覚悟
「来ました……」
黒のローブに身を包んだ、少女の呟きが暗い屋内に響き渡った。それは、やっとこの日が来たという歓喜の気持ちと、これから始まる使命に対する責任と、多くの悲しみを見越した悲嘆などを含んだ声だった。彼女はこの時が来るのを待ち焦がれる一方で、現在までの時間経過を拒絶する思いも持っていたのだ。絶対にこの儀式は成功させなければならない、しかしそれに付随するものはひどく惨い。
少女の心に在るジレンマは、計り知れないほどの大きさだった。
「ようやく、ですね。アリア様」少女と同じ格好をした男が言った。彼は目元まで覆っていたフードを捲る。端正な顔立ちと鋭い眼光が露になり、使命をまっとうするという覚悟の表情を見せた。
アリアと呼ばれた少女はええ、と頷くと、目を瞑り、胸に手を当てた。すると過去の映像が、瞼の裏に映写されていった。
倒れていく兵士、内臓が飛び出た死体、子供を抱きしめて死んでいく母親たち、目玉がくりぬかれた死体、足を引き千切られた幼女、四肢と頭が無くなった死体、目の前の死体、死体、死体、死体、死体死体死体。
あまりにも悲惨な静止画がスライドしていく。知らない内に鼓動が早くなるのを彼女は両手で感じた。どくどくと、どんどんそれは上昇していく。危うく過呼吸になりそうだったが、その時脳裏によぎった彼女の父の姿が、それを抑えた。
「アリア様?」先ほど発言した男が不安そうに訊いた。「どうかなさいましたか」
「いえ、何でもありません。少し、昔のことを思い出していただけです。大丈夫ですよ。ウィル」
ウィルと呼ばれた男は、顎に手を当てて眉間に皺を寄せた。
「そうですか。しかし顔色が芳しくないようですが……もしかすると、何かお体に異常があるのかも知れません」
そこまで言ってからウィルは何かに気づいたかのように目を見開くと、両手で顔を覆い、そのまま海老反りになって膠着した。
アリアが怪訝な顔になった時だった。ウィルは反動をつけて素早く前屈みになり、自身の両手を眺める。
「ああ、なんということ! アリア様に万が一、万が一にも害が及ぶことがあれば、私は、私は……っ!」
あ、またいつものだ――とアリアは思った。同時に少し安心した。
ウィルは彼女の父親を崇拝している。そしてその娘であるアリアに対して過剰な愛を抱いており、時折狂信的な行動を取ることがある。それをアリアは知っていた。
「本当に大丈夫ですから」アリアは両手をプラプラと振った。
「ああああ! 私は、ご尊父に申し訳がたちません!」すっかり自分の世界に浸っているウィルは、アリアを見据える。「失礼ながら、アリア様。そのお体を私めに調べさせてはもらえませんか! 頭の先から足の先まで御見せになってさえ下されば、必ずや、必ずや私の命にかけてアリア様に仇なす憎き害悪を駆逐してご覧にいれます。さあ! さあさあさあさあ! 幼き頃と同じように私の前に全て……」
「だ、だから、本当に大――」
「しかし! 自覚していないだけで実は重大な病に――」
「キモいんだよ、バカ!」ウィルからみて左側から罵声が飛んだ。暗闇からウィルと同じ格好をした少年が出てきた。「姉ちゃんがドン引きしてんじゃん! 少しは考えて喋れ、クズ!」
「シェオン……?」ウィルによるセクハラ攻撃に困惑していたアリアは、現れた少年のほうに向かって言葉を放った。
シェオンと呼ばれた少年は「久しぶりだね」と言いながら、フードを乱暴に捲った。色白の肌、まだあどけなさが残る顔立ちと丸っこい輪郭、濃紺の綺麗な頭髪、紫色の右目と青色の左目、本来なら非常に目立つ身体的特徴だが、暗闇であるこの場ではその存在感が霞んでいた。明かりは蝋燭に灯された炎しかなかった。
「えっ、なんで? なんでまだ知らせてないのに、シェオンが?」
「なんでって……、姉ちゃん、『時が来た』ことぐらいボクでもわかるよ。ていうか人間界にいる魔物は全員知ってるんじゃない? まあ、魔物っていってもホンモノのほうだけだけど。だから、わざわざ知らせにいかなくていいよ」
「あ、そうなんだ……」
「うん。で、そんなことよりも……おっさん!」
シェオンは右隣にいるウィルを睨んだ。
「なんですか」彼は涼しい顔をして応対した。
「また姉ちゃんに下品なこと言ってただろ! いい加減、そういうのやめろ! 姉ちゃんだってなぁ、もう年頃のオンナなんだよっ、もうあんたの保護対象じゃないんだっ、いちいち気持ち悪いこと言うなっ」シェオンはビシッと自身より遥かに大きい男を指差した。
「年頃のオンナって……シェオン……どこでそんな言葉を……」アリアは少し呆れた。
「なにを言っているんです? あなたは」ウィルはシェオンを見下しながら反論を開始する。「アリア様はまだまだ子供です。なぜなら、未だにクマのぬいぐるみを抱いたままでないと眠れませんし、私がお側に仕えていないと何もできないからです」
「ち、ちょっと!」アリアは思わぬ暴露に焦った。
「さらに」ウィルは人差し指をあげた。「アリア様の麗しい臀部には未だに蒙古斑があるのです!」
「なんで知っているの! そんなこと!」アリアの顔が見る見るうちに赤くなっていった。確認するように自分の尻を触る。
「どうです? これでもまだ子供ではない、と言い切れますか? アリア様を姉と慕っているくせに全く血縁関係の無いシェオンくん」
「そ、そんなの関係ないだろっ」一際大きい声で言ったシェオンは一呼吸置いてから続けた。「大体、ぬいぐるみを抱いてるとか、そんなの別に大人とか子供とか関係ないじゃん! だからつまり、姉ちゃんは大人なんだよ! 大人っ! 絶対にもう子供じゃないねっ」
「どういう理屈なの……?」アリアは肩を落とした。もっとマシな言い分はなかったのか、と思った。
「そ、それにっ、あんたが側にいないと何もできないとか言ってたけど、それはただ単にあんたが過保護なだけなんじゃないの! 姉ちゃんだってさ、あんたがいなくても充分やっていけるとボクは思うんだけど!」
アリアはシェオンの言葉に二回深く頷いた。これには概ね同意だった。
「ちなみに」シェオンは肩で息をしながら、落ち着きを取り戻すように言った。「姉ちゃんのケツに蒙古斑があるのはボクも知ってたから」
「だからなんで知っているの!」彼女は両手で自分の尻を押さえた。
その時、ウィルはやれやれといった感じで肩をすくめると口を開く。
「あなた、何も分かってませんね」
「何だと!」シェオンが食って掛かる。
「もう、ちょっと二人とも」様子を見かねたアリアが宥めるように言った。「そんなことで言い争っている場合じゃないでしょ」
「でも姉ちゃん」シェオンは視線をアリアに移した。「こいつが鬱陶しいのは姉ちゃんも同じでしょ? 今言っておかないで、いつ言うんだよ!」再びウィルを睨む。
「シェオンっ!」アリアの鋭い声が飛んだ。シェオンはビクッと一回身震いすると、説教を恐れる子供のような怯えた顔でアリアの方を見た。アリアは、我が子を叱る母親のような厳しい顔で言葉を紡ぐ。「これから私たちにとって、すごく大切な、ううん、大切なんて言葉じゃ足りないくらいのことが起こるんだよ。悲しくて辛くて、目を背けてしまいそうな、でも絶対見届けなければならない。そんな嫌なことが始まるんだよ。分かってる?」
「……それは」シェオンは俯いて答えた。「うん、分かってる……」
「じゃあ今、ウィルと言い争っている場合じゃないということぐらい分かるよね。これからみんな一枚岩になって頑張らないといけないんだから、仲間同士で喧嘩してちゃダメだよ」
「……うん、ごめんなさい……」
シェオンが少しだけ頭を下げるのを確認したあと、アリアは「ウィル!」と呼びかけた。
「はっ、申し訳ございません。私としたことが少々冷静さを欠いた発言をしてしまいました」ウィルは肩ひざをついた。
「あなたの働きには期待しています。特に今回のような複雑であまり前例のない事柄では、私よりも博識なあなたのほうが動きやすいでしょう。先の戦いではあなたの指揮のおかげで、少数ですが重要な方々が生き残れました。シェオンも。……あの戦いは思い出したくないほど凄惨なものでしたが」
「勿体無きお言葉」
「しかし、先ほどのように簡単に平静を崩すようでは今回の儀式、おそらく失敗に終わるでしょう。それほどあなたは重要な役割を担うのです」アリアは多くの酸素を吸い込み、強調するように言った。「全てはあなた次第だということを努お忘れなきように。それと何故蒙古斑のことを知っていたか、あとでたっぷりと聞かせてもらいます」
はっ、とウィルは勢いよく返事をした。
そして少しの間のあと、彼は口を開いた。
「ですが、全てが私次第というのは過言でございます」
「そんなことありませんよ」アリアは言った。「私は『審判』をする予定ですが、その時はそれを統括するあなたのほうが地位は上ですし、私の出番は一番最後ですから、ほとんどの時間で儀式に関わりません。実質あなたが進行することになるはずです。私は、良いとこ取りというわけです」彼女はぎこちない笑みを浮かべた。
「それは……仰る通りですが」
「自信がないのですか」
「自信ねーのかよ」シェオンが横から言った。
「うん、シェオンは少し黙ってて」
「いえ、そういうことでは……」ウィルはゆっくりと答える。「ただ、やはりアリア様が『審判』をなさるのは危険かと思いまして」
そういうことか、とアリアは納得した。確かに魔物同士の戦いに立ち会う『審判』は、様々な規定で守られていたとしても危険かもしれない。だがアリアはこれから起こることを始終見届けたい、目を背けたくない、と思っていた。
「要らぬ心配ですよ。ウィル。私は望んで『審判』をするのです。全て覚悟の上です。それに私だけがのうのうと傍観しているわけにはいきません。そのようなことは私の誇りが許さないのです」
「では、迷いは生じないと約束してもらえますか。今は亡きご尊父の願いを成就させると誓って頂けますか」
「えっ?」
ウィルは真っ直ぐアリアを見据えていた。シェオンもキョトンとした目でアリアを見ていた。
その時アリアは、ウィルが言ったことの真の意味を理解した。『危険』とは肉体的なことだけではなく、精神的な意味合いも内包していたのだ。
アリアは戸惑った。その約束をするには彼女はあまりにも優し過ぎた。
だが、彼女は一瞬だけ心を鬼にする。既に芽生え始めている迷いをウィルに見透かされないようにするためであった。現在、魔物の頂点に位置する彼女が悩むことは、立場上憚られることであり、またその資格はないと彼女自身も思っていた。
ただ只管、御父様の言うとおりに動けばいい――。
アリアはウィルを見つめ、宣言するように言う。
「大丈夫です。私は迷いません。百八体の魔物が殺し合い、いかに無惨に命が消えて行こうとも、私は、絶対に……! それが御父様の願いであり、私自身の願いです……!」
こうして悲劇の幕は上がった。
百八人の人間は魔物として覚醒し、四十九の願いを叶えるため最後の一体になるまで戦い続ける。
希望と絶望と欲望が混ざり合う泥沼の戦いが、始まるのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ザギラゲギョゲホグイギジ ラザクド ザギラゲギョゲホグイギジ ラザクド ザギラゲギョゲホグイギジ ラザクド……」
「うるさーっ!」
園原脩平は目を瞑った状態のまま不気味な言語を発する目覚まし時計を掴み、壁に投げつけた。目覚まし時計は地面に落ち、単一の電池一個を吐き出す。不快な音が途絶え、時計にくっついていたグロテスクなデザインの人形の首が取れて、コロコロと床を転がった。
「もう起きてるし……」園原は呟き、寝返りをうつと、再び眠りの世界に戻っていった。
あと数分――その単語を何度も頭の中で繰り返しながら、彼は体がふわふわと浮かんでいるような快感に身を委ねた。段々と睡眠の織り成す麻薬のような効果に嵌っていく。そして彼は、家を出て学校に向かうという夢を見た。
ああ、いつの間にか起きたのか、もう学校が目の前に――。
ところが真っ白な校舎は蜃気楼のようにぼやけて、消え去った。そこでようやく園原は、これが夢であることに気づく。
そして強烈な脱力感と疲労感と共に、園原の意識は覚醒した。
現実に戻ってきた、と彼は思った。現在位置はベッドの上で、仰向けに寝転がっている。当然、起床も登校もしていなかった。分かっていたことだが、少し落胆した。
「おはよう」
突如として震えた声が聞こえた。空気の振動を最小限に抑えたような音だった。『幽霊』という二文字が園原の頭に浮かんだ。
彼は飛び起きた。
すると部屋の出入りに使うドアがほんの少しだけ開いていて、その隙間から何者かの片目がこちらを覗いている。
園原は上昇した鼓動を落ち着かせながら、安堵した。
「なんだ、姉さんか……」彼は後頭部を掻きながら呟く。
「フフ……おはよう、脩くん」
「おはよう、姉さん。てか毎回言ってるんだけどさ、そういう登場の仕方、やめてくんない」
園原の姉は依然として片方の目を覗かせたまま、園原を見ている。
「でも……これが私のアイデンティティだから……」
「何言ってんの? カタカナ使えば誤魔化せれるとでも思ってんの?」園原は眉間に皺を寄せる。
「いや……ただ、ァ、アイデンテュティ……が」
「アイデンテュティって何だよ、もろに噛んでんじゃねーか、必要ないのにもう一回言おうとして、駄目になってんじゃないよ」
「プププ……ブフッ、ハハハ、ぶふふっ、アイデンテュティ、ぶふっ、ア、アイデンテュティって何だよ!」
「自分で言って、自分のツボに嵌まってるし」
はぁ、と園原は溜め息をつく。
この人はいつもそうだ。黙って顔を見せていれば最高級の美人なのに、異常に長い前髪のせいで、整った顔立ちはいつも隠れている。そのおかげで不気味な印象しか他者に与えない。おまけに性格もほの暗く、引っ込み思案で、泣き虫である。
勿論、幼少期から友達はいない。当人は、いると言い張ってはいるが、彼女のことを『貞子』と呼ぶ人間が友達なわけがない。心底、彼女の将来が心配だ。こんなことでは結婚もできないだろう。
園原は再び溜め息をついた。
「ブフフっ……あ、そうだ。ご飯できてるよ」
笑いを抑えた姉が言った。
「うん、分かった。すぐ行く」
園原は答えて、ベッドから抜け出した。勢いよくカーテンを開くと、眩い光が入ってくる。陽光に照らされた部屋の中には、悪趣味なデザインのフィギュアが多数置かれていた。
客観的に見たら園原脩平も、姉のことを見下せないほどの気味の悪い趣味を持っていた。
彼は部屋を出て、階段を降り、リビングへ行く。
「あら、おはユ~~」
ふざけた挨拶をしてきたのは園原の母親である。年齢のわりに皺の少ない肌、昔から変わらない体つき、それらは若作りに余念がないことを如実に表していた。
「おはよう、母さん、朝っぱらからふざけた挨拶するな」
「ノリが悪いわねー」
眠たいのにそんなノリについていけるか、と園原は思いながら椅子に座った。目の前には和と洋の混ざった朝食が置かれていた。
箸を使ってご飯を食していると、テレビから変なニュースが聞こえてきた。それは、未確認生物が人間を襲うという内容だった。園原は反射的にテレビの方を見る。清楚な外見の女子アナウンサーが原稿を読んでいた。
園原は食い入るようにそのニュースを聞いた。どうやら、紫色の得体の知れない生物が女子高生を襲ったらしい。襲われた女子高生は行方不明で捜索中のようだ。情報提供を促すテロップが流れた。
園原は女子高生を哀れみながらも、ワクワクしていた。しかも事件が起こったのはこの近辺なので、できればその生物を一目見てみたいと思った。
紫色の未確認生物か、と彼は成り形を想像し、笑みを浮かべる。
突然キーンと耳鳴りがした。そのあと、微かな頭痛が発生した。彼は額に手を当てた。
「痛っ! 痛ぅ……!」
しかし、すぐ治まった。
「大丈夫?」隣に座っている姉が心配そうな顔で訊いて来た。
「うん、大丈夫、ちょっと頭痛がしただけ」
「テスト勉強のしすぎじゃないのー」母親がおどけながら歩み寄ってきた。
「そうかもしんない」
「薬飲んどく?」
「いや、いいや」めんどくさいと園原は思った。
テスト週間は来週から始まるが彼はまるで勉強をしていなかった。だから、頭痛の原因は勉強ではない。
食事を終えた園原は、何故頭痛がしたんだろうと考えながら学校に行くための支度をした。だがあまり気にすることでもないので疑問はすぐに消えた。
顔を洗い制服に着替えた彼は、カバンの中に、あるDVDを忍び込ませた。友人に貸すためだ。頼まれてはいないが。
玄関に行き、そばにある鏡を見た。写った顔は端整とはいえないが、まあまあ整った顔立ちだ。しかし寝癖で無造作になっている髪型が、彼の風貌を台無しにしていた。だが、もともと身だしなみに拘りはないので、あまり気にしてはいなかった。
まあこんなもんだろう、と園原がぼんやりと鏡を眺めていた時、突然、鏡に写っている自分の顔が黒い何かに変わった。一瞬でそれは消え、目を見開いて驚愕している自分の顔に戻った。
「今のは……?」
はっきりと見えた。あれは『顔』だった。黒色でエイリアンのような『顔』だ。眼光だけが紫色に光って、こちらを見ていた。
園原は探るように鏡に触れた。しかし細工は全く見つからない。
「何だったんだ?」
彼は呟きながら考えたがまるで意味が分からなかった。
「脩くん?」
視界の外からの声に園原は吃驚したが、姉のものであることに気づき、落ち着きを取り戻した。
「姉さん、じゃあ行ってきます」彼は姉の姿を一瞥するとその場から逃げ出すように、慌てて玄関を飛び出した。
「あ、行ってらっしゃい」
彼女の言葉を背中で受けて、園原は道路を小走りで進んだ。あの『顔』に得体の知れない恐怖を感じていた。