって来ない。それでも少女は必死に口を開けてしゃべっている。
「何? 何なの?」
ハッカは足を踏み出し近づいてみる。すると少女の身体にホワイトノイズが走った。
少女はさらに何かを言う。言葉は聞こえないが、伝えようとする熱意だけはハッカにも分かった。
「こ、な、い……で?」
来ないで。
ここには来ないで。
彼女の口の動きはハッカにそう告げていた。
『いい加減、ジャマをするのはやめてくれないかな~』
聴こえてきたのは変に甲高い耳障りな声。それと同時に少女は完全にホワイトノイズに呑まれ、消えてしまう。
閉じていた鳥居のシャッターに袈裟に亀裂が入りそのまま二つに分かれて入口を作る。仄暗い闇がぱっくり口を開けてエサを待っている。
『ウェルカム! キミは選ばれてここにいるんだ。望んだからここへ来んだ。さあおいでよ、歓迎するよ。こっちへ来てボクのトモダチになってよ』
開いた入口の奥から聞こえてくる──喚び聲。
ハッカの足が、声のする方へ吸い寄せられる。
鳥居をくぐって数歩進むと、背後でシャッターが閉まる。
「……あ」
もう後戻りはできない。
しんしんと更けゆく闇の中を、ひたひたと壁伝いに歩み進む。
冷たい壁と硬い床はおそらく金属。頬を撫でる風はわずかに硬く肌を刺す。どこかに排気ダクトがある。
しばらく歩いていると、歩廊の奥でかすかな光が見えてくる。
「あそこか」
ハッカは微細に歩調を上げる。
『急がなくてもボクは逃げないよ。だから転ばないでおくれ。ボクはここにいる、キミを待っている』
言葉とは裏腹に、その口調には聞いているものをどこかはやし立てるふくみがあった。
光は歩みに合わせて徐々に広がりを増す。そして歩廊を抜けた瞬間光量の多さに視界が白くつぶれる。
段々と光感覚細胞が順応していくと、ハッカの目の前には円筒状に開けた大広間が広がっていた。壁には部屋全体を一周して包む蛇の落書きがなされている。
天井は一面が天窓式になっているが、中央のガラスが砕けて落ちている。光はその天窓から夕陽を大広間全域にわたって照らしていた。
そして大広間の中心、砕けた天窓のちょうど真下に──、それはあった。
「テレビ……?」
そこにあったのは、頭頂部まで六メートルはあろうかというブラウン管テレビを積み上げたオブジェの山だった。
床には数え切れないほどの無数の太い電気コードが蛇のようにのたくっていて、それらはすべてテレビのオブジェにつながっていた。
……ぶぅぅぅん。
出し抜け、頭頂部のブラウン管テレビが砂嵐を映す。ささくれだった騒音があたりにまき散らされる。
『ザ……や、あ。ザッ……待って……ザ、たよ』
砂嵐にまみれた画面にかすかだが人影のようなものが映る。
ばちっ!
一際大きいノイズが鳴ったかと思うと、画面は正常なカラー映像になっていた。映っているのは白い着ぐるみのマスコット。犬とも猫ともつかない、狸とも狐ともしれない動物のデザイン。強いて似ているものがあるとすれば、一時期中国で頻発したニセマスコットじみていて不細工で不快をもよおすデザインだった。
「誰だよ、オマエ」
『いきなりずいぶんなごアイサツだね~。まあいいよ、ファーストコンタクトはトラディショナルに、というのがボクの流儀さ。んじゃあ改めまして、はじめまして、ボクの名前は■■■』
ネズミの着ぐるみが名前を口にした瞬間、テレビ画面にノイズが走り言葉を拐っていった。
『あれ、おかしいな? うん、まあいいさ。パイドパイパー、ナグヌス、チャーリー・ゴードン、ジョニー・アップルシード。様々な場所や時代で、様々な人が、ボクに様々な呼び名でつけていったよ。だからどうとでも呼ぶがいいさ。
でも、もし、ボクが自分で決めた名前を呼んでくれるのなら、そう──カレルレンと呼んでおくれ。孤独な宇宙をさすらうバカボンドの名さ』
「カレル……レン?」
『そう、このすべての願いを叶える神社──虹蛇ノ杜を管理、運営しているものだよ。いやぁ~、マスコットと言ってもいいかな。まぁだからと言ってボクがこの空にもっとも近い神社、天頂の星さえつかめてしまえそうな場所に居を構えてる事実なんだけどね? でもボクは傲慢じゃない。限られた輪の中で滑車を回すだけのハムスターのような存在さ。外にどんな世界があろうとも、中にいてそれが見えない、知れない、知覚できなのであれば、そんなのはただのおとぎ話さ。内と外の境界がはっきりしているからこそ夢は夢として成立している。つまりボクが何を言いたいかと謂うとだね──』
カレルレン、と名乗ったネズミのマスコットは延々と、長々と、冗長に、退屈に自らの所懐を並べ連ねる。どこかでコミカルな口調でありながらその下には底の見えない何かが潜んでいた。
『ようこそ、キミの願いは叶えられた。キミには〝永遠〟が用意されている。キミは選ばれたんだ、おめでとう。〝特別〟な存在、それがキミさ。新しく生まれ変われるのさ!』
キミ、キミ、キミ、キミ。呪文でも唱えるかのように同じ単語を繰り返す。
『そしてキミは、ボクのトモダチ──アルジャーノンになるのさっ!!』
「アルジャー……、ノン?」
『そうさっ、キミが真に〝特別〟を望むのならこのキャンディーを口にするといい』
テレビの山の隙間からスティック状のプラスチック片がハッカの足元へ転がり落ちてくる。
PEZだった。トップ部分にはカレルレンと同じデザインの顔がついていて、スティック部分には〝Carbuncle Candy〟という商品名らしき文字が印字されていた。
「醜悪だ」
『これはこれは、手厳しいね~。でもその中身を見ても、はたしてそんなことが言えるかな?』
「はぁ?」と訝しげにペッツを拾い上げた時だった。腐った果物のようなとろみのある甘い香りが鼻腔を刺す。それと同時に生唾が口の中に充満し、そして──、
「のどが……渇かないかい?」
「──っ!?」
渇く、無性に。かゆいほどに。掻きむしりたいほどに。
『だったらその中にあるキャンディーを口にするといい』
ハッカがペッツのトップをいじると、中から一粒のキャンディーが飛び出す。それはとても赤く、ルビーのように輝いて見えた。それを見ていると、さらにハッカののどがうずく。
「なんだよ、これは……」
『賢者のい──じゃなかったカーバンクルキャンディー。うちの神社の、まあ名物みたいなものかな。ほら、七五三なんかで神社でもらうじゃない、千歳飴。あれって実は新生児の宮参りでももらうものなんだ。あれは親が子に細く長く長寿であって欲しいって願いからきてる縁起物なんだけどね?
ボクのトモダチとして新しく生まれ変わるためにはそれまでの自分、過去の自分自身を否定し、自分以外のすべての他者を拒絶しなくちゃダメなんだ。〝特別〟になるってことはより純粋な自己になることなんだ。不純物は取り除かなきゃいけない。このキャンディーはその起爆剤として機能すると同時に新しいキミを祝福してくれる。そして細く長い有限の命なんてケチなことは言わないよ、〝永遠〟に生きればいい、今という一瞬を〝永遠〟に感じ続けるんだ』
「はぁ? ……特別? ……永遠? バッカじゃないの? わけわかんないんデスケド?」
『あれ? この虹蛇ノ杜までたどり着けたっていうのにその薄いリアクションはどうしてなのかな? それにお面もそんなに崩してつけてるし。う~ん、最近はそういうのが流行りなわけ? キミさ、ホントにちゃんとケータイ交霊術したの? 儀式は意識を持って行わなければ何の意味もなさないんだよ? 知ってた?』
「ぎし……き?」
『そう儀式。さっきボクは儀式は意識がなきゃダメだって言ったけど、別にそれは無意識でもいいんだ。むしろそうなるまで生活に溶け込んでしまっているのがより好ましい。なぜならどんなに日常で磨耗しようとも、中身となる〝意味〟は決して乖離することはないからだ』
「ぜんっ、ぜん……わかんない。儀式ってそもそも何……だよ」
ハッカはのどを押さえながら言った。
『儀式っていうのは日常の中にあふれた〝作業〟さ。たとえば朝家を出る前に必ず牛乳を一杯飲む子。バスや電車の中で本を読む子。トイレの紙をいつも無意識に同じ長さで使っている子。
そして──、ケータイ電話の場面を覗いていないと落ち着くことのできない子供たち。ねえキミ、キミはなぜケータイがみんなの間で精神的支柱として機能──いや、言い方が硬いな。……依存されてるかのかわかるかい? ちなみに携帯依存症じゃないよ。あれはケータイ電話を通した人とのつながりを常に気にするあまりに出る強迫観念の一種だからね』
「ケータイ、依存……?」どこかで聞いたことがあった。これと同じようなことを、どこかで。「ケータイは、〝個〟を保証するもの……だから」
『へぇ。その心は?』
「……ケータイは目には見えない心の結晶のようなもの。……だからみんなはそれに自分を投影する。そこにはもう一人の自分がいるから」
『エクセレントだよ! まさしくその通り! それらの人が無意識的にとる作業的行動こそが自己を自己として至らしめる確認行為として機能しているんだよ!!
ケータイもSNSも、すべては〝居場所〟。自己を自己として認識できないニンゲンは集団や社会といったより大きなものに縋り寄る辺を求める。集団の中であたえられた居場所ならば、人はそのリスクを背負わなくても済む。強固なシステムに組み込まれることで〝自分は一個の人間だ〟という幻想を抱いていける。矛盾していないかい大人たちの社会は? 大人とは実際のところ名ばかりで、結局のところは〝自分はまだ未成熟な子供〟という事実を有耶無耶に誤魔化しているだけなんじゃない?
とどのつまり、ニンゲンは生まれてから死ぬまで〝子〟であり続けなければならない。〝個〟なんてものは幻想でずっと手に入れられないのさ。それこそ見えているのに手の届かない天頂の星にだって等しい』
「だったらどうすれば……」
『だったらどうすればいいかって! それこそが、ボクがさっきから終始一貫、徹頭徹尾のたくり回して上げている〝永遠〟と〝特別〟なのさ。いいかい、集団や社会にさえ溶け込めないキミら脆弱な子供が我を通して生きていくのがどれだけ大変なのかわかるかい? 集団の中で自己を投影するっていうのがどれだけ壊滅的な確立のもとに成り立っているのか、キミは何にもわかっちゃいない。自分の望む反応を他者に求めるのも、他者が自分に対して求めてくる応えを返すのも──不可能なんだよ。
そんな天文学的に危うい橋を渡るくらいなら、人は孤独で生きていくべきだ。
いや……、死んでいながらにして生きている夢を見続ければいいだけの話』
「どうやって……さ」
足がよろけ、ハッカは片膝を床へついた。
『カンタン、ラクチン、モーマンタイ。この中で生きていけばいいからさ~』
先ほどまでの脅迫するような口調とは一転、再び元のおどけた道化のしゃべり方に戻った。そしてカレルレン以外のテレビに一斉にスイッチが点く。けたたましいほどのノイズ音が大広間全体を包む。モニターはみな砂嵐に画一されている。
頭が割れそうなほどの騒音にハッカは吐き気を催した。
「この中って……」
『キミはテレビの中に入ってみたいと思ったことはないかい?』
「は、ぁ?」
『あれは魔法の筺で、あの中は別な世界とつながっている。もしくは筺の中そのものが異世界だと信じていた時期はない?』
「ないね」
『そうか。でも仮にテレビに映っている出来事が自分の知らないどこかで起きている事実だと理解していたとしても、それを現実として知覚・認識できている人間はそうはいないんだよ。
なぜかって? 結局のところテレビという出力装置を使ったところでそれは現実ではない。経験というクオリアは脳にインプットされることはない』
そう言ってカレルレンは画面に向かって指を差した。
『このガラスの画面という境界は謂わば〝第四の壁〟。キミら視聴者は画面の向こう側に干渉できないし、その逆もしかり。人の頭の中だって同じさ。人は人の頭に思い描いているイメージを見ることも触れることも理解することも知覚することも認識することもできない。
ということはだよ? テレビの中って謂うのは誰からも干渉されないってことじゃない? この筺の中にさえ入ってしまえばもう誰からも否定されずに済むんだよ。ただただ自分を感じていればいい、肯定し続けてさえいればいい。究極の実在とは自己そのものなのさ。つまるところ、それ以外なんてものは有象無象の現象や情報でしかない』
「わかんない……オマエが何を言いたいのかゼンゼン意味わからない。……でも一つ言えるのは、それってただ夢を見続けているのとどう違うんだよ」
『同じさ。〝現世は夢、夜の夢こそ真実〟とか仰ってくださったのは江戸川乱歩だったかな?
たった一つの自意識を握りしめてさえいればいいんだ。そうすれば生きながらにして死んでいられるんだ。あれ? 〝死にながらにして生きていられる〟だったかな……? ま、いいよそんなのどうでも。どっちにしろキミはこんなところまで来てしまった。たどり着いてしまった。それだけは偶然でも必然でもなくキミがもたらした蓋然──〝力への意志〟だ。
現にもうキミは堪えられないはずだ、この《カーバンクルキャンディー》の放つ魅力に。
夢でもいいじゃない。一度このカイロスの檻へ入ってしまえばそれはもうキミの現実だ。
──って、おーい、聞いてるか~い?』
聞こえていなかった。今のハッカにはカレルレンの小難しい話はもうすでに遠い。それよりものどが痛がゆい。焼けるように熱い。このキャンディーを口に含んでしまえば楽になる、そんな確信めいた想いがのどを突く。
『そういえばまだ──、キミの名前を聞いていなかったね。教えてくれるかな、キミの名前を』
「遍くセカイの……、片すみで」
ハッカはキャンディーをつまんだ左手を震えさせながら口に近付かせていく。
「渇えたのどを、」
かちゃり。
また鳴った。
かちゃり、かちゃり。
ハッカはキャンディーを落とした。それはカレルレンが頂くテレビの山の麓まで転がっていく。
『どうしたんだい? 落ちちゃってるじゃないか。それはお菓子のカタチをしてるけど実際はそうじゃない。それは《へびつかい座ホットライン》からサルベージされた膨大な情報の中でボクが再現、再構築できる数少ない研究成果の一つなんだ。
それ一つがどれだけプライスレスな代物なのか、今までの説明でおおよその検討くらいつくだろう。
カイロスという瞬間と永遠を調和させ、夢の中に閉じこもることでどんな願いも叶えさせる。そこに死はない。ただ自己が存在するだけ。まさしく理想郷だ! エデンだ! アルカディアだ! 桃源郷だ──!』
ハッカは右手にあったペッツを力の限り、全力で床へ叩きつけた。糸を引きちぎって散らばるビーズアクセサリーのように、あたり一面にペッツのスティック部分に収納されていた血の紅をしたキャンディーが散乱する。
『どういうことか──、説明してもらう権利くらいはボクにもあるはずだよね~?』
柔和で表面的な言葉の奥に、言い知れぬ感情が渦巻いているのは自明の理だった。
ハッカは立ち上がり、俯いていた。顔容は長い前髪に隠れて見えない。
「……違う」
『ん?』
「僕はこんなものがほしくて、こんな場所へ来たわけじゃないんだ!!」
ハッカは首の端からはみ出していた茶色の革紐を無理矢理引っ張り出した。するとTシャツの中から真鍮でできた螺子巻きが革紐の先について出てくる。頭に被っていた狐面が砕け散る。
『〝大聖堂の秘蹟〟──どうしてキミがそれを!?」
驚くカレルレンをよそに、ハッカはあたりを見渡した。
「聞こえる」
亜鳥の声が。ハッカを呼ぶ声が。
「こっちか!」
壁に向かって走り出す。もちろんそこは行き止まりだ。しかし壁の一部には一から九の数字が刻まれたキーが三列三行で並んでいた。ハッカはそれを何の躊躇も見せずに一〇回、ランダムに押した。するとバシュっと金属壁から取っ手らしきものが隆起する。ハッカは迷わずそれを力まかせに引いた。
何もなかったかのよう見えた壁に唐突に亀裂が入った。空圧音と電磁音とが鳴る中で、壁の一部が扉として開く。
『そっちはっ!』
カレルレンに構うことなく、ハッカは扉の中へと消えていく。
扉の向こう側は、長い延い回廊が続いていた。そして狭い。圧迫感が締めつける。床、壁、天井には木の根が張り巡らされていた。先ほどの大広間よりも、はるかに旧い区画なのは一目瞭然だった。
ハッカは突き進む。そしてひた走る。
螺子巻きを通して、亜鳥の声が確かに聞こえた。呼んでいた。
思い出した。自分はあの女性と再び逢うためにここへ舞い戻って来たのだと。
そして彼女はこの先にいる。この回廊の先で自分のことを待っている。それは単なる予感や予測の類ではなく、確固たる確信としてハッカを突き動かした。
ある程度進むと、狭かった回廊が上下左右に拡がる。代わりに足元が水に濡れる。浸水していた。足首の上回るほどの高さの水位は、走る度に顔まで水飛沫を上げる。床や壁や天井には網の目のように木の根が張り巡らされていた。まったく陽の光など入らない無明の回廊だったその道を照らしていたのは、木の根だった。木の根が淡く発光を起こしている。それはまるで蛍の光を思わせる光景。蛍の光は道標──その光明は明々白々にハッカをこの先へ導いていた。
さらに回廊は広くなる。今度は岩の回廊。ここにも鳥居はあった。また鳥居だ。ずっとずっと続いている。鳥居には神符が無数に貼り乱れていた。しかしハッカが鳥居を一つ潜る度に、そこに貼ってあった神符は瞬く間に燃えて灰になっていく。
おそらくこの千本鳥居は結界。ハッカはそのすべての鳥居をことごとく無効化させていく。
そしてたどり着いた──そこへ。
回廊を抜けた先にあったのはカレルレンがいた大広間に似た大きな空間だった。壁は一面水槽となっていて、上下逆さまに泳ぐ魚が漂っていた。それだけじゃない。空間には金色に輝き逆しまの蝶が無数にいる。
不思議な空間。神秘的な組織元素。
空間の正中には底の浅い筒状のくぼみが何重にも地面を穿ち、ダンテの〝神曲〟にあるロート状の階層地獄の様相を呈している。そしてそれを大きく囲うのが三本の柱からなる鳥居。ハッカを《セカイの果て》へと飛ばしたものとまったく同じ姿形をしている。
『ハッ……カ』
咄嗟にハッカは天井を仰いだ。その声は上から聞こえてきたからだ。
「────!」
空があった。夜空だ。中央の石舞台のちょうど真上に満月が位置し、その周囲に星々が散りばめられている。
天球儀だ。
この部屋そのものが一つの天球儀として構成されている。こんな構造をした天球儀は他にないが、天動説型のものに近い。太陽がない代わりに月が中央に座す奇怪さは、いったい何を意味しているのか。
「亜鳥!」
ハッカの双眸が月の向こう側を捉えた。
玻璃の月。教会のステンドグラスのような月の奥に、裸でたゆたう少女の姿があった。
少女の名は亜鳥。
少年がずっと探していた少女。
『ハッカ!』
亜鳥が叫ぶ。その口と目は閉じたまま、身体も膝を抱えたまま動かないはずなのに声だけが空間に響く。
『そうか、キミの名前は〝ハッカ〟と謂うんだね』
間の抜けた、けれど嫌な湿り気を帯びた酷薄な声が漂う。
『そうか、ハッカ──キミはボクではなく彼女の引力に引かれてここまで来れたんだ。大聖堂の秘蹟か! ボクのキャンディーではなく、その女のおもちゃを選んだってわけなのか。せっかく選んであげたのに! せっかく選ばれた存在にしてあげたのに!』
ハッカがくぐってきた入口からカレルレンのヒステリックな金切り声が後を追ってくる。
『キミら子供は選ばれるのが大好きだろぉ!? ハッカ──くぅぅぅン!!』
入口から雪崩込んで来るのは、大広間でテレビのオブジェにつながっていた電源ケーブルたち。無数、無限、千万にも等しいケーブルの束が蛇のごとくのたうちながら天球儀の空間を占領していく。
ハッカの身体が石舞台の中心へと押しやられる。
「う、くっ!」
足がケーブルに埋まる。続いて腰、腹、胸まではほとんど一瞬──顔が隠れると、最後に右腕が天井へのびる。
『がんばるね。でもキミが悪いんだ、カイロスの檻を拒んだりするから。〝デカルト劇場〟から俯瞰する世界をぜひキミと堪能したかったのに……残念で仕方がないよ、本当に。
あっ、ちなみに何だが、キミが今いる石舞台、霊媒たる巫女が神を降ろすための装置であると同時にね、奈良にある石舞台古墳と同じで死者を埋葬するためのものでもあるんだ。
こんなロート状のくぼみ穴にいったいどうやって遺体を収納し墓とするのか、気にならないかい? この石舞台はね、神降ろしとしてのお立ち台と死者を弔うという二つの意味を持ってるんだ。こんなことキミなんかに言ったって理解してくれないんだろうけど、神を降ろすのも、死んだ人間を冥界へ飛び立たせるのも同じなんだよ。
ただベクトルが違うだけ上から下なのか、それとも下から上なのか。
て、おーい、きーてるかーい?』
カレルレンの垂れ流しの講釈を聞いている暇もなくハッカはケーブルに埋もれ、亜鳥に向けてのばした右腕だけが空虚な徒花と化していた。
ハッカは無意識の中でずっと待ち、探していた、透明で形のない自身の存在を定義してくれる他者を。そんなのいないと思いながら渇いてささくれ立つ心が堪らなく痛かった。特別なんて大層なものはいらない、永遠なんて形のないものもわらない。
「亜……鳥……」
ただ、誰かに理解されたかっただけ。何も言わなくても「わかってるよ」、そんな一言をかけてくれる人が欲しかった──ただそれだけ。
『わかってるよ』
「──!!」
『だから飛んで、私のところまで』
「飛、ぶ……?」
『鳥になるの──〝ヘルメスの鳥〟に』
ケーブルの束の海に沈んでいたハッカの身体が宙へと引き上げられ、上下の向きが逆に、下半身が上へ、上半身が下へとひっくり返る。それはまるで、
「落ちている」
地球ではなく、月の──亜鳥の重力に向かって落下している。
脚の先が月へ落着する瞬間、ハッカはそれが割ると思った、ガラスのように砕け散ると。しかしハッカの脚は何の抵抗もなく月をすり抜けた。
水、だった。
月の表面には水面のような波紋が立ち、ハッカの全身はスルリと月の裏側へと抜け落ちた。
その先に広がっていたのは一面水しかない世界だった。水平線の曲線が内側にではなく外側へと走っている。月の裏側とはつまり、球体の内部を意味している。
水の中を虹色の魚が泳ぎ、上の空間には金色の胡蝶が舞っている。どちらも上下正しく。
ハッカは水面の上に呆然と立ち尽くしていた。
その少女は微笑みながら佇んでいた。
裸の上から赤色のチェスターコートとキャスケット帽を身にまとっただけの姿だった。
髪が濡れている。あごの先から水が滴り落ちる。
手に持っていたのは布の被さった鳥籠。
「亜鳥」
ハッカは水の上を一歩踏み出した。
二の足、次に踏み出されるはずの足が、止まる。
『やあ、間男みたいな立ち位置で悪いね』
ハッカと亜鳥の間に現れたのは、古めかしいブラウン管テレビ。そこには気味の悪い動物の着ぐるみマスコットが映っている。
「何、なのさ……あんたいったい、何なのさ!」
『ボクの名前はカレルレン。どこにでもいるごくごくあり触れたポップでキッチュなマスコットさ。じゃあ逆に訊くけど、キミは何者なんだい? ハッカくん』
ゆっくりと、名前を一音一音強調して問いかける。
「キミは────普通じゃない。
ボクではなく彼女に呼ばれ《虹蛇ノ杜》の最奥である斎宮にまで足を踏み入れてしまうのだから。
キミは普通じゃない。けれど特別でもない。
とても興味をそそられるよ。もう殺そうなんて思わない。そんなことしたらもったいないよ。トモダチになろう、なっ? だからデジタルドラッグを食べてよ。そうすればきっと何かが起こるはずなんだ。ボクはそれをぜひ観測したい!
さあ、ボクの友達になってよ!
さあ、ボクと一つになろうよ!』
興奮冷めやらぬカレルレンの後ろでひたひたと水面に波紋を打ち近づくものがあった。
「まだあなたはそんなことを言っているのね、カレルレン」
カレルレンの映るテレビの背後には濡れネズミの少女、亜鳥の姿があった。
『やあ亜鳥、久しぶりだね』カレルレンのテレビは一八〇度回転して亜鳥に向き合う。『そのコートと帽子、まだ持ってたんだ』
「ええ、これしか持っていないから。あなたが私を斎宮に閉じ込めた時にくれたまま」
『……ああ、ああ。そう……、だったね。もうずっとずっと昔のことだからすっかり忘れてたよ。きっとあれだよ、キミの醜悪な肉体を見たくないってんで眼の届かないようにしたんだね。いや、一二歳以下しか受けつけないボクには本当に目に毒だ…………ハァ』
「もう止めてよこんなこと」
『またそれかい、やれやれだよ。まさに眼の上のタンコブだ。だからここへはね、本当は来たくなんかなかったんだ。だいたいキミと逢うと一々決意がゆらぐんだ』
「だったら──」
『だったら何さ!? ボクの実験は日進月歩、間違いなく前へ進んでいる。こんなところでゆく道引いていられないよ』
「それでも──」
『それでもキミはボクを否定して邪魔して、そして諌めるんだね。
〝どうせ互いの身は錆び刀、切るに切られぬくされ縁〟……か。
じゃあもういいよ。キミ、もういらないから。消えていいから』
カレルレンがそう言うと、すかさずテレビの下からケーブルが亜鳥に向かってのびる。首に巻き付き水面に設置していた足が浮かび上がった。亜鳥は苦悶の表情を浮かべ首に絡むケーブルをつかむ。
『〝三千世界の鳥を殺し、主と朝寝がしてみたい〟今のボクには高杉晋作の気持ちがよくわかる。鳥ってピーチクパーチクいつでもどこでも喚いていて本当に嫌いなんだ。ウザいんだよ。せっかくセカイの果てで一番高い場所にお社を建てたっていうのにキミら鳥はその上を簡単に飛び越えてってしまう』
するともう一本、テレビの下からケーブルが現れる。先には歪な形の金属プラグがついていて、バチバチと雷火を迸らせている。
『ま、所詮肉体を失って久しいボクらの命なんてプライスレス──値段をつけられないものなんて結局は無価値も同義さ』
電影プラグのケーブルが亜鳥の胸に向かって空を切る。
当たった。
金属プラグは刃がジグザグのナイフじみていて、身体に突き刺さる。
交錯する雷光はまさにスパーク。
バシャリと、小さな身体が水面に落ちた。
肌は白く透き通り、その髪は灰色で木灰のようにサラサラしている。
倒れているのは少女ではなく少年。後頭部と首の間にカレルレンの放ったケーブルのプラグが刺さっている。
ハッカは選んだのだ。
ハッカにとって自分と他人の命は等価だった。自分をふくめたすべてが同価値で、それでいて無価値だからだ。
けれどカレルレンが亜鳥を襲う刹那、ハッカの中にあった観念の天秤は確かに傾いた。自分の方に、ではなく亜鳥の方へ。ハッカは自分にとって初めて〝特別〟を守った。自分が自分であるための〝特別〟を守るために……死んだ。
『バカだね~キミは。こいつはこの程度じゃ死なない化物なのに。そもそも死ぬわけがないんだ。この神社の神様の依り代──神体は彼女自身。
そして祀られている神様は永遠を象徴する〝身喰らう蛇〟。
……本当にバカだよ。最初からボクのトモダチになっていればよかったのに。そうすればアルジャーノンになれなくたってまだまともな死に方ができた。キミは脳みそだけじゃなく、身体そのものこっち側へ置き忘れてしまうハメになったんだ。
〝父よ(エリ)、父よ(エリ)、なぜわたしをお見捨てになったのですか(レマ・サバクタニ)〟──ていうヤツ?
主よ、今からそちらに一つの幼き魂があなたのもとへ召されます。ありがとう神様! おめでとうっ、わたし! ……なんつってな~。
あ~あ、テレビの中じゃ十字は切るどころか柏手だって打てやしない──んぁ?』
一、二、三、四、五、六
亜鳥はハッカのもとへ跪き、目蓋を閉じて抑揚のない声音で何かをつぶやいていた。
七、八、九、十となりけりや……布留部
『〝布瑠の言〟! 亜鳥、キミはまさかこの子を──!』
布留部、由良由良止、布留部
『黄泉帰らせるつもりか!!』
沖津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死返玉、足玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品物之比礼
亜鳥はハッカを膝にのせ抱え込んだ。そしてハッカの胸の上に布の被った鳥籠をのせる。
『あ~あ、〝神孕み〟を使っちゃうつもりだよもったいないね~。こりゃ確かに生き返るわ。でも、そこから生まれるのは人間じゃない。〝蛭子命〟だ。神によって創られたにもかかわらず神にも、けれど人間にもなれない不遇の孤児だよ』
ハッカの胸に置いた鳥籠の鍵穴。そこへ亜鳥はハッカの首にかかっている螺子巻きを差し込んだ。すると鳥籠を覆っていた布が弾け、中からまばゆい光があふれ出てくる。
光は多角形的な方陣を何重にも形成し、ハッカと亜鳥を囲繞した。
やがて方陣は乱麻状にもつれ楕円の玉緒を生成する。
『世界卵──忌むべき哉、忌むべき哉、ここに永遠の処女が誕生してしまった』