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第二章 『ケータイ交霊術(コツクリさん)』

 学校から離れたハッカは、最寄りの路面電車の停留所にいた。

 ターミナス・ファウンデーションの主な交通手段は、島の隅々まで行き渡ったライトレールトレインにある。これは中小規模の鉄軌道システムのことで、エコロジーかつ低コストの観点から、市街地エリアの移動には路面電車(トラム)が採用されている。

 駐車スペースの限られた人工島(フアウンデーシヨン)では市民の多くがこれを利用しているため、交通渋滞はめったに起こらない。そこには交通渋滞マネジメントを駆使し、計算し尽くされた都市構造の賜物といえた。

 ハッカの眼の前に、静かなコイル音をともなった流線型の二輌だて車輌が到着する。

 プシュッーという音と共にボディの一部が隆起。プラグドアはそのまま横へスライド開閉する。

 低床式の車内は、背の低いハッカでも楽に乗り込ませてくれる。

 夕方ということもあり、乗車率はおおよそ一二割ほど。車内では立って吊革に手をかける人たちがちらほら。

 吊革まで手の届かないハッカは、仕方なくドア前の手すりをつかみ、窓ガラスから街の風景を眺めることにした。

 視界を流れるのは無機質然としたコンクリートジャングル。

 しかしその、どこの都市部でもありふれた被造物で構成された密林は、この街ではかなり事情が違っていた。

 そも、このターミナス・ファウンデーションという人工島は、房総半島の(いち)地方都市、(あき)()(うら)市の沿岸に建造されながら、実際には市の一部として数えられていない。いや、むしろ数えさせてくれない、と言った方が正しい。

 それにはこの街の生い立ちが関係している。

 世界有数の多国籍企業集合体、コングロマリット──ターミナス。人工島は、この巨大企業が膨れ上がって複雑化した企業体系の整備と、その技術を一つに集め、より多くの利益を得るためのコアコンピタンス戦略に端を発している。

 それにはまず、自社の傘下・関連企業の施設を収容するための広大な土地が必要だった。当初はハイテク産業の聖地であるアメリカ・アリゾナ州の隕石跡地(クレーター)に構える予定だった。隣のカルフォルニア州からの企業流出が著しい当州は、ターミナスがその身重な身体を移すには充分な度量を備えていた。

 しかし計画は早々にして頓挫。技術部門がハイテク産業のみに収まらないターミナスにとって、陸の孤島ともいえる砂漠地帯では物資、人員、技術のアクセスの不便さは眼を瞑るにはあまりに致命的だったのだ。

 そこで持ち上がったのが〝陸・海・空路、そのすべての道を拓くには、海に面した大型の都市部近郊に一から土地そのものを造るしかない〟という大胆な解決方法だった。

 その候補地に挙がったのがアメリカの西と東の両海岸。地中海に面したヨーロッパ諸国。けれどもそれら列強を押しのけ選ばれたのは、極東の小さな島国だった。

 選択を疑問視する声も多かったが、太平洋を前にした海路網や、昨今目覚しい発展をみせる東南アジア・インドとのアクセスから、最終的には落ち着くことになった。

 しかし海を埋め立て、そこに一から街を造るとなると、その資金繰りはいくら世界有数の巨大企業でも簡単にはいかない。が、それはそれ、当初の計画にあった〝自社(コア)技術(コン)を一つに(ピタ)集める(ンス)〟の理念から傘下企業から最新の技巧を流用。ジオデシックドーム理論やティンセグリティ構築法を応用したカーネギー理論により、低コストかつ高い強度の土台を造るのに成功。

 これにより通常の人工島では難しい増改築を容易に可能とした。そのためファウンデーションは人工島でありながら破格の土地規模をほこり、旧く不便となった区画はすぐに再開発がきく。

 他にも台風や地震、地盤沈下に液状化現象と、どんな自然災害にも耐えうる構造をしている。

 また近年特に力を注いでいるのがエコエネルギー開発だ。近海に設置した年間生産電力七〇〇万KW(キロワット)をほこる七基の大型風力発電機に始まり、浄水施設に組み込まれた水圧差式発電機関。人工島の下に一部海水の通り道をつくり出来た水力発電施設。また波の揺れから電気を作るという、実用化されて間もない高効率ジャイロ式波力発電システム。極めつけは、太平洋沖合で開発中のメタンハイドレード採掘プラントと、そこから生まれる天然ガスを利用したコジェネレーションシステム。

こうして作られたエネルギーは日本本土にも当然売られている。

文化文明を根底から自分たちだけで完結させたこの人工島は、正に人類の叡智を集結させた要塞といえた。

またこれらの試みで次世代型の都市モデルとして完成をみせたファウンデーションは、各国自治体へ向けたコマーシャル戦略を展開。日本に(しゆん)(こう)された人工島を広告塔に、海に面した国へ同型の都市モデルを売りに出したのだ。

それによりアメリカでは西海岸に一基と東海岸に二基。イギリスに一基完成させ、イタリアでは目下建造の最中にある。

しかし日本にある初代のファウンデーションだけは、どの自治体にも払い下げられることもなく、今も純粋に自社のためだけに機能している。そのため一番旧いにもかかわらず、その都市水準はどのファウンデーションよりも高い。

そうやって他のファウンデーションとの差別化を図っていった初代は、本来の基礎・土台(フアウンデーシヨン)という意味に新たに財団(フアウンデーシヨン)の項を追加し、文化保全財団──〝ターミナス・ファウンデーション〟として新たなスタートを迎えた。

要はコングロマリットの一部を、縦割りの組織構造から完全に独立化させ、企業城下町としてではなく企業自治都市としてファウンデーションの統治、運営をする組織を創ったのだ。

これにより単にファウンデーションと呼称した場合、それは日本の人工島、財団法人を差すようになった。


「ケータイクラッシャーって知ってるか」

「あ? それって最近夜中に出るっていう通り魔のか?」

 その会話はハッカの背後で囁かれていた。白樺学園のものとは違う制服を着た男子校生二人組だった。

「こないだ中学の先輩が襲われたって言うんだよ」

「マジか。俺ずっとあれ都市伝説かなんかだと思ってたんだが……。じゃあさ、やっぱあいつらって」

「ああ、噂通り、見るからに怪しい全身黒ずくめの二人組だってよ。ファウンデーションの中心街(セントラルエリア)で文字通りケータイぶっ壊されたって」

「えっ、じゃあ夜遊びできねーじゃん。暁刀浦とかマジ遊ぶとこないんですけど」

「この機会にちったあ勉強に時間を使え」

「いや~、〝わかっちゃいるけどやめられない〟ってスーダラ節で植木等も言ってんじゃん?」

「バッカ、あれは元々(しん)(らん)(しよう)(にん)の教えだよ」

「知らねえし、宗教とかねぇよフツーに」

 世間話はいつしか談笑に変わっており、ハッカの背中は二人の笑い声で押されるようにわずかによろめいた。ライトレールが停車するために減速したからだ。窓からの景色にはオフィスビルが立ち並ぶビジネス街が広がっていた。

 ほどなくして車輌は停車し、ハッカは停留所のコンクリートに向かってトン、と靴音を弾ませ降りる。

 周囲では颯爽とスーツで風を切るビジネスマンが雑踏していた。

 ハッカは人の隙間を縫うような足運びで、停留所を目の前にしたコンビニへ滑り込む。

 籠を手にして雑誌コーナーから回ると、適当に選んだマンガ雑誌を二つ放りこんだ。

 そのまま足をとめずにペットボトル飲料が並ぶ冷蔵庫から期間限定のジュースを取り出し、サンドウィッチとカロリーメイトを。

 そうしていざレジへ並ぼうと歩を進めるハッカに、不意に黄色の物体が視界をかすめた。

 それはコンビニが製菓メーカーに発注して作らせたコラボ企画のプリンだった。

 POPのボール紙にはコンビニ商品にしてはやや値のはる金額が提示されているが、ハッカは迷わずそれも籠の中へ。

「二四九〇円です」

 大学生のアルバイトの青年は、事務的な所作と態度と声音という〝いかにもな〟対応を見せた。

 ハッカが無言で三〇〇〇円を差し出す。

「五一〇円のお返しになります」

アルバイトは小銭を文鎮代わりにレシートを置く。すると、

ちゃりん。

 ハッカは返された五〇〇円玉と一〇円玉を、なんの躊躇いもなく募金箱へと捨てた。それはレシートをレジ前のゴミ箱に入れるのとなんら変わりの動作。

 アルバイトの青年も思わず少年を見遣る。

「ああ、小銭って財布が重くなるんでキラいなんですよ、ぼく」

 訊かれてもいないのに、ハッカは事も無げに口述する。

 微笑みを口元と目元に残し、コンビニ袋を取って自動ドアの前に立つ。

「あ……、ありがとうございました」

 しかしその言葉を向けられた相手は、もう聞こえる距離にはいなかった。


 コンビニを出たハッカは、ビル沿いの歩道をとことこ歩き続ける。

 と、数分と経たないうちに、ハッカの歩みは緩慢になり、ついには完全に停滞した。

 前には歩道をのり出し車道にまではみ出た黒山の人だかりができているのだ。

 その横には白と黒という地味なコントラストながら、それ故に人々に警戒をあたえる車──パトカーが二台停まっている。

 何かしらの事件があったのは明白だったが、そんなものにまったく興味を示さないハッカは人だかりを泳ぐようにかき分け進む。

「──痛っ」

 けれども自らの意志とは反して、小さなハッカの身体は逆に人の波に呑まれてしまった。

 それでもなんとか脱出を試みようと身を屈めると、どうにか開けた場所までたどりつくことに成功した。

 が、そこにあった光景は、物々しい群青の制服をきた警官と、それとは対照的な白の制服をきた警備員たち。

 どうやら抜け出すつもりが、逆に人だかりの中心に流されていたらしい。

 そこはビルとビルの間に挟まれた暗い路地で、膨らんだブルーシートを取り囲むようにして警察官が現場検証を行っている。テレビでもよく目にするその光景では、いつも警察官たちは事務的で無駄のない動きでやっているものだ。が、ここにいる人たちは一様に苛立ちを浮かべていた。

 それはおそらく自分たちを並んで閉じ込める、白い制服の警備員たちにあるのだろう。彼ら警官の仕事を手伝うでもなく、バリケードとなって一般人が近づくのを抑えている。

しかし本当の意味はそれとはまったくの逆だ。

 彼らは一般人ではなく、警察の方の動きを牽制しているのだ。

 彼らはターミナス傘下の警備会社の人間で、ファウンデーションの治安維持活動は彼らアトラクトインヒビターが全権限を担っている。

 多国籍企業かつ人工島が完全な所領であることから、治外法権を主張する財団側は、国や地方自治体からの干渉を頑なに拒み続けている。

 行政活動から治安活動にいたるまで、そのすべてを自分たちで執り仕切ろうと考えるファウンデーションにとって、公的機関との関係など束縛以外の何物でもない。

 しかしファウンデーション内で暁刀浦市の市民がなんらかの刑事事件に巻き込まれた場合に限り、警察の介入行動が許されている。だがそれもあくまで自警団体──アトラクトインヒビターの眼が届いている場所のみに限定される。

 それが今ハッカの前で繰り広げられている、奇妙な光景の正体だった。

 ふと、ハッカは理事長室で観たニュースの内容を思い出した。

 テレビではライブ中継はされてなかったが、たしかオフィス街で遺体がみつかったと言っていた。つまりあのブルーシートの膨らみの正体は、そのものずばり子供の死体ということに他ならない。

 するとハッカの頭上で、大人たちの噂話が飛び交った。

 なんでも昨夜の台風で飛ばされたゴミが、遺体の周りに集まって今の今まで人目につかなかったらしい。

 他にも、清掃員の中年男性が第一発見者で、警備会社と警察からそれぞれ謝礼金をもらっただの、取るに足らないどうでもいい話まで聞こえてくる。

 テレビで観た緊急速報から時間は大分経っている。普通は遺体をいつまでも現場に放置しない。

 おそらくこの人ごみはそういったことにも起因しているのだろう。

 ほどなくして、サイレンの音を響かせた救急車輌が道路の奥から勢いよく走ってきた。

 後部荷物室ルーフに排気ダクトが設けられた遺体運搬を目的とした警察車輌だ。

 そうすると警察官たちにあった異様な殺気が少しだけ和らぐ。ずっとこの遺体運搬車を待っていたのだろう。

 遅れた原因は暁刀浦市とファウンデーションを繋ぐ厳重な関所(ゲート)

 スムーズに命令が行き届いていなかったらしく、そこで足止めを食らったのだと運搬車から出てきた警官が言った。

 警官たちの冷めた視線がアトラクトインヒビターに集まる。

 けれど警備員の面々はどこ吹く風。厚かましい鉄面皮を崩さない。

 遺体を車へ移動させようとしたその時だった。一陣の風が現場を吹き抜けた。

 周囲は高層ビルが林立するオフィス街。答えを言ってしまえば、それはビル風。その中でも建物にぶつかって壁面をくだって来た剥離流と呼ばれる風だった。風威はそれほどでもないが、その速さは決して侮れない。

 するとその風が、遺体を隠していたブルーシートを盗み去って往く。

 横たわるのは中学生ほどの少年。噂通り、白髪という点を除けばパっと見、外傷らしい外傷はどこにもない。本当に脳だけが消えてなくっているらしい。

と、次の瞬間、少年の眼球がドロリと頭蓋の中を落ちた。

支える脳髄がないのだから、それはいたく自然な現象だった。しかし正常な精神を持った者には、あまりに堪えがたい光景なのもまた事実。

 現場を取り囲んでいた物見客の間で、どよめきが駆け抜ける。

 OLからは黄色い声が、中年の男性陣すら、口に手を当てて蒼褪める。

 が、その中で唯一顔色を変えない者がいた。

「…………」

ハッカだ。

怖がる所か、逆に退屈したように目蓋を細め、そのままあくびを一つ。

固まって動かない野次馬をよそに、一人歩道を抜けて群衆から去って行った。


        † † †


「どうも、こんにちは」

「ああ、ハッカくん。こんにちは。なに? 今日もお父さんのお部屋つかうの?」

「はい」

「お姉さん的にはあんまり子供が遅くまで外に出てるのは感心しないな~……、そうだ。帰り一緒に帰らない? ごはんおごってあげるよ?」

「あ……、ごめんなさい。実はもう買ってあるんです」

「またコンビニで買ってきたの? いくら作ってくれる人がいないからって、そんなのばっか食べてたら大きくなれないぞ。あっ、アタシが作ってあげよっか? ハッカくんの社宅とうちのマンション近いし」

「……いいですよ。お姉さんいつも遅くまでお仕事いそがしそうだし。……それに、」

「それに?」

「それにあんまり優しくされると……スキになっちゃいますよ? その、ぼくだって男だから」

「──んふっ。あいかわらず愛いやつじゃのうおぬしは。はい、これ。お父さんのオフィスの鍵ね」

 そう言って、二〇代前半ほどの若い女性はハッカの柔らかい髪を確かめるように撫でると小さな金属片を手渡した。

「ありがとうございます。それじゃあお仕事がんばってください」

「キミもいつまでも会社にいちゃだめよ。居眠りなんかして警備員さんに迷惑かけないように」

 デスクから身をのり出して見送る女性に、ハッカはたおやかな笑みで返した。

 そうしてエレベーターの中へ消えていく。

「ホント、最近よく思うんだけど、あんたっていつの間にショタコンになったの。前はオジ様オジ様って、古株連中に色目つかってたくせに」

 ハッカと会話していた女性の隣に座っていたもう一人の女性が口を開いた。

「ちょっと勘違いはよしてよ。たしかにあの子は可愛いわよ? アルビノで赤ちゃんみたいな白くて柔らかそうな肌とか。灰色の瞳とか髪とかちょっと他にはみないけど……」

「そんだけ見てれば充分ショタコンの気ありよ。この犯罪者」

「だから違うんだってば! 前にも言ったと思うけど、アタシ帰る時あの子を会社の近くでみかけたのよ。なんかつまんなそうと言うか、退屈そうというか、とにかく独りでぼうっとしてたのよ。帰り道も途中まで一緒だし、あの時は彼氏とも別れたばかりだったから、つい人恋しくなっちゃって夜ごはんおごるって言って愚痴きかせちゃったのよ」

「えっ? 私はてっきりあの子をダシにお父さんの麦村部長を捉まえるつもりだと……」

「あのね、いくらアタシだって会社の中でぽんぽんぽん不倫はしないってば。それに麦村部長はまだオジ様ってほど歳食ってないし。……ぅ、でも、そういう願望も少なからずはなにしも非ずだったけど……」

「ほら、言った通りじゃない。父と息子の〝親子丼〟シャレになんないって」

「でもさ、ホント不思議なのよ、あの子。子供だから特に的確なアドバイスしてくれるわけでもないんだけどね。でも、簡単な相槌や笑顔で返されてると、いつのまにか言うつもりもない愚痴をぺらぺらぺらぺら喋ってるのよ、アタシ。

 で、もう話すことがないってとこまで行くと、肩こり・腰痛・生理痛がいっぺんに取れたみたいに気持が軽くなってわけ。

 だから恋愛対象がどうのこうのとか、お父さんがとかじゃなくて、一緒にいると楽なのよ。あんたといつも受付で一緒にいるよりも」

「そりゃ悪うございましたね。どうせわたしは高校からの腐れ縁ていどの仲でしょうよ」

「まさか拗ねてるの? 小学生の男の子に?」

「うっさいわね! ──でも、いったいあの子なにしに来てるのかしらね。お父さん今イタリアで建造中のファウンデーションの現場主任でずっといないはずよね? そういう事とか訊いてないの?」

「さあ? アタシあの子自身にはそこまで興味ないし」

「うっわ。それちょっと酷くない。さっきまで散々あの子のこと立ててたくせに──」

 と、さばさばした方の女性は言いかけて正面へ向き直った。

「あの」

 メタボリックな腹をゆらした三〇代ほどの男性が、二人が構える受付カウンターへやってきた。

「いらっしゃいませ。わたくしたち受付担当を任されています羽汰と賀田がお相手させていただきます。本日はどのようなご用向きでいらしたのでしょうか」

「あ、はい、先日資材課の野々村様から打ち合わせを頂きまして、本日の六時半というお約束だったのですが、確認をお願いできますでしょうか」

「はい、お調べしますので少々お待ち下さい。……はい、確かに受け給わっております」

「それとゲストパスタグをお作りいたしますので、名刺を一枚こちらへ頂けますか」

 先程までガールズトークに花を咲かせていた二人の受付嬢は、今度は打って変わり営業スマイルで対応した。


        † † †


 父親の執務室で二時間ほどの睡眠をとったハッカはビルを出て、完全に日の落ちた夜の街を歩いていた。夕方から冷え出した空気は、こと夜にいたって肌寒さを増している。ハッカは小脇に抱えていた雨具を羽織り、ジッパーを上げる。

 このカッパは梅雨に向けて先行発売された婦人(レデイース)物で、全体は青みがかったスケルトン。ジッパーやボタンなどの小物にはカラープラスチックが散りばめられ、ファッション性はかなり高い。それに熱を逃がさない新型のビニール素材は、夜気から体温を守るには最適だ。

 ちなみに先程まで父親の部屋にいたハッカだが、散らかしたゴミはうっちゃらかしたままで出てきた。汚しても、どうせ清掃員の人が片づけてくれるし、逆に仕事をとっちゃまずい。というのが、ハッカが自分自身に言い聞かせている屁理屈だ。しかしそれを抜きにしてもハッカの物臭さには筋金が入っている。

 そうして一〇分ほど歩いていると、道の両端のイルミネーションが、徐々に明るく、また派手な装いになってきた。

 場所がファウンデーションの中心街(セントラルエリア)の中でも、俗にいう繁華街に近いからだ。

 夜でも多くの賑わいを集めるファウンデーションは、夜景の名所としても名高い。クリスマスでは隣接するオフィス街でも明かりが灯され、テレビ中継もされる。

 が、しかし。どんなに有名な所でも、夜の繁華街に子供が出歩いているにはあまりに場違いだ。

警察にだって補導されかねない──はずだが、警察は正式な司法手続きを踏まなければファウンデーションに入れない。

ここでも警備会社のアトラクインヒビターや、もしくは商業組合などが見回りをしている。それに街の中にはいたる所に監視カメラの〝(レンズ)〟が光っている。

それでもハッカは誰にも注意されなければ、一般人からも気を留められない。気配を消すのが単純にうまいのだ。ハッカの立つ地面からすっぽり闇を被っているように、空間そのものから人が発する雰囲気を感じさせない。

けれどあくまで他人に気を悟られないだけなので、人と眼が合いそうになった時や視界に捉えられた時は、年配のおじさんやおばさんの後ろについた。こうすれば傍目から見れば親子などに見られなくもない。

そのままてくてく目立たたずに歩いていると、ハッカはもっとも人の集まりが多いセンター街まで来ており、そこで歩みを緩める。

するとテナントがつぶれて久しい、うらぶれた雑居ビル前の階段に腰かけた。その場所からはファウンデーション一大きいスクランブル交差点がよく見えた。

「……………………」

 それからはひたすら、自身の前を通り過ぎていく人の波を観察する。何か目的があるわけでもない。誰かを探しているわけでもない。それなのに、ほぼ毎晩のようにここに訪れては人間観察を続けている。

 ()(ろん)な顔と瞳は、一切の感情を読み取らせない。けれどそれは決して無表情ではなく、近いものをあげれば能面の()(おもて)と呼ばれる仮面に似ている。見る角度や方向、所作一つで怒っているように、笑っているようにも、また泣いているようにも見えてしまう(げん)(みよう)な面だ。

 そこに映るのは自身の主観(ココロ)か、それとも他者の客観(キモチ)か。

彼はいつも孤独(ひとり)だった。

「あ、ネコくん。今日も来てたんだ」

 不意に、ハッカの横から女性が軽妙な口調(トーン)で話しかけてきた。

 ハッカは軽く横目で一瞥する。

「ホントよく会うよね、アタシたちって」

 女性はそう言いながら隣まで歩み寄り、雨で湿ったハッカの灰色の髪を見下ろした。

「今日はなにを見てるの?」

 微笑みと共に投げかけられるあいさつじみた質問。訊かれたハッカは、前方に向かって真っ直ぐ指をのばした。女性がそれに釣られてハッカの指の先に視線を走らせた瞬間、スクランブル交差点の四方に位置する四基の歩行者信号が一斉に赤から青へと変わり、黒山の人だかりが入り乱れる。

「あれが、なに? もしかしてスクランブル交差点のこと?」

 ハッカは静かに首肯する。

「ああやって行き交う人の波を見てるんだ、ぼくは」

「……人間観察って、ヤツ?」

「ううん、ちょっとちがう。ぼくが見てるのは人そのものじゃなくて、むしろその間、かな。人と人のスキマにある、視えない壁……みたいなもの」

「〝視えない壁〟?」

 女性は小首を傾げハッカの横顔を見遣る。

「ああやって肩先を数センチのスキマで次々にいろんな人とすれちがってるけど、みんな相手と目を合わせるどころか、どこに焦点を合わせてるのかもよくわからない顔している。でもそれなのにほとんどぶつかることなんてない。そんなのがこの二〇メートル四方の中で無数に起きてるんだ。

 そう考えると、あそこにはたくさんの視えない壁がある。あれがあるからこそ、人は自分が誰なのかを忘れずにいられるんじゃないかって、思えてくるんだ」

 言い終わってハッカは口を紡いだ。

 女性は逡巡するようにハッカとスクランブル交差点とに視線を何度か往復させると、

「ふぅん。じゃ、アタシもちょっとマネしてみようかな」

 と言ってハッカの隣にベタ座りする。女性はメンソールの効いた煙草、クール・ライト・ボックスを一本銜え、隣のハッカにも「一本どう?」といった仕草で箱の口を差し出した。

 ハッカはそれをやおら首を横に振りつつしんだ。

「あは、当たり前か」

 その女性は髪を染めて化粧をし、ブランドバッグで着飾ってはいるが、態度や表情は大人と呼びには幾分まだ幼かった。

 実際、彼女の年齢は成人にはまだ何年もの余裕を残している。外見で誤魔化しているだけで、彼女は高校生の硬い蕾のような女らしさしかない〝少女〟だった。

「実は今カレシとさ──」

 そうして少女は隣にいる少年に最近の出来事など、身の上話を語り始める。

 今つき合っている彼氏とのノロケ話。また愚痴。

 親とはずいぶん揉めて家を出ていったこと。

 学校に自分の居場所がなくなって、三月の留年を機に自主退学したこと。

 そんな話を、何気ない声音で事も無げに次々と並べ立てる。

 ハッカの方も特にこれといったリアクションや返答をするでもなかったが、静かに少女の話に耳を傾けていた。

「メールきた」

 話の腰を折るように、唐突に彼女の携帯電話が振動を起こす。

 すると携帯電話の画面を見つめる少女の顔が、にわかにくもった。

「仕事のメール?」

「そ。一時間後にエイヴィヒカイトってライヴハイスの前で待ち合わせだって。けっこう奮発してくれるお客さんだから、ここで一発ドカンと稼がないと。カレもアタシも飢え死にしちゃうもん」

 笑顔で携帯電話を閉じて髪をかき上げた。

 うなじからのぞかせたのは痛々しい青痣。他にも服の裾や襟からも、同様の痣や生傷がいくつも数えられた。

 それが彼氏の暴力によるものなのか、それとも今から逢うという上客の〝行為〟によってつけられたモノなのか。ハッカは聞かされていないし、また知りたいとも思わなかった。

 ただ何でもしゃべるように見えて、人には言いたくないことは言わない。それだけのことだと、ハッカは理解していた。

「そういやネコくん、ひとつ訊いてもいい?」

 不意に、少女は首を横にしてハッカに直接視線を向けた。

 彼女がハッカを名前で呼ばないのは、ただ単に名前をしらないから。互いに深くかかわり合う気のない二人は、出逢ってから一度も名乗り合ったことはない。だから彼女は、ハッカに対しての第一印象である「なんかキミってネコみたい」を、そのまま呼び名にしてしまった。

 猫のように誰がそばにきても逃げず簡単に触らせるくせに、心の真ん中では懐く気なんてさらさらない──というのを、彼女は無意識的に察して口から零したのだ。

「何を?」

 かくいうハッカの方には、少女を特定する決まった呼び名はない。彼女から話しかけることはあっても、ハッカからはまずないからだ。

「ネコくんはさ、神サマって──いると思う?」

「神……、サマ」

 不意に、ハッカの脳裡に自称狼神を名乗るマペットを左手に携えた伏し目がちの少女の姿が去来する。

「ネコくん?」

 固まるハッカを、隣から心配気に横顔を覗き込む少女。

 ハッカは雑念を払いのけるようにかぶりを振った。

「どうかした? 顔色悪くない?」

「……何でもない。それよりも何なのさ、その〝神サマ〟って」

 訊き返された少女は一拍間を開けると、穏やかな声でこう言った。

虹蛇(ナギ)(もり)っていう神社の話──聞いたことない?」

 その言葉に、ハッカはピクリと耳をそばだてた。

「虹蛇ノ杜って、あの都市伝説の?」

「なんだ、知ってたんじゃん」

 いちいち確認など取るまでもない。《虹蛇ノ杜》──この都市伝説なら、暁刀浦市の界隈に住む人間なら誰もが一度は耳にしたことのある単語だ。

 曰く、その神社は現実には存在しない。

 曰く、その神社は広大なネットワークの海のどこかにある。

 曰く、その神社にたどり着けた者にはどんな願いも叶えられる。

 そう喧伝されていた。

 しかし、

「でもあんなの、ただの作り話でしょ」

「どうしてそう思うの?」

「だってあの神社、ゼンゼンどこにも見あたんないだもん」

 事実、どの検索エンジンで《虹蛇ノ杜》と検索をかけたところで、ヒット件数はゼロ。陰謀論好きの好事家たちはどこぞのサーバーの機密領域の名前だの、またそのパスワードなどと風評を立てたが結局答えらしいこたえにはたどり着かなかった。

「でもね、実はアタシ、あの神社に参拝できるかもしれないんだ」

「──え?」

 思いもよらぬ応えに、ハッカは思わず声を上擦らせた。が、すぐに強ばった顔の筋肉を弛緩させ、また元の無感動な鉄面皮に戻ってしまった。

「どうやってって、訊かないの?」

「…………」

「なにその態度、もしかして信じてない?」

 ハッカは何も応えない。大きな眼を切れ長に細め、小さくあくびをしただけだった。

「ホントそういうとこ、ネコっぽいよね、ネコくんはさ」彼女はハッカの髪を軽く撫で散らかした。「めずらしく真剣に人の話聞いてたと思ったらすぐこれだ」

 人差し指をハッカの頬にさし、「うりうり」とでも言わんばかりに押し当てる。

「チェーンメールだよ」

「……何が」

「虹蛇ノ杜へのアクセス方法」

 そう言うと少女はおもむろにポケットから携帯電話を取り出した。二つ折りを開き、それをハッカの方へ向けた。待ち受け画面には少女とその恋人と(おぼ)しき男性の姿がある。少女はその待ち受け画面を、赤い鳥居のシンボルの画像にさし変えた。

「そのチェーンメール、ケータイ交霊術(コツクリさん)っていうだけどね、ほら見て、二つ折りケータイを開いてみるとさ、なんかコックリさんをする時に使う台紙に似てない?」

 五〇音、数字、アルファベッドは備えつけられている文字キーが担い、〝はい〟と〝いいえ″はそれぞれ発信キーと終了キーとが当てはまる。最後に液晶画面に赤い大きな鳥居が陣取れば、まさしくそれはコックリさんを召喚()ぶために使う儀式道具そのものだった。

「ふぅん……ケータイ、交霊術(コツクリさん)ねぇ」

 それは心底「どうでもいい」とでも言いたげな心ない返事。ハッカは体育座りで抱えた両足を居直らせ、膝の間にできた隙間に顔を埋めた。

「なになに? コックリさんだよコックリさん。キミたちくらいの年代が一番食つきのいい話題じゃない」

「狼少年ニューヨークへ行く」

「うん?」

「胡散臭いってこと。ただでさえあれはあるかどうかもあやしいまぼろしの神社なのに、それにアクセスする手段がケータイでするコックリさん、しかもそれがチェーンメールだなんて……イミフにイミフをぬり重ねたんじゃマユツバもいいとこだよ。ぶっちゃけ、イマドキ小学生だってホンキにしないよ」

「アハハハハハハっっ──相変わらずネコくんは(しん)(らつ)だね~、それに可愛いのに可愛くない! けどそれが逆にカワイーッ!」

 少女はこれでもかと言わんばかりにハッカの頭をもみくしゃに撫でる。

 ハッカはそれに最初こそ無抵抗だったが、耳の孔に指を入れられた途端「止めて」と冷厳な声と態度で少女の手をはねのけた。

 それでも少女は何が面白いのかにこにこと笑うばかりだった。

「おんなじなんだよ。目には見えないから信じてもらえない神サマも神社も……、そんでもって人の心も」少女は穏やかな口調で話し続けた。「アタシはさ、目に見えない幽霊や狐と交信するためにコックリさんがあるのとおなじように、人の心っていう目には見えないモノをわかりやすいカタチにしてあつかいやすくしたのが、ケータイ電話なんじゃないかなって思うんだ」

 ハッカは何も口にせず、ただ静かな面差しで少女の顔を見上げた。意に介しているのか介していないのか。その様はまるで、少女が言うように街の片すみで人間の言葉に耳をそばだてる小さな哲学者(ノラネコ)然としていた。

「人の心そのものは視えないけれど、この小さなプラスチックと金属のカタマリはボタンひとつでずっと離れた人とコミュニケーションができる。それで着信履歴とかメールの送信・受信ボックスから他人と交流したアトがしっかりと残ってる。

 誰かと心を通わせた痕跡がちゃんとカタチに残ってるんだよ。

 さっきネコくん言ったよね。〝人と人の間には視えないスキマがある〟って。たしかに人と人の心の間には壁やスキマでへだたれてるかもしれないけど、ケータイはさ、そのスキマを埋める橋渡しとしても機能してるんじゃないのかな?

 人ってみんな〝独りぼっち〟だって言うけど、結局は集団に依存したがるじゃない。ケータイは無意識にまわりとつながってるっていう安心感をあたえてくれてると思うんだ。

それでいて〝個〟──個人っていう人格すらも保証してくれる。ようは壁だよね、ネコくんの言葉を借りれば。相手から必要以上に干渉されないからね、メールの内容を見るのは個人の自由だし、着信拒否だってできるし。え~とたしか……、こういうのを心理学用語でなんて言ったっけ? パーソナル……、パーソナル~……」

「パーソナルスペース」

「そう、それそれ! 心の個人領域!

 だからさ、思うんだよアタシは。ケータイはアタシたちの心を物質化したモノ。等身大の自分自身を投影した分身──鏡なんじゃないかなって。

ほら、みんな駅や電車の中で特に用もないのに何気なくケータイの画面を開いたりするじゃない? ああいった習慣づけられた日常の作業の中で、人は自分がいったいだれなのか、なにものなのかを確認してるんだよ。きっと」

 そう言って言葉を切ると、少女は渇いたのどにコクリと小さく唾を飲み降した。そしてしばし、ハッカの言葉を待った。

「ふぅん……それってつまり、ケータイは〝心〟っていう目には視えない()()を理解するための翻訳機(コミユニケーシヨン・ツール)で、同じく目に視えない〝神サマ〟を理解できるってことだよね。

それに加えてなんの前ぶれもなく、どこからともなく着信がくるチェーンメールはさしずめ〝()(つげ)〟ってとこなのか」

「おっ、さすが聞き上手なネコくん、理解が早いな~」

 少女はいつになく返答の言葉数の多いハッカに気をよくし、語気の調子がみるみる上がっていく。

 するとそんな少女に、ハッカは「じゃあ」と続けた。


 ──願いは何なの?


「え?」

 かすかに上擦った声。

「アンタは〝何でも願いを叶えてくれる神社〟への行き方がわかったんだろ? ならいったいなにをお願いするのさ」

「あ、あ~……そうだね~」

 空中で人差し指を泳がせながら、視線もどこか宙ぶらりんにたゆたっている。

 しばらくして当て所ないのを観念すると、少女は真剣な面差しに居直った。

「否定して、やりたいんだ」少女はまだ雲の晴れない空を見上げる。「今までのアタシそのものを」

 ハッカは聞きながら半開きの目蓋を開けた。

「こうやって高いビルに囲まれて雨雲が上にのっかてちゃ空がずいぶんと低く感じるよね~」

 そう言って少女は上に向かって腕をのばしたが、すぐに顔といっしょに下へ降ろした。

「アタシバカでガキだしさ~。売春(ウリ)とかでしかお金稼げないし。カレシの借金だって日に日に増えてくし……。アタシもね、わかってはいるんだよ、このままじゃいけないってことぐらい」

少女は苦虫を噛むように下唇を噛みしめながら、下腹部をさすった。

「それでもいいって思ってた、バカのままで。だって楽なんだもん。むずかしいこと考えなくていいし、いちいち悩む必要だってない。

けどさ~、やっぱダメだわ、現実はどこまでいっても現実で、過去はどこまでいっても過去だもの。くつがえせないし変えられない。

 だったら否定するしかないって思った。こんなの絶対に本当のアタシじゃないって。だから上から塗りつぶすなにかがあれば、って。

実は別に願いなんて言うほど、別にたいそうなものはのぞんじゃいないんだ。ただ苦い現実(コーヒー)を少しだけやわらげてくれる(ミルク)がほしいだけ」

そう言って少女は「バカみたいでしょ?」とはにかみながら笑った。

するとハッカはスクランブル交差点へと向けていた視線を少女へと移した。

「本当に、ミルクだけでいいの?」

「え?」

「だってミルクを入れただけのカフェラテなんておいしくないよ。砂糖が入ってなきゃ、甘くなきゃコーヒーぎゅ……カフェラテなんて言わないもん」

 それを聞いた少女は、きょとんと脱力して顔の筋肉を弛緩させると、急に破顔しけらけらと笑い始めた。

「あっははははははは、そりゃそうだわ! 甘くないコーヒー牛乳(カフエラテ)なんてコーヒー牛乳(カフエラテ)じゃないよ! あはははは、おっかしい!」

「ぼく、そんなに変なこと言った?」

「いや、全然、全然! ただネコくんも子供なんだな、てさ。カワイイこと言うなってさ。そんな当たり前のことが、今になってはじめてわかって──」少女は笑い過ぎて出た涙を拭った。「それがおもしろくってたまんないんだよ。今のアタシには、さ」

「ふぅん、変なの」

「ま、実際アタシ自身、虹蛇ノ杜もケータイ交霊術(コツクリさん)も、信じちゃいないんだけどね」

「なにそれ。じゃあさっきまでのは何だったのさ」

「ん?」

あごに人差し指を立てて考える素振りを見せると、

「あんなの、半分はアタシの考えたただの作り話。最後にネコくんとお話するのに、いい話題が見つからなかったから……それだけのハナシだよ」

 そう言って打ち笑んだ。

「〝最後に〟ってどういうこと?」

「実はさネコくん、アタシこの街を出ようかと思ってるんだ」

 どこかのどをつまらせる調子の言葉。

「そうなの。彼氏と?」

「うぅん、一人で」

「へぇ、意外。いつもかならず彼氏(オトコ)の話するから。じゃあ、別れるの?」

 少女は少し困った表情を浮かべると、静かに首肯した。

「赤ちゃんがいるんだ。アタシん中に。ぶっちゃけカレシの子なのか客の子なのかもわかんないんだけどね。けどそれがわかったら、なんか今までのアタシなんかどうでもよくなった。消してしまいたいとさえ思った。ここにいちゃいけないって……思った。だからこの街を出てくの」

 はにかむようにして笑った。辛さを隠すために、上から泥を塗りたくった痛々しいまでに歪な笑顔。けれどそんな顔を見ても、ハッカは眉一つ動かさなかった。

「それでね、誰もアタシのことを知らない新しい街で、子供といっしょに新しく人生をやり直すの。そうだな、そしたらアタシ、日曜は小さな教会に通うよ。へたっぴな讃美歌うたってさ、今まで一度もしたこともない奉仕(ボランテイア)して。

あ、そういうのってなんかまるで昔のアメリカのドラマになかったけ? ねぇ知らない、ネコくん」

 笑いながら涙をためたその眼は、もうほとんど、開いてはいなかった。

「……知らない。海外ドラマとか、キョーミないし」

 一息間をあけて、素っ気なく返事をするハッカ。その声はまるでしぼんだ風船。覇気もなければ生気もない。

「ぅん、言うと思った。それでこそネコくんだよね。そんなキミだから、アタシも懺悔したくなっちゃうんだもん。そこに同情や憐れみがあっちゃいけないんだよ──キミの場合。

 ────よしッ」

 涙が今にも溢れかるその瞬間、彼女は両頬に手の平を叩き付けた。

「後悔、および懺悔終了! アタシ、きっと誰もがふり向く女になってやるんだから!」

 そうしてまた笑った。今度のそれは(しこ)りも(よど)みもない、青空みたいに澄み切っていた。雨雲はどうやら、降る前に霧散したらしい。

「じゃ、そろそろ約束の時間だから、もう行くね。この街を出るにしても子供を産むにしてもお金、必要じゃない?」

 ハッカは言葉もなければ頷くこともなく、ただ瞳だけで呼応する。

 二人の去りしなはいつもこう。彼女の方からやって来て、独白めいた話を聞いて、帰りも向こうの方から一方的に去っていく。

 だからこんなこと自体、初めからあってないようなもの。酔っ払いが人形やポストに語りかけるのとなんら変わらない。意味もなければ価値もない、浮世の片隅。

それでも──、

「アタシはもうここにはもうこないけど、ネコくんはできるなら……気が向いた時でいいからここにいてアタシみたいなヤツの話を聞いてあげて。知らないかもだけど、売春(ウリ)やってる娘のあいだじゃ〝チビッ子セラピスト〟とか、〝ちっちゃな牧師サマ〟なんてよばれてるんだよ。キミは」

 そう言うと、彼女はハッカの頭を撫でた。野良猫を可愛がるように。家に持って帰ることも、エサをあげることもできないけれど、せめて精一杯のキモチで慈しむように。

「あっ、最後にこれ、わたしてもいい?」

 彼女はハッカに一枚のメモ用紙の切れ端をさし出した。

「なに、これ?」

「アタシの〝心の住所〟、かな。もしよかったらたずねてみて、たぶん今のところアタシの居場所は、そこしかないから」

 今までお互い打ち明けたことのなかった名前とメールアドレスが、そこにはあった。

「じゃ、バイバイ」

 彼女は人ごみに消える。なんの痕跡も残さず、誰の気にも留められぬまま、どこかへ消えてゆく。

 少年(ネコ)はそれを静かに見送った。


† † †


 三〇分後。ハッカの足は繁華街から遠ざかっていた。

 夜はますます深まってゆくが、それでもまだ日付が変わるには充分に余裕がある。普段のハッカなら、日付を跨いで街をうろつくのもざらだった。しかし今夜は様子が違う。急ぐような足取りで家路を進んでいる。

 さっきの少女の話が堪えたのか──いや、そんなはずはない。あの程度の内容、ハッカからすれば日常茶飯事のはず。ハッカに話しかけてくる人間の中には、今しがた親を刺してきたという少女もいた。それに比べれば、今夜の懺悔などどれだけ耳に優しいことか。

 不意に、後ろから静かなモーター音を響かせた路面電車(ライトレール)が横切って往く。車窓から溢れでた照明がハッカの横顔を照らした。

帰りの早い今夜は、路面電車(ライトレール)を使わず自身の足で帰ると決めた。それでも家へは今いるオフィス街から三〇分は優にかかる。

ハッカの歩みに合わせて、首からぶらさがった社宅の鍵が小さく弾む。ハッカにとって、家など風呂に入って寝るだけの止まり木程度の場所に過ぎない。帰りを温かく迎えてくれる家族もいなかったし、ハッカ自身そんなものはさして求めてもいない。

母と妹をイタリアへ連れて行った父が、唯一ハッカのためだけに残した部屋。家族(ナカミ)を知らない(イレモノ)

そんな場所に毎日帰ることすら馬鹿らしいと、ハッカは常々考えていた。故に時間を潰す。学校で、父親のオフィスで、繁華街で、自分の知りうるすべての生活圏内で持てあました時間という時間を、人生という人生を──ただいたずらに消費する。

ハッカは革紐の先端にくくられた鍵を握り締めた。この金属片の先には自分の居場所はない。いや、ハッカが居場所と呼ぶべき所は、この街のどこにも存在(あり)はしない。

これまでファウンデーションの至る所へ赴き、そこで他者とのつながりを作ってきた。しかし、そこで感じられた想い──真に得られたものなど果たしてあったろうか?

結局どこも変わらない。自分に関心のない親の心裡も許容でき、どんなに重い内面を背負った他者も受け入れられていたというのに、ハッカ自身は決して理解されない。

それはまるでカメレオンのようだった。いつでもどこでもまわりの風景や色に合わせているうち、気づいた時には自分の本当の色すら判らなくなってしまった──憐れなカメレオン。

もしかしたら、最初からハッカに〝色〟なんてものは無かったのかもしれない。

だからこそ、誰のキモチを理解できる代償(かわり)に──誰も自身を理解してはくれないのだ。その身はすでに他人という色に染まり、社会という模様に溶け込まれてしまっている。

ハッカはそれを必死になって否定した。自分ですら自分が理解(わか)らないのに、他の誰にかに勝手に決めつけられたくないと。

だからハッカは友達を作らない。

集団という大多数に埋没しないために他人と自分との間に線を引き、常に虚ろで不確かな自分を取ったのだ。

何にでも染まる〝白〟と、どんな濃厚色にも絶対に侵されない〝黒〟とを同居させた答えのない灰色のパラドックス。はたしてそこにあるのはどこまでも澄み切った無色透明な自意識(ココロ)なのか。

まさしく空っぽ、虚無、すっからかん、エンプティー、ノーバディ。

そして──、伽藍堂。

そんな他者からの存在定義を拒んだハッカに集まったのは、自然、ハッカ自体にはなんら興味のない人間たちばかりだった。

人は誰しも不確定な自己を内包している。それを少しでも鮮明にするために、他者や社会とかかわりを持つ。けれどそれで必ずしも自身の望んだ応えが返ってくる保証はない。逆に否定もされかねない。だから彼女らはハッカを求めた。決して自身を否定せず、真綿がつまったぬいぐるみのように受け止めてくれるハッカを。

けれども儚だけは、心を病んだ犬神憑きの少女、三千歳儚だけは受け入れることができなかった。なぜなら、

かつ。

「──っ」

出し抜け、歩くハッカの爪先に硬くて軽い物体がぶつかり転がった。からからと高い音を鳴らしながら、その物体は数メートル先の街灯下で止まった。ハッカはおもむろに腰を下ろして手に取る。

「……ケータイ?」

 それはなんの変哲もない有り触れた携帯電話だった。機種としては一年ほど前に出たモデルで、取り立てて目立った機能もない二つ折り携帯電話。

「生きてる」

 折り畳まれた本体を開いてみると、電池のランプが一つと電線が三本立っていた。

 携帯電話を閉じる。携帯電話なんてなかなか落ちている物ではないが、だからと言って特に珍しい物でもない。本当なら警備会社(アトラクトインヒビター)へ届けるのが筋だが、この程度の代替品の世話を焼くほど、ハッカが殊勝であるはずもない。

 ハッカの頭にこの携帯電話の有効的な利用方法が二つ挙がる。一つは電子マネー機能で何か高い買い物をする。

「……ボツ」

 この時間でも開いていて徒歩でも行ける店など、百メートル先で看板を光らせているコンビニくらいしかない。

 もう一つは飛ばし携帯としてブラック企業に五万前後で売り飛ばす。

「ムリっしょ」

 小学生のハッカには、どのようなルートで闇金融に接触して売れるかもわからない。

 そうなると選択は消去法だ。拾った物なのだから、元あった場所に戻すのが一番てっとり早い。それにハッカには親から毎月多額の生活費が振り込まれている。落ちている物で悪さをしようなど遊び心にも満たない幼い思いつきにすぎない。

 ハッカは軽く周囲を見わたし、安易に人に踏まれない場所を探した。

 そうして歩道の端に置くことを決め、その場に静かに腰を降ろそうとした時だった。

「ここって」

 ふと、自分が夕方目撃した変死体の発見現場にいることに気がついた。

 景色というのは季節でもそうだが、一日一日の時間帯だけで大きく装いを変える。暗くて、かつ同じようなビルや似通った(みち)(なり)を進んでいては、現在位置の把握は難しい。

「……これって、もしかして……」

 児童変死体事件の発見現場。その近辺に落ちていた子供が使うような型の旧い安い携帯電話。ハッカの脳裡に、この携帯電話の落とし主の無残な姿が映し出される。

 普通なら現場物品は警察が残らず回収していくのが常だ。だがあのアトラクトインヒビターの監視と行動制限の中では、網の目をもれた可能性もおそらくゼロではない。

 数秒の思案の後、ハッカは携帯電話を開いた。

 画面の液晶が暗い。いや、完全に電源が切れているとさえ言ってもいい。電池ランプはまだ一つ残っていたはずだが。

 すると突然、鈴の音が鳴った。シャランと風に揺られたような軽い音。

と共に、四本の赤い線によって組まれた記号が画面に現れる。

 ハッカののどに一かたまりの唾が落ちる。

鳥居だ。

ひとりでに画面に鳥居が映った。

黒い背景に一際目立つ赤い鳥居。

またぞろ、携帯電話が勝手に動き出す。今度はキーが不規則に光り出す。光っては消えてまた光る明滅の繰り返し。

そして最後に、十字キーの中央に明かりが集約する。

 ハッカの親指が吸い寄せられるように光る中央キーに動く。

 ──が、

 ピー、ピー。

 電池が切れ、電源が落ちる。と同時に、ハッカの親指が止まる。

 …………。

 その場に固まって、凝然と拾った携帯電話を睨むハッカ。

「ふん」

 すると何を思ったのか、携帯電話をカーゴパンツのポケットへ押し込み、何事もなかったかのように再び歩き出した。

 オフィス街を抜け、小規模な工場区画を歩き、ターミナス関連企業の社宅やマンションが整然と立ち並ぶ私設公団へたどり着く。

 エレベーターのボタンを最上階より二段低い一三階に指定。子供一人を乗せた金属の箱は重くゆっくりと鳴動しながら重力に逆らい上へ加速していく。

 エレベーターから降りると、一番右端のドアの前に立った。

 鍵のついた革紐を首から外し、重苦しい金属扉の鍵穴に差し込むと、これまた重苦しいごちゃりというロックの開放音。

 部屋の中に広がっていたのは、外の(いつ)()よりも遥かに(くら)い常世の闇。

 夜道を歩いていたハッカでも、この暗さに眼が慣れるには少し時間がいるだろう。

 が、ハッカは靴を投げるように脱ぎ捨て、そのまま慣れた足取りで廊下を数歩進んで玄関の電気を点ける。

 毎晩のように晩く帰ってきているハッカにしたら、これくらい朝飯、もとい夜飯前といえる。

 リビングに行く途中で部屋中の灯りを点し、ソファーの上に着ていたカッパや肩にかけていた鞄をかなぐり捨てる。

 部屋の間取りは2LDK。家族で住むには少々狭いが、ハッカ一人なら充分すぎる広さだった。それに、この部屋はハッカの為だけに父親が用意した仮住まいだ。家具や家電などの調度品も、必要最低限の物しか備えられていなく、どこか無機質然として生活感に乏しかった。

 ハッカはリビングテーブルに鍵を投げると、ポケットにしまっておいた落し物の携帯電話に自身の充電器を差し込んだ。

 そうして充電が完了するまでどう時間をつぶそうかと考えていると、ふと視界に食卓テーブルの端に所在無さげに置かれているメモ紙が映る。

 そこには、


『ハッくんへ

 今夜はハムと玉ねぎのチーズ焼きに、ウインナーときのこのフラン。つけ合わせにミニ唐揚げのサラダとコーンスープを作りました。

 九時ごろまで待ってたんだけど、ハッくんが遅いので儚は部屋に帰ります。

 今度はいっしょに食べようね。

                         儚より』


一昔前に小学生女子の間で流行った丁寧な丸文字で書かれたメッセージが示す通り、テーブルの上には皿に盛られた料理の数々が並んでいた。そのどれもきちんとラップが張られ、けれどそのどれもが熱を失くして冷たくなっている。

 料理の他にもコンセントがついたままの炊飯ジャーが、保温モードで粒の立った二合分の白米を温めていた。それだけじゃない。儚が自分で選んで買ってきた木製のペアのスープカップも、箸もスプーンもテーブルナプキンすらも、すべて食卓テーブルで向かい合うようにして配置されている。

「…………」

 テーブルにはもう一枚のメモ紙があった。


『今日こそはいつものように残すなよ。その始末をするのは儚なのだからな。

 いつも月夜に米の飯、自分がどれだけ恵まれているか少しは自覚をしろ。

 もし今度も残していたなら、明日はお前、血を見ることになるぞ』


 おそらく真神が書いたであろう書置きは、濃くて太い力強い達筆な筆致だった。

「知るかよ……」

 儚の書置きといっしょに丸め、ゴミ箱に放り捨てる。

 そうしてテーブルに置かれた皿を手に取りキッチンへ向かう。

 眼下には生ゴミを入れる大型のポリバケツが、

「……ふん」

 ハッカはそこへ──


† † †


 壁に当てた耳の中で、チーンと電子レンジの音が響く。

 よかった、今日は食べてくれるんだ。ハッくんは大雑把な味づけが好きだから、洋風のゴハンは正解だったみたい。

 けれどそれだとビタミン・食物繊維などの野菜分が摂取しづらく栄養バランスが炭水化物に偏りがちだ。そのため儚はいつも気が抜けない。しかし最近は野菜の風味を消し、かつ主張が強くて味ができあがっているハムやチーズなどの加工食品で塩梅を一つに決めてしまえば、選り好みの激しいハッカでも食べてくれるのを、儚は発見した。

 ……でも、見栄えがよくなると思って付け合わせてみたパセリは……、もしかしたら真っ先に捨てられてるかもしれない。

 ハッカは嫌いな物は眼の届く場所にあることすら許さない。故に毎日ハッカが起きる前の早朝にキッチンのゴミ箱や三角コーナーを覗くたび、儚は憂鬱し、また嬉々とした。

 ちなみに隣のハッカの部屋へはベランダからいつも侵入している。いつもどんなにチャイムを鳴らそうがドアを叩こうが、近所迷惑の限りを尽くそうが頑ななまでに自発的に部屋へ上げようとはしないハッカがいじらしいと同時にひどく侘しくもあったが、本人の知らぬところで隠れて出入りし心を尽くすのが、どこか通い妻の趣きを醸し出し儚を満たした。

「……はぁ」

 今夜の帰りはいつもよりちょっとだけ早かったけど、やっぱり女の人と逢ってたのかな……。

 ベッドの上に膝を立てて壁に耳を貼り付けていた儚は、そっと音を立てないよう静かに離れた。そこから机のパソコンの前に座ってマウスを動かす──と、モニターには寂れたテナントビルの前に座っている少年と、その横に儚と同年代ほどの少女が映し出される。

やっぱり、だった。やっぱりハッくんは女の人と今日も逢ってたんだ。

ハッカがいつも繁華街で何をしているのかどうしても気になって、儚はインヒビターのホームページから街に設置された監視カメラの映像を観る方法を見つけた。しかし儚の持っている普通のファウンデーション市民IDでは、人物の顔にはモザイクがかかり、またカメラの移動範囲、また望遠・拡大機能にはかなりの制限がある。だからカメラに映っているのがハッカで、かつその人物といったいどんな関係にあるのか、儚のあずかり知るところではない。

けれどもこの少女にはわかった。画面に映るのが自身のもっとも、いや、唯一愛してやまない人物だと。しかしその想いは顔に貼られたモザイクを見抜く心眼とは裏腹に、儚自身の眼にあらぬフィルターをかけていた。

それが、

「この人とも援助交際……してるのかな」

 という、間にハッカを介した関係妄想を働かせていたのだ。

本来、関係妄想は無秩序な周囲の情報を、ところかまわず何でも自身に関連づけてしまう妄想癖のことだったが、儚は直接自分とはつなげずに、その間にハッカという自分以上の存在を置く二次的な妄想をおこっていた。

それがより儚の妄想を助長させた。

 ハッくんには援助交際してるんでしょ、って脅しちゃったけど、そんな証拠はどこにもない。

「──でも!」

 考えられずにはいられない。想像するのを抑えられない。妄想だっていうのはわかってる!

「でも、儚はハッくんが好き!」

 お父さんもお母さんも、いつの間にか儚のことを見てくれなくなってた、声を聞いてくれなくなってた。けどハッくんは違う。ほんのちょっと冷たいけど、儚に話しかけてくれる。儚が儚だっていうコトを確かめさせてくれる。

 だから儚にはハッカ以外いらない。

 だからハッカにも自分以外見て欲しくない。

 自分がこんなにもハッカのことが好きなのだから、他の有象無象(オンナ)が同じ想いを抱いていない保証なんてどこにもない。もし好きじゃないのだとしたら、なおさら近づけたくない。

「ホントなら」

 本当なら、部屋中に監視カメラと盗聴器をしかけたいとさえ思っている。

 料理にだって爪や髪の毛……秘所の毛さえ混入したい。けれどそんなことをしようものならハッカはすぐに勘で見抜き、問答無用で皿ごとポリバケツに放り捨てる。そしてその残飯を作った儚本人が片付ける。この少女にとってこれほど心に堪えるものはない。

 他にもハッカ夜眠っている時、その寝顔を一晩中愛でていたい、あまつさえイタズラだってしたいとも思っている。が、(ひと)(たび)行動してしまえば簡単にばれ、その後は存在を否定されているとしか思えない完全無視がしばらく続く。

 でもたまにハッくんはリビングのソファーで寝ることがある。その時は儚の人肌で温めた毛布をかけたりできるし、寒いけどベランダから一晩中あの寝顔を眺め続けられる。

「……はぁ、今日のハッくん、ちょっとだけ、優しかったな」

 ハッくんの方から触ってくれた髪。シャンプーやトリートメントなんかで洗っちゃったら、逆に汚れちゃうから、今晩は髪を洗わなかった。

 髪を切って大事に机の中に保管しようとも思ったけど、前髪を切ったら他の人と目が合いやすくなるから、やっぱりできなかった。

「カーゴパンツをロールアップしたハッくんの足、可愛かったな」

 ミニソックスで露わになったくるぶし。

アキレス腱のくぼみ。

ちょっとだけ垢の浮いた柔らかそうな膝の裏。

「ピンク色した膝も……大好き。────────ンぅんっ……」

 ハッくんのコトを考えていたら、どうしようもないくらい肉体(カラダ)火照(あつ)くなってきちゃう。

「ダメなのに、ダメなのに、こんなコトしてハッくんを穢しちゃダメなのに!!」

 それなのに、指の動きはどんどん加速していく。

 ─────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────。

「……はぁ、……はぁ、……はぁ、」

 いったいどけだけの時間が経ったんだろう。そんなを考えながら、儚は机の上のティッシュを四枚ひき抜いた。

「──あ」

 そしたら丁度、ティッシュの箱は空になった。

 カラカラという音が、口から零れる重い吐息といっしょになって……部屋の中で残響する。それが、儚の(キモチ)を無性に惨めにさせた。


† † †


 儚が用意した料理を食べ終えたハッカは、砂糖とミルクありありのインスタントコーヒーを啜りながらリビングのソファーに腰を降ろした。その身が深く、ゆっくりとソファーに沈んでいく。四肢を大きく開き、全身で大の一文字を形作る。だらりとソファーに首をあずけていると、自然、顔が真上を向く。そこで視線がいき着いたのは天井という名の袋小路。

どうしようもないほど狭くて小さいこの部屋そのものが、少年(ハツカ)の一日に重たい緞帳幕を落とす。

 これ以上は意味がない。

 それ以上は価値などない。

 あれ以上は何もない。

 閉ざされた箱庭の限界は、子供にとって絶対不可避な家という現実。

 首からさがった革紐と鍵はさしずめ、抗いようもない檻にくくりつける首輪と鎖。

 縛られた日常は自身が縛られているという自覚すら剥奪し、その身に足枷がくくられていることさえ忘れさせる。いつの間にか鎖や錘の重さの感覚さえ感じなくなってしまう。

 鈍麻していく頭は、真綿で少しずつゆっくりと、しかし確実に締め続けられているから。

「それが何だよ」


 ──そんなの、当たり前じゃないか。


 子供はみんな、縛られている。

 それが生まれた時から続いているからこそ当たり前。

 身近に親のいないこの少年も確実に子供という大枠にはめられ、埋没している。

「ああ、そうだここはきっと、」


 ──暗く冷たい墓土の中。

 ──生きながらにして、たぶんぼくは死んでいる。


 乾いてくぐもった笑いが、口から零れた。

「誰かぼくを……ここから出してよ」

 何とは無しに出てきた言葉は天井まで届いたが、けれどすぐにぶつかりハッカの頭に落ちてくる。すると同時にピー、ピーという電子音が耳朶を打った。

 億劫そうに首だけ上げると、そこには充電を終えた携帯電話があった。帰りがけに拾った落し物だ。

「……ふん」

ハッカは携帯電話を手に取り、おもむろに顔の前まで持ってくる。天井をバックに胡乱な眼差しが向けられる。

カチリと、二つ折り携帯を開く。

そこにはすでにあの赤い鳥居が投影されている。

中央キーが光る。

ハッカはそこへ親指を当てた。


† † †


 ハッカは無人駅にいた。

 足元のコンクリートの間からは無数の雑草が顔をのぞかせている。

 まるで手入れがほどこされた痕跡のない、うらぶれたプラットフォーム。ハッカはそこに設置された埃ですすけたベンチに腰かけていた。

 無人駅のすぐ前には夕陽で真っ赤に染まった海が渺々(びようびよう)と広がっている。ハッカはそれをただぼんやりと無感動な面差しで眺め続けていた。

 寄っては引いて、引いては寄って。水平線の果ての果てまで黄昏の絨毯(ベルベツト)が横たわったこの世界では、囁くような潮騒でさえ、ひどく近くに聞こえてならない。

 まるで何年も前からそこに座っているかのように、少年は風景に同化していた。ハッカ自身さえも、自分が生まれた時からここに座っているとさえ錯覚するほど自然体だった。

けれどもその背筋がのびた姿勢は、今しがた駅に着き、数分後には到着する列車にいつでも乗車できる様子でもあった。

 当のハッカでさえも、自分がいったいいつからここでこうして座っているのか、まるで判然としない。ここに来るまでの記憶がないのだ。いや、記憶を検索するという経験そのものが、今のハッカには欠落している。

 感覚・認識・意識・人格が──自分の内面を形作るありとあらゆるものが、時間と空間にとろけてしまっているような、不可思議なクオリア。それが今ハッカの中にある形なき実体だった。

 ハッカの頭上では屋根の裏側についた電灯がチカチカと朧気な明かりで光っていた。

(ひる)(あん)(どん)、すでに明るい中で光る胡乱な微明。その曖昧さは今のハッカより、むしろこの世界を象徴していた。

鳥と卵、どちらが先に生まれたかと思考するのさえ億劫になるほどの虚実皮肉さ。そこには始まりも終わりもない。

そんな中でただ、少年は風化を待つのだろうか。

「……っ」

 と、その時だった。海岸線と山にそって傾らかなカーブを描く線路の奥。その先にハッカは近づいてくる物体を認めた。

 秒間送りのフィルムを回すように、物体はあっという間に押し詰めて来て、それがすぐに二輌立てのローカル電車なのだと気づく。

 電車はハッカのいる駅に近づくにつれゆっくりとスピードを緩め、最後に軋む車体を揺らしながら錆びたレールで騒音を撒き散らしてぞんざいに停車する。

 その車輌は落ち着きを感じさせるアイボリー色に統一されていた。けれど全体的にこの駅同様に雨風に汚れていて、所々剥げた塗装からは赤錆も浮いている。

 悪く言えば古臭く、良く言えば古色蒼然とした趣きある佇まいだった。

かしゃああぁぁぁ。

 電車のドアが口を開ける。

 無人駅であるこの駅には、当然行き先を告げるアナウンスはなく、プラットフォームにも時刻表、その他に類似する物は設備されていない。行き先を示す物。それは電車のアナログパネルに記された〝へびつかい座ホットライン 虹蛇ノ杜行き〟という見慣れない鉄道線名と駅名だけだった。

 ただ呆然と無人駅に腰を据えていたハッカは、この列車に乗ればいいのかがわからず、そのまま座った姿勢を崩さずにいた。

「……あれ」

 不意に、ハッカは握った右手に違和感を覚える。

 そっと開いてみると、そこには切符が一枚、所在無さげに汗で湿っていた。

 切符には確かに今日の日付で〝へびつかい座ホットライン 虹蛇ノ杜行き〟と印字で打たれている。

 ハッカはすっくと立ち上がり、埃がついた尻を叩いてから目の前の電車──《へびつかい座ホットライン》に歩み寄った。電車とフォームには大きな隙間が空いていて、ハッカはそれを軽く足元のコンクリートを蹴るようにして跳び乗った。

 電車の中はまた外以上に旧い匂いで満ちていた。床は木製の板が張られていて歩く度にキシキシとうめきを上げ、座席マットのベルベット生地は表面の毛がはげ日光のせいでむらのある変色をしている。

 しかし一番目を引くのは、ハッカ以外の乗客すべてが狐の和面を被った子供だということ。みな一様に携帯電話を手にし、一心にキーを叩いていた。中でも異様だったのは、


「あまねくセカイの片すみで──渇えた喉を掻きむしる」

「遍く世界の片隅で、渇えた喉を掻き毟る」

「あまねくせかいのかたすみで、かつえたのどをかきむしる」


 異口同音。一様に口を酸っぱくして同じ文句を繰り返し言っている。

 それでもハッカはさして動じることもなく、視線を右へ左へ振りながら空いている席を探した。そうして誰も座っていない二人座席の窓際に腰をかけるのと同時に、電車はゆっくりと駅から発進した。

 揺ればかり激しいくせに車窓から流れる風景は存外遅く、またいつまで走っても代わり映えしない。くたびれて趣きのある車体、それに時代感を漂わせる装いに反することなく、この《へびつかい座ホットライン》はかなりの鈍行列車らしい。

 通路を挟んで右の車窓から見えるのは、延々と続く砂浜と海岸線。その奥には夕陽を呑み込もうとしている茫洋たる海原。かたやハッカのすぐ横に張られた窓ガラスには、峰々がなだらかな稜線を描く深緑豊かな風光があった。

 それらの光景を瞳におさめながらも、やはりハッカの面差しには血の気が薄い。生きているのを疑うほどに。

 それからしばらく電車は海岸線を走っていたが、いつまで経っても日は沈まず、景色は一向に変わる様子はなかった。ただ海と山と夕陽があるだけ。それだけの世界。まるで世界そのものが移ろうことをやめてしまったよう。

 呼吸をするのさえ気怠くなってくるような、むしろ意味などないような。規則的でありながらどこかつかみどころのなく響くレールの音と振動。カーブで鳴る車体を軋ませるブレーキ。f分の一のリズムが奏でる悠久の調べに飽きて、ハッカは窓を開けた。

 夕方の冷えかかった、それでもどこかぬるま()い風がそっと頬を撫でた。

 潮の香りが車内にさっぱりとした彩りを添える。

 それでもやはり、異形の狐面と携帯電話を手に一心に呪文を唱える子供たちの不気味さを払拭するには、まだずいぶんと清涼さに欠ける。

 ひとしきり風に当たり体が冷え出した頃、ハッカは窓を閉めようと立ち上がった。するとその瞬間、電車がブレーキをかけた。ゆっくりと緩やかに。どうやら次の駅に停車するらしい。ハッカは窓を締めず、そのまま席に座した。

 完全に停車したところで、窓から吹き込む風がやむ。

 横には無人駅、と言うよりむしろ廃駅とさえ形容できるほどに打ち捨てられたプラットフォームがあった。敷き詰められた石畳は砕けて雑草にまみれ、駅舎の屋根には苔まで生い茂っている。

 かつ……ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、

 こんな辺鄙な場所から乗車する客がいたのか、足音を連れた孤影が電車の中を進んだ。

 ぎし、ぎし、ぎし、ぎし……ぼす。

 孤影はハッカに向かい合った座席に腰を降ろした。

 床が揺れ、電車が動き出す。

「♪~♪、♪~、♪~」

 柔らかなハミングがハッカの耳を撫でる。流れるメロディはアレクサンドル・ボロディンの〝だったん人の踊り〟。

 ハッカはおもむろに顔を上げると、そこには自身より幾分目上の少女が座っていた。

 少女は黒いセーラー服の上からオレンジがかった朱色のチェスターコートを着て、頭にはコートと同色の大きめのキャスケット帽が目深に表情を隠している。耳にはイヤホンが挿さっていた。

 少女は長い黒髪をたゆたわせている。後ろ髪は腰までのびて、両耳前の揉み上げも胸の位置まで垂れている。その長い髪は車窓から流れ込む風にもてあそばれてまわりに(ふく)(いく)を漂わせていた。

 すると一際大きく、横髪が少女の鼻へと舞い踊る。

「は──クシュッ」

 少女の口から小さくか細いくしゃみが漏れる。同時に透き通るようなハミング途絶え、少女は顔を上げた。

「♪~ララ~♪──?」

「らら……?」

 互いにつられるようにして同じ方向へ首を傾げる。

 少女は上着のポケットに入っていたカセットプレーヤーを停止させ、やおら耳のイヤホンを取り、目深に被っていたキャスケット帽の鍔を上へ傾けた。その下の黒目がちな大きな瞳がハッカに微笑みを向けている。

「たそ──がれ──?」

「たそがれ?」

「そう、黄昏。正確には──(たれ)(かれ)。この薄暗くて昼でもなく夜でもない曖昧な時間帯は、人間にとって一番目が見えづらくなる時なの。

 それで昔の人は夕暮れを歩く時、すれ違う人に〝そこにいるあなたは誰ですか?〟って、尋ねたのが語源だとも言われているの。その反対になのが──」

()は──(たれ)──」

 言下、ハッカは自分の口から出た言葉に驚いた。そして口に手を当てた。

「よく知っているのね。そう、彼は誰。意味はまったく同じでそこにいる〝誰か〟が誰なのかを尋ねる言葉。でも夕暮れ時には使っちゃいけないの。なぜならこれは朝に使うから。ほら、何だかよくわからないけれど朝早くに起きてしまうことってあるじゃない? 目蓋の重たいいつもの朝じゃない不思議な感じ、不思議な高揚感。とてもワクワクして、とても頭が冴えてベッドの中でおとなしくなんてしてらんない。これから始まる一日が楽しみで仕方がない。だからついいきおいあまっちゃってパジャマのまま飛び出してしまった時は……、その時は自分と同じようについパジャマのまま出てきた子に、〝おはよう〟じゃなくて〝彼は誰〟って言ってあげたいよね?」

「え、あ……うん」

 少女の夕日よりもまぶしい笑顔の問いかけに、ハッカは俯いてどもりがちに返答した。

「でも、ここでは〝彼は誰〟なんて言葉、必要ないんだ」

 そう言って、少女は少しだけ表情を曇らせた。

 ハッカは何も訊かず、微妙な表情の機微で無意識に尋ねていた。

「だってあの太陽はあのままなんだもの」と告げた少女の(かお)は、やはりどこか憂いでいる。「(あう)(まが)(とき)(おお)()(どき)(おお)(まが)(とき)。この赤く染まるわずかな時間は、静かで、奇妙で、独りぼっちで、怖くて、もしかしたら異世界につながっているかもしれない、なんて風に言われてきたけれど、それって裏を返すと、ずっとずっと、悠久なまでに黄昏なままこの世界は──朝なんて永遠に来ない異世界そのものなんだから」

 ハッカには少女の言うその意味が、理解できなかった。

「あなたも青い鳥を探してるの?」

「青い……鳥?」

 その少女は横顔を海からはね返る夕焼けに淡く照らされながら、何とも不思議で、でもどこか垢抜けた声でハッカに問いかけた。

「そう、しあわせの青い鳥。キミも叶えたい夢や願いごとがあるから、このセカイの果てに来たんでしょう?」

 セカイの果て。

 彼女はそう言った。たしかにここはまるでセカイの果てだ。もしくは果ての世界。どちらにしても、ここはおおよそ浮世からは遠く離れた場所だった。

「わらない……気づいたら、ここにいたから」

「そう。でも少なくとも、ほかの子たちはそのために来てるはずよ? ほら」

 彼女は他の座席に座る、狐面を被り一心に携帯電話のキーをたたく子供たちの方を見た。


「遍く世界の片すみで、渇えたのどを掻きむしる」


 少女は窓から日の沈みかけた海をながめた。深く、そして静かに。

「ここはね、永遠の場所なの」

「えい、えん? 終わりのない?」

「そう。あの時間がずっと続けばよかったのに、この瞬間が終わらなければいいのにって、誰もが一度は考えたことがあると思うの。ここはそんな〝想い〟が無意識に集まってできた場所なの。だからここは時間が流れない。実時間(クロノス)のない、虚時間(カイロス)だけの世界。あの黄昏の太陽は、あのままずっと落ちないまま」

 そう言って少女は目を細めた。窓の外に広がるオレンジ色の海と空をその瞳に宿しながら。

「それでも──」と言って、少女は呼吸を挟んだ。

「車窓からながめるこの景色は、いつまで観ていてもあきない。キミもそう思わない?」

「そう……、なのかな」ハッカもつられて視線を海へと移した。「そうかも、しれない」

 二人で目を細めて、終わることのない黄昏──沈むことのない落日を、ただ静かに見守った。

「私は()(トリ)(たれ)(かれ)──? あなた名前、聞かせてくれる?」

「ぼくの、名前──」

 ぼくの名前は、そう、たしか、

「ハ、ッカ……。麦村ハッカ」

 一拍遅れて、口が動く。なぜすぐに出てこなかったのだろう。

 ハッカは驚くようにして口に手を当てた。

「そう、ハッカというの。ならハッカ、もう一度聞かせて。あなたは何を求めてここへ来てしまったのかを。あなたにとっての青い鳥を」

「何を……求めて?」

 二人の間の空気が、静寂(しじま)という二枚貝の口が閉じる。

 がたんがたん、がたんがたん、がたんがたん、がたんがたん……。

 電車のシートに身をまかせ、代わり映えのしない景色をただ視界のすみに追いやり、レールの音がけたたましいけれど、なぜか母親のお胎の中にいるような、そんな五感をとろかす安心感が、ハッカの口を動かした。

「わからない。そもそもなんで今こうしてここにいるのかもわからない。ぼくには何も、わからないんだ……自分と他人のちがいさえも」

 そう口にしてしまった瞬間、虚脱していたハッカは、はっと目の前の少女──亜鳥を見た。

「どうしたの? 続けていいんだよ」

 そこには打ち笑む少女がいた。夕焼けよりも、なお明るくほころんだ面差しで。

 そうして、ハッカは亜鳥に促されるまま、とつとつと朧気な感情と記憶を言葉にしていく。

「わからないんだ……どこからが自分で、どこからが他人とよべるニンゲンなのかが。たとえるなら、平均台。どこが高いわけでも、どこが低いわけでもない。そのまったいらな平均台が……、たぶんぼくの心」

 そう言ってハッカは窓辺の下に手を落とした。つるつるとした金属の感触に、日に当たって温い温度になっている。

「どこまでいってもまったいらだったら、そこに何がのったとしても、みんなおんなじ高さにしかならない。だからぼくには、みんながおんなじにしか見えない。……ぼくをふくめて」

「それで、何かに困ったことはあるの?」

 ハッカは小さく首を横へ振った。

「こまったことなんて別にない。ゼンゼンない」けど、と首を項垂れる。「何もないのが、なぜだか無性にツラいんだ。ここの中が空っぽだからかな、ぼくには〝特別〟って呼べるものがない。〝普通〟しかないんだ」

 心が常にフラット。

 自己をふくめたすべてを等しく同価値と捉えるがゆえに、すべてが無価値という矛盾。

「おかしいのかな、やっぱり。変なのかな、ぼくは」

「ちがうよ」

とっさにハッカは「え?」と、顔を上げた。

「それはきっと、さびしいってことじゃないかな」

「ぼく、が?」

「そう」

「そんなこと……」

「なくなんてないよ」亜鳥はおもむろにハッカの頬に手をのばす。「独りぼっちでさびしくない子なんて、いないんだから。ね?」

 その時、ハッカの胸の裡で焦げるような衝動が湧き起こった。

〝この人にもっとぼくのことを言いたい〟

〝この人にもっとぼくのことを知ってほしい〟

〝この人にもっとさわってほしい〟

〝この人の胸の中で──〟

「かなしいの?」

「え?」

「だってほら、こんなに目に涙をためて」

 亜鳥はハッカの頬に触れた手で、目尻にたまった大きな雫を指に取った。

〝この人の胸の中で泣いてしまいたい〟

 けれどそれができなくて、ハッカはぐっと下唇を噛み、俯き、両手を膝の上で握り締めた。

 するとしばらくして、座席のクッションが揺れ、ふと顔を上げてみると、隣には亜鳥が座っていた。

「ごめんね、ちょっと気分が悪くなっちゃって。ほら、景色と逆向きだと酔うことあるよね? それにこの揺れ」

「……うん」

 ハッカが頷いた瞬間、窓の外にあった景色が消え、周囲が暗闇に包まれた。どうやらトンネルの中を走行しているらしい。天井に近い位置の壁に据えつけられた照明(ランタン)が、車内を薄ぼんやりとした明かりで照らす。

 それから十数秒か、はては数分か何かを待つ時の独特の時間感覚に揺られている間に、電車はトンネルを抜けた。

 次の瞬間、四角い窓ガラスが目の醒める〝蒼〟で埋め尽くされる。

 竹林だ。鬱蒼とした無数の青竹の群れが窓の外に広がっていた。

 理由は定かではないが、どうやら山を抜けるはずのトンネルの先は、どうしてか山の真っただ中だったらしい。電車は竹で挟まれた畦道ほどに奥まったレールを走りながら、緩やかな勾配を少しずつ登っている。

 窓から流れ込んできた空気は竹特有の青臭さより、むしろほどよい湿気をふくんだ心地よい風だった。また電車の騒音で隠れがちだが、風でしなって竹と竹がぶつかる不規則なシシオドシが遠くで鳴っていた。


「人生の砂漠を私は焼けながらさまよう、そして自分の重荷の下でうめく」


 窓の外を見ていたハッカがふっと隣に視線を移すと、亜鳥が一冊の文庫本を開いていた。


「だが、どこかに、ほとんど忘れられて花咲く涼しい日かげの庭のあるのを私は知っている。

 だが、どこか、夢のように遠いところに、憩いの場が待っているのを、私は知っている。

 魂が再び故郷を持ち、まどろみと夜と星が待っているところを」


 そう言い終えて、彼女はハッカに掌を差し出した。

「切符」

 意味がわからず、ハッカは一瞬固まった。

「切符を見せて。電車の切符」

 それでようやく意図が伝わり、ハッカはしずしずと亜鳥の掌に載せた。亜鳥は切符をしばらくじっと眺めていると、当たり前のように文庫本の間に栞として挟んでしまった。するとほぼ同時に、電車次の停車駅へと停まるために減速をはじめる。

「あなたは次で降りて」

「どうして?」

「終着駅──虹蛇ノ杜へ着いてしまえば……、もうそこから後戻りはできないから」

「でも、亜鳥はまだ乗ってるんでしょ」

「そう。だから私はここから出られない」

 え──と、ハッカが言いかけると、電車は竹林の合間にひっそりとそびえる東屋のような駅舎と、石垣のプラットフォームの駅で停車した。

 亜鳥はハッカの手を取り、口の開いたドアへとつれ出した。

「これを」

 プラットフォームと電車の境界越しに、ハッカは小さな金属片を手渡される。

「ネジ巻き?」

 それはとても旧そうで、くすんだ真鍮でできていた。小さいはずなのに、不思議な重量感が掌にのしかかる。

「それはこの鳥籠(シンギングバード)の鍵」

「〝鍵〟?」

「鍵はもともと(ゼン)(マイ)機関から生まれたものだから、旧い鍵は螺子巻きと同じカタチをしているの。二つは兄弟。鍵は〝静〟を、螺子巻きは〝動〟のために作られたもの。どう使うかは持っている人次第」亜鳥は螺子巻きを持ったハッカの手を握らせた。「でも少なくとも、この停滞()まった世界から出るのに必要だから……、これはハッカが持っていて」

 何か言わなくては、ハッカは懸命に口を動かした。

「あ──う、ぁ」

 けれどもそれは言葉にはならず、ただ無意味な音となるばかり。

 口が渇く。喉が軋む。空気が重い。頭にあるはずの言葉が、鉛をまとって沈んでしまう。

 そんなしどろもどろなハッカを他所に、亜鳥はそっと頭を撫でた。

「わかるから。言葉が拙く、どんなに中途半端でも、その中にある気持ちが本物なのは……、わかるから。だから気にしないで」

 その言葉に、ハッカは言葉をなくした。だから何も言わなかった。だから何も言えなかった。

 ドアが閉まる。

 二人の目線が横軸にずれていく。

《へびつかい座ホットライン》のアイボリーの車体が竹の間でみるみる小さくなっていく。直それすらも見えなくなっても遠く竹林のどこかでガタンガタンとレールを走る音が遠雷のように響き続けた。

 ハッカは一人だった。

 山の中の廃駅でたった独りぼっち。

 今まであれほどまぶしかった夕陽も、もうここにはほとんど届かない。

 竹林で残響するシシオドシの音色に身をまかせながら、

 はたとその場で空を仰ぐ。

 無数の笹の隙間からほんのわずかのオレンジ色が、ハッカに笑いかける。

 それを見ているとなんだか目頭が熱くなって、目蓋がどうしようもなく重たくなって──、

 ホロ、と、涙が頬を伝った。

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