78話 無謀の策①
「〈天馬〉が来たと」
ガイアスは自分に言い聞かせるように独り言ちると、顎に手を当てて考え込む。
「〈スルス〉か。面倒だな」
「五騎。一個小隊が、特使の証明書を持ち陛下との面会を求めています」
オルハウストは苦い顔で、主君に告げる。
〈スルス教国〉。〈デルト王国〉と同等の『戦力』と、圧倒的な『権力』を持つ、小さな大国。
国土そのものは、デルトの三割にも満たない。
本来、国土面積は国家の生産力、軍事力、資源力に直結する。だが、その大原則はこの国に限っては当てはまらない。
この国は世界中に広がる〈スルス教〉の総本山としての役割を持つ。信者を総べる〈教皇〉と、最高神スルスの代弁者としての〈姫巫女〉が国の全権を握っている。
ここで問題となるのは、信者がほぼすべての国家に散在し、そして通常に生活しているということ。
仮に、この国が他国に住んでいる信徒へと『神託』という形で命令を発布したとしたら、彼らのいくらかはそれに従うだろう。
いわば、常に他国に、無数の工作員を抱えさせているようなものなのだ。
普段は自国の民であるがゆえに、彼らを捕えることなどできなく、実際に行動を起こすまで黙っているしかない。厄介極まりない。
そんな国が、虎の子である〈聖天騎士団〉を送り込んできた。
その国土に比例する、他国と比べれば少さな兵力しか持たない〈スルス〉だが、彼らはある特有の兵団を組織することで、その欠点を補っている。
それが、〈聖獣騎兵団〉。
〈魔獣〉は魔力を持った獣というように区別されていると一般には思われている。が、それは厳密にいえば、正しくない。魔力を持った『人間に害を為す』獣というのが正解である。
そして、『害を為す』という区分があるということは、当然『害を為さない』あるいは『有益となる』存在もあるということ。
それが〈聖獣〉。人と契約する、絆を結ぶ、あるいはきわめて少数ながら情を交わす。それらによって人と共に歩む道を選んだ、理性ある獣。
例を挙げれば、〈天馬〉、〈地竜〉、〈白狼〉、〈月兎〉、〈鈴烏〉などが居る。
彼らは戦闘に適さない個体であっても、単身で一個小隊と同等の戦力を発揮する。
他国にとって幸いなのは、その個体数の少なさだが、その力はたとえ〈デルト王国〉でも侮っていいものではなく、〈聖獣騎兵団〉の名は、かの国にては神聖視され、他国からは羨望を以て語られる。
そして、今回来訪した〈聖天騎士団〉は、文字通り〈聖獣騎兵団〉の中でも空中戦に優れた聖獣を擁する兵団。
その中でも〈天馬〉は、千里を一夜で駆け、敵対者を額の聖角からの魔法で焼き尽くす、最も強力な個体の一つ。
性格は勇猛果敢。知能も高く人と絆を契る。欠点としてあげられるならば、その特性として女性にしか騎乗を許さないという一点か。
それが五騎となると、もはや小さな侵攻と言ってもいい規模。対抗するならば数倍の人数が必要になる。
そして、オルハウストはガイアスに願う。
この申出は、適当な理由をつけて断るべきだと。
幸いというべきか。今回は事前の通達も何も無く、向こうが勝手に押しかけてきたのだ。断っても、心象は悪化するだろうが、まだ致命ではない。こちらの『土産』次第で、誤魔化しが効く。
今彼らが抱える爆弾のことを考えれば、下手に手をだして面倒事を押し付けられるよりは、その方がまだましだ。
「……今の我国は、連中に構っている余裕はない。火急の用が舞い込んだ故、誠に心痛ながら、丁重にお引き取り願え」
そして、それと同じ考えにガイアスも至ったらしい。
言葉の形だけ丁寧に、この件を済ませようとする。
オルハウストは内心安堵の息を吐き、肯定の意を伝える。
「わり。そりゃ無理だわ」
「……だからノックぐらいしろこの怠け者が」
その前に扉が開き、ザルツがズカズカ入ってくる。
主君を主君とも思わぬ行動に、ガイアスの眉間に皺が寄る。
オルハウストも苦笑を浮かべ、力ない笑いを漏らす。
「さっき追加報告が入った。連中、〈エリュシオン〉のスルス教国駐在大使を連れてきてる」
「なっ……」
だが、真面目な顔になり続けられた彼の言葉に絶句する。
その信じられない言葉に耳を疑う。
「確かなのですか?」
「おうよ。しかも肩書きは『エリュシオン公国臨時全権大使』だってよ。ここまで露骨だともう笑えるぜ」
「ッ……! 何を考えてるんだあの〈魔女〉はッ!!」
あまりにも馬鹿な展開に、とうとう堪忍袋の緒を引き裂かれたガイアスは、目の前の机を殴り壊した。
令の時にすら見せたことのない、本気の激昂。
あまりにも珍しい姿。そして恐ろしい気迫にオルハウストは一筋の汗が頬を伝うのを自覚する。
そして、ここまでの激情も、正当なものだと理解する。
通常、他国に駐在中の大使に全権を押し付け、あまつさえその国ではなくさらに別の国、しかも普段は犬猿の仲の国に赴かせるなど正気の沙汰ではない。例えるなら、遊びに来ていた他所の子供に職場の上司の対応を押し付けるようなものだ。
しかも、今はその職場そのものが魔窟と化している。
今この時、一国のそれも王城という世界から見ればあまりにも小さな空間の中に、力が集まりすぎている。
〈スルス教国〉の畏敬を集める〈聖獣騎兵団〉の一部。
〈デルト王国〉の最高戦力〈四剣〉三人と国権の担い手たる『国王』。
そして、魔導大国であり、何かと不穏な噂の絶えない〈エリュシオン公国〉の全権名代。
世界の動向を支配する五大国が過半数。〈対帝国大同盟〉の〈レティエンス共和国〉を除いた全て。いや、開戦となった場合はかの国は財力を活かして後方からの支援に徹するだろうことを考えれば、実質的に帝国の敵がすべて一同に会したことになる。
帝国の人間がこの状況を見れば、敵が集まって自分たちに対する計画を練っていると邪推されるだろう。この会談を受ければ、それはさらに信憑性を増す。
それは最悪の場合、世界の戦力図の均衡の崩壊を招く。
だが、拒否するには自国と同格の国二つの名は、あまりにも重すぎる。
故に、受けるしかない。
「……ザルツ、ガルディオルにはこの間のあらゆる決定権を一時的に譲る。オルハウストは俺と共に来い。会談の場は、王城特別管理棟三階の国賓室とする」
オルハウストは黙って頭を下げる。
〈四剣〉を何人も連れていけば、外部へ与える衝撃も大きくなる。連れて行けて一人。
その一人として選ばれたことが、果たして幸福なことかどうか、オルハウストには分からなかった。
◇◆◇◆
「お初に。私は『スルス教国駐在大使』にして、このたび、〈魔導元帥〉リーゼロッテ・エリュシオン・ヴァルトラード大公より『エリュシオン公国臨時全権大使』に任ぜられました、クラウス・ハルハウスと申します。名高き〈剣王〉陛下にお目にかかれ、恐悦至極にございます」
「スルス教団上等司祭、アラウルラと申しますぅ。先ほど衛兵の方にもお伝えしました通り、貴国への特使を任じられましたぁ。こちらの突然の来訪に応じてくださり、ありがとうございますぅ」
部屋に入ると、備え付けられた瀟洒な椅子から二人の男女が立ち上がり跪く。
二人とも身なりの良い上質な衣服に身を包み、こちらへと偽りのない誠意を見せてくる。
魔方陣のような紋様が服全体に描かれた、エリュシオン公国特有の礼服に身を包む、厳格な表情を崩さない男性。
女性らしい身体の起伏がうかがえる黒地に黄色の線が入った修道服の上に、司祭以上の地位の者のみが着用できる真白の外套を身に着けた、やんわりと優しく微笑む女性。
若い。
とりわけ瀟洒な椅子に腰かけるガイアスの背後にたたずみ、オルハウストが最初に思ったのはそれだった。
自分も人のことを言えないが、このような状況、国家ぐるみの現場に連れてくるには、彼と彼女は、若すぎる。
女性は二十に行くかどうかといった、自分とほぼ同年代。先ほどの口上も、礼を尽くしているということは伝わるが、些か不適切な言い回しだった。恐らくこのような場に出てくる経験は少ないのだろう。……そして、雰囲気がふわふわしていて何やら非常に緩い。
男性は青年と壮年の中間と言ったところで、彼女よりはましだ。だが、普通そんな年齢の人物が大使など務めることなどない。ハルハウス家は彼も聞いたことのある、伯爵位を持つ名家の一つだが、それが年齢という経験を上回ることはあり得ない。
スルス教での司祭と言えば、一般的な貴族の名家と同格ほどの扱いを受けている。世界中で千人に満たないその中でも、上等司祭はさらに一握り、両手両足の指で数えられるくらいの希少な存在である。彼らは本国外での独断権が与えられており、その行動を掣肘できるのは、彼らの上である枢機卿と教皇。そして神の代弁者とされている姫巫女のみ。
エリュシオンは貴族の権威が他と比べ格段に高い傾向があり、伯爵ともなると上に居るのは例外を除いて二大公爵家と大公のみ。
どちらも、他国への折衝を任せられるには十分すぎる地位ではある。
だが、それだけだ。
神の信者に、自国の政情に疎い他国駐在大使。
そんな人間に、駆け引きをする能力があるとは思えない。
その上、若い分それだけ経験も浅いだろうに、それぞれの上役は何を考えているのか。
「ガイアス・デルト・エルデルフィアである」
故か、彼の主君も端的にそう名乗るのみ。
特使に対する礼儀ではないが、人選という出だしから既に礼を失しているのはあちらなのだ。この程度の嫌味は当然と言える。
それを自覚しているのか、一人は微かに口許を動かし、もう一人は『はい~』と緩い相槌をうつのみ。反応はない。
許可を得、席に着いたのは優しげな微笑みを崩さないシスターに、生真面目な表情を厳として崩さない男。
「〈四剣第二位〉オルハウスト・イル・サイデンハルトです。貴方がたの用件をうかがう前に、一つお聞きしたい」
「何でしょう」
そこで、彼は切り込む。
「此度の件。お二人の言動、行動、態度。それらをスルス、エリュシオン両国の総意と断じてよろしいか」
事前に報告は受けている。だが、それを踏まえての再度の問いかけ。
失礼を通り超え、いっそ無礼とすら言える。
だが、これは確認しておかなければならないことだった。
〈四剣〉は、彼ら自身の内では全員が同格である。だが、それでは諸外国の対応に不都合があるため、名目上の位階が存在する。
それは実力ではなく、それ以外の力、政治力、胆力、知力などにより分けられる。ゆえに、最も経験が豊富で万事そつなく熟せるガルディオルが『一』を授かり、平民出故どうしても教養が一歩おとり政治力が不足しているアリエルが『四』を与えられている。
第二位は文字通り、四剣の中でも二番目、そしてデルト王国事実上の三番目の権力者。
故に、その言葉の重みは凡夫の貴族とはくらべものにならない。
「はい。私は先日、本国へと召喚され、大公閣下より直々に任をお受けいたしました。そのように捉えて頂いて構いません」
「わたくしも、教皇猊下より此度の件を一任するとのお言葉をいただいておりますぅ」
故に、これらの言葉はまぎれもない真実と捉えていいだろう。
さらに、二人はそれぞれ封書を取り出す。
オルハウストは近寄り、その二通を盆で受け取り、ガイアスへ手渡す。
封蝋にはそれぞれ、天使の翼が交差したスルスの国章と、杖を魔方陣が囲んだエリュシオンの国章の印が押されている。
其処にガイアスは、取り出した親指ほどの水晶を近づける。
すると、その封はパキッと乾いた音を立てて解かれる。
この印には特殊な加工が施されており、捺した者の魔力がかすかに残るようになっている。
その魔力に適合する鍵となる品を持っている者にしかその封を解くことはできない。
このため、交流のある国、もしくは過去に交流があった国とでしか成立しない防犯であるが、その分機密性が高いため、この方法を多くの国で取っている。
「……成程。間違いないようだ」
ガイアスはそれをざっと眺め、頷く。
オルハウストはその文面を読むことはなかった。だが、それはつまりそうする必要が無いとガイアスが判断したということを意味する。
要するに、今の自分の認識と考えで、委細問題無しということだ。
それを聞いて、オルハウストは明らかに顔を顰めた。
だが、何とかそれだけにとどめることに成功する。
「それでは、貴方がたの用件をうかがいたい。何故、〈天馬〉までも持ち出し此処へと参られたか」
そして、用を問う。
国の虎の子である騎士団を動員してまで、何をしに来たのか。
ここで敢えて個別に問わず、二人へ同時に問うたのには理由がある。
それは彼らが、正確には背後のスルスとエリュシオンが明らかに繋がっているからだ。
そもそも、国家間の移動となると下手をすれば数か月掛けてもおかしくない大事だ。
なのに、目の前のエリュシオンの大使は、スルスから本国へ帰還し、さらにはデルトへ来訪したという。
どう考えても時間がかかりすぎる。現実的ではない。
だが、それを解決する手段がある。それが〈天馬〉。
これならば、山脈を飛び越え、森を一顧だにせず、最短距離を最速で駆け抜けられる。
スルスは、親密な関係にあるエリュシオンへ情報伝達の連絡員として常に数騎の〈天馬〉を常駐させている。
そして、その速度と道のり、情報拡散の速さなどを踏まえ逆算すると、おおよそスルスとエリュシオンが行動を起こしたのは十日前後前を言ったところ。
今回の原因となったものは、大分絞られる。
……というか、心当たりが一つしかない。
そして、それは現実となる。
「単刀直入に申し上げる。グランド、彼の身柄を引き渡していただきたい。庇い立てするようであれば、こちらも相応の対処を取らせていただく」
そら来た。
何故か、オルハウストは主君と心が一つとなったことを確信する。
とはいえ、原因は予想通りであったが、対応が性急に過ぎる。
いきなりあんな、『色々』な意味で爆弾な存在を引き渡せと言われ、はいそうですかと答えられるわけがない。そんなことは、大まかな事情と経緯しか知らないであろう彼らでも理解できているはず。
見た目の落ち着きの割に頭が弱いのだろうか。そんな失礼な想像が頭をよぎる。
「まあまあ、だめですよクラウスさん。そんな言い方だと相手の方に失礼じゃないですか。はい。笑ってえがおぉ」
どうやらもう一方は、疑いの余地なく『弱い』ようだった。どこがとは言わないが。敢えて。
あまりにもポヤポヤとした空気を振りまき、緊張感無く発言する女を見て、オルハウストは頭痛を覚えた。
「……それは、一体どんな理由でしょうか。彼は旅の者と言えど、今は我国に在する民の一人。正当な理由なく、そのようなことが出来る訳がありません」
しかし、それでも何とかそう返す。
国家を担うものが、罪もなく一個人を虐げれば、国全体の規律が乱れる。相応の理由もなく頷けるはずがない。
その言葉を受け、男は一つ頷き、口を開く。
「ご存じのとおり、我がエリュシオンでは魔法の研究・開発が盛んに行われています。その内の研究成果が盗み出されました。それがあのものが持っている嫌疑がかけられているのです」
ガイアスはふむ、と相槌を打ち、オルハウストは眉尻を吊り上げる。
「……奴が持っていた、遠地との通話を可能とする符。あれのことか?」
「はい」
「貴国の開発した新技術。その成果は国家機密である。秘匿技術の拡散による国の損失を避けるために、彼の者の身柄を要求すると」
「はい」
「あいつが持っている符を押収するだけではだめなのか」
「それはできません。あの符がもし研究され、それが量産されてしまえば、それは結局は我が国の不利益となります。それを避けるためには、それを所持しており、それを解析したと思われるすべての者の身柄を抑えるほかありません」
「成程成程。よくわかった」
質疑応答というにはあまりにお粗末な問答を経て、ガイアスはわざとらしく、大きくうなづいた。
オルハウストはその後ろでその様子を、歯を食い縛りながら見守る。
よくもまあ、ぬけぬけと。
厚顔無恥にも程がある言葉に、オルハウストは眩暈すら覚えそうだった。
仮に、この男の要求が真実だとしよう。
通信符はエリュシオンで生み出されたものであり、それを令が盗み出した。
だとしても、言ってしまえばそれは彼らにとってなんの関係もない話だ。
分かりやすい例えをしよう。
他人の家に野良猫が入って家の中を滅茶苦茶にした。その野良猫が隣家の住人である彼らの家の庭で寝ているところを、荒らされた家の持ち主が発見した。そして、その家主は激怒して、彼らに賠償を求めた。
飼い猫でもないのに、ただ犯人が自分たちの家にいたというだけで責任を追及される。あまりにも馬鹿馬鹿しい。
今回責任があるのは、そのようなことを許してしまったエリュシオンであり、そして当事者の令本人のみ。デルトという第三者が骨を折る道理など、どこにもありはしないのだ。
さらに言えば、この窃盗の容疑自体が実に懐疑的だ。
令が持っている技術は、通信符だけではない。
〈グリモワール〉に代表される多種多様な魔法具に始まり、〈血晶〉という説明を聞いても全容が把握しきれない凶悪なものまで。
その中で比べれば、さして重要性の高くないものだ。そしてこの使者は通信符にしか言及していない。他にも盗まれたものがあるならば、それを隠す理由は何もないはずだ。
数あるものの中で、通信符のみが盗品だと主張されるのは、非常に違和感がある。
よって、オルハウストは次のように考えていた。
エリュシオンは自分たちが知らない、あるいは研究中の新しい技術を欲し、それを奪うために令の身柄を抑えようとしている。
スルスはそのエリュシオンの要請を受け、なんらかの思惑の元それを受諾。天馬の貸し出し、国家圧力により、現在の状況の構築などに協力した。
こう考えれば、一応は辻褄が合う。
スルスがわざわざ、〈天馬〉という目立つもので来たことも、本気であることの示威行為とも受け取れる。
尤もその分を差し引いても、使者のその役職としての能力の低さ、この会合そのものの帝国へ与える緊張を踏まえた是非など、おかしなところは消えないが。
―――ああ、本当にふざけたことをしてくれる。
「オルハウスト」
主君の言葉に、昏い思考に陥りかけていた意識が浮上する。
それに反応を返すというみっともない真似はしない。ガイアスもそれを望んでいない。
俯きかけていた顔を上げ、前を向く。
冤罪。
それは彼にとって、絶対に許しがたいものだった。
それでも、無意識に使者へ向けていた殺意を霧散させ、この場にふさわしい節度を取り戻す。
見ると、使者の男は無表情ながら青い顔で冷や汗を流していた。
それで何とか溜飲を下げる。
「貴国の言い分は分かった。だがこちらとしては、事実関係を明白にしなければそのような要求に従うわけにはいかん。あちらの言い分を聞き、その上で公正な判断を降すことを約束しよう。だが、それがこちらの最大限の譲歩だ。今回はお引き取り願おう」
ガイアスもオルハウストの内心を察してか、丁寧であるが感情のこもらない平淡な声でそう告げる。
その内容も、了承ではなく、事実上の拒絶。
言い分を聞いて、それから決める。つまり、こちらの裁量でどうとでもすることが出来る。
本来であれば双方を招いた上で判断を降すべきところを、一方の供述のみで判断する。それは暗に、お前たちのことなど知ったことか、そう宣言することと同義。
ガイアスに、エリュシオンの言い分を受け入れる気など毛頭ないらしい。
そもそも、物的証拠はおろか、状況証拠すらないこの状況で受け入れられるとでも思っているのだろうか。
もしそうなら、それは侮辱ですらある。
「そうですか」
だが、どうやらそれは思い過ごしらしかった。
男はそれが当然とばかりに、簡単に頷いた。
さすがに、そこまで愚かではなかったようだ。
だが、そうなると本当にこいつらは何をしに来たのか。
オルハウストは、ガイアスの拒否の不満を露わにし、同盟国の関係と大国の地位を盾に難癖をつけることで、譲歩を引き出すことを目的としているのだと考えていた。
だが、この様子はそれ違うらしい。余りに見るに堪えない恥知らずな光景が広がる心配がなくなったことに、内心安堵する。
―――そして、その安堵が早すぎたことを直ぐに思い知る。
使者の男は、隣の女性に目くばせをする。
彼女はふわふわした笑みを絶えず浮かべていた顔で、少し考え込む。
そのことにオルハウストが疑問を示す前に、女性は口を開いた。
「あのう。よろしいでしょうかぁ」
軽く手を挙げて、女性は発言の許可を求める。
「……なんだ」
「こちらの王都で、教団の司祭を名乗る背信者がいたそうですよね。そちらのほうで、少しお話がぁ」
背信者という言葉に、オルハウストは失笑が漏れそうになる。
あの者を王都の教会へと遣わせたのは、その教団自身ではないか。国家から完全に独立した機関と化している教団に所属する末端ならばともかく。司祭、司教と言った徳の高い者には、国家は一切の口出しを許されない。当然、誰をどこに向かわせるかという人事も、教団のみが握っている。
それなのに、都合の悪いことがあれば即座に『背信者』として切り捨てればいいなど。宗教とは何とも都合のいいものだ。
そんな彼の内心を知らずにか、女性は続ける。
「残念ながら、今の教団にはこちらへ派遣するに足る方は手が空いていないのが現状でして、しばらくの間は王都に派遣できる人がいないそうなんですぅ」
その言葉には、特に驚きはない。
教会の人員は、信者の心の慰撫や、困った人々の相談を受けたりすることが主な役目だが、暗に、他国への諜報員のような立場もある。
別に何かをするわけではないが、その国の状態を本国へと報告する程度のことをしているのだ。
国家としては、勝手に国民の心を癒してくれる存在であるから、その程度であれば特に目くじらを立てることもないということで黙認しているのが現状だ。
それが居ないとなると双方に不都合が出るが、他国の王都ともなると木端な人間を遣わせるわけにもいかないので、直ぐには人の都合が付かないだろう。
「こちらとしては、それほどまで長い時間信者の方々を放置するわけにもいきません。そこで最近教団である提案が高まってるんですぅ」
女性は微笑みつつも、困ったように小首を傾げる。
意味が分からず、オルハウストは眉根を寄せる。
彼の主君も同様。
そして、彼女は口を開いた。
「デルト王国の王女殿下を〈祝福〉することで、この問題を解決してはどうか、とぉ」
オルハウストは、一つ新しいことを知った。
人は、あまりに感情が振り切れると、何も感じなくなるのだと。
「本気で言っているのか貴様らは」
ガイアスの声も、平淡を通り超え、もはや負の何かへと化している。
「そういう動きがあるのは事実です。とはいえあくまで動きどまりですがぁ」
女は相変わらず笑顔で続ける。
ガイアスは止まらない。止まれない。
「デルトという国を滅ぼすつもりか貴様らはッ!? 俺が、娘を、国を、見殺しにするとでも思っているのかッ!?」
部屋全体が揺れるほどの怒号に、女性は身体を強張らせる。
初めてこのとき、女性の笑みが崩れた。
「あらまあ」とふざけた言葉と共に、手で口を覆う。
とはいえ、直ぐにまた笑みが戻ったが。
平時であれば心洗われただろう純粋なその笑みは今、オルハウストに苛立ちしか与えない。
こちらを嘲笑っているようにすら感じた。
正直、こんなに馬鹿馬鹿しく、あまりに愚かな展開になるとは夢にも思わなかった。
祝福とは、非スルス教徒をスルス教徒へ回心させる行為とその一連の流れの総称である。
祝福は教徒としてのステータスの一つであり、それは必ずしも必要ではない。事実、信者の中で祝福を受けているものは全体の一割にも満たない。故に、受けているだけで信者のなかでは一定の地位が与えられる。
その内容としてはまず洗礼を受け、洗礼名を授かる。そしてその後、スルス本国にて、教徒としての教育を受けることになる。
一般の者ならばともかく、王族などの大きな地位にある者が、他国の、それも教徒としての教育を受ける。
その教育内容はスルスのものであり、彼女が培ってきた故郷独自の『味』を破壊してしまうだろう。
それはもはや、洗脳と変わらない。
他国の次代の担い手に自分たちの価値観を植えつけ、懐柔し、操り人形と化する。
たとえ彼らにそうする意志がなかったとしても、そこに意味はない。文化も風習も異なる他国の者に、自国の文化を無理やりに刷り込むというのは、そういうことだ。
それを許してしまえば、もう終わる。王女に伝わった教義と言う名の毒は、その子に、その孫に、連綿と受け継がれていくことだろう。国は緩やかに、だが確実に、スルスの影響を致命的なまでに受け、亡びることになる。
だからこそ、スルスは今まで、他国の民衆以上の者には積極的に教えを広めようとはしなかった。そうする振りをするだけでも、国家の平穏を崩し、下手をすれば戦争が起きかねないのだから。
なのに、その大前提が崩れようとしている。
信じていた教会の司祭が、横領という裏切りを働いたことで、この国での信者の心は乱れている。そんななか、自分たちの王女が、自らの信じる宗教の祝福を受けるというのは、確かに彼らの心に平穏を与え、教団の威信も保たれるだろう。
結果、一国家の権威の減衰などよりも、遥かに巨大な爆弾を創ることになるが。
「成程。それは困りましたね。ところで剣王陛下。我々は彼らスルスとは、深い縁で結ばれているのはご存じかと思います。それがどうとは言いませんが」
男の言葉のあまりの白々しさにも、相変わらず怒りすら湧かない。
それどころではないだろうがこの愚か者、そんな罵倒を心に沈め、なんとか口を閉じる。
このあからさまな話題の転換。要するに、親密な関係にあるエリュシオンであれば、その動きを掣肘することが出来ると言いたいのだろう。その見返りは当然、グランドの身柄。
フレイナへの祝福の件は、確定事項ではない。だが、そんな動きがあるというだけでも、その情報が世間に知れることは不味すぎる。
国内の信者はそれが生む破壊と破戒を考えず諸手を上げて喝采を上げるだろう。頭の足りない貴族どもは見返りを得ようとスルスにすり寄るものが出るだろう。賢い貴族どもはこの件を自らの権威拡大に利用するだろう。
今、魔獣との決戦が差し迫ったデルトに、その対応に力を割く余裕はない。
だが、それでも。
今、令の身柄を引き渡すことは絶対にできない。
彼らの心情的にも。現実的にも。
「戯れも大概にするのだな若造が」
「何のことでしょうか」
今にも食い殺されそうなガイアスの睨みに、男は身体を強張らせながらも返す。
その胆力は普段であれば賞賛に値するが、今は彼らの神経を逆なでするばかりだ。
自身を焼き尽くしそうな激情の中で、オルハウストは何とか考えをめぐらす。
一体、何がどうなっているのか。
この状況、おかしなところしかない。
こちらがどう答えようと、こちらも、相手も、この会談の結果で得られるものが何もない。見返りよりも後に広がる悪影響の方がはるかに大きい。
エリュシオンは新魔法と引き換えに他国家との関係の決定的な亀裂を生み。
スルスは一国家の権威の回復の上で、発覚すれば他国との大戦の爆弾を抱え。
デルトは令という恩人に仇で答え、自身を魔獣に蹂躙される。
どの国にも、その果てにまつのは、避けようもない『終わり』である。
エリュシオンの〈魔女〉は、ここまで愚かな女だったか?
スルスの教皇は、こんな暴挙を成す愚者だったか?
一体、この国で、いや、この世界で何が起きているのだ。
とにかく、このままではいけない。
オルハウストはそう判断し、頭を回す。
「そちらの目的は一体何なのですか。どうしてこのような―――」
―――パサリ
そんな彼の前に、何かが舞い落ちた。
それは一枚の紙切れ。
彼ら四人の目の前に、卓の上に、軽やかな音を立て動きを止める。
―――『三』
そんな謎の数字に誰もが動きを止めた。
激情に満ちた心に、そんな意味不明がなぜかすんなりと染み込んだ。
というか、これはどこから来た。
この部屋のことは事前に妙なものが無いか調べつくしたはず。事前に設置したものではない。
なのに、超人であるはずのガイアスとオルハウストが、その存在に全く気が付かなかった。
まるで、今この場で無から発生したかのように。
そしてまたパサリ。
―――『二』
「あらあら」とさらに困惑する女性。頭に疑問符を複数展開する男性。
そして、困惑半分のなか、とりあえず犯人を理解する者が二人。
なんというか、あの男について妙に察しが良くなっている自分に、オルハウストは少し嫌気がした。
そして、また舞い降りる紙きれ。相変わらずどこから来たか全くわからない。
―――『一』
その予想通りの文字に、オルハウストは身構える。
会談の場での行動ではないと自分でも思うが、それ以上の最善はないと理解する。
何が起きてもいいように、奴の手が加わっているならば、いきなり部屋が爆発しても不思議ではないと本気で彼は思っていた。
そして。
「む……」
ガイアスが何かに気が付き声を上げた。
そんな彼が懐から取り出したのは光る紙切れ。
「ほう。それが例の」
「あらまあ。綺麗ですねぇ」
「…………」
「…………」
男は目当てのものに目を光らせ、女はほんわかと声を上げる。
そして、それの意味を正しく理解してしまっている二名は無言でそれを見つめる。
再度、主従は心を一つにする。
―――これは、でなければいけないのだろうか。
これに応えればこの狂いきった場がどうなってしまうか想像がつかない。
正直に言って、怖い。
だが、これは何かの転機となるかもしれない。
あの男に頼る気はない。
自分の力で解決できなければ、己に〈四剣〉たる資格はないのだ。
だが、そんな矜持のために、国を滅ぼす気もまたない。
「陛下」
「ああ」
一つ目を閉じ、主君に呼びかける。
さすが彼の主は、それだけですべてを察し、動いてくれた。
符を起動する。
男に頼るためではない。
自らの力で、前に進む。その糸口をつかみ取るために。
『こんにちは、ご機嫌いかがで』
ふざけた物言いだった。
だが、これでこそあいつだと、変に安心してしまう。
そんな、不思議な魔力を秘めた声。
特使二人も、いまこの場に口出しする気はないらしい。興味深そうにこちらを見ている。
あちらにしてみれば、狙いの人物がのこのことやってきたのだ、歓迎しない理由がない。
だが、そう都合よくいかせてなるものか。
このまま会話をつづけ、なんらかの策を考える。
幸い、令はこちらの詳しい情報をしらない筈。そのことを利用すれば―――
「機嫌は正直最悪だ。何の用だ。今忙しいのだが」
『はい知ってますよー。大変ですね。同盟国の中でも面倒なスルスとエリュシオンからの特使なんて。心中お察しします。どうせ私のことについてなんか無理なこと言ってきたのでしょう。たとえば『通信符はうちで造られたものだから返せ』とか『そうしないと王女が連れ去られちゃうよ』とか』
「なんで知ってるんだ君はッ!?」
この男は、どうしてこうこちらの思惑をこうもぶち壊しにしてくれるのだろうか。
いきなり味方からカウンターをぶち込まれてオルハウストは声を荒げる。
『はっはっは。いい突っ込みだオルハウスト。その反応に免じて答えてあげよう』
上から目線にイラッとせざるを得ない。
ガイアスも、こめかみがピクリと動いた。
『はいはいガイアス殿。聞こえてますか』
「何だ」
『実はですね、私―――』
令はいったん言葉を切り。
「今、貴方の後ろに居るんです」
ガイアスの背後に、『出現』した。
「ぬぉぉぉおおおッ!?」
「なっ!?」
「消えっ!? どこから!?」
「あらまあ」
誰もが――一人は面白そうに口に手を当て笑っていたが――驚愕する。
耳元で囁かれる形となったガイアスなど、飛び上がらんばかりだ。
そこに居るのは、茶髪で右目に眼帯をつけ、背後に巨大な剣を佩いた男。
令の変装したグランドの姿。
「やードッキリ大成功……て期待してたんだけど、そんなに驚いてないなオルハウストは」
「……そうだね。大分、慣れてきたからね」
驚きながらも、オルハウストは安堵していた。
これはまだ、軽い方だと。王城が爆破されることすら覚悟していた彼には、まだ衝撃が薄かった。
それで、安堵した。
―――先ほど、それで後悔したばかりなのに。
―――目の前の男は、特使などよりもはるかに享楽的で酷薄な、悪魔だというのに。
「そうかー。残念」
「そんなことを言っている場合か。どうして―――」
令は、そう言ってつまらなそうにそっぽを向いた。
そして、背を向けた。
どうしてここに居るのか、そう問いただそうとした彼は、それを見てしまう。
当然、グランドという闖入者に注目していたものたちも。
口を何度も開け閉めし、オルハウストは震える手でそれを指さす。
グランドの背にある、大人一人覆える大剣。
―――その裏に縛り付けられ猿轡をかまされ自由を奪われ、煌びやかなレースで飾り付けられた、さめざめと涙を流す灰色の髪の女性を。
「なにしてるんだこのバカがぁぁあああッッッ!!??」
それは、ガイアスでも聞いたことのない、礼儀正しいオルハウストが発した初めてで本気の罵倒だった。