77話 空より来たり
見ていて、これほど穏やかで、心乱される光景を、彼女は知らなかった。
「さて、では次は何にしようか。君らは何か要望はあるかな」
「よーぼー?」
「ふむ。では言い直そう。何か作ってほしいものはあるかな」
「いぬ!」
「ねこー」
「ことりさん!」
「なにいってんだおおかみだよ!」
「それいぬとかわらないじゃない!」
「いぬよりかっこいいじゃん!」
「喧嘩すんな小僧。君も煽るんじゃない」
輪を作り男を包囲している子供たちのなかで、顔を突き合わせて喧嘩、というよりは威嚇の応酬をする二人の頭に、彼の拳が落ちる。軽くではあったが、二人は若干涙目になっていた。
それを見守る大人から非難の視線が少しだけ向かうが男にそれを気にする様子はない。そして、周りもそれ以上の行動を起こす様子はない。
周りもこれまで何度も似たようなことがあったので、それ以上の対応はしない。
そして、彼女が目を向ける男の手の周りがキラキラと輝き、手のひら大の氷の立方体が出現する。
光は空気中の水分が冷気により結晶化したもの。そしてその氷をかき集め、一体化させた。
何度見ても感嘆せざるを得ない、鮮やかな手際。
彼女も方向性が大分異なるとはいえ、魔導士の一人として嫉妬と微かな羨望すら抱く。
彼はその氷を、いつものナイフを使って削っていく。
一度も手を止まることなく、滑らかに、まるで絵を描くような優雅さで動かし、ものの二分ほどでそれが出来上がる。
「あ、いぬ!」
希望していたものが完成した少女は喝采する。
その一方、案を却下された子供たちは不満そうに顔を膨らませる。
「そう焦るな、直ぐに終わる」
そして男は再び手を動かし始める。
要望通りの犬、猫、小鳥、狼。それ以外にも翼の生えた馬、胴体の長い龍などのあまりお目にかかれない生き物まである。
犬と狼の微妙な違いが、精巧に再現されているところが地味にすごい。
氷なのに、人目でそれと分かるほど細かく作れるのは不思議でならない。
彼女、アリエルの見つめる先には、彼女が感情を持て余す相手である男がいる。
子供たちに囲まれ、その保護者に信頼され、野次馬に信用されている男が。
いつからだったか。最初からだ。
彼女があの男と行動を共に、正確には、彼の近くに居るフレイナと共に過ごすようになった初日から、この男はたびたびこのようなことをしている。
この前は読み物を語り、その前は軽い教室を開き、最初は子供と共に街を駆け回っていた。
彼女の姫は、感動的な童話を面白おかしく改変した男を怒鳴りつけ、無垢な子供に性教育を叩き込もうとする男を叱りつけ、街の公共物を破壊してまで子供と共に逃げる男を鬼役の子供と共に追いかけた。
ちなみに、その破壊したものの近くにはいつのまにかその価値をほんの少しだけ上回る貨幣が置かれていたらしい。
そんな光景を、彼女はいつも近くで観ていた。
なんと馬鹿な、と呆れたことも数度ではない。
どうしよう、と途方に暮れたことも両手の指の数に追いつかない。
―――そして、その光景を観て、羨望に溺れたことは数えきれない。
怒り、怒鳴り、追いかけ、掴みかかる彼女が、どうしようもなく楽しそうに見えるから。
どうしてあの男が、姫様と共に居る。
どうしてあの男が、姫様の気を煩わせる。
そして、どうしてあの男が、姫様を笑わせている。
自分たちにできなかったことを、姉と慕ってくれた自分にできなかったことを、どうしてあんな男が。
姫様を傷つけ、そして、壊そうとした男が、そんな真似をすることが、妬ましく、苦しく、羨ましかった。
どれだけ醜い癇癪かを理解しても、捨てられないほどに。
気が付くと子供たちは、また明日、と元気よく叫び、その保護者は頭を下げていた。
今日の一幕も、終わったらしい。
子供たちが、彼らの親が、回りの野次馬が、笑顔で去って行った。
「よくもまあ、あのようなことが出来るものですね」
「おや。珍しいですね。貴女から話しかけてくるなんて」
それを見送ってから、声をかける。
自分でも嫌になるほど、嫌味な色を多分に含んだ声だった。
「子供が好きなんですか」
「どちらかと言えば好きですね」
微笑む顔を、見つめる。
嘘ではないのだろう。
純粋に楽しそうだ。
そこで、もう一つ尋ねる。
「では、姫様は嫌いですか」
「嫌いだよ」
温度が下がる笑み。
表情を変えることなく、ここまで見るものに与える印象を一変させるなどいっそ見事と言える。
彼女は確信する。
この目の前の男が、嫌いで、嫌いで、仕方がないのだと。
「そうですか」
「そうなんです」
言葉が続かない。というよりは、無くなってしまった。
言いたいことも、聞きたいことも、知りたいことも。
結局のところ、自分がこの男にどのような感情を抱いているのか、それを確かめることが目的だったのだから。
せっかく、姫様を警護する時間を削って、姫様たちに少し出払っていてもらったのに。
「まあ、私は貴女が結構好きですけど」
「虫唾がはしりますね。たとえ冗談でも」
だが、嫌味は返せるらしい。
自分で返してから、そのことに気が付く。
だんだん自分が嫌な人間になっている気がして、滅入る。
「冗談ではないんですけどねー。『好き』ではあっても『気に入らない』だけですから」
男は笑う。
「ちょっと、意地悪をするくらいには」
「そのちょっとで毎回毎回私は精神を鑢で削られてるのですが」
「私が本気なら貴女引きこもりになってますよ。そしてガイアス殿に看病されてたでしょうね」
「………………」
黙ってしまった。
「今、想像しましたね」
「……うるさいですよ」
男に顔を見られないように背を向ける。
それから、通りの端まで歩いていき距離を取る。
妄想で熱くなった身体を冷やしながら、溜息を一つ吐く。
深呼吸をするも、なかなか火照りは止まない。
「おねーさんだいじょーぶ?」
声をかけられ、回りを見るが人がいない。
そして、下を見ると自分の腰ほどまでの女の子がいた。
「……大丈夫ですよ」
「んふー」
その頭を撫でると、少女は猫のように頬を緩める。
自分の頬が緩むのを自覚する。
そして撫でるのをやめると、少女は走っていく。
……走って、令のところに行った。
「……は?」
思わず目を点にする彼女は、何かを話す二人の姿を見る。
話す二人。
笑う二人。
何かを手渡す令。
何かを受け取る少女。
母親らしき人へ駆けていく少女。
令と何故か自分に向かって、手を振る少女と礼をする母親。
こちらを見て、肩を震わせる令。その口が動く。
職業柄か、無意識に彼女はその口を読んでしまう。
『イ・イ・エ・ガ・オ・デ・シ・タ・ヨ』
悪党に殴りかかった自分は悪くない。後に彼女はそう姫君に語った。
「いやいや面白かったよ。こちらの差し金と知らず子供と戯れ微笑む美女。絵になるものだ」
「地獄に落ちろ」
もはや会話にすらなっていない。
憎悪を籠めた言葉を聞いても、令は楽しそうに哂うだけ。
いつも通り。アリエルの背中を足で踏みながら。
最近事あるごとに喧嘩をする二人。
身体能力で言えば、アリエルが僅かに上。
身体技能で言えば、アリエルが遥かに上。
それでも、最終的に必ずこうなる。
理由はひとえに、令が勝つために手段を選ばないからだ。
相手を挑発するなど序の口。其処らに置いてある植木鉢や商品などを強化して投げつけるのもまだ軽い。
一番酷かった時では、子供をお菓子でつってアリエルを囲ませた、なんてこともある。
その時、アリエルは子供を蹴倒して進むことなどできるはずもなく、突然の子供の無邪気な笑みを浮かべた襲撃に困惑したこともあり、動きを止めてしまった隙にどこからか降ってきた布団の山の下敷きとなって身動きが出来なくなった。
そして今回は、始めからアリエルが我を失っていたから力を十分に発揮できなかった。
そして、さっきまで令が居た場所がなぜか落とし穴――大人一人ぐらい容易く埋まる大きさ――になっていて、それに落ちて這い出てるところを仕留められた。
最近では、令が今度はどんな手でアリエルを追い詰めるのかを、周囲の観衆は期待を込めて眺めていたりする。
それを証明するように、回りではどよめきや拍手が起きている。
当事者の一方としては、甚だ不本意であろうが。
「そうだね。少なくとも碌な死に方はしないと思ってるさ」
「うぐっ」
背中に腰を下ろされて、肺から空気が押し出される。
ひどく屈辱的な格好。
こいつは女性の扱いを知るべきだと思う。
いや、この男の場合、分かったうえでそうしているのだろうか。……余計に性質が悪い。
そうこうしていると、回りからの注意がだんだんと減っていく。
まはや見慣れているからだろう、結末を見届ければそれで満足なのだ。
「ふむ。善哉善哉。いい調子」
「さっさと降りろ」
上から聞こえる満足そうな声に、もはや殺意すら隠さず声を絞る。
それでも圧力は減る様子はない。とうとう鼻唄まで聞こえてきた。
「へえ。国民に親しまれ、人気を得る。それが何か不満かな」
「……そんなこと、私は望んでいない」
自然と、奥歯を噛み締める。
そう、望んでいない。こんな状態は。
令と、王女と、活動を始めて早十日。
その間に、彼女を取り巻く状況は、随分と変わってしまった。
いや、変えられてしまった。この男に。
『氷の暗殺者』とまで言われた、諜報、暗殺等、裏の仕事の専門家であるアリエル。
その名は畏怖を呼び、自然と人を遠ざけていたのだ。
平民にとっては自分たちの可能性の象徴。だが、それに付随する異名、力の差。それを考えれば、尻込みして当然。
彼女の得意分野は、人に警戒心を与えることはあっても、安らぎを与えることはない。
その気になれば、彼女はだれにも――王や王女、ほかの〈四剣〉を除いて――気づかれることなく、王都中の人間を殺戮できるのだ。
だから、時に町中に出ることがあっても、今までは親しげに声をかけられることは愚か、目を合わせられることすらなかった。
それが今はどうだろう。
肌艶を褒めてくる女性店員。
目が合い頬を染めて逸らす若者。
手伝おうと差し出した手を両手を包み、拝みだす老人。
そして、屈託のない無垢な笑みを向けてくる子供。
そんな、彼女に経験のないことが、この街にあふれている。
警戒の裏には、『未知』がある。
分からないからこそ、人は困惑し、恐れ、遠ざける。己を守るために。
では、それがなくなってしまえばどうなるか。
今の彼女がそれだ。
令の挑発に乗ってしまい取っ組み合いを演じる。悪戯に泣き出しそうになる王女を宥める。ブツブツと呪詛を吐き捨てる女性の愚痴を苦笑いしながら受け止める。
その光景を、彼ら彼女らは見せつけられた。
その姿は、崇敬を集める超越者でも、畏敬を受け入れる強者でもない。
『未知』が消え失せた後に残ったのは、誰とも変わらない、ただ一人の人間らしい人間だった。
被っていた氷面は、令の馬鹿げた無茶に砕かれた。
纏っていた冷度は、年下の姫を労わる姿に霧散した。
そうなれば、もはや躊躇するような者はいない。
もともと、彼女の潜在的な人気は相当だったのだ。
若い女性としての優れた容姿。戦士としての、高い戦闘能力。
貴族ではなく、平民として初めての王国最高戦士。国家の五指に入る実力者である証。〈四剣〉。その肩書きは、まぎれもなくこの国の人々にとっての希望だった。
身近にいて、自分たちと変わらない人なのだと知ってしまえば、誰もが良い関係を築きたいと願うだろう。
だが、これは彼女にとって複雑なことだった。
彼女は〈四剣〉の中でも裏の仕事をすることが多い、特殊な存在。
彼女はその仕事柄にも関わらず、凄まじく知名度が高い。
誰だって、暗殺は恐ろしい。隠すのではなく、率先して公開し、知名度を利用して国内外への抑止力として働かせる、そのような考え故である。
しかし、このような親しみを以て迎えられていては、その脅威が半減してしまいかねない。
もし、子供と笑い合っているところを見られて侮られれば。
もし、姫と話しているところを見られ彼女もただの女なのだと知られれば。
その瞬間、永い時間をかけて醸成された、抑止力としての彼女の価値は一気に低下してしまう。
だから、彼女はこの状態を、決して歓迎してはならない。
「息苦しそうだな。アリエル殿」
彼が、声を潜めて彼女だけに聞こえるようにつぶやいたのはそんな時。
「自分の価値が、そんなものだと思ってるのか。自分に出来ることが、そんなくだらないことだと本気で思ってるのか。私は貴女を気に入っているが、そんなところはやはり嫌いだな」
「何を―――」
何を言っているのか。どうして、こちらの心を見透かしたようなことを言うのか。
そんな疑問は、言葉にならない。
「そうして勝手に自分の限界を決めて、身の程を誤解して、本当に望むものに手を伸ばさない。―――本当に気に入らない」
令は、誰にも気に留められない。
外観上、彼は何も普段の様子と変わりはない。
だから、彼の言葉を聞く者はアリエル以外誰もいない。
「ッ……勝手なことをペラペラと」
胸の奥から、鎌首をもたげようとした衝動を、アリエルは何とか抑える。
それが何かは分からない。
だが、それを彼女は認められなかった。
「……やれやれだ」
その様子を見て、令は呆れたように首を振る。
「そういう態度を貴女が取るのなら、こちらも相応の手段を取らせてもらいましょうか」
令はアリエルの背から身体を浮かせ、手を差し伸べる。
その手を、アリエルは無視し、自力で立ち上がる。
「貴女が『せざるを得ない』ように仕向けてやるよ」
その最中、確かに聞いた。
言い知れぬ寒気と漠然とした嫌悪がアリエルの内を満たす。
「……まるで、すべては自分の手の内だと言わんばかりですね」
それを振り払うように、彼女は強気な発言をする。
そうしなければ、呑まれてしまいそうだった。
「そんな気はなかったのだがね。まあ、こちらがいくら言葉を尽くしたところで、貴女にとっての事実がそうならそれを変えられるはずもないし。別に構いませんよ」
ただ、と令は笑顔で続ける。
「この世に万事が万事上手くいく存在など、ただの一つもない。人も、王も、『神』すらも。この世すべての概念に於いて、『全能』どころか『万能』すら見果てぬ夢だ。ま、この世ならざる力を使えばどうかは分からないが」
令は空を見上げる。
そして、目を細めた。
「私にだってそれは当然当てはまる。いくら考えを張り巡らせても、いくら力を絞り尽くしても、同じ人の手が加われば、呆気なく目論見は崩れ去る。―――こんな風にね」
言葉の意味がつかめず、アリエルは顔を歪める。
だが、直ぐに理解させられる。
―――高い澄んだ嘶きが晴天に響く。
アリエルは、はじめそれが何なのか理解できなかった。
いや、正確には理解したくなかった。
どよめき、不安が満ちる周囲の空気。それに構わず、彼女はそれが聞こえた方へと目を向ける。
「さてさて、この出来事は『これから』をどう変えるのかな」
遠く、大空から飛来する数個の影。
それを見上げるアリエルの隣から、場違いな、ひどく愉しそうな声が聞こえた。




