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第一章 『首吊り御伽草子』

 男の子が寝ていた。

 コンクリートで固められた学校の屋上で、大の字に手足を広げ全身で空を仰いでいる。

 小さく寝息を立てながら、その顔はまったくの無表情。

 夢の内容をいくらか表情に出してもおかしくはない年頃のはずだが、その寝顔は瞑想にふける隠者めいていた。

「──っ」

 頬を撫でる風が、眠っている男の子の意識に触れ、うめくような声が漏れる。それと同時に少年の鼻の中を潮風が吹き抜け、その後を追うように太陽の匂いが入ってくる。土砂降りだった昨晩から打って変わり、今日は一日天気がよかった。だから海から風にのった潮は学校の屋上まで昇り、蒸発した雨は太陽の香りを残して空へと還って往く。そんな心地のよいもので満たされたセカイの中心で、男の子はゆっくりと目蓋を開けた。

 その瞳に天上の空を映す。北と東と南の空は醒めるような青を残し、片隅の西はほんのり茜で染まっていた。

 時刻は午後四時三三分。

 (ホーム)(ルーム)を終えたのが三時過ぎで、屋上に登ったのが二〇分だったから、その夕寝にも似た昼寝はおよそ一時間程度のものだった。それでもこの季節は夕方からどっと冷え込み出す。あまり長居をしてはそれこそ風邪を引きかねない。しかし低血圧な少年はなかなか起き上がることができず、しばらく呆然と茜が拡がりをます空を眺めていた。

「……よっこいせっと」

 やっと起床する決意がついたのか、どこかシニカルな動作で立ち上がる。ぐらぐらと不安定な頭を軸に、地面を踏みしめるはずの足は誰がみても頼りない。どうやら身体の下にたまった血が、うまく全身に行き渡らないようだ。

 右手で顔を覆い、眼を瞑りながら立ち眩みの(へい)(がい)を最小限に留める。

 一分ほどで落ち着きを取り戻した少年は、首の骨を小気味よく鳴らすと、確認するように辺りを見わたした。自身の周囲には誰もおらず、屋上は太陽電池(ソーラーパネル)ばかりが幅を利かせている。

 格子のフェンス越しに映るのは大きさが順不同な高層ビル群。さらにその向こうには貨物船が行き交う東京湾。臨海には、数基の風力発電機が海からの風を受けてゆっくりと円周運動を繰り返していた。外から訪れた者ならば夕陽も相まって思わず息を呑む情景だろう。

しかしそれらはどれもこの人工島──〝ターミナス・ファウンデーション〟ではあり触れた日常風景の一部でしかなかった。この街で生まれ育った少年は、無味乾燥、とでも言いたげな面持ちでそれらを視界の端へ追いやって往く。

 どうやら視界を隠していた靄は晴れたらしい。

少年は隣に投げてあった鞄とスケルトン素材の雨ガッパを拾うと、校内へ続く扉を抜けた。

階段をいくつか下り、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下を通り過ぎて、生徒昇降口に面した長い廊下までたどり着く。

ここで少し違和感がある。それはここまでかなりの距離を歩いたにもかかわらず、ただの一人ともすれ違わないのだ。だから底の柔らかい上履きでも少年の足音は廊下全体で反響して、コツンコツンと甲高い音を踏み鳴らしている。

下校時間にはまだ少し余裕があるし、またいつもならクラブ活動やダベって時間をつぶす児童をちらほら散見できてもおかしくない校舎は、不気味なほどに静まり返っている。

 少年はその理由を知っていた。考えるまでもなく、これはあの事件の影響だった。

 それに振り回されるのが厭だったから、自身は屋上へ逃げたのだから──。

 がちゃ。

 唐突に、少年から五メートル先にある部屋のドアが口を開ける。

「……あなたは」

 部屋から現れた人物と視線をぶつける。

 ウェーブのかかった長く柔らかそうな髪に、落着きを感じさせるロングスカートのスーツ。その姿は深層の佳人を連想させる大人の女性だった。

 女性は一瞬だけ眼を見開いて驚くも、すぐに半眼に眇める。それから数メートル先で立ち尽くす少年にどこか試すような視線を送ってくる。

「あれぇ? おかしいですねえ、確か初等部の生徒はとっくに集団下校しているはずなのに。ねぇ──〝六年B(ブラボー)組・(むぎ)(むら)ハッカ〟くん?」

 彼女はわざとらしく声に抑揚をつけ、男の子の首からぶら下がったIDパスの文字をゆっくりと、かつ強調しながら読み上げた。それから証明写真に映った灰色の髪の少年と、目の前の少年とを値踏みするように見比べる。

「いや、それは、その……今日一日ウンコをガマンしていて……放課後だったら、みんなもいなくなるから……それで」

 麦村ハッカ、と呼ばれた少年は照れと気恥かしさを顔に浮かべながら、平然とその場まかせのデマを並べる。

「ふぅ~んそうですか、ではつまりあなたは(ホーム)(ルーム)が終わって今に至るまで、およそ一時間以上もトイレで過ごしていたわけですか。それはさぞ水っぽいモノだったのでしょうね?」

 ハッカの嘘を看破しているのか、女性はどこか三味線を弾く調子で(うそぶ)く。

「け・ど。教育者として、子供の言い分を無下にするほど、私だってやぶさかではありません」先程までの揚げ足を取るような言葉とは一転。「どれどれ、脱水症状を起こしてからでは遅いでしょう。私の執務室でお茶でも飲んでから帰りなさい」

などと親しげな態度に切り替えたと思うと、そのまま無抵抗のハッカの腕を取り、自身が出てきた部屋へと連れ込んでいった。


        † † †


「……嗚呼(ああ)

 窓から射す夕陽を眺めながら、わたるは(あん)(たん)たる思いを隠せずにいた。

 ズボンのポケットに入れた手には緊張の汗で湿った紙切れが一枚。気持ちを落ち着けるために、自分を取り巻く状況の整理にポケットの紙を取り出し広げる。


『放課後の理科室であなたを待っています。

 ──香山リカ』


 もう何度繰り返したか思い出せないほど読んだ短い文章。けれど、わたるのこの不安で色めき立つ心を納得させることはできなかった。

「リカ」

 それはすでに終わった関係の女だった。

「今になって、なんで……」

 こんな手紙を下駄箱に入れていったのだろうと、心の裡で噛み締める。

 そして自分から呼び出しておいて、なぜ理科室の鍵が開いてなかったのかとも思い出す。おかげで理科担当の教師の机からくすねるという危険を冒すはめにあってしまった。

 さらにそこから三〇分。わたるは独り呆然と特別教室で待ち続けている。

 正直、この手紙は女の子うちで行われた罰ゲームで、向かいの校舎には望遠鏡をもった女子が独り暮れなずむ自分を眺めながらほくそ笑んでいる、という疑念が頭から離れない。

 その手のイジメには何度か憶えがあった。が、それでも期待せずにはいられない自分がいるのにも気づいていた。

 それだけ香山リカという女には魔性というものが備わっていたのだ。

 すると突然、ガラっという引き戸をスライドさせる音。

 わたるは脊髄反射に近いそれで音の方へと視線を走らせた。

「……リカ」

 そこに立っていたのは五年生の名札をつけた一人の少女。

 栗色の髪は真っすぐに腰まで伸び、その唇と頬はほんのり桜色に染まっていた。

「わたるくん! 何も言わずにわたしを抱いて!」

 開口と同時に走り出した少女は、そのまま勢いを弱めることなくわたるの胸へ飛び込んだ。

「ぶぐっ!?」

 しかし実際には胸ではなく腹部、特に鳩尾(みぞおち)と呼ばれる急所へ彼女の頭部がクリーンヒット。口から()(もん)(こぼ)れる。

「……リ、リカ。……わ、わかっているとは思うが、キミとボクの関係はもうとうに終わっている。……たしか今は、イサムくんっていう同い年のボーイフレンドがいるはずじゃ──」

 男の意地でなんとか地に足をとどめ、弱々しいながらも精一杯の力で言葉を紡ぐ。

「彼とは別れたわ」

 目の前の少女は無情にも一言で切り捨ててしまった。

「え?」

 どういうことなんだ、と続けようにも、腹部からくる猛烈な嘔吐(えず)きで思うように口が動かない。

「その後に滝沢かけるくんって子ともつき合ったけど、彼、精通すらまだきてなかったわ。今は(たくみ)くん、(あつし)くん、(かける)くんって子たちがわたしの彼氏。でもどれもいまいち。やっぱりわたしには〝初めて〟のあなたが忘れられなかった」

 リカのその言葉で、目眩と吐き気が同時に襲ってきた。確かな質量をともなった言葉の暴力が、わたるの態勢感覚を狂わせた。

「え? イサムくんが三人目だから、ぼくを合わせると……」

 全部で七人。

 この少女は、まだ一一歳という身でありながら、すでに七人もの男子をその腹におさめたと言うのか。

「うっ……」

 口の中がすっぱい液体で満たされてゆく。

 もしリカをこうしてしまった原因が内ではなく外に存在するのだとしたら。それはおそらく初めて彼女と関係を持った自分にあるのは言うまでもない。

 すると自分でも知らぬ間に、腕がリカの背中へと回っていた。

「わたるくん」

 眼前の少女は顔を赤らめ瞳を潤ませる。

「Mっ気の強いわたるくんには、やっぱり最初に放置プレイをするのは効果テキメンだったみたいね」

 仮にこの状況が、彼女本来の気質に起因していたとしても、その(もえ)()を作ってしまったのは自分にあるはずだ。なら、迷う必要なんてどこにもなかった。

 わたるは、ずっとこの少女の傍にいることを決めた。


† † †


「相変わらずヒドいですね、理事長の脚本は」

 ハッカは人差し指と親指で摘んで持ったA4プリントを、ピラピラ空中で泳がせながら言った。

「え~、終わって早々それですか~? なんかもっと感想とかないの?」

「カカオ〇・五パーセント」

「何ですか、それ?」

「わたるは〝甘すぎ〟。まぁ、嫌いじゃないですけど」

「でもでも、それ夜鍋して作ったんですよ。好悪と愛憎の極地を垣間見た、とか、映像化してカンヌにだしたらオスカー間違いなし、とか」

「この話のどこが愛憎劇なんですか。それに、オスカー像はアカデミー賞。カンヌはフランスの国際映画祭です」

 と、ハッカは机越しにプリントを突き返す。

「ちぇ、今回は結構がんばったのになぁ」子供のような拗ね方を見せたかと思うと、すぐに曲がった口元とまなじりを整え、「まあ、でも、楽しかったからヨシとしましょうか。いつもつき合ってくれて悪いですね、麦村くん」と、柔和な笑みをハッカに向けた。

 それから女性はソファーから立ち上がり、部屋のすみに置かれていた電気ポットで紅茶を淹れ、戸棚から洋菓子が盛りつけられた器を取り出した。

「砂糖は三つでよかったですか?」

「四つです。あとレモンじゃなくてミルクがいいです」

 はいはい、と、部屋の主は小さな(ひん)(きやく)の細かな注文に応える。

「はい、どうぞ召し上がれ」

 ガラス板を張ったテーブルに自分とハッカのティーカップを一つずつと、白磁の菓子器を真ん中に置く。

 ハッカはそれを無言でもふもふ口に頬張り始める。

「どう? おいしい?」

「フツー」

 にべもなく吐き捨てる男の子に、女性は溜息まじりに「言うと思った」と漏らす。

「ホント可愛くないですね、君のそういうところ」言葉とは裏腹に、その声と目線には少年を慈しむようなものを含んでいた。「でもま、それが可愛くもあるのだから、困ったものです」

そうして自身も茶器に指を通し口元まで運ぶ。その所作には一分の隙もなかった。ソファーに座る姿勢から指先に至るまで、見事に淑やかさを身に纏っている。

 それもそうだ。彼女はこの小・中・高一貫校──(しら)(かば)学園を統べる理事長だ。上品でないはずがない。

 その歳は初老を間近に控えた三九だというのに、老いを感じさせないどころか逆に女に磨きをかけている。

 容姿端麗、頭脳明晰、公明正大。それら金言すべてを体現した女性だった。

 それでもどんな人間にも他人には言えない性癖……もとい特殊な趣味の一つや二つや三つはあるものだ。それが彼女にとっての、

「はぁ、やっぱりリカちゃん人形っていくつになってもいいですね」

 この茶髪でロン毛の女の子の人形なのだ。

 その横には髪型を七三分けにした旧めかしい男の子の人形と、理科室を模した模型(ジオラマ)とが並べられている。

 つい先程まで、ハッカはこれで彼女の人形遊びにつき合わされていた。

 それは子供なら誰もが一度は経験のある設定を(もち)いたオママゴト形式の(あそ)び。しかしその異常性を箇条書きに上げるとすれば、それは枚挙に(いとま)がない。

 まず本来の五、六歳の対象年齢を大きく逸脱した大人が遊んでいる点について。

本人が言う分では自分の内面はリカちゃんと同じ一一歳のままだから全然問題ないとのことだが、やはりそれも無茶以外の何物でもない。結局対象年齢を一回り上回っているし、三九にもなったいい大人が〝精神年齢は一一歳のまま〟などと(はばか)らなくては、寒気を通り越して痛々しさまで醸している。

 場面設定まであらかじめ一字一句テキストに書き起こしているが、その内容は明らかに本来の小学校のありようから外れている。女の子にとってのアイドルのはずのリカちゃんが、理事長の脚色では魔性の女を通り越して売女(ビッチ)にまで(おとし)められているのだ。

 ただそれも本人の談によれば、趣味ではなくオフィシャルの設定を汲み取ると仕方のないことらしい。

 何が仕方ないかと言えば、結局リカちゃんに小学生のうちから何人ものボーイフレンドを(はべ)らせていたのに変わりはないからだ。それはもう逆ハーレム、(おんな)(こう)(しよく)()と呼ばれても差支えない人数にまで膨れ上がっている。が、もっとも営業戦略上それも致し方ない。長い年月売上を維持しようと思えば、商品をつねに更新(アツプロード)し変化を与えるのは至極当然の選択だ。

 理事長はそれらを統合し、()(じゆん)がいかない設定を思いついたに過ぎない。

「だからって、自分の学校の生徒にさせることじゃないですよね」

 左手に空のティーカップを差し出して〝おかわり〟を所望する少年は、呆れるように肩をすくめた。

「まあまあ、そう言わないでください。この歳にもなると、なかなかつき合ってくれる友達も見つけにくくなるんです」

 受け取ったティーカップに注がれた紅茶の水面に、苦笑を浮かべた女性の顔が映る。

「そんなだから結婚できないんですよ。キャリアウーマンだって持てはやされて胡坐(あぐら)をかいていられるのも、時間の問題ですよ。そもそもアラフォーなんてジャンル、もうとっくにブーム落ちしてるし、あと残ってるのなんて痛い雑誌読んで自分たちのことを〝女子〟て呼んでおたがいをなぐさめ合う〝みそっかす〟中年女だけなんですから」

「うふふ、ですかね~」

 自分よりもはるかに目上で、かつ敬うべき立場にある女性に、ハッカはどこまでも悪態をついた。実際のその年代の女性に言ったならば、おそらくはヒルテリーさえ起こしかねない言動だろう。が、理事長はたおやかな笑みで返すばかり。

 理事長も少年の言葉には芯の部分で毒気や角がないのを理解(わか)っている。だから怒る気にはならなかった。

 この二人の奇妙な関係は、二ヶ月前のほんの些細な偶然からはじめった。

 その日は春の始業式で、ハッカは今日と同じように昼寝で放課後をつぶしていた。

 午前で終了した学校の日程から、気がつくと学校にいる生徒は自分一人。

 とぼとぼ校舎を徘徊していると、数センチだけ隙間をのぞかせたドアに行き着く。

 それはこの学校で唯一の木製の開き戸を備えた部屋だった。

 部屋から漏れるのは二種類の声音。

 その中で繰り広げられていたのは二体の人形の織りなす寝技劇。

 それを操る中年女性。

 見てはいけないものを見てしまった。開けてはいけない扉を開けてしまった。

 けれども風で軋んだ蝶番は、奇しくも二人を(かい)(こう)させる。

 それが出逢いのきっかけ。

 秘密を口外されるのを恐れた理事長は、それから一週間、ハッカを自身の執務室で軟禁した。

 と言ってもそれは言葉ほど物騒なものではなく、(はた)()から見れば放課後に理事長が生徒の一人とお茶を飲んでいるだけの風景。それから理事長が目の前の少年が人畜無害と判断できたのはそう遠くない未来だった。

 以来、こうしてデスクワークの休憩がてらにハッカを捉まえる日々が始まる。

 ハッカもそこにまったく嫌悪感を抱いておらず、ただ受動的に自身を取り巻く環境に順応している。

 ぱち。

 会話に飽きたハッカは、テーブルにあったリモコンで六〇インチの有機ELテレビの電源を点ける。

『夏の訪れを報せに来た台風四号は、現在は小康状態を保ちつつ本州を北上しています。各地でも目立った被害は報告されていません』

 それは五時から放送される夕方のニュース番組だった。

 どうやら足の速かった今回の台風は、近日中には日本海へ抜けるらしい。

『──と、ここで臨時ニュースが入りました。えー……現在T県暁刀(あきと)(うら)市で続いている児童変死体事件に新たに五人目の犠牲者が確認されました』

 児童変死体事件──その単語に反応したハッカは、すぐさま顔を前へ向けた。

 その先には痛ましさをにじませた理事長の姿が。

「こちらにはまだ情報は入っていません。けれどうちでも起きている〝神隠し〟と、きっと無関係ではないのでしょうね」

 神隠しとは、この町──暁刀浦市で連鎖的拡大を見せている連続児童失踪事件のことだ。

 この場合の児童とは学校教育法においての満六歳から一二歳の学童をさすものではなく、児童福祉法にのっとった満一八歳未満の少年少女をしめす。

 つまり連続児童失踪事件とは、文字通りの未成年の神隠し事件。年齢も学校も別々で、さらにはそれぞれ交友関係すらない子供たちが次々に行方をくらませ続けているのだ。

 本来なら事件なのか事故なのかすら判別しきれず、それぞれが別件として処理されるはずの事案だったが、この街で起こっているのは明らかに根が大綱で繋がっている。なぜなら一ヶ月のスパンで、確認されているだけでもすでに三件もの行方不明者。さらに警察に報告されていない非公式の失踪も合わせればそれは誰がみても異常な数字だった。

 ただでさえこの国の人間は子供の神隠しという事象には敏感だ。なかば時代倒錯しかけているかのように思えるが、今の世の中が科学と情報で明るく照らされているからこそ、数の限られた(ヤミ)は人々に必要以上の不安を与える。

 しかも話はそれだけに留まらない。

 その行方をくらました子供たちが、なんの前触れもなしに死体となって発見されている。

 それが今ニュースで流れている児童変死体事件。

 この〝変死体〟と言わしめているのが、脳髄がまるまる消えてなくなり頭髪が白く脱色されるという、怪奇と凄惨さを極めた死に方にあった。

 肉体に目立った外傷はないのに、その中枢神経のみがなくなった死体。しかもそれにはなんら外科手術のあとがないという。

 だからと言って、ミイラ作りのように耳や鼻の孔から(のう)漿(しよう)を掻き出した痕跡も見つからない。

 当然これにはテレビ、ネット、街角と、場所を問わず多くの憶測が飛び交った。

 しかし手がかりと呼べる物が何一つ見つからないのでは、おおよそそれらの議論に意味などない。一部のオカルトマニアの間では新興のカルト宗教の儀式、はては宇宙人の人体実験、異界に迷い込んで妖怪に脳みそを食われた、などの突飛な噂まで囁かれた。もうここまでいけばSFファンタジーだ。人々はすぐそこまで迫った恐怖を、話を誇張することで現実逃避したのだ。

 さりとて、子供を抱えた親や学校ではそうも言ってはいられない。

 連続児童失踪事件と児童変死体事件──この真相がみえない二つの事件は、確固たる因果関係で結ばれているのは自明の理だ。そうしていつしかこれらの事案は、総じて脳みそ隠し──〝ブレインジャック事件〟と呼称されるようになっていた。

 ハッカの通う白樺学園では、一週間前から集団での登下校が義務化されていた。

 教師や地域自治体の大人たちを通学路や校区内に配置して、常に監視の目を光らせているわけだ。

 学校そのものを一時閉鎖するという案さえ出たが「それでは逆に子供たちを把握できなくなるのではないか」、という意見に圧され今に至る。マニュアル化されてはいるが、わかっている情報が限りなく少ない現状では、これがもっとも妥当といえた。

 これらが放課後の校舎に生徒や教職員がいない理由だった。

 けれど全員が全員、新しく敷かれたルールを守っているわけではない。当の子供たちからすれば、そんなものは迷惑以外の何物でもないからだ。

 おそらくその最たる例がここで(おう)(へい)に構えている少年──麦村ハッカだろう。

 まず彼は一度として集団登下校に参加していない。そればかりか指定された通学路すら避けて通る。

 理事長もそれを許容しているのか、なかば放任というカタチで見逃している。

「でも、あなたのポイズン症にも困ったものですね」

「ポイズン?」

「そう、ポイズン症候群。言いたい事も言えないこんな世の中だから、ついポイズンしちゃうんでしょう?」

「それ……いつの時代のドラマですか」

 ハッカは呆れて溜息を吐く。

 実際、ハッカの協調性の欠如は子供特有のものとは違っていた。

 理事長の人形遊びにもなんだかんだでいつもつき合うし、基本的に頼みごとの類には非常に素直だ。

 だというのに、彼は他者と多くを共有するのを嫌がる傾向にある。たとえば授業であるグループ学習。運動会や学芸会でおこなう学級行事。ハッカはそれらにことごとく消極的だ。

 人見知りが激しい、わがままで手がつけられない、などの子供特有の気質を抱えているわけでもない。にもかかわらずハッカは孤立を望む。

 自分から集団に属さないが、理事長のようにハッカ個人に用があって近づくのであれば、彼は終始受動的だ。つまり自分からアクションは起こさない代わりに来る者は拒まない、というスタンスなのだろう。

 そのせいでハッカには同年代の友達が一人もいなかった。が、不思議とその周りには統一性のない人種が集まった。

 ネット社会に(たん)(でき)した現代っ子にはありがちと言えばありがちだったが、それでも煮え切らないものがある。


 不意に理事長はソファーを離れると、部屋の奥に鎮座している黒檀の高級デスクに移動した。

 スクーンセーバーが蠢くディスプレイをエンターキーで打ち消し、ブラインドタッチでキーボードを叩き始める。

「実は今日中に〝連続児童失踪事件および児童怪死体事件に対する現場状況と対策について〟という報告書……言ってみれば宿題をファウンデーションの役員会に提出しなくてはいけないんですよ」

 やれやれと倦怠感を漂わせる素振りで、ハッカが来る前から行っていた書類作成を再開する。

「…………」

「あらいやですね、子供に愚痴なんて零すなんて。なんだか歳を感じてしまいます。さあ、お仕事お仕事」

 ハッカを誘ったのは、どうやら気分転換のためだったらしい。

 だがそれは同時に「さすがにいつまでも特別扱いでは問題ですからね、あなたも親御さんが心配しないうちに帰りなさい」という最後通告でもあった。

 自分から呼び止めている手前、物腰はかなり柔らかい。

「あっ、そういえば」咄嗟に、理事長はハッカを呼び止める。「あなたが来るちょっと前、向かいの校舎で高等部の女の子を見かけたんですけど、あの子確かあなたのお連れさんですよね。名前はえっと……、()()(とせ)さん?」

 その名前を耳にした刹那、ハッカは眉根を不自然に寄せた。

 判りやすい動揺だった。

 ハッカは理事長への挨拶もそこそこに、そそくさとドアノブに手をかける。

「家がお隣なんですってね。捜して一緒に帰った方がいいんじゃないですか? もう五時も回ってますし、ブレインジャックの他にも〝ケータイクラッシャー〟っていう通り魔まがいの人物も確認されていますし──」

 話の最後を待たずして、ハッカは理事長の執務室をあとにした。

 それからは足早に廊下を突き進む。

 一〇数秒で生徒昇降口へたどりつく。

 が、自分の下駄箱を前にして、ハッカは足を止めた。


「────────」


 そこには体育座りで膝に顔を(うず)める一人の女子高生。まるで眠っているかのようにその場からピクリとも動かない。

 ハッカの下駄箱は彼女の座る位置のちょうど真上。だというのに、ハッカは息を殺しながら生徒昇降口から数歩後退る。

 するとジャリっという音。

 どうやら砂を踏んでしまったらしい。

 外履きから上履きにはきかえる場所なのだから、ある程度砂が落ちていても不思議はない。

 けれどハッカの顔は「なんてことをしてくれた」と言わんばかりに足許の砂を呪っていた。

 女子高生の頭がわずかに動く。

「ハッくん?」

 小さくか細い声。

 少女はゆっくりと顔を音の方へ向ける。

 と、そこで呆然と立ち尽くす男の子と視線が交わる。

「あっ! やっぱりハッくんだ!」

 視認するやいなや嬉々とした声を上げる少女は、すっくと立ち上がりハッカの許へ小走りに駆け寄ってくる。

「…………」

 するとハッカは目線を下に逸らし、肩からさげた鞄をわざとらしくかけ直した。そのまま視界に少女が映らないように横を素通りする。

「ま、待ってよハッくん!」

 少女はハッカにつられて踵を返し追いかける。

 そうするとなお黙殺の態度は強まり増す。下駄箱からスニーカーを乱暴にタイルに叩きつけ、上履きも投げ入れてしまう。

「ねえ、ハッくん」

 スニーカーに足を通す。

「ねえ、ハッくん」

 生徒昇降口を抜けて数段の階段をくだる。

「ねえ、ハッくん」

 体の向きをまっすぐ校門に傾け、機械のように精緻な動作で歩き続ける。

「ねえ、ハッくん」

 頭のすぐ上では少女──というにはやや背の高い女子高生の声。

 背中には張りついて離れない豊満な胸。

 それらを振り払いように歩調を上げる少年の脚。

 二人の様子はまさに懐いて離れようとしない野良の子犬と、それに偶然出くわしてつき纏われる不運な少年の図、そのものだった。

 子犬は少しでも男の子の気を引こうとして「くんくん、くんくん」寂しさを訴えかける鳴き声で自身の存在をアピールしてくる。

 一方親の許し以前に自分自身が大の犬嫌いな少年にとっては、子犬の鳴き声など不快な騒音でしかない。

「────ねえ────ハッくん────!!」

 少女は堪えかねて声を張り上げるが、やはりそんなものは人間のハッカからすればキャンキャン吠えたてる子犬の喚き声でしかない。

 が、しかし。

「────っ!」

 唐突にハッカの上体が硬直してつんのめる。脚は動くというのに、肝心の体が前へ進んでくれない。

「……っ、んぐ……ひきっ」

 原因ははっきりしていた。背後の女子高生(ドギー)が、ハッカのTシャツの端をつかんだまま離さないのだ。しかもいい年齢(とし)して泣きべそまでかいている。

(きゅう)(けん)少年を掴む〟なのか、服を握る力は思いのほか強い。足許では砂埃が舞うばかり。

 ハッカの握り拳がプルプルと小刻みに震える。

 するといきなり身体を反転させて、振り向き様に取り縋る手を振り上げた拳で払い落した。

「ヒャっ!?」

 女子高生は咄嗟に叩かれた手を引っ込ませ、その瞳に泣きべそとは別の、痛みの涙を浮かべる。

「い……痛いよ……ハッくん」

「そりゃあそうだろうな、こっちは痛いようにしたんだから」

 ここに来てハッカは初めて少女の訴えに返答をみせた。が、睨み上げた視線はナイフみたいに鋭く尖り、少女がしゃべろうとする声を次から次に刺し殺している。

 明らかな拒絶の姿勢。

 それでも少女は一歩も退くことなく、哀願の目配せで何かを告げる。

 二人の間で沈黙が降る。

 この二者には絶対的とも言える温度差があった。潮流の方向や速さの違いで渦潮が起きるように、また高気圧の中で発生した低気圧が嵐を呼ぶように、少年と少女の間でも修羅場という名の特異点が渦を巻いていた。

 それは天と地──東と西をそれぞれ支配し反目を続ける龍虎の如し争覇だった。

「────────」

「……ンっ、うんッ……」

 しかしもっと適切な表現をしたのなら、それは気性の荒い小猫と、弱虫で身体ばかり大きい子犬の根競べだった。

「………………なんだよ」

 結局先に折れたのは我慢弱い小猫の方。

 ガキと女の涙は始末に負えない、とでも言いたげなその醒めた眼差しは死んだ魚の眼を(ほう)彿(ふつ)とさせた。

「お、怒ってない……?」

 怖ず怖ずと尋ねる少女。

「怒ってる。〝鬼〟怒ってる。けどこれ以上めそめそ泣くんだったらもっと怒る」

「んっ──」

 ハッカの言葉に奮い立たされたのか、少女は制服の袖で顔を擦り、必死に()(えつ)をのどで押しとどめた。

「あっ、あのね、その。……実は携帯電話なくしちゃったの。でね、いつもみたいにハッくんが一緒に探してくれればすぐにみつかるかなって……それでね……」

 ハッカの頭の中で、「ウザい」そして「またよか」の二つの単語が自動的に列挙される。

 このポンコツ少女──()()(とせ) (はかな)はいつもこうだった。何かと似たような理由を見つけては、自身より一回りも年下の少年ハッカにつき纏ってくる。

 しかしこうしてつかまってしまい、あまつさえ泣きが入ってしまっては、もうどんなことをしても逃げ切ることはできない。

「はぁ、分かったよ。つき合えばいいんだろ、オマエに」

「えっ! ホント、ハッくん!?」

 野暮ったくのびた前髪の隙間から嬉しそうに瞳を輝かせる。

「どうせ教室なんだろ。だったら早く案内しろよ」

「う、うん、ありがとう! あっ、そうだ!」

 不意に脳裡に何かが去来したのか、儚は肩にさげていたナイロンの学生鞄をまさぐり出す。と、そこから出て来たのは調理に使う鍋つかみのような厚手の手袋だった。

「せっかくだから真神サマにもお礼言ってもらうから、ちょっと待ってね」

「あっ、バカやめろ!」

 ハッカの制止を聞くこともなく、儚は灰色の鍋つかみをおもむろに自身の右手に覆い被せる。すると、


『ふん、こんな小僧がいなくとも、儂の鼻をもってすれば(から)()りの一つや二つ造作なく見つけてくれるわ!』


 開口一番、居丈高にハッカに憎まれ口を叩いたのは、なんと儚が右手にはめた鍋つかみだった。

いや、鍋つかみと言うには少し語弊がある。鍋つかみとして使えないこともないが、それ本来の用途は手の動きで声をアテレコする操り人形、所謂マペットの類だからだ。ちなみにデザインは子供番組のマスコット調にデフォルメされた犬の形をしている。

 しかしそうなるとこの意気軒昂とした物言いは、そのものずばり儚が発していることになる。

 けれどもその口調は、何をしゃべるにもどもりがちな気弱な少女のイメージとはギャップがありすぎる。それ以前に声音自体が低くハスキーの利いた男の声。可憐で、その名の通り儚い少女の声音とはあまりにもかけ離れていた。

「へぇ、さすがは駄犬サマ。そのボタンで出来た鼻は同じプラスチックのケータイを嗅ぎ分けられるって理屈ですか。スゴイスゴイ、お利口さんですね駄犬サマは」

『ヌっ、再三言ってるように、儂は〝犬〟じゃない! 〝狼〟だ!

しかもただの狼じゃない、飛鳥(あすか)の荒ぶる神──〝(オオ)(アギトノ)()(ガミ)〟とはこの俺さまの事だ!』

「へぇ、その姿(ナリ)で神サマですか。ぼくみたいな小学生(ガキ)には、貧乏人形劇団の小道具にしか見えませんよ。やっぱり見る人が見れば違うもんなのかな」

『貴様っ! この(あら)()(たま)──〝真神〟をつかまえて、よもや貧乏人形劇団だとっ!? 噛み殺されたいか!!』

「博多の塩二五グラム」

『なにっ!?』

「〝しょっぱ過ぎ〟ってコトだよ。テンションにまかせて粋がるだけなら、別に神サマでなくたってできるって言いたいんだよ。それに噛み殺すって歯もあごもないくせにどうやってするつもり?」

『口巧者の小僧が。ならば儂が宿る儚の右手で、貴様を(やく)(さつ)してやろうかッ!?』

 小学生とマペットの当て所ない罵り合い。

 この一人と一匹(?)は、顔を合わせるたびいつもこうだ。

冷静なままトゲのある言葉で挑発するハッカ。

昔気質の硬派をきどる自称狼神の真神は、愚直なまでにハッカの皮肉に吠え立てる。

その関係は儚とはまた違ったケースの水と油。

それにどういう理屈かは本人たちでさえ定かではないが、この少女と狼との繋がりは、単なる腹話術とは一線を画している。

一つの身体に二つの心。口頭で会話すらやってのけるこれらは、価値観、性格、気質、性質をすべて分け隔てたまったくの別人格。

周りの人間には多重人格とも、どっかから怪しい電波を受信した不思議ちゃんとも言われているが、結局のところ真相は謎。

判っていることと言えば、ハッカはこの少女と狼が大の苦手ということくらいだ。

「もぉ~、真神サマ~、せっかくハッくんが手伝ってくれるって言ってるのに、なんでそんな意地悪しいのかな? ハッくんは心からの善意産地直送一〇〇パーセントでつき合ってくれるんだよ?」

「え?」

『は?』

 儚から飛びだした最後の一言に、ハッカと真神は思わず声を揃えた。

『いやいやいやいや。こいつの態度はあからさまに不承不承だぞ!? いい加減眼を醒ませ、ご都合解釈はいつか身を滅ぼすぞ!』

「え~、違うよ。ダメダメしい儚のことが気になって仕方ないんだよ~」

 そう主張する儚に、ハッカと真神は頭を痛める。

 この少女は何かにつけて思い込みが激しすぎる。少しでも嬉しいことがあればそれをどこまでも曲解・拡大解釈をして、自身の中で綺麗な思い出として仕舞い込む。

 それはどんな状況でもポジティブ面ばかりに自己満足して、現状を正しく判断しようとしない現実逃避──ポリアンナ症候群に酷似していた。

 そればかりか、さっきまでの泣きべそをかき、目に見えて情緒不安定だったにもかかわらず、今ではテンションが異様に高い。この気分ムラの激しさは明らかに躁鬱病に類している。

「ささ、ケンカしてないで早く儚の教室に行こうよ。じゃないと日が暮れちゃうよ」

 有無を言わさず儚はハッカの手を取ると、大股開きで歩き出した。


 白樺学園の高等部校舎は、校庭とフェンスを挟んだ二〇〇メートル先にあった。同時期に造られ、エスカレーター式の私立学校では、校舎自体の大きさやデザインはそう変わりない。強いて違いを挙げるなら、それは学校そのものではなく生徒の着る服装にある。本来この手の私立学校なら、小・中・高と制服は統一されてしかるべきだが、白樺学園では初等部は私服。中等部の男子は学ランに、女子はセーラー服。高等部は男女ブレザーだった。

 かなり異色といえば異色だったが、理由ははっきりしている。理事長の趣味だ。

 そもそも学校の名前が〝リカちゃん〟が通う学校の名前と同じなのも、執務室をわざわざ初等部の校舎、しかも子供たちをもっとも多く間近で観察できる生徒昇降口に構えているのも、すべては理事長の独断。そして小学生なら私服を着るべきという偏見もここから来ている。

 しかしそれぞれの教育課程で違った服装が楽しめ、またそのデザインにも定評があるこの学園では、毎年の入学・編入希望者はあとを絶たない。

 それに経営母体でもある巨大複合企業(コングリマリツト)──〝ターミナス〟の資金は潤沢で、その教育方針も純粋な次世代育成にあるため他の私立校に比べれば決して学費も高くはない。そればかりか、元々は自社社員の子供を教育するカンパニースクールとして端を発しているため、親がターミナスの関連企業に勤めている子供はその学費がことごとく無料(タダ)ときている。

 かくいうこの二人の少年少女も、親がターミナスの関係者だ。つまりは入学試験も学費も免除の、会社の次代を担う幼いエリートという事になる。


 そうして学園の敷地内を横切っていき、高等部の生徒昇降口から校舎の中を進む。ちなみに上履きのないハッカは職員玄関からスリッパを無断で借りて来ている。

 高等部校舎もまた、初等部の校舎同様に閑散と静まり返っていた。

 さすがに高校生にもなって集団下校を強要させられているわけでもないが、部活動は全面的に活動禁止となっている。

 それでも教師や校務員などの大人は何人も残っているため、ハッカたちは物音を立てずに静かに移動する。

「ふんふんふ、ふんふんふ~♪」

 鼻歌交じりで足と肩を躍らせる儚。

「ここ、ここ。ここが儚の教室」

 自身の教室の引き戸を指さす儚は、なぜか得意げだった。

「知ってます。ほとんど週一のペースで来てるからよ~く存じてます」

 それをうんざりと吐き捨てるハッカ。

 上のプレートには〝二年C(チャーリー)組〟と記されている。

 ガラガラっと白い戸をスライドさせて中へ入ると、教室は窓から差し込む西日で真っ赤に染まっていた。

「で、どこでなくしたんだよ」

「え~と、ね~。たしか六限の体育の時に机にしまってたから、もしかしたらちゃんと隅々しくすれば見つかるかもしれない」

〝隅々しくすれば〟とは、おそらく〝隅々まで探せば〟という意味だろう。

 ハッカ同様に友達のいない儚は、会話する相手がいないため、一六になった今でも日本語が危ういところが、ままある。

 儚が自分の殻に閉じこもり、空想や自問自答で育ったのであれば日本語を独自昇華していてもおかしくはない。が、しゃべる口を同じくしている真神は(いにしえ)(がみ)というだけあって日本語が達者だ。文化人類学者や言語学者が彼女と出逢っていたら、きっと研究サンプルにしたに違いない。

 儚はそのまま踊るような足取りで教室の中を進んで行く。

 と、その先に行きついたのは、上に無数の落書きと、中にゴミをみっしりと詰め込まれた机だった。

 彼女は顔を覗きこませると、ガサガサと中を漁りはじめる。

 ハッカはその惨めな後ろ姿を、醒めた視線でドアの入口から観察した。

「……机にケータイとか入れたまま離れないだろ、フツー。そもそもヒト呼びつけておいて今更そんなとこ探すなよ」

 蔑みながら独りごちる。

『あん? なんか言ったか、小僧』

 ハッカの小声に反応して、右手から鎌首をもたげた真神が凄む声で返す。

「別に」

 互いにフン、と鼻を鳴らして顔を背ける。

 ハッカは緩慢な足取りで教室の後ろを歩いた。

 そこには儚が向かっている机同様、落書きがされたロッカーが一つあった。鍵は壊され、ここにもゴミが入っている。

儚のロッカーだ。

「……高校生にもなってイジメかよ」

 横目で見ながら鼻で溜息を吐く。それには、高校生にもなってイジメをする方もする方だが、される儚も充分侮蔑に値する、という意味を含んでいた。

 その場で足を止め周囲を見回し始める。

 部屋の前後にはそれぞれ燃えるゴミと燃えないゴミ箱が一つずつ配置されている。

 前の方のゴミ箱は整然と角に合わせて備えられているのに対して、後ろのゴミ箱は投げるように置かれている。

 ハッカは後ろのゴミ箱の前へ立った。それから値踏みするように燃えるゴミ箱、燃えないゴミ箱を見比べる。

 三〇秒ほど睨み続けると、燃えるゴミ箱へ軽い蹴りを入れる。

 当然中身があたり一面に散らかったが、その中に一つだけ下に落ちるときにカツカツと硬質的な音で転がる物体をハッカは見逃さなかった。

「やっぱり、か」

 屑ゴミの中からオレンジ色の携帯電話を拾い上げる。

 初めからある程度予想はついていた。儚は鈍臭いが、それでも自分で物を失くしたり忘れたりすることはほとんどない。あるとすれば、それの原因は外にある。つまりは他者による故意行動、厭がらせだ。

 イジメというのも、あれで色々と種類(カテゴリー)がある。儚の場合(ケース)は、一言で言うならその独特な会話形式に問題がある。

 儚はハッカ以外、それこそ親とでさえコミュニケーションツールである〝(オオ)(アギトノ)()(ガミ)〟なくしては会話が成立しない。

 しかもその守護神サマときたら何かにつけて「儚を傷つけた」として誰彼かまわず喧嘩をふっかける。

 対人障害の少女と、馬鹿みたいに吠えることしか能のない自称狼神の犬では、社会とかかわりを持つなど土台無茶だ。

 そんな相手とは、虐める側とて関係をエスカレートさせるのは──その実あまり望まない。あくまで明確でわかりやすい〝壁〟があればそれでいいのだ。だからそれはクラスという集団を維持するために(せん)(てい)される、俗に言う〝生贄〟や、見えないところで陰惨と行われるストレスの捌け口ではない。突き放すのであれば、ある種ステレオタイプともとれるわかりやすさが逆にいいのだ。もちろんそれでは教師にも知られてしまう。が、正直なところ、儚のようなタイプは教師ですら手にあまる。

 教師にとっても、イジメを黙認するというのは立派な処世術であり、任されたクラスを学級崩壊させることなく最後まで面倒を見るには当然の選択とも言えた。

 それらイジメ事情をすべて理解していたハッカは、教室の前で整えられたゴミ箱は儚の机とロッカーに使われているのを見通していた。その発想から、後ろで乱雑に置かれたゴミ箱は、中に携帯電話を隠すためにわざと中身を残しているのも予想できる。

 あとの確率は二分の一。燃えるゴミ箱か燃えないゴミ箱か。

 今回はそれがたまたま的中したに過ぎない。

「おい儚、こっちに落ちてたぞ」

「え? どこどこ?」

 振り向き駆け寄る儚に、ハッカは空中で放物線を描く調子で携帯電話を儚へ投げた。

「ヒャっ!」

 咄嗟の出来事に儚はその場に身を屈める。

 このまま受け取れなくては、いくら対ショック機構が備わった携帯電話でも壊れかねない。いや、それ以前に携帯電話は儚の頭にぶつかる軌道にある。

 その瞬間。

 眼すら向けずに、儚はパシっと右手でキャッチしてみせた。

(あふあ)ないで(へ)あろう、この野郎(はろう)。当た(は)った(は)らど(ほ)う責任(へきにん)取るつも(ほ)りだ(は)』

 と、携帯電話を取ったのは右手ではなく、正確には右手に宿った真神だった。

 反射神経まで独立しているのか、投げられた携帯電話を口でキャッチするその姿はまさに野球の外野手しかりアメフトのレシーバーしかりの見事なファインプレーだった。

 そうしてもごもごハッカへの愚痴を零しながら、真神は銜えた携帯電話を儚のブレザーのポケットへ入れる。

 それを一通り見届けると、ハッカは体をドアへと向けた。

「ど、どこに行くの、ハッくん……?」

 ハッカの背中を見詰める少女は、弱々しい足取りで歩み寄る。

「あ? だってもう用は済んだんだろ? ならあとはどうしようとぼくの自由なはずでしょ」

「え、えっ、ええっ!? ……で、で、でもさっせっかくなんだしさ……その、一緒に帰ってくれないの? お家だって、お隣なんだし……そっ、それに」

 いつの間にか、儚の口調と態度は元のか弱い様子に戻っていた。下唇を噛みながら、俯き加減で少年の顔色をうかがう。

「ヤダね。こっちはキチョーな時間と労力をオマエなんかのために使ってやったんだ。あんまりチョーシのってると二度と口きかないよ」

「でも、でも、でも! もう夕方だし。それにブレインジャック事件とか、夜になればケータイクラッシャーっていう怖い怖い人たちがいるんだからさ、きっとハッくんにとっても悪い話じゃないはずだよ! それに何より……儚がさびしいよ」

 どうしてもハッカを取り留めておきたい儚。自然その語気は強まりをます。

「誰もオマエなんかの都合で生きちゃいないさ。それにたとえおそわれたって、そんなの死ぬのが少し早まるだけだろ。だったらなおのことカンショーされたくないね」

 詮無い言葉で返すハッカ。その目線を決して儚と交えない。

『ああ、ああ。お前みたいな生意気な小僧、今出た〝けいたいくらっしゃぁ〟や辻斬り、通り魔にでも襲われるのがお似合いだ』

「真神サマは黙ってて!」

『ヌっ……』

 儚の迫力に気圧される真神。どんな相手にでも噛みつく狂犬も、主人にだけは弱かった。

「……ハッくん。儚しってるんだよ? ハッくんが夜に人がいっぱいあつまる……中心街(セントラルエリア)に出てるって。し、しかもそこで……お、女の人と……その、え、援助交際をしてるって」

『はぁぁぁッッ!? 貴様ガキのくせにそんな艶聞、浮名を馳せていたのか!

くそっ、捨て置けねえなあ、そんなマセガキが傍にいたら儚に菌が移る。エロエロ菌が!』

「だから真神サマは少し黙ってて!」

『けどな儚──』

「いいから!」

『わ、わかった……』

 真神の頭が、くてっと意気消沈して項垂れる。

「ふーー……、ふーー……」

 目を血走らせ、鼻息荒く目の前の少年を見下ろす少女。

「それで、オマエはどうしたいんだよ」

 顔色、声色、ともに焦り一つなく平坦に言い捨てる少年。

「は、儚の言うことを聞いてくれないと、みんなにそのことをバラしちゃうんだから」

「いいよ、別に。ぼくにとって〝あんなの〟フツーだから」

 少女を嘲るその目は──「言えるものなら言ってみろよ、ネットの掲示板にだって書き込む勇気すらないくせに」と告げていた。

「バカにしないで! ホンキになればそれくらい──」

「〝できる〟とでも?」

「うっ……」

「まっ、したらしたでいつも言ってるように絶交だけどね」

 嘲笑うハッカに、儚は言葉を呑み込む。

 小学生と高校生の幼馴染の──歪な関係。いつから二人がこうなってしまったのかはもう本人たちでさえ憶えていない。それでも、この一連のやり取り自体、別にさして珍しい出来事でもなかった。

イジメで物を失くし、放課後男の子を待ち伏せていっしょに探させるのも、本当に幾度となく繰り返されてきた行為。それを自分勝手な関係妄想で引きとめるのも、すべては思考することすら必要としなくなった儚の条件づけ行動。

──〝パブロフの犬〟現象。

少女が少年との希薄な繋がりを確認する〝作業〟として機能している脳内返答例題(スキーマ)


 空っぽな心ですべてを許容してしまう少年。

 対人障害を患い幼馴染に共依存する少女。

 一見決して交わることのないように思える平行線は、その実互いに背中向け合った双子の神──〝(ヤヌス)〟なのかもしれない。


「じゃ、ぼくは今度こそ帰るから。オマエは駄犬サマとでもチチクリあってるのがお似合いだよって」

 そう言って()(たび)踵を返す。

「待って!」

 背中を向けたハッカの服の端を、儚はまたもつかんで止める。

「……はなせよ」

「やだッ!」

 ……。

 …………。

 ……………………。

 …………………………………………。

 二人の沈黙が、赤い教室の床に沈殿する。

「お……、お金がほしいの?」

 先に口にしたのは儚の方。

「それともただ……、エッチなコトがしたいだけ? たしかに儚はあんまりお金持ってないよ? で、でも、学校の保健体育の勉強で、やり方くらいしってるし、その、ハッくんが少しでも満足できるようにがんばるからさ…………だから、ね?」

 伏し目で訴えかける儚は、つかんだハッカのTシャツをギュっと自らの内股に引き込む。その顔は少年の名前のように今しも発火(ハッカ)を起こしそうなほど赤い。

 それは教室の窓から射し込む夕陽のせいか、それとももっと他の理由か。

 どちらにしても異常な顔容(かおばせ)には違いなかった。

『まっ、まままままままままままままままままま、待て儚!! 軽挙妄動とはこのことだぞ! お前の操は婚姻を結ぶまで儂が大切に護ってみせるとあれほど────ムグッ!?』

 動揺を隠せない真神は儚の隣で騒ぎ立てたが、すかさず主に口を塞がれ、そのままブレザーのポケットに詰め込まれてしまった。

 そのたわんだポケットは、まるで真神がもがいているよう。

 ハッカは鼻をひとつ鳴らすと、儚が掴んだTシャツの裾を引き抜く。

「あっ」

 追い縋る儚。が、ハッカはすぐに後ろへ向き直って少女の瞳を見上げる。

「ふぅ~ん。今日は本気なんだ。いいよ、その勇気は敬意に値するよ」

 本来の年齢や性別とはかけ離れた、どこか蠱惑的な笑みを浮かべる少年。

「ハッ……くん……?」

 それに魅了()てられたのか、少女の瞳孔は開き、口も渇いて心臓も激しく胸を打ちつける。

 そしてその態度をどう捉えたのか、儚はそっと眼を瞑り、あごを前に傾け唇を唾液で濡らした。

 夕陽で照らされた放課後の教室に、一組の男女。まるで理事長に強要された人形遊びの焼き直しだ。

「…………ふん」

 けれど何が気に食わないのか、ハッカは急に不機嫌そうに眉と目尻を歪ませる。するといきなり儚の太腿の横に蹴りを入れ、そのまま床へ跪かせた。

「な、ナニ? すごく痛いよ」

 びっくりして目を開けようとする儚に、

「あの位置でどうキスしろって言うんだよ」

 と言って儚の眼に手をかざした。

 それで納得がいったのか、再び儚は目蓋を落とし、両手を祈るように胸の前で組み合わせる。

「────────」

「……………………」

 時を凪ぐような静寂が、しばし二人の間で交錯する。

 少女の主観では、それこそ一瞬が無限にも似た永久(とことわ)に感じられたことだろう。しかし今か今かと待ち構えた彼女を迎えたのは、痛烈ともいえる洗礼だった。

 ぐっ、ぐぐぐぐ、びちっ。

「イタっ!?」

 前髪で隠れた富士額の山麓に衝撃が迸る。

「デ、デコピン?」

 恐る恐る涙目を開いた先に待っていたのは、自身の額からのびる少年の中指だった。

「くっ、くふふふふふ……」

 くぐもったせせら笑いが響く。

「なでに?」

 儚は鼻水を詰まらせ濁った声で訊ねたが、

「なんでって、そりゃ。口と口でキスなんてしたら──子供ができてオマエとケッコンしなくちゃいけなくなるじゃん?」

 年相応の無邪気な子供の声音で笑い返されてしまった。

「え?」

 きょとんと見返す儚。その胸には、さきほどの高鳴りとは別の何かが染み広がっていた。

 それで力が抜けたのか、立てた膝が崩れてお尻がペタンと床に落ちる。

 するとハッカは自身よりも目線が低くなった儚の頭に手を置くと、クシャっと髪をつかむように撫でた。

「じゃーな、耳年増さん」

 そう言って少年は教室を出ていった。

 部屋に残ったのは人形のように固まった女子高生の孤影が。

 耳と頬は朱に染まり、呼吸も時間も忘れて男の子が触れてくれた髪の毛に意識を集中させていた。

 そうしてその感覚を確かめるように、おもむろに両手を頭にのせる。

「────────────ミミドシマって、なに?」

 意味はまるでわからないのに、嬉しさばかりが込み上げた。


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