第三章 『虚構薬物(デジタルドラツグ)』
雲居の高い夜だった。まだ台風が過ぎたばかりで気圧が安定しないためか、雲は滔々(とうとう)と夜空を泳いでいる。全体的に薄くまばらで、月を隠しては過ぎていく。月明かりすら覚束ない、そんな夜。
しかしそんな朧気な月明かりよりもなお虚ろな存在が、月下を降ること約三五万キロのこのターミナス・ファウンデーションにあった。
この少女がそうだ。彼女は繁華街の片すみで膝を抱えて座っていた。
すぐ両脇にはビルがそびえ立ち、その隙間に埋まるようにうずくまっている。
「………………………………」
彼女はまったく動こうとはしなかった。
ピクリとも、うんともすんとも。
息をしていることさえ疑いたくなるほどに。
肩が上下にすることも、胸がふくらむこともなく。
ただ少女はそこにあった。
目の前を通る人波は冷たく、誰も彼女に見向きもせずに過ぎ去って往く。
一度も視線を向けることなく、合わせることもなく。
そこに人間が、物体が、存在など初めからないかのように取り合わない。
「………………………………、………………………………」
それどころか彼女を避けて通り過ぎて往く。その距離約半径一・五メートル。みながみな一様にその間隔を保っているため、少女のまわりには誰もいない半円形のスペースが綺麗に形作られている。
そんなことが果たして本当にありえるのか?
誰もその少女に一瞥もくれないのに、なぜこんなマスゲームじみた統率が取れるのか……。
かつ。
と、革靴の靴底を一際大きく踏み鳴らす人影が、少女に真っすぐ近づいて来る。
人々が少女のまわりを正確な円形で避けるのに対して、二つの歩み寄る影は真っ直ぐうずくまる彼女の前までやって来た。
「よう、気分はどうだい──アルジャーノン」
人影が投げかけた言葉に、少女はむくりと膝に埋めていた顔を持ち上げる。
そしてその半開きで覇気のない双眸で眼の前の人物たちを見上げた。
一人は白く細いボーダーの入ったダークスーツを着こなし、中に青のカラーシャツに赤いネクタイという派手な装いをしていた。頭には中折れ(ソフト)帽が載り、その下からは黒髪の長い三つ編みの御下げが腰までのびている。御下げの先の方には金と銀の幅広の腕輪が髪留めとしてはめられている。全体的に細いスレンダーな体型とのびるような長い手足は、実際の身長より高い印象をあたえる。中折れ(ソフト)帽のせいで顔はうかがい知れないが、口元からはニヤリと不敵な笑みと凶暴そうに尖った皓歯が零れていた。
少女は次にその後ろの人物に眼を向けた。
放埒さを漂わせる黒服とは反対に、もう一方の人物は粛々とその後ろにつき従っていた。
身長は前の黒服よりも幾分低い。およそ一六〇センチ台の真ん中程度。
黒いスラックスに白いドレスシャツ、さらに上から黒いベストを羽織っている。首には光沢の利いた琥珀色のシルクネクタイが綺麗に結ばれていた。手には前に立つ黒服の荷物と思しき黒いアタッシュケースが握られている。顔立ちはやや幼く、一〇代半ばほどだろう。
主人と従僕。
二人の関係は誰が見ても明らかだった。そんな距離感がこの二人にはあった。
「アタシ、アルジャーノンなんて名前じゃない」
「ああ、知ってるよ、そんなこと。けどお前さんはアルジャーノンなのさ。男が男、女が女、そして人間が人間であるように、ね?」
〝意味がわかるかい?〟そう言って懐に手をのばし、赤い紙箱から細長い葉巻のような煙草〝More〟を一本口に運び火を点ける。
「わらない。アタシはアタシ。それ以上でもそれ以下でもないもの」
「ま、そらそうだわな」
黒服は紫煙を吐き出す。すると少女は大きく顔をしかめた。
「どうした、煙草は嫌いかい?」
好き嫌いという問題の以前に、彼女らが今いる繁華街は喫煙の禁止区域だ。しかしそれを問い咎める者はいない。それどころか誰も彼も一顧だにしない。
「アルジャーノンがわらないってんなら、少し質問を変えようか」
黒服が口から煙草を放すと同時に後ろに控えていた少年がすかさず携帯灰皿で灰を受け止めた。
──お前さん、《デジタルドラッグ》を使ったよな?
一瞬、少女の肩がビクリと震えた。
「なんの……、こと?」
「カルトSNSへびつかい座ホットライン」黒服は人差し指をくるくると宙に円を描く。「お前さんらアルジャーノンは、確かあのネットワークにアクセスする権限を持っているんだよな。そーとークルらしいな、あの電子麻薬。今まで出逢ってきたアルジャーノンはみーんな、あれでキメてたよな?」
「あんたたちが……、ケータイクラッシャーなの?」震える声で問いかける。
「そんな風に呼ばれちゃいるな、あまり気に入らなんが」
「脳みそが失くなって死んでしまった子供たちに、みんなあんたたちがかかわってるって、本当なの?」
「…………」
黒服たちは何も答えない。ただ少女はその沈黙を肯定と捉えたのか、
「アタシのことも…………殺すの?」
「さあ~……てね。そいつは、お前さん次第さね」
一瞬、黒服の中折れ(ソフト)帽の鍔際から、鋭利な眼光を放つ隻眼がのぞいた。
それに射すくめられた少女は、脱兎の如く背後の路地裏へ遁走した。
するとその瞬間、誰も近づこうとしなかった少女の円形の周囲に人が流れ込む。人々は煙草に火をつけたままの黒服に嫌悪の表情を集めた。
「はっ、追いかけっこかい。嫌いじゃないな、そういう催しはさあ!」
黒服が煙草を握り潰す。と、その拳の間からかすかな煙が昇った。
† † †
「う……、ぁぁ」
小さなうめきと共に、ハッカは横たわるソファーから静かに身を起こした。それから開ききらない目を擦り視線を上下左右に走らせると、壁にかかった〝SEICO〟の時計を見やる。
時刻は日をまたいだ午前二時。
時計の文字盤を胡乱な眼差しでしばらく呆と眺めていると、急にソファーの上をまさぐり出した。そこで手にしたのは一つの携帯電話。
開いて画面を確認すると、もう赤い鳥居のマークは映っていない。
「夢……、だったのか」
本当に?
不意にハッカはある違和感を覚えた。
首が、重い。
わずかに、だが、普段と首にかかる重さが違っていた。
ハッカは首元をまさぐると、自宅の鍵がくくられてある革紐に指が触れた。どうやらまだ首からぶらさげたままだったらしい。ハッカは革紐を首から外した。すると、
「これって……」
革紐の先には長さ一五センチほどの螺子巻きがあった。鈍い金色をした真鍮製で、持ち手に穴が一つ空いている。
夢の中で、セカイの果てで亜鳥に別れ際にもらったものだ。
夢、じゃない?
「じゃあさっきのあれが……、ケータイ交霊術?」
拾った携帯電話ともらったゼンマイとを交互に見比べる。
「チェーンメール」
たしかスクランブル交差点で会った少女の言っていたケータイ交霊術は、携帯電話間を行き来する徘徊するチェーンメールが発動の条件だと言っていた。
ハッカはすぐ様携帯電話のメールボックスを開き、はやる気持ちから次々上から順にメールを確認する。他人の携帯を。他人の個人情報を。
母親。父親。兄弟。呼び捨ての友達。学校の先輩。さんづけの敬語の誰か。チャット形式に中身のない会話を重ね続けたもの。今回あなたは抽選に選ばれました。つきましては下記のURLからサイトにアクセスして受領をお願いします。【添付写】箱入り令嬢の戯れ@三ヶ国語をしゃべれるお嬢様のオーラルセックス。etcetc…………。
何とも他愛ないどこにでもあり触れたメールの着信履歴。けれどハッカの携帯電話には決してないもの。他者の想い(キモチ)が縦横無尽に駆け巡っている。ハッカにはそれがない。ハッカの携帯電話の中には何もない。箸にも棒にもかからない。ざるに水を流すような無意味さだけ。
「ちがう。ちがう。ちがう。ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちが────ッ!」
その時だった。忙しなく動いていたハッカの親指がぱっとスイッチを切ったように静止した。
タイトルの初めに〝FW〟の二文字。すなわち転送を意味する二文字。ハッカはそれを見逃さなかった。
通常チェーンメールは2、3、4、5、と転送した回数に応じて数字が〝FW〟の横につくのが普通だ。が、しかしこのチェーンメールには、
「むげん?」
〝メビウスの輪〟──つまり無限を意味する〝∞〟の記号が、そこにはあった。
FW:∞。
その後に続くのがへびつかい座ホットラインというタイトル。
「電車の名前と……、おんなじだ」
《セカイの果て》を、海と山の間を延々とひた走るローカル線といっしょの名前だ。
売春をしていた少女の言っていたことは嘘じゃない。自分が見たのは単なる夢じゃない。どちらも現実。どちらも真実。
ならば今のこの状況はいったい〝何〟実なのだろう?
少女から聞いた都市伝説《ケータイ交霊術》に《虹蛇ノ杜》。夢の中で乗った電車と同じ名前を持つチェーンメール。
そのすべてが夢の中《セカイの果て》に帰結している。
だとするとあの少女、《セカイの果て》で出逢ったセーラー服にチェスターコートを羽織ったあの少女。亜鳥と名乗ったあの少女は、いったい何者だったのか。
あの幻とも思える一時が、まっさらなハッカの記憶のアルバムに名状しがたい付箋を落とす。
わらない。
わらないこそ、また逢って確かめたい。
ハッカは再び《ケータイ交霊術》を試みようと強く握りしめる。が、すぐにその力は抜け、不自然に柳眉を歪めた。
テキスト、本文に何も書かれていないのだ。
空メール。
特にファイルが添付されているわけでもない。《ケータイ交霊術》は何か特別なアプリを起動して行うものではないということなのか。
送り主のアドレスを見る。
そこに記されていたのは、文字化けしているとしか思えない意味不明な記号の羅列だった。こんなものがアドレスとして成立するはずがない。
「何だよ、これ」
──何なんだよこのチェーンメールは。
ハッカはこのチェーンメール《へびつかい座ホットライン》を自身の携帯電話に転送をしようと試みるも、一瞬にしてエラーが警告を示す。
「だから何なんだよっ、くそ!」
勢いにまかせ、ハッカはソファーに携帯電話を投げ捨てた。
その衝撃からか、携帯電話の液晶画面に送信メールの一覧が並んだ。その中の一つに《へびつかい座ホットライン》という件名のメールが小さく映っていた。
するとハッカはすかさず投げた携帯電話を拾い上げる。
転送回数の〝FW:∞〟も、何も書かれていない本文も同じだったが、その送り先のアドレスと名前に、ハッカは見覚えがあった。
カーゴパンツのポケットから、よれよれの紙切れを一枚取り出し、広げる。それはスクランブル交差点前で別れ際に少女から渡されたもの。両手にそれぞれ持てば見比べるまでもなく、それらにはまったく同じことが記述されていた。
「相沢真希」
それが、あの少女の名前。そして今現在、件のチェーンメール《へびつかい座ホットライン》の所持者。
これが、少女──相沢真希がハッカにどんな願いごとでも叶えられると自慢していた所以か。
しかしなぜそれを最後に〝嘘〟だと訂正する必要があったのか、ハッカの理解は届かない。
が、そんなこと今はどうでもよかった。ハッカは投げてあったスケルトンのレインコートを手に取ると、玄関へ急ぎ足で向かう。
相沢真希からチェーンメールを受け取るために。
別にメールを送ってチェーンメールを回してもらうよう催促すればいいものだが、今のハッカには返信を悠長に待っている余裕すらないようだった。
そこまで焦るほどに叶えたい願いができたのか。
違う。そうじゃない。
もう一度亜鳥と逢うために。この無色透明なクオリアに色をあたえるために。
ハッカは真鍮のゼンマイを胸で握りながら、玄関の金属戸を開け放った。
† † †
「はっ、はっ、はっ、はっ」
少女は走る、暗く明かりのない路地裏を。
ホテル街の裏側ともなれば、当然両脇の壁の建物群はみなほとんどホテルだ。
三流ホテルに安ホテル、カプセルホテルにラブホテル。エアコンの室外機のファンが回転する騒音と嫌な熱風があたりに立ち込める中、少女は低い空から零れる月光と窓から漏れるかすかな明かりをたよりに走り続けた。
「ある日、森の中、熊さんに、出会った、花咲く森の道、熊さんに出会った♪
熊さんの、言うことにゃ、お嬢さん、お逃げなさい♪
スタコラサッサッサノサー、スタコラサッサッサノサー♪
ところが、熊さんが、後から、付いてくる♪」
背後からは口ずさむ陽気な童謡とは裏腹に、剣呑さを垂れ流した黒服の足音が追いかけてくる。
「トコトコトッコトコトー、トコトコトッコトコトー♪」
実際の足音は歌のように間抜けではない。カツカツと、コンクリート舗装された地面を革の靴底で踏み鳴らす硬質な音。その二重奏。壁に反響を繰り返し上から下から左右から、音そのものが襲いかかって来る錯覚にさえ陥ってしまう。
逃げるしか、選択は許されない。少女はそう確信した。いや、核心を得ていた。捕まれば他の子たちのように殺される。脳みそを消されて殺される、と。
背後の二人を振り切るため、少女はT字路や十字路に差しかかる度に法則性なく何度も複雑に曲がった。
そしていつの間にか、自分が大通り方面に向かって走っているのに気が付く。細い路地の先にネオンの灯りが光明を示している。
人ごみに紛れてしまえばあいつらも派手なことはできない。そう睨んだ少女は藁にもすがる思いで路地裏を駆け抜けた。
「──!?」
大通りまであと十数メートルというところで、眼の前の小さな十字路のわきから黒服に追従していた少年が何の前触れもなく姿を現す。
前髪が右眼を隠し、隻眼の左眼が少女を睥睨と見おす。
人形か、それとも幽霊か。人とはかけ離れた無機然とした顔立ち。物質とはかけ離れた幽界にその身を置いているかのような不気味な面影。
その細く白い手が少女に向かってのびる。
咄嗟、少女は紅く小さい粒のような何かを自身の口に放った。
カリッ、という奥歯で噛み砕く音。
刹那、少女の頭髪が一瞬だけ白く脱色する。そして少女を中心とした周囲の空間が灰色に染まり、パチパチとノイズが走る。少年は動かない。色を失い灰色となり、一時停止したモノクロ映画のワンシーンとして空間に溶け込んでしまった。
少女はそんな少年を尻目に大通りへ走り出す。すでに髪は元の茶髪に戻っていた。
「お嬢さん、お待ちなさい、ちょっと、落し物♪」
大通りへの出口手前、まだ後ろにいるはずの黒服が大通りの方から躍り出て来る。その口元は少女を嘲弄するように歪んだ微笑を浮かべている。
少女はすぐさま立ち止まり踵を返す。少年はまだ動きを止めたまま。その横を走り抜ける。
黒服は焦って追うわけでもなく、緩慢な足取りで少年の傍らまで行くと、彼の眼前でパチンと大きく指を鳴らした。
「は──!」
金縛りから解き放たれた少年は目の前の黒服を仰ぎ見た。
「完全に知覚と認識を喰われていたぞ、永久。ヒルベルトとの接続を切ってたな?」
「すみません、完全に自分の過怠です」
少年は恭しく深々と頭を垂れる。
「何、この先はもう一本道だ。どこに出るかも確認済みよ」
† † †
黒服たちから逃げる少女は繁華街の路地裏を抜け、開けた場所に出ていた。そこからはもう街の明かりはずいぶんと遠くなっていた。
人気はない。片側三車線の大型道路と街灯が延々と続いている。
そこにある主だった建物は、大型の仕分け倉庫と、それに併設された立体駐車施設のみだった。
少女は身を隠すためそこへ足を踏み入れる、トラックが出入りする正門から。当然警備員が二四時間交代で眼を光らせていたが、そんなものは少女の前ではカカシも同義だ。誰の眼にも止まることなく、少女は一般車両がひしめき合う立体駐車場の三階片すみに身をひそめた。
「…………」
静かだった。
隣の倉庫では機械の駆動音が遠雷のように周囲に響いてはいたが、その音のみ、ということは他に何もない証。
──ッン。
寂寞とした静謐さの中で、少女は聞き覚えのある音と再会する。
カツン、カツン。
硬く乾いた革靴の足音。
「来てる」
確実に。
すぐそこまで。
少女は目蓋を閉じ、下唇を強く噛み締める。
そして隠れていた車の影から飛び出した。
飛び出した先には二つの影が。豪放磊落とした黒服に、恭謹かつ雅馴とした少年の双影。
「ほう、自分を傷付ける他人から逃げ、自身を取り巻く環境から逃げ、果ては己が生きる現実からも逃げようとしているアルジャーノンが、まさか正面から出迎えてくれるとは。
いい気合じゃないのさ。嫌いじゃないよ、わたしはそういうの」
「くっ!!」
三味線を弾く調子で嘯く黒服に、少女の憤りが爆発する。
「バカにッ──」
右腕を前へ突き出す。すると人差し指の先に、小さく紅い宝石のような物が光を示す。少女はそれをつまむと、自身の口へ放り込んだ。
「するな────!!」
切歯で紅いキャンディーを噛み砕いた刹那、少女の頭は白髪化し、瞳の色が緑色に転化する。
すると少女の背後の影が消え、代わりに青いブラウン管テレビが出現する。画面は砂嵐状態。
ブラウン管テレビの砂嵐が球状に拡がり周囲の空間を灰色に侵食し、黒服と少年に襲いかかる。ノイズの空間が身体を包む瞬間、少年は痙攣するようにわずかに身じろぎするも、先ほどとは違い色を失わずにいる。黒服に至っては顔色一つ変える気配がない。
「デジタルドラッグを摂取し続け、自分自身をふくめたすべての現実を否定・拒絶した存在──」少年は息苦しそうに呼吸を荒らげる。「アルジャーノン」
テレビ画面上の砂嵐が消え、そこに一つずつ文字が映し出される。
『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれ欲するものは、一つの世界を破壊せねばならない』
「質量を持った感情の純粋な拒絶意思が顔にバチバチ当たって来やがる。なるほど、こいつは面倒だ。こいつは少々、骨が折れそうだ」
黒服はソフト帽の鍔を上へ傾け顔を出し、爛々と碧眼を輝かせる少女を正視する。その顔立ちは、女性の面差しだった。
† † †
その頃、ハッカはスクランブル交差点にいた。
ここで別れた少女、相沢真希からケータイ交霊術のチェーンメールを直接譲ってもらうために。
時刻は日付けの境界をまたぎ、数時間前に訪れた時には地面を埋め尽くすほどいた黒山の人だかりは、もうずいぶんとまばらになっていた。ハッカはふらふらあたりを漂うような足取りで、自身が座っていたテナントビル前の階段までやって来る。
「……どこだよ」
勢いだけで飛び出してしまった手前、彼女が今どこにいるのかなど検討もつかない。
いや、一つだけ心当たりがある。
「エイヴィヒカイト」
話の途中で彼女の携帯電話に着信した〝仕事〟のメール。ライブハウス──〝エイヴィヒカイト〟。
相沢真希はメールの着信から一時間後の約束をしていた。その時間などとっくに過ぎてしまっている。情事すらももう終わっていることだろう。しかし今のハッカには他に彼女を探す手がかりがない。
携帯電話を取り出し、繁華街近辺の店の情報を検索する。
そうしてキーを叩いていた時だった。
ザ、ザザザ……。
不意に、液晶モニターにあるはずのない砂嵐が起こる。
次にそれを打ち消したのは、チリーンという玲瓏かつ涼やかな鈴の音色。
液晶モニター上に、鳥居のマークがほんの一瞬だけ映る。その後は元通り。いつもの待受画面に戻っていた。
「何だったんだよ、いったい。んっ!?」
ハッカの頭の中でにわかに砂嵐の荒む音が鳴り響いて来た。
パチパチと、ザザザと、ガンガンと、ギギギギと。
ハッカは目蓋を閉じて耳を塞ぎ、その場に俯きしゃがみ込んだ。
「……ぅるさい、うるさい!」
身体にある穴という穴をどんなに強く締めつけても、音は耳の後ろの方から頭の上全体で反響し合いハッカを苦しめた。
ザ、ザザザザ、す……、けて。
「ッ!」
ノイズに紛れて、人の声のような音が聴こえて来る。
「た、す、け、て?」
助けて、と。確かにそう聴こえる。
ハッカは立ち上がり、首を左右に振りながら聞こえて来る方角を探す。
「こっちかっ!」
そうして走り出す。
大通りを三ブロックほど進むと、今度はビルとビルの狭間にできた路地の奥から聞こえてくる。暗く明かりのない道の中で、唯一月だけが味方をしてくれる。
路地を抜けた先にあったのは、片側三車線の大型道路。
等間隔に設置された街灯が導く前方にあるのは、大きな倉庫と四階建て立体駐車場。
ハッカは敷地内へ入るため正門へと赴く。と、そこには本来部外者の立ち入りを制限するために立っていなければならない警備員が仰向けに倒れていた。
明らかに異様な光景。しかし今のハッカにそんな些末事に一々気を引きとめられている余裕はどこにもない。倒れている警備員を横目にすら入れず駆け込んだ。
「うるさい、ウルサイ、五月蝿い、煩い! くそ、何なんだよ、くそッ!!」
進めば進むほど、走れば走るほどに、ハッカの頭の雑音は強まりを増す。
脳細胞だの中枢神経だのがプスプスと煙を上げてショートしていくかのような錯覚に陥りながら考えていたのは〝頭痛が痛い〟〝危険が危ない〟などといった重複した言葉が互いに意味を打ち消しあった荒唐無稽な戯言ばかり。
高熱を出して寝込み、天井に押しつぶされそうになる幻覚。
頭で脈打つ血流が鼓膜を直に叩く実感。
最高にハイになってしまった仕様のない後悔。
興奮作用を及ぼすありとあらゆる脳内物質が〝超〟過剰分泌されている真実。
苦痛は感じた即座に快楽へ変換されていっている。もう後戻りはできない。できるわけがない。
そうして──、ハッカの内から沸き上がる不可解な衝動は、彼をその場所へと至らしめる。
ただただだだっ広い面積の駐車場。三階という中途半端な場所のせいか、停まってある自動車の数は微妙にまばら。故にその光景は過多に目立った。
黒服に身を包んだ得体の知れない怪しい二人組。
一人は小柄な背丈で子供の風付き。しかし長い前髪で片眼を隠したその相好からは冷厳さ、峻厳さが際立つ。
もう一人は派手なカラーシャツにネクタイ、それに漆黒のダークスーツを身に纏った縦に長い形振り。背中には長い三編みの御下げが揺れ、右腕を高く上へ突き出している。
その先には──、その腕の先には少女の胸倉がつかまれていた。
少女はの髪は真っ白い。ぐったりと項垂れていて、力なく黒服の人物の腕からぶら下がっている。
人形か何かのように……死体か何かのように。
どろり。
と、少女の眼球がコンクリートの床に落ちる。粘度の高い体液が、接地時の音を吸収する。
ハッカはその片眼をなくした少女にしかと見覚えがあった。
ハッカに話を聞かせるのをいつも楽しみにしていた少女。
ハッカを小さな牧師と形容した少女。
ハッカと数時間前、スクランブル交差点前で惜別を告げてきた少女。
ハッカに、最後に自身の心の住所として名前とメールアドレスを記した紙切れを渡した少女。
──相沢真希。
彼女は死んでいる。死んでいた。
誰が殺した?
目の前の二人が殺した。
なぜ殺した?
わらない。
「もしもし、おい、わたしの声が聞こえるか? おい!」
長身の御下げした黒服が、携帯電話に向かって乱暴に話しかける。携帯電話。それは相沢真希が持っていたもの。彼氏とのツーショット画像が待受に設定されていたもの。
「もしもし! おい、おい!!」
「牧師、もう彼女は……」
隣の少年が少女を持ち上げる右腕に手をかける。
「Fuck up!!」
黒服は激昂に任せて携帯電話を握り締めた拳でコンクリート壁を殴りつける。その瞬間、轟音と噴煙があたりを包み、黒服が殴った場所には大きな穴が穿たれていた。
その後は、無音という音が、あたりに木霊を響かせる。
携帯を、
「こわした」
人間とは思えない膂力をもって、
「こわした」
イコール、
「ケータイクラッシャー」
相沢真希はケータイクラッシャーによって殺された。抜け落ちた眼球は、夕方見たブレインジャックの変死体と同一だ。
つまりケータイクラッシャーこそが、
「ブレインジャックの……犯人」
そう口にして瞬刻、ハッカの持つ携帯電話が着信の音を告げる。拾った方ではなく、ハッカ自身の、彼の心の具象化ともいえる携帯電話の方が。
光るメールの着信ランプ。送り主は不明。わけのわからない、意味不明な記号の羅列のアドレスから来ている。sub──すなわちタイトルは、
「へびつかい座……、ホットライン」
ハッカの存在と異変に、黒服の二人が気付き振り向く。
携帯電話の液晶画面にホワイトノイズが発生する。そしてすぐに真っ暗になりあの赤い鳥居が浮かび上がる。
黒服の二人が鬼の形相で近づいてくる。
鈴の音が耳の奥から響いてくる、それこそ頭の中から。親指が勝手に動き出す、ハッカの意思とは関係なく。キーが光り、親指はそれに導かれる形で後を追い、液晶画面に打った文字が現れる。
ハッカと黒服たちとの相対距離──五メートル。歩いておよそ七、八歩。交わるまでの時間にすれば三秒もかからない。
事態はその三秒ですべてが決した。
遍くセカイの片すみで、渇えたのどを掻きむしる
ハッカの携帯電話に降りた〝コックリさん〟が示したメッセージ。赤い文字でハッカの奥底に何かを訴えかける。
「あ、まねく……セカイの」
「止めろッ! それを口にしたら、お前は──」
「──かたすみで、かつえたのどを、かきむしる」
ハッカにのばした黒服の手が、不可視の強い力によって弾かれる。
そしてハッカを中心に赤い三本の光の柱が突如として出現する。天井に届かない程度の二・五メートルほどの高さ。その先がさらに上下二本ずつそれぞれの柱をつなぐ梁が現れる。
三柱鳥居。
三本の柱がそれぞれつながることで三つの入口、上から俯瞰すると三角形を形成している特殊な鳥居だ。それが結界となってハッカを囲み守護している。
そして消えた。
三本の柱が中心のハッカに向かって吸い込まれ、三角形の結界はその面積、体積を狭めながら最終的には一本の光の柱となり消失してしまった。
ハッカと共に。なんら、それこそ一切の痕跡を残さないまま。