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フコウ(未完成)

作者: 石沢由人

 フコウ(未完成)


 平成7年、1995年の法律改正で、刑法第200条、尊属殺重罰規定が廃止されました。これは喜ぶべきことでしょう。殺人に関して、親と他人を同じ位置づけにしたことは大きな意味があります(もっとも、情状酌量等を考慮すれば完全に同じとは言えませんが)。

 そもそも、なぜ親を敬わなければいけないという世間一般常識がついてしまったのでしょうか。大きな理由としては、社会を安定させるためです。少し大雑把過ぎましたね。今から詳しく述べます。子が親を大切にする、この言葉には、親に反抗することは許されない、の意が含まれています。これは歴とした力関係を子に教え込ませ、権力者たちの良い傀儡となることを暗に奨励しているのです。昔で言えば封建、今で言えば資本主義です。

 仮に親に反抗したとしても、「反抗期」という言葉ひとつで片付けられてしまって、大した問題には発展しない場合がほとんどです。反抗した所で、親を倒した脇道の先にはさらなる強敵が待っています。すなわち社会の目です。道徳として、親を大事にすることが良いと、幼少より教え込まれ、その結果、それに反する言動をした場合、社会的制裁を受けるのです。現代で言うと、まず先生から咎められ、次に同期の生徒から好奇の目で見られ、末には親本人による制裁、お小遣いの減額やげんこつを喰らいます。それ故、親に逆らうよりも従う方がずいぶん楽ができる、といった具合にいわば洗脳的に親を大事にすることが当然、と自身にインプットされ、社会が期待する道を歩むように矯正されていきます。より洗脳の強い人は、親を大切にする理由に、自分を育ててくれたから、と答えるでしょう。この言葉には、様々なものを食べさせてくれた、好きなモノを買ってくれた、学校や部活、塾に行かせてくれて教養をつけさせてくれた、などが集約されています。

 しかし、誰が産んでくれなんて頼んだのでしょう。親は自分たちの都合で子を産むかどうか、いわば未来の子の生死を決める立場にあります。これは厳然たる事実です。生まれていない子に対して、産んで欲しいか、などと確認を取ることはできないのですから。

 ここから、死産・堕胎した場合と生まれた場合の二通りを考えてみましょう。

まず死産・堕胎した場合。人口統計資料集2011年版によると、2009年の死産数は2万7千、堕胎数は20万を超えています。死産は仕方のないこととして、堕胎数のなんと多いことでしょうか。出生を100として、その内20が堕胎されることを望まれているというではありませんか。男と女が性交をして子供を授かることは自然の摂理、生物に刻まれた本能として当たり前のことです。しかし、授かった子を殺すことは人間以外にはいません。人間がその他の動物と決定的に違うことは、知能、言い換えれば理性があることです。理性でもって胎児を殺すことは、自分の本能を殺すことにもなります。こんな馬鹿な生き物が人間以外にいるんでしょうか。…すいません、話がそれてしまいましたね。ところで、自我が芽生えないうちに死ぬことは果たして凶なのでしょうか。

 次に無事生まれた場合を考えてみます。ここからは運によって子の人生が決まってきます。人の性格はDNAと教育によって形成されます。特に教育の影響が強いです。

運の悪い子の中にはDV等をする親のもとに生まれる。…という風に通常の倫理観を確立している人なら言うでしょう。私自身の倫理観はかなりひねくれていて、私にとってこれは実は運がいいのです。この世間的に評判の悪い親のもとに生まれた子は早くから親を疑うこと、人を信じてはいけないことを知り、物の見方が鋭くなります。さらに、この子の人生はマイナスから始まっているので、後に待っているのはプラスのみです。この子は上昇志向の塊となり、人も信じないので、欲しいものはすべて自分の力で手に入れようとします。これで私の述べた、運のいい、ということがわかって頂けたろうと思われます。

真に運の悪い子は、親が、世間一般で言われるエリート職であることの場合が多いです。特に高学歴であることにこだわっている親に。

 一例を挙げてみましょう。子供をA君とします。親は、自分の子にも自分と同じ高学歴にさせるためにA君に早くから学習させます。A君はまだ幼く、反抗する能力も無いので親の言いなりになります。A君は幼少期より親の教育により善人としての人格を創りだされました。いや、善人の皮を無理やり被せられたのです。初めは、周りの者からちやほやされて悪い気はしていませんでした。この調子で年月を重ねていき、いつでも輝かしい成績を誇るようになった彼は、いつしか他人の模範とされるようになったのです。しかし、そこで少しでも他人の期待している以外のことをすると、過剰な心配をされます。ああ、私と同じ失敗をしたB君は笑って済まして、周囲の者も彼はいつものことだと特に気兼ねする様子はない。それなのにどうして、私の場合はこうも違うのだろう、とA君は一人懊悩します。それは日増しに深刻になっていきます。

 話は変わりますが、罪を犯した者の評判を周囲の者に尋ねると、あんないい子がそんな恐ろしいことをするなんて信じられない、という話をよく聞きます。しかし、私にとってはそんなことは予測できます。ずばりA君もそう見られている者の一人です。A君の優等生としてのプライドや自我という名のダムが周囲の期待やストレスという濁流を御していたのですが、ダムの耐用年数という限界がひっそりと、しかし確実に足音を忍ばせながら近づいてきます。足音が止んだ時、ダムは決壊しました。一度あふれた濁流は留まることを知りません。A君は感情に身を任せ、濁流のはけ口を求めて家族や友人、果ては自分と無関係の他人にまで牙を向けます。行為の最中、A君は幸福に満たされています。長い間溜まった濁流がどんどん流れていく爽快感、自分にだってこんなことができるんだぞ、という周囲の期待に対する裏切り行為への背徳感が内から沸き上がって体中を満たしているのです。…すべてが終わった時、今度は得も言われぬ満足感が出現します。例えるなら、部屋の掃除が終わった時と似た心境です。全ては綺麗になった。これで何かをする気力が生まれる、とね。A君はお縄を頂戴しましたが、これは自分の実績がゼロになった、いやマイナスになったことでむしろこれからの人生に希望を見出すのです。

 それに比べて、不良少年なんぞは精神を安定させることに秀でています。周囲の目を振りきってやりたいことをする様は、どこか清々しい気持ちもします。こういった行為は日頃の鬱憤を晴らすには最適の行為です。また、不良少年が成長して大人になった時、丸くなったとか、立派になったとか言われて、大人になってもまだひねくれている、とは言われません。これはもっともなことです。思春期時代のストレスを一気に爆発させたのですから、もはや悩みはなく、後は人の言うことをはいはい聞いていればいいだけです。

 こうして考えると、不良少年の方がずっと合理的ではないですか。それに人はギャップというものに惹きつけられる性質を持っているので、大人になってからのステータスになります。裏目に出たとしても、その人に強烈なインパクトを残すことには変わりありません。




 今回はこれまでです。


 三島由紀夫の不道徳教育講座に影響されて書いてみました。何か感想をいただけたら嬉しいです。批判コメント大歓迎です。

 pixivにも同タイトルの作品がありますが、あれも私の作品です。

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